フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

図書館から借りてきた本

2007-09-10 09:22:49 | 映画&本
京都府立図書館から借りて、これから読む予定の本。
最近は仕事や雇用の本を図書館も多数そろえて開架の棚に並べていてくれる。
うれしいかぎりだ。

●『ワーキングプア アメリカの下層社会』デイヴィッド・K・シラー 盛岡孝二、川人博、肥田美佐子 訳  岩波書店2007.1

これは梅田の紀伊国屋で立ち読みしたあと、読みたいと思っていた本。役者の一人川人博さんは、過労死・自殺について啓蒙している弁護士さんだ。


●『不安定を生きる若者たち 日英比較 フリーター・ニート・失業』乾 彰夫編著、アンディ・ファーロング、佐藤一子、佐野雅彦、平塚槇樹、藤田英典、宮本みち子著 大月書店2006.10

こちらはジュンク堂書店烏丸店で見つけて、そのときは買えなかったもの。ぜひ読んでおかねばと思っていた。

●『ぼくにだってできるさ アメリカ定収入地区の社会不平等の再生産』ジェイ・マクラウド著 南 保輔訳 北大路書房 2007.5

以前から読みたかった再生産論のひとつ。道ばたぐらしに近いところにいるティーンエージャーたちの記録。「開かれた社会」アメリカでの不利な条件にある子ども・若者らについて、先行研究を見渡しつつ新しい仮説の構築に挑む。

●『階級社会』ジェルミー・シーブルック 渡辺雅男訳2004.7 2004.8

これも以前から目を通したかった書物。
確か高原元彰さんが「不安型ナショナリズムの時代ーー日中韓のネット世代が憎み合う理由」のなかで、高く評価しつつ言及しておられた記憶がある。
まだぴらぴらとめくった段階だが、この指摘はスゴイ。「オックスファムは記者会見の中で、貧困撲滅に元も積極的であった国々(中国、マレーシア、タイ)が不平等の際だった拡大を経験してきた。グローバルな基準で見ても際だった傾向である。(178P)」
なんだか、人権派弁護士による反貧困運動の行く末を暗示しているように思えるのはわたしだけだろうか?(ちなみにオックスファムはイギリスの人権NPO。第三世界援助で知られる。)


トラックバック用URL:http://d.hatena.ne.jp/tazan/20070906




図書館から借りた本

2007-08-19 21:57:54 | 映画&本
今回は京都府立図書館から労働関係の本を2冊借りました。

「定点観測 釜が崎 定点撮影が明らかにする街の変貌」
定点観測「釜が崎」刊行会 葉文館出版 凸版出版 1999.7
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9A%E7%82%B9%E8%A6%B3%E6%B8%AC-%E9%87%9C%E3%82%B1%E5%B4%8E%E2%80%95%E5%AE%9A%E7%82%B9%E6%92%AE%E5%BD%B1%E3%81%8C%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A1%97%E3%81%AE%E5%A4%89%E8%B2%8C-%E5%AE%9A%E7%82%B9%E8%A6%B3%E6%B8%AC%E3%80%8C%E9%87%9C%E3%82%B1%E5%B4%8E%E3%80%8D%E5%88%8A%E8%A1%8C%E4%BC%9A/dp/489716088X/ref=sr_1_1/503-4922635-1997557?ie=UTF8&s=books&qid=1187529863&sr=8-1

「偏見から共生へ 名古屋発ホームレス問題を考える」藤井克彦・田巻松雄著 風媒社2003.4
http://www.amazon.co.jp/%E5%81%8F%E8%A6%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E5%85%B1%E7%94%9F%E3%81%B8%E2%80%95%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E7%99%BA%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%82%B9%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E8%97%A4%E4%BA%95-%E5%85%8B%E5%BD%A6/dp/4833110598/ref=sr_1_1/503-4922635-1997557?ie=UTF8&s=books&qid=1187529944&sr=8-1

