社長をよろしくね。
それが彼女の最期の言葉だった。私にとってその言葉が、ずっと全てを支えていたような気がする。
うむ。そうだ。それがなければ、私はとうに、このなれたこげ茶色のミズナラでできた机の前からいなくなっていただろう。
彼女は純粋無垢な笑顔でそう言ったのだ。私が彼女の言葉を受け入れぬ事など不可能だった。昔からそうだった。大学時代、講義の終わった午後の頃から何にも変っていない。憮然とする四郎と、その傍で小鳥のような可愛らしい声で彼をからかう彼女、そして私……。
「栄治くんは本当に優しいものね」
何をした時だか忘れたが、彼女はそう言った。
でも、これは私への賞賛ではなく、四郎に対する当て付けだった。私はそうだとわかっていても、嬉しかった。また二人の為に何かしたいと思った。
そうだ。ずっと私は彼女の言葉には弱かったのだ。
私は久しぶりに自室に戻って、全面ガラス張りの窓から外を眺めた。街行く人の足はいつになく早い。空は曇天で、風が冬の尖兵として、街の人々の熱気を吸い込んでいった。
部屋には暖房が効いていて、とても暖かい。上着を着ていると暑くさえ感じる。でもどうしてか、落ち着けず私は上着を羽織ったままつい手を温めるように、手に暖かい息を吐いた。
私たちは20年前にこの会社を創立した。主にファーストフードのチェーンを手掛けている。それも私たち三人だからこそできたのだった。彼女のいつもの料理がヒントになり、彼の閃きを私が具体的に検討していった。その結果がこの都心にそびえたつ本社ビルであり、銀色の専務のプレートである。
後悔はしていない。私たちはずっと前をみて走ってきたのだから、後ろなど見なかった。今からすれば懐かしい日々だった。
今はこうして立ち止まって前にも進まずに、ただ迷っている。
私を支えたのはただ一つ彼女の言葉だった。
私はついに念願の指輪を買った。学生時代に入った宝石店で、彼女が不意に足を止めたディスプレイの中にある、小さなダイヤの埋め込まれたシンプルなリング。私はついに手にしていた。彼女は、あの頃さんざん指のサイズを言って、僕らを困らせていたな、と思ってつい微笑が零れた。
私は彼女を愛していた。運命とはこのことだろうと、不信心な私も信じたのは彼女の存在だった。そして、その私と同じように運命を信じたのが四郎だった。私たちは互いに競って、彼女を愛した。彼にはそういう自覚はなかったかもしれない。でも、確かに彼は舞台に上がっていた。私と同じように彼女を求めていた。
指輪を渡す時、私はついにこのときが来たのだと思った。長年追い求めていた時がついに来たのだと思った。
結婚します。
そういった内容の葉書が届いたのは彼女の誕生日の前日だった。
気づいていた。私は知っていた。いつかこうして、私は選ばれないことを。しかし、認めたくはなかった。認めたら私はもう、いられなかったから。
分かっていたのだ。彼女が彼をずっと見つめているのを。
会社が軋みだしたのは、彼女が亡くなってから三年の後だった。経営が停滞し、外因によって私たちの会社は、砂の城のようにあっという間に崩れ去った。
もうこの景色も見納めか。そう思うと色々な出来事が頭を占有する。三人で駆け抜けた素晴らしい日々が。振り返る事も迷う事もなく進んだ純粋な日々。私たちはいつからかなくしていたのかもしれない。後ばかりを振り返り、過去にしがみつき、昔思い描いていた明日はすっかり色あせていた。
社長室をノックする。返事はない。ゆっっくりとその扉を開く。背中を向けて立っている四郎をみると白髪がだいぶ増えている印象があった。
私も彼の方に歩いていく。外は夕暮れ。風はまだ止まない。
私たちはお互いに目を交わさずに外を見続けた。
彼はゆっくりと指輪を外し、ポケットに入れた。
私たちに残された時間はまだある。
