遠くから一目でそれとわかる馬は少ない。
競馬場で直接観戦していても、
あるいはテレビ画面を通してでも、
馬券を買った馬がどこを走っているのかが、
すぐにわからなくて困る場合が多い。
大体において帽子の色や勝負服、
あるいはゼッケンなんかで判断したりするのだが、
それでも同枠の馬と間違ったり、
似たような毛色の馬と間違ったりして、
買ってもいない馬に対して、
「差せ」とか「そのまま」なんていう声援を
送ったりすることがある。
全く間抜けな話だが、しかし、よっぽど好きな馬以外だと、
例えばゼッケンもメンコも何もなかったら
見分けがつかないのが普通だろう。
近年では最強馬であろうディープインパクトほどの名馬にしても、
レース中なら最後方をポツンと走っている小柄な馬を
探せばいいのだからすぐにわかるだろうが、
例えば、同じ鹿毛の馬の写真を何枚か用意されて、
「さあ、この中でディープはどれ?」なんていわれたら、
果たして何人の人が正確に選び出せるだろうか。
それはウオッカやブエナビスタにしてもしかりである。
ところが、どこにいても、どこを走っていても、
いついかなるときでも一目でそれとわかる馬が過去にいた。
わずか3戦のキャリアで皐月賞を制したあの馬。
四白流星、キラキラと輝く栗毛、そうヤエノムテキである。
馬体のつくりそのものの美しさなら、
トウショウボーイが未だ一番だと思うが、
毛色などの表面的な見た目の美しさなら、
ヤエノムテキが最高ではなかったかと思う。
本当にきれいな馬だった。
どこを走っていても、どこにいても、
一目でヤエノムテキを見つけることができた。
それだけにファンも多い馬だった。
1988年 ヤエノムテキ4歳
2月27日 新馬 1着
3月19日 沈丁花賞 1着
3月27日 毎日杯 4着
遅いデビューだったが、新馬戦つづく第2戦とダートで圧勝。
力が何枚も違うという勝ち方で、
皐月賞への出走をかけて毎日杯に臨む。
が、見せ場なく4着に完敗(勝ち馬はオグリキャップ)。
これでクラシックの夢が途切れたかに思えたが、
2分の1の抽選の確率をものにして晴れて皐月賞に駒を進める。
これは「運」である。
運以外の何ものでもない。
もし、あのとき抽選に外れていたら?
のちのヤエノムテキはなかったかもしれない。
少なくとも皐月賞馬ヤエノムテキは誕生していなかった。
4月17日 皐月賞 1着
結果かからいえばまさに「関西の秘密兵器」だったわけだが、
レース前の時点では、
その関西の競馬好きでさえもノーマークの人が多かった。
デビューからダートで2連勝、そして初芝で完敗。
つまりはダート馬。
そうレッテルを貼られても仕方がない。
事実、9番人気の低評価。
かくいう僕も、阪神の新馬戦の勝ち方があまりにも強かったし、
最内枠だったので「もしかしたら」とは思ったが、
「やっぱりダート馬だよな」の一言でバッサリと切り捨てていた。
もっとも、「オグリもサッカーボーイもいない皐月賞なんて」
という感じで、半分白けていたのも事実だったが。
もうひとつ、この年の皐月賞が東京競馬場で実施されたということも、
あとから考えれば大きな伏線ではある。
5月29日 日本ダービー 4着
メジロアルダンがサクラチヨノオーにクビ差で敗れたダービーである。
未だダービーの栄冠を手にしていない名門メジロ牧場にとっては、
思い出したくもない痛恨のレースだろうが、
ヤエノムテキにとっても直線で少しだけ見せ場をつくっただけの、
ほとんど出番なしのダービーだった。
7月3日 中日4歳S 2着
9月11日 UHB杯 1着
10月16日 京都新聞杯 1着
11月6日 菊花賞 10着
12月4日 鳴尾記念 1着
中日スポーツ4歳Sはサッカーボーイの2着に敗れるが、
秋緒戦の京都新聞杯では、4角で失格寸前の接触があったものの、
見事に単枠指定の1番人気に応えて圧勝。
万全の状態で菊花賞に臨む。
むろん1番人気に支持される。
が、結果は10着惨敗(勝ち馬はスーパークリーク)。
初の着外。
しかし、陣営はすぐに気持ちを切り替えて、
暮れの鳴尾記念に出走し完勝。
紆余曲折はあったものの、
前途洋々たる想いでヤエノムテキは明け5歳を迎える。
1989年 ヤエノムテキ5歳
1月22日 日経新春杯 2着
4月2日 大阪杯 1着
6月11日 宝塚記念 7着
年が明けて日経新春杯を2着、大阪杯を完勝。
名実ともに名馬への道を歩んでいたヤエノムテキに、
二つ目のタイトルを獲らせようと、
陣営は距離適性を考えて宝塚記念をめざす。
その宝塚記念では、
オグリキャップやスーパークリークがいなかったこともあって、
1番人気に支持される。