一冊目は1930年代と1990年代の釜が崎の同じエリアを撮影したものを、見開き2ページで比較検討できるつくりの写真集。
経済成長・進歩によって貧困・格差の問題は解決できる、とするアダム・スミス流のトリクルダウン・エフェクトを疑いたければ、まずこの写真集をおすすめしたい。

ところで、印刷所の凸版出版というのは、かつてわたしがグッドウィルから派遣された会社だ。ハガキ製造の仕事だった。ベルトコンベアを流れるハガキの塊がまるで豆腐のように見えて、ベルトコンベア酔いを起こした。また、社員食堂の利用が派遣アルバイトらには認められず、コンビニで購入したカップラーメン等を食べることになった。
せっかく貧困問題に取り組む写真集をつくるのなら、もう少しマシな非正規雇用従業員への取り扱いをする企業を選んでほしかった。


二冊目は、名古屋で長年日雇い労働者・野宿者らへの支援活動をしてきている活動家による報告と問題提起。
実は以前、予備校の関係で名古屋に住んでいた。そのおり、予備校で名古屋駅西口の笹島という日雇い労働者の街で医療相談等のボランティアをしている看護士(当時は看護婦)さんをゲストに招いてお話をうかがったことがあった。
その後、この著者のひとり藤井克彦さんも予備校にお見えになり、炊き出しや医療相談、それにヤクザとのにらみあいについてもお話していただいた。
さらに、そのあと個人の選択により自主的に医療相談や炊き出しの手伝いに行っている時期があった。
図書館でこの本を見て、そのころの記憶がよみがえった。

正規の雇用・福祉・保障の中から排除されつづけている日雇い・野宿の人々が、いかに社会全般から「あってはならないもの」とされ、怠けや物好きだと非難され、その存在を粗末に扱われているかを本書は知らせてくれる。
支援をする側の偏見や同情という問題にも正面からとりくんでいる。
とりわけ、ホームレスに対するまなざしがもっと寛大なものであったほうがいいとの問題提起は貴重。p303-306の小見出しを記しておこう。
「自立の意思のない人を切り捨ててよいのか」
「『野宿者をなくす』という発想の問題点」
「『社会復帰』でいいのか」
一部の労働組合も、なぜか「反貧困運動」に走ったりする前に、こういった論点(特に2番目)を考え直したほうがいいと思う。

困難な環境、栄養不足等によってヤル気のなえた状態の人を切り捨ててよいのか。
野宿を絶対悪とみなすことによって、息苦しい窮屈な社会を作ってしまう。
また、本人の尊厳を尊重しないでシェルターに「入れてあげる」、それはいいことだ、決して人権問題ではないという議会での発言もある。施策があるから野宿するなというより強い排除を、「野宿者をなくす」という好意的な発想が作り上げる危険性もある。
社会復帰というときに、今の主流社会のあり方が絶対なのだろうかと問い直す。

そうした視点が多分弱いから、反六本木ヒルズ運動ではなく、貧困者の権利運動でもなく、反貧困運動なんていう社会運動に乗ってしまうのではないだろうか?
反貧困運動によって、「これほど貧困に反対しているんだから、貧困者の排除はOK」ということになって、失業者が収容所のようなところに強制的に入れられたり、安いアパートや銭湯のとりこわしも許容されたり、ストリートカルチャーにこれまで以上の規制がかかったりすることを、反貧困運動側は望むのだろうか?
反貧困運動にもいろいろな団体・個人が関わっている以上、反貧困という言葉の解釈も多様なのだろう。
それにしても、なぜ反閨閥でもなく、反六本木ヒルズでもなく反貧困なのか。
貧困者が自ら貧困を差別する運動など、前代未聞だし、かえって六本木ヒルズ族の思う壺なんじゃないかとも思うのだけれど…。自分たちの生き方・価値観をまったく問い直さずにすむ反貧困運動という社会運動は、本当に分からない。
この著者たちがやっているのは、少なくとも反貧困運動ではない。100%それをなくすことができないのなら、貧困があることを前提として貧困とつきあう技術を探る試みである。
日々地道にボランティア活動に励む著者らの姿は、明らかに貧困者の権利擁護運動であり、反六本木ヒルズの価値観を示している。
そういう意味で、上質の本である。





