エホバの証人の下半身事情

厳格な性道徳を実践すると主張するエホバの証人。ほんとはどうなの?全部暴露しちゃいます。うらみつらみも全部ね。

今ある命がすべてですよ!?

2007-04-23 21:31:48 | Weblog
エホバの証人信者の行動の特徴が、今しか出来ないことをしないというもののように感じられる、と言うようなことを前回書いてみたんですが、この際「この終わりの日の今しか出来ない裁きをふれ告げる業に参加できることは人類史上稀に見る特権です」とか言って、開拓奉仕とやらをする人の意見は無視します

なぜなら、信仰の世界の話をとやかく言っても無駄だからです

信じてしまったものは仕方が無いんです。「鰯の頭も信心から」なのですね
エホバの証人のくだらない教義も信じている人にとってはありがたいものなのですし、信仰の世界の話って、証明のしようが無いんで、水掛け論なんですね。
ある偉い人が言っていた通り「不合理ゆえに我は信ず」るんですよ。
意味は、合理的な証明の出来ない事象、つまり不合理なことだからこそ、「信じる」という心の作用が必要であると言うわけです。そうして考えると、「信仰」という精神的な活動の前提として、合理性で割り切れない世界の話があるのですから、「信仰」に確かな根拠があるだとか、終わりの日の目に見える「証拠」があるだとか、と言う話は全く無意味になってくるわけです。よって、それに対する教義上の反論も無意味に思えるわけです。

とまあ、愚痴はここまでにして、エホバの証人信者の持つ時間感覚のズレと言うものは、今しか出来ないことをしないという行動様式に現れていると思えるんですが、その主な動機と言うか、隠れた背景として、ライフイベントに対する極度の恐れがあると考えます。例えば、入学と卒業、就職、結婚、親になること、子供の独立、親の死、本人あるいは配偶者の退職、配偶者の死。といったイベントに人はほぼ似たような年齢で体験するんですが、やはりそれには大きなストレスがかかるんですね。それで、そのイベントを意識的に避けようと考えるんではないかと思います。上記のイベントの中で意識的に避けれるものは、就職、結婚、親になること、子供の独立くらいでしょうか。まあ一言で言うと「大人になりたくない」んでしょうね

一般人の視点から、よくよくエホバの証人2世の夫婦を観察すると、妙なことに気付くと思います。

まるで、まだ付き合っているかのような初々しさがあるのです。

しかもその初々しさが何十年単位で続くときもあります

あえて、初々しいというさわやかな表現を使ったんですが、これは皮肉で、ぶっちゃけキモイんですね
「キスしていいかい?」「いやん、恥ずかしい」「おっぱい触ってもいいかい?」「いやん、恥ずかしい」とか・・・

確かに夫婦が愛情で結ばれて、いつまでも仲の良いことは褒められるんですが、その愛情の質は年齢と、立場によって変化するものだと思うんですね、例えば、若いときはスタイルに惚れたとしても、やがて子供を産み母親としての強さや、母性愛に理想の女性像を見るときに、ぶよぶよの腹も許せるときがあったり(うちのことじゃないよ・・・ということに・・・)若いときは自分の好きなことに湯水のように金をかけていたのが、子供が産まれると、すっかり節約家になって、子供のことにだけお金を使うようになって、良い父になろうと努力する姿に妻が惚れ直すとか(いれぶんのことではありません
つまりステージが変わると求められてくるものも変わるわけでして、そのステージごとに適切な役割を果たさなくてはならないんですね。それをそつなくこなせる人を大人と言うのだと思います

しかし、エホバの証人は、若い世代は親になることを拒み、親の世代は祖父母になることを拒むわけです。「永遠に生きる」と言う希望を持っているのは構わないんですが、もう既に永遠に生きているつもりでいるんですね。年をとると言う現実から目を背けるかのようにいつまでも若いつもりでいて、「子供はまだ要らない」と30代後半で言ったり、おばあちゃんと呼ばれるのがそんなに怖いのか知りませんが、若い夫婦に向かって「孫はいりませんからね!」と言ったり・・・。

これは、エホバの証人の教義が深く関係している話になってきますね

ちょっと眠い・・・

実は今日はボクの誕生日ですので、今は一人でビール飲んでます。
えっ?ナンデ一人なの???
実は嫁に逃げられまして・・・









うそ




息子が入院しまして、付き添ってます。

なんか酔いが回ってきましたので、中途半端ですが今日はこの辺で、

エホバの証人の時間感覚のズレはまだ続きますよ~~~~~~