中日スポーツ杯からここまで、じつに8戦連続1番人気。
それだけで、ヤエノムテキを知らない人にも、
その実力と人気を分かっていただけると思うが、
しかし、その宝塚記念で7着に完敗(勝ち馬はイナリワン)。
これが長いスランプというかトンネルの始まりとなる。
10月29日 天皇賞・秋 4着
12月24日 有馬記念 6着
1990年 ヤエノムテキ6歳
1月21日 日経新春杯 2着
2月25日 マイラーズC 3着
4月1日 大阪杯 3着
5月13日 安田記念 2着
6月10日 宝塚記念 3着
マイル戦に出てみたり、得意の中距離に戻ってみたり、
あるいはそれまでずっと手綱を握ってきた西浦騎手から岡部騎手に
安田記念からは乗り替わったりと、
試行錯誤というか苦悩が続くが、どうにも結果が出ない。
大負けはしないものの勝ちきれない。
じつに1年と半年、勝ち星から遠ざかっていた。
まるで皐月賞ですべての運を使い果たしたかのような成績。
ただのオープン馬ならそれでもいい。
しかし、皐月賞馬である。
ヤエノムテキである。
このまま終わっていいはずがない。
10月28日 天皇賞・秋 1着
2つ目の、そして最後のタイトルが、
皐月賞を勝った時と同じ府中の二千というのも何かの因縁だろうが、
既に伝説になりつつあった
オグリキャップを負かしての天皇盾だから価値がある。
最後の直線、皆の目が外のオグリキャップに集まる。
いつ伸びてくるのか、いつ突き抜けるのか。
ところがどうしたことかオグリは伸びない。
ふと内から1頭の栗毛馬がするすると先頭に立つ。
ヤエノムテキだ!
そしてそのまま、メジロアルダンの追撃を振り切って、
見事に秋の盾を制する。
鞍上岡部の好騎乗が光った一戦だった。
11月25日 ジャパンカップ 6着
12月23日 有馬記念 7着
最後の有馬記念、
本場馬入場で岡部騎手を振り落として放馬した話や、
シヨノロマンとの恋愛物語など、
こと派手なエピソードには事欠かない
現役時代のヤエノムテキだったが、
さて、引退して種牡馬となってからは決して成功したとはいい難い。
産駒はどれもスピードに欠けるダート馬という印象で、
自身の現役時代の派手さと比べると天と地の格差がある。
ただ、ヤエノムテキは今も元気で牧場にいる。
オグリキャップを筆頭に、
この黄金世代の馬たちがどんどん天国に行っている状況のなか、
「四白流星の暴れん坊」はいつまでも健在でいてほしい。
(了)
競馬場で直接観戦していても、
あるいはテレビ画面を通してでも、
馬券を買った馬がどこを走っているのかが、
すぐにわからなくて困る場合が多い。
大体において帽子の色や勝負服、
あるいはゼッケンなんかで判断したりするのだが、
それでも同枠の馬と間違ったり、
似たような毛色の馬と間違ったりして、
買ってもいない馬に対して、
「差せ」とか「そのまま」なんていう声援を
送ったりすることがある。
全く間抜けな話だが、しかし、よっぽど好きな馬以外だと、
例えばゼッケンもメンコも何もなかったら
見分けがつかないのが普通だろう。
近年では最強馬であろうディープインパクトほどの名馬にしても、
レース中なら最後方をポツンと走っている小柄な馬を
探せばいいのだからすぐにわかるだろうが、
例えば、同じ鹿毛の馬の写真を何枚か用意されて、
「さあ、この中でディープはどれ?」なんていわれたら、
果たして何人の人が正確に選び出せるだろうか。
それはウオッカやブエナビスタにしてもしかりである。
ところが、どこにいても、どこを走っていても、
いついかなるときでも一目でそれとわかる馬が過去にいた。
わずか3戦のキャリアで皐月賞を制したあの馬。
四白流星、キラキラと輝く栗毛、そうヤエノムテキである。
馬体のつくりそのものの美しさなら、
トウショウボーイが未だ一番だと思うが、
毛色などの表面的な見た目の美しさなら、
ヤエノムテキが最高ではなかったかと思う。
本当にきれいな馬だった。
どこを走っていても、どこにいても、
一目でヤエノムテキを見つけることができた。
それだけにファンも多い馬だった。
1988年 ヤエノムテキ4歳
2月27日 新馬 1着
3月19日 沈丁花賞 1着
3月27日 毎日杯 4着
遅いデビューだったが、新馬戦つづく第2戦とダートで圧勝。
力が何枚も違うという勝ち方で、
皐月賞への出走をかけて毎日杯に臨む。
が、見せ場なく4着に完敗(勝ち馬はオグリキャップ)。
これでクラシックの夢が途切れたかに思えたが、
2分の1の抽選の確率をものにして晴れて皐月賞に駒を進める。
これは「運」である。
運以外の何ものでもない。
もし、あのとき抽選に外れていたら?