すぐれた書評

2007-08-18 21:58:24 | 映画&本
ユニークなブログ「考える書評集」http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-842.htmlのうえしんさんが、「日本残酷物語5」という本の書評を書いていらっしゃる。
近年まれに見る優れた書評だと思ったので、紹介しておきたい。

学校が青少年を社会的に隔離すること、それによって見えなくなってしまった学びの世界を自覚しながら読書をすることの、なんと冷静で利口なことか!
学校=社会というムリな図式をもとに青少年論を展開するインテリは、こうした情報から学ぶべきだ。
一度も「入院」先(大学院の隠語、らしい)から社会復帰した経験のない学者が、青少年の社会との関わりについて論じるという天につばする行為は、この種の情報のもと、滑稽であることが浮き彫りにされる。

歴史というと、どうしても上流・上層の記録が中心となりがちだ。
そのなかで、こうした情報は傾き是正のためにも重要。

反貧困運動などという危なっかしい社会運動に関わる人たちも、自分たちの先祖が決してみな中産階級以上ではなかったことを確かめるためにも、こういった情報に触れていただければ、と思わずにはいられない。
貧困者がみずから貧困や貧困者を貶めるような社会運動に手を貸すことがあっては、大変残念なことだと考えるものである。




「偽装請負」←歴史に残る新書

2007-08-15 18:49:11 | 映画&本
偽装請負 朝日新書

大変よい本でした。
労働問題を取材した本のうちでも、歴史に残る力作になるでしょう。

ここには、わたしが働いた会社、身近なアルバイターたちが働いたり、働こうと検討したりしている会社の名前が出てきます。
それは同時に、インターネットで「ブラック企業」としてマークされている会社とも重なります。

大学中退をしたあと偽装請負で働いた人が、まるで大学を中退した因果として自殺するようになったと誤解されるような見出しのつけ方はどうかと思います。

そういった短所を含みながらも、この本は充実しています。
実際に、この記事がきっかけになって国会でも偽装請負について議論がなされました。
自分たちが苦労しているってことが、やっとほかの人たちにも伝わるようになった。自分たちが世の中からまったく無視されたり誤解されたりしてばかりで、マスコミも信用ならない。
そうした思いを覆してくれるすばらしい新書だったと思います。

ただ、最後の請負・派遣労働者を正社員にという提案には、ちょっと待ってと言いたい。
なかには新卒後正社員として勤めて、「これならアルバイトのほうがマシ」とたとえではなく本当にそう思ってアルバイトをする人もいるのです。
また、熊沢誠が指摘しているように、学生時代のアルバイトを通じて正社員の働き方を知り、「これだったら正社員よりもアルバイト・パートのほうがマシ」と思ってはじめからフリーターかニートになる人たちもいます。
オタクとして同人誌を作っている人たち、音楽や演劇など芸術のために時間が欲しくてあえてアルバイトをやる人たちもいます。
なおブラック企業と噂されている会社をはじめ、とんでもない労働条件の正社員を使っている企業もあります。
そういったことを考えると、正社員化だけでは問題解決にはならないでしょう。
国の労働・福祉条件を総合的に上げていかなければ、正社員になれない/ならない層はこれからも生まれます。
さらに均等待遇の導入によって、非正社員でもさほど不利ではないシステムを作ることも大切です。

そうした思考を導くきっかけの提供になるという点で、議論のしかけ人としての勤めをよく果たされたと思います。
偽装請負派遣班のみなさま、お疲れ様でした。



図書館で借りた本

2007-06-02 16:59:28 | 映画&本
京都府立図書館で借りてきた本のメモを。返す前に忘れないうちに書いておこう。
京阪神圏の方は図書館利用のご参考にどうぞ。

