花火を久しぶり……ほぼ一年ぶりにした。やっぱりロケットは楽しいな。あの軌跡が素晴らしい
去年は確か調子に乗りすぎてTシャツを一枚穴あきにしてしまった
しかし、そんなことなぞ忘れて楽しんだなぁ。
ああ、そうそういつだかは飲み会の途中で花火を始めた時にある人と調子に乗りすぎて、手持ちロケットなどを繰り返していたら、他の人がいつの間にかいなくなっていた思い出がある。
ロケットのやりすぎは、人の心も地上に置いて行ってしまうね(ここ笑うとこ)
閑話休題。自爆台詞は放っておいて。
花火にはもう一つ思い出があります。それは私が去年かいた脚本にありまして、最終的には「少年時代」というタイトルにしたのですが、仮タイトルで「花火」と銘うったので、花火と聞くとそのことを思い出します
ちなみに当初のタイトルは「仮想異世界における……(以下略)」というやたらと長いタイトルでした
この作品を詳しく知りたい方はご面倒ながら、ブックマークの「虹のゆくえ(仮)」の<ユメモノ>[脚本]にお入り下さい。「はりこのとらの穴」にもございます。
この作品は演劇として、去年の大学祭で上演されました。他にも二回ほど上演依頼があったのですが、残念ながら観にいけなかった……
はっきりって私は演劇に関してはまだまだ素人で、声を大にして「好きだ」とさけべるほど大好きなものではない。ただ、私は仲間と何かを作ろうというものに参加したいというだけだった。だから、脚本は書いても演出しようとは思わなかった。
そして、この「少年時代」(旧題「花火」)もそうだった。私は演出につかなかった。私の満足は自分の世界を完璧に表現することじゃない。たとえ、それをしたところで、所詮ちっぽけな凡人中庸の世界。ただの一人よがり。
今思えば、自分を完璧に仕上げることではなく、人の力を借りて、自分を補完、超越して成長したいというのが、私の根底にあったのだと思う。
だからか、私は毎度脚本を書いて、それが上演されると、それはそれは嬉しかった。
そこには私一人の力ではなく、役者やら演出のちからがあって、作品は私の思惑を超えて成長する。それが楽しかった。
私は自分は完璧には程遠い人間だと自認するところだが(モチ完璧な人間などいようはずもないがね)、自分の足りないものを沢山もっていう人が大勢いること知った。
ひとつを挙げれば衣装であったり。また、役者の具体的な動きやポーズであったりとか、自分の至らないところが結構カバーされたりしていたのだった。
脚本はそれ自体が完成品ではない。それが実行されて形になるものだ。音響だって、役者だって、照明だってそれだけでは未完成なのだ。
その日、その場所で、その人たちが、というのが演劇であるのだ。付け加えるなら、そのお客様たちも、ということだ。
これが、他の媒体にはない舞台ならではという、味である。
それも私はこの三年半の間で様々な形で教えられた。
そんなことをふと思った
以上
去年は確か調子に乗りすぎてTシャツを一枚穴あきにしてしまった
しかし、そんなことなぞ忘れて楽しんだなぁ。
ああ、そうそういつだかは飲み会の途中で花火を始めた時にある人と調子に乗りすぎて、手持ちロケットなどを繰り返していたら、他の人がいつの間にかいなくなっていた思い出がある。
ロケットのやりすぎは、人の心も地上に置いて行ってしまうね(ここ笑うとこ)
閑話休題。自爆台詞は放っておいて。
花火にはもう一つ思い出があります。それは私が去年かいた脚本にありまして、最終的には「少年時代」というタイトルにしたのですが、仮タイトルで「花火」と銘うったので、花火と聞くとそのことを思い出します
ちなみに当初のタイトルは「仮想異世界における……(以下略)」というやたらと長いタイトルでした
この作品を詳しく知りたい方はご面倒ながら、ブックマークの「虹のゆくえ(仮)」の<ユメモノ>[脚本]にお入り下さい。「はりこのとらの穴」にもございます。
この作品は演劇として、去年の大学祭で上演されました。他にも二回ほど上演依頼があったのですが、残念ながら観にいけなかった……
はっきりって私は演劇に関してはまだまだ素人で、声を大にして「好きだ」とさけべるほど大好きなものではない。ただ、私は仲間と何かを作ろうというものに参加したいというだけだった。だから、脚本は書いても演出しようとは思わなかった。
そして、この「少年時代」(旧題「花火」)もそうだった。私は演出につかなかった。私の満足は自分の世界を完璧に表現することじゃない。たとえ、それをしたところで、所詮ちっぽけな凡人中庸の世界。ただの一人よがり。
今思えば、自分を完璧に仕上げることではなく、人の力を借りて、自分を補完、超越して成長したいというのが、私の根底にあったのだと思う。
だからか、私は毎度脚本を書いて、それが上演されると、それはそれは嬉しかった。
そこには私一人の力ではなく、役者やら演出のちからがあって、作品は私の思惑を超えて成長する。それが楽しかった。
私は自分は完璧には程遠い人間だと自認するところだが(モチ完璧な人間などいようはずもないがね)、自分の足りないものを沢山もっていう人が大勢いること知った。
ひとつを挙げれば衣装であったり。また、役者の具体的な動きやポーズであったりとか、自分の至らないところが結構カバーされたりしていたのだった。
脚本はそれ自体が完成品ではない。それが実行されて形になるものだ。音響だって、役者だって、照明だってそれだけでは未完成なのだ。
その日、その場所で、その人たちが、というのが演劇であるのだ。付け加えるなら、そのお客様たちも、ということだ。
これが、他の媒体にはない舞台ならではという、味である。
それも私はこの三年半の間で様々な形で教えられた。
そんなことをふと思った
以上