それが彼女の最期の言葉だった。私にとってその言葉が、ずっと全てを支えていたような気がする。
うむ。そうだ。それがなければ、私はとうに、このなれたこげ茶色のミズナラでできた机の前からいなくなっていただろう。
彼女は純粋無垢な笑顔でそう言ったのだ。私が彼女の言葉を受け入れぬ事など不可能だった。昔からそうだった。大学時代、講義の終わった午後の頃から何にも変っていない。憮然とする四郎と、その傍で小鳥のような可愛らしい声で彼をからかう彼女、そして私……。
「栄治くんは本当に優しいものね」
何をした時だか忘れたが、彼女はそう言った。
でも、これは私への賞賛ではなく、四郎に対する当て付けだった。私はそうだとわかっていても、嬉しかった。また二人の為に何かしたいと思った。
そうだ。ずっと私は彼女の言葉には弱かったのだ。
私は久しぶりに自室に戻って、全面ガラス張りの窓から外を眺めた。街行く人の足はいつになく早い。空は曇天で、風が冬の尖兵として、街の人々の熱気を吸い込んでいった。
部屋には暖房が効いていて、とても暖かい。上着を着ていると暑くさえ感じる。でもどうしてか、落ち着けず私は上着を羽織ったままつい手を温めるように、手に暖かい息を吐いた。
私たちは20年前にこの会社を創立した。主にファーストフードのチェーンを手掛けている。それも私たち三人だからこそできたのだった。彼女のいつもの料理がヒントになり、彼の閃きを私が具体的に検討していった。その結果がこの都心にそびえたつ本社ビルであり、銀色の専務のプレートである。
後悔はしていない。私たちはずっと前をみて走ってきたのだから、後ろなど見なかった。今からすれば懐かしい日々だった。
今はこうして立ち止まって前にも進まずに、ただ迷っている。
私を支えたのはただ一つ彼女の言葉だった。
私はついに念願の指輪を買った。学生時代に入った宝石店で、彼女が不意に足を止めたディスプレイの中にある、小さなダイヤの埋め込まれたシンプルなリング。私はついに手にしていた。彼女は、あの頃さんざん指のサイズを言って、僕らを困らせていたな、と思ってつい微笑が零れた。
私は彼女を愛していた。運命とはこのことだろうと、不信心な私も信じたのは彼女の存在だった。そして、その私と同じように運命を信じたのが四郎だった。私たちは互いに競って、彼女を愛した。彼にはそういう自覚はなかったかもしれない。でも、確かに彼は舞台に上がっていた。私と同じように彼女を求めていた。
指輪を渡す時、私はついにこのときが来たのだと思った。長年追い求めていた時がついに来たのだと思った。
結婚します。
そういった内容の葉書が届いたのは彼女の誕生日の前日だった。
気づいていた。私は知っていた。いつかこうして、私は選ばれないことを。しかし、認めたくはなかった。認めたら私はもう、いられなかったから。
分かっていたのだ。彼女が彼をずっと見つめているのを。
会社が軋みだしたのは、彼女が亡くなってから三年の後だった。経営が停滞し、外因によって私たちの会社は、砂の城のようにあっという間に崩れ去った。
もうこの景色も見納めか。そう思うと色々な出来事が頭を占有する。三人で駆け抜けた素晴らしい日々が。振り返る事も迷う事もなく進んだ純粋な日々。私たちはいつからかなくしていたのかもしれない。後ばかりを振り返り、過去にしがみつき、昔思い描いていた明日はすっかり色あせていた。
社長室をノックする。返事はない。ゆっっくりとその扉を開く。背中を向けて立っている四郎をみると白髪がだいぶ増えている印象があった。
私も彼の方に歩いていく。外は夕暮れ。風はまだ止まない。
私たちはお互いに目を交わさずに外を見続けた。
彼はゆっくりと指輪を外し、ポケットに入れた。
私たちに残された時間はまだある。