東西南北
世界中、東西南北の基軸でものを考えたり生活したりと文化や歴史などに関係している。琉球も同じですね。
沖縄の方言で東西南北を言えますか?
東 あがり 太陽が上がる
西 いり 太陽が沈む
南 ふぇ
北 にし
どうですか?年配の方なら分かります。東と西は分かるが、南はそうなんだろうと考える、北をにしと呼ぶのが不思議ですね。
なぜかは説明不可能です。那覇市久米に西武門と見たことがあるはずです、字のごとくニシンジョウと呼びます。那覇市の西の方
角にあるから西武門と呼ぶと思っているかたが多いですね。本島は西の方角を表していません。北を表しています、方言で北をに
しと呼ぶからです。久米大通りの端を北と位置して、北(にし)と呼ぶのです。南は国道58号線の泉崎交差点ですね。
なんだかややっこしくて混乱しそうです。現在の西原町も首里城から見れば、北よりに位置するので西原(にしはら)と北を意味
したそうです、その名残で西原町なんです。昔の西原間切りは首里王府の直轄領だったので、その西原が那覇にある末吉は西原の
飛び地であった。石嶺や泊、安里、真和志なども西原間切りに属していたそうです。本来の那覇はごく一部の面積でした。
那覇は浮島でした、浮島通りがあるのは昔の首里城から浮島通りを通って久米などに行ったそうです、宿道だった名残りです。
浮島とは陸地から離れた島だったから浮島と名付けたのです。今の若狭や松山は海だった。埋め立てや橋を繋いで領域が広がった
のです。那覇の町は中州に点々と小さな陸や島が浮かぶ内陸湖のようなものでした。
昔の中国からの冊封使が泊まった場所は今の久米あたりにあり天使館と呼ばれていました。
沖縄のエイサーは誰が持ってきたかご存知ですか?
袋中上人という福島県岩城市出身の教養ある僧侶でした。自分の寺を開いた後、中国(民)に留学しようとして長崎経由で中国に
渡航しようとしたが、折しも豊臣秀吉が朝鮮出兵をして中国との関係が悪い時期でした。アジアの国々を転々として琉球の国にた
どり着きました。1603年から三年間琉球に滞在して浄土宗の布教に努めて琉球国王を帰依させました。国王は桂林寺(那覇市
松山公園周辺)を建立しました。サツマイモや砂糖製造技術の普及、和紙や漆器などの工芸品の発展に貢献した琉球の大恩人、儀
間真常も袋中上人に帰依して師弟関係を結びました。
福島の「じゃんがら念仏踊り」を三線と琉球方言に乗せて作ったのがエイサーの始まりでした、袋中上人がエイサーの元祖とも云
えます。1603年から三年間滞在して福島に帰ったが、その後1609年に薩摩の琉球侵攻が始まりました。所説あるが、袋中
上人は侵攻前に琉球入りしたのは、情報収集のためだったのでは、いわゆるスパイだったのではと捉える人もいます。時期的にタ
イミングが合うのでそうなのではと信じる人も多いようです。そうでないことを祈るが、万が一にもそうなら、琉球国王始め、ウ
チナーンチュが何と幼稚なんだろうと考えてしまいます。スパイ説は、今後なんらかの確たる文書、証拠が出てこなければ判明し
ないはずです。歴史の謎になるかも知れません。
ちなみに首里の王府や士族はエイサーをやる習慣が無かったのです。エイサーは一般庶民に広がり発展してきました、では士族は
何をやったかといえば、旗頭という大きな上りを上げた長い棒を一人の男が持ち、周囲の数人がつっかえ棒で補佐してその雄姿を
披露するものです。旗頭は今でもエイサーと並ぶ伝統伎です。
首里城のことに話しを戻します。城の西側に木製の展望台があります、那覇市の風景が一望出来る場所です。ここは西の方位にあ
るので、いりのアザナと呼んでいます。冒頭で説明したように、西をいり(太陽ば沈む、地平線の彼方に沈み入る)と呼ぶからで
す。南にはふぇのアザナ(南)、アザナとは古い方言で、崖を意味します、切り立った断崖を意味します。
tiger60
どうですか、言葉だけでも琉球の文化や伝統芸能が繋がりますね。場所や地名も繋がり歴史や昔の様が解る気がします。言葉がへ時代と共に変化することは仕方がないが、基本の言語が忘れられることは、その文化、民族などが消えていくのと同じですね。ウチナーンチュが良い意味での危機感を持って後世に伝承、継続出来れば幸いです。
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