遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート①

2019-05-08 | 近・現代詩人論
今日から4,5回の連載で伊東静雄について書いてみたいとおもいます。

伊東静雄ノート①               

伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

 この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であったと共に、他方では、作品《水中花》は、〈もの〉をモティーフにしている点で、伊東の詩作にあっては、ほとんど一度限りの例外的なできごとでもあった」としてこの詩は伊東の詩のすべてが縮されているとまで述べている。まずは、まえがきも含めて全編ここに引用しておきたい。
水中花といって夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい??削片を細く圧搾してつ   くったものだ。そのまゝでは何の変哲もないだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつく しいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。
   都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひとも あるだろう。

今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣りしのぶ。
   忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
   六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
   一茎の葵の花の前に立て。
   堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。

文字通りうつくしく虚空にひらく水中花のイメージは、絶品であろう。