のちのヤエノムテキはなかったかもしれない。
少なくとも皐月賞馬ヤエノムテキは誕生していなかった。
4月17日 皐月賞 1着
結果かからいえばまさに「関西の秘密兵器」だったわけだが、
レース前の時点では、
その関西の競馬好きでさえもノーマークの人が多かった。
デビューからダートで2連勝、そして初芝で完敗。
つまりはダート馬。
そうレッテルを貼られても仕方がない。
事実、9番人気の低評価。
かくいう僕も、阪神の新馬戦の勝ち方があまりにも強かったし、
最内枠だったので「もしかしたら」とは思ったが、
「やっぱりダート馬だよな」の一言でバッサリと切り捨てていた。
もっとも、「オグリもサッカーボーイもいない皐月賞なんて」
という感じで、半分白けていたのも事実だったが。
もうひとつ、この年の皐月賞が東京競馬場で実施されたということも、
あとから考えれば大きな伏線ではある。
5月29日 日本ダービー 4着
メジロアルダンがサクラチヨノオーにクビ差で敗れたダービーである。
未だダービーの栄冠を手にしていない名門メジロ牧場にとっては、
思い出したくもない痛恨のレースだろうが、
ヤエノムテキにとっても直線で少しだけ見せ場をつくっただけの、
ほとんど出番なしのダービーだった。
7月3日 中日4歳S 2着
9月11日 UHB杯 1着
10月16日 京都新聞杯 1着
11月6日 菊花賞 10着
12月4日 鳴尾記念 1着
中日スポーツ4歳Sはサッカーボーイの2着に敗れるが、
秋緒戦の京都新聞杯では、4角で失格寸前の接触があったものの、
見事に単枠指定の1番人気に応えて圧勝。
万全の状態で菊花賞に臨む。
むろん1番人気に支持される。
が、結果は10着惨敗(勝ち馬はスーパークリーク)。
初の着外。
しかし、陣営はすぐに気持ちを切り替えて、
暮れの鳴尾記念に出走し完勝。
紆余曲折はあったものの、
前途洋々たる想いでヤエノムテキは明け5歳を迎える。
1989年 ヤエノムテキ5歳
1月22日 日経新春杯 2着
4月2日 大阪杯 1着
6月11日 宝塚記念 7着
年が明けて日経新春杯を2着、大阪杯を完勝。
名実ともに名馬への道を歩んでいたヤエノムテキに、
二つ目のタイトルを獲らせようと、
陣営は距離適性を考えて宝塚記念をめざす。
その宝塚記念では、
オグリキャップやスーパークリークがいなかったこともあって、
1番人気に支持される。
中日スポーツ杯からここまで、じつに8戦連続1番人気。
それだけで、ヤエノムテキを知らない人にも、
その実力と人気を分かっていただけると思うが、
しかし、その宝塚記念で7着に完敗(勝ち馬はイナリワン)。
これが長いスランプというかトンネルの始まりとなる。
10月29日 天皇賞・秋 4着
12月24日 有馬記念 6着
1990年 ヤエノムテキ6歳
1月21日 日経新春杯 2着
2月25日 マイラーズC 3着
4月1日 大阪杯 3着
5月13日 安田記念 2着
6月10日 宝塚記念 3着
マイル戦に出てみたり、得意の中距離に戻ってみたり、
あるいはそれまでずっと手綱を握ってきた西浦騎手から岡部騎手に
安田記念からは乗り替わったりと、
試行錯誤というか苦悩が続くが、どうにも結果が出ない。
大負けはしないものの勝ちきれない。
じつに1年と半年、勝ち星から遠ざかっていた。
まるで皐月賞ですべての運を使い果たしたかのような成績。
ただのオープン馬ならそれでもいい。
しかし、皐月賞馬である。
ヤエノムテキである。
このまま終わっていいはずがない。
10月28日 天皇賞・秋 1着
2つ目の、そして最後のタイトルが、
皐月賞を勝った時と同じ府中の二千というのも何かの因縁だろうが、
既に伝説になりつつあった
オグリキャップを負かしての天皇盾だから価値がある。
最後の直線、皆の目が外のオグリキャップに集まる。
いつ伸びてくるのか、いつ突き抜けるのか。
ところがどうしたことかオグリは伸びない。
ふと内から1頭の栗毛馬がするすると先頭に立つ。
ヤエノムテキだ!
そしてそのまま、メジロアルダンの追撃を振り切って、
見事に秋の盾を制する。
鞍上岡部の好騎乗が光った一戦だった。
11月25日 ジャパンカップ 6着
12月23日 有馬記念 7着
最後の有馬記念、
本場馬入場で岡部騎手を振り落として放馬した話や、
シヨノロマンとの恋愛物語など、
こと派手なエピソードには事欠かない
現役時代のヤエノムテキだったが、
さて、引退して種牡馬となってからは決して成功したとはいい難い。
産駒はどれもスピードに欠けるダート馬という印象で、
自身の現役時代の派手さと比べると天と地の格差がある。
ただ、ヤエノムテキは今も元気で牧場にいる。
オグリキャップを筆頭に、
この黄金世代の馬たちがどんどん天国に行っている状況のなか、
「四白流星の暴れん坊」はいつまでも健在でいてほしい。
(了)