二冊目に出版された詩集『蛇の花嫁』の「まえがき」は、詩的想像力によって自らが救われてきたことを意識するかのように書いている。「この苦闘の縁にありて吾を救ふは何者にもあらず。みずからを削る詩の技なり。さればわが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ」と、記している。大手拓次が詩を書き続けることの苦しい胸の内をあからさまに語ったと受け止めるには、保留したい。というのもこの「まえがき」は、編集者の手によるものだから、その詩作の苦労を伝えるためにのみその役割を果たさせる為であるといえるのではないか。
なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
私の身を うしろからつきうごかす
弱々しいしのびがたいちからのやうでもある。
そうして 不安から不安へと、
砂原のなかをたどってゆく
わたしは いっぴきのあをい馬ではないだろうか。 (「あをい馬」全行)
孤独におののき不安から不安へと砂をかむように日々を渡り歩く一頭の馬。まさに比喩のように淋しい世間の片隅に生息する詩人のいびつな魂は、とうてい癒やされることがない。詩という無償性の世界ではいまも強く惹かれる大手拓次の作品の内面に一層深く触れることも意味あることにちがいない。
なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
私の身を うしろからつきうごかす
弱々しいしのびがたいちからのやうでもある。
そうして 不安から不安へと、
砂原のなかをたどってゆく
わたしは いっぴきのあをい馬ではないだろうか。 (「あをい馬」全行)
孤独におののき不安から不安へと砂をかむように日々を渡り歩く一頭の馬。まさに比喩のように淋しい世間の片隅に生息する詩人のいびつな魂は、とうてい癒やされることがない。詩という無償性の世界ではいまも強く惹かれる大手拓次の作品の内面に一層深く触れることも意味あることにちがいない。