遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート8

2019-08-02 | 近・現代詩人論
 中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。

 「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。
一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。

「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金沢にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに泣いたという感受性の強い子だったのだろう。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也はほんとうによくいうことを聞く、優しい子供でした。子供とは思えんほど、ききわけがよかったんです。」と、フクは語っている。


 一九一三(大正二)年六歳、北陸女学校付属第一幼稚園(現北陸学院短期大学付属第一幼稚園)に入園。通園路の途中にある犀川が、雪解けで水勢が増したときには「橋が落ちる、橋が落ちる」といって中也は恐がり、橋を渡らず回り道をしたという。繊細な感受性は幼年時からだったにちがいない。
 又友達と遊んでいてよその家家の窓ガラスを壊してまったとき、ガラスを弁償してくれるよう母に懇願。「悪かったよ、」と「えらい気をもんで」いたというエピソードがある。母は「物が気になる性質だったんですよ}と語っている。そして中也は広島・金沢時代に、三人の弟の兄に成るのだが、このようにいくつかのエピソードから記憶力のいい、他人思いの心の優しい子だったことがうかがいしれるだろう。
亜郎(中也三歳の時)、恰三(四歳の時)、思郎((六歳の時)が誕生。その兄弟達は「父は軍隊式、母は小笠原流、実祖母スエは寺子屋式」でしつけられたという。(以上は「別冊太陽」からの引用)

一方、父謙助はよく子供らを連れて映画などを見に出かけている。そのことは「金沢の思ひ出」にもつづられている。詩編「サーカス」のモチーフになっているという見方もある。

 中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。