遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート⒑

2019-08-05 | 近・現代詩人論
 中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。

これが私の古里だ
さやかに風も吹いている

あゝ おまへはなにをして来たのだと
吹き来る風がわたしにいふ

 原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の「四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の「初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責するかのようにつらい思いを風にたくしている。
 いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかもしれない。でも一時ははなれていたのだが。

ここで先の「金沢の思ひ出」のその幼年期の感性のきらめきを垣間見ようとおもう。