「恐竜の道を辿る労働組合」早房 長治(はやぶさ ながはる) 緑風出版 2004.7

「アメリカ労働運動のニューボイスーー立ち上がるマイノリティ、女性たち」
ケント・ウォン編 戸塚秀夫・山崎精一監訳 彩流社 2003.10

「現代の労働負担」千田 忠雄(ちだ ただお) 文理閣 2003.2

「閨閥ーーー日本のニューエスタブリッシュメント」佐藤 朝泰 立風書房1981

「来日外国人の社会不適応状況に関する調査」財団法人 公共政策調査会 平成3年3月

実質、読めたのは2冊目と4冊目だけ。ほかの本は、ちらほらと部分読みできた。
かなりよくなってきたものの、まだ内蔵の調子がおかしい。少し動いても以前の数倍のエネルギーを費やす感じがする。
そういうこともあって、労働負担の本は、他人事として冷静に読めなかった。

一冊目にあげた本は、労働組合についてかなり突っ込んだ検討をしている。労働組合に根強い正社員中心主義、組合の他の社会運動家らの孤立、幹部の金遣いの荒さ、男性優位主義、もっと若い世代の状況に目を向ける早急の必要があることなどが書かれている。
二冊目は全部読んでしまった。アメリカの移民・女性労働者たちが、いかに白人中心・製造業中心の労働組合とは違う組織化や欲求をかかげて闘ってきたか。それをインタビュー方式で具体的に記述している。
ケン・ローチ監督の「ローズ&ブレッド」という映画のモデルとなった、清掃労働者たちの運動「ジャニターに正義を」のキャンペーンについても記述がある。
また、オルタナティブ大学や通常の大学の中のレイバー・スタディー・コースが、労働組合活動家の供給源になっているという指摘は興味深い。
日本では、そういった教育のオルタナティブ化の潮流を、一部の教育社会学者が「学びから逃走する子どもたち」として問題化しているのだが…。ある当事者学者の「そんなことをしても不登校の子どもたちは、負けると分かっているのだと思う」という、不登校とオルタナティブ学校・教育の区別のつかない議論については、論外とするほかない。














これから読む本

2007-02-18 00:14:44 | 映画&本
最近読んだ&これから読む本をいくらか紹介したい。

○まだまだ読み込みとまでいかないが目は通した本


「縦並び社会 貧富はこうして作られる」毎日新聞社会部 毎日新聞社2006

一時はブログスクエアでもキーワードとして「縦並び社会」が使われる時期もあった。多角的に社会の分極化について取材している。
読者からの投稿を記事と記事との間に挟む編集方法はひょっとしてブログを意識している?


「階級社会 現代日本の格差を問う」橋本健二 講談社 2006

都市論・サブカル論とも絡めて日本社会の分極化を論じる。



「わたしの足跡ーー関西経済人列伝」産経新聞大阪経済部 平成19年

関西の財界人へのインタビュー集。ちなみにこの本でとりあげられている3人中1人が2世または3世の社長(または副社長・会長・副会長等社長に準ずる地位)にある。


「犯罪不安社会 誰もが『不審者』」浜井浩一 芹沢和也 光文社新書 2006

犯罪への漠然とした不安を煽ると、社会の監獄化が強化されてゆく。「地獄への道は善意でしきつめられている」という格言のひとつの実現プロセスを読者は見るだろう。


「労働ダンピングーー雇用の多様化の果てに」中野 麻美 岩波新書 2006
 著者は労働問題に詳しく、これまで著書・講演などをこなしている弁護士。
法律家の立場から不安定雇用の現状を描き、問題解決を探る。
大変アクチュアルで、冷静な認識と権利への強い意思に満ちたコンパクトな好著。

○これから読む本

「ニッケル&ダイムド アメリカ下流社会の現実」バーバラ・エーレンライク著
曽田 和子 訳 東洋経済新報社 2006

同じ出版社から邦訳の出ているポリー・トインビー「ハードワーク」に次ぐ、鎌田慧方式のルポルタージュ。
実際に自分が下層階級の仕事に雇われやってみることによって分かったことを片っ端から報告する。
著者は下層階級についてくわしいコラムニスト。高須基彰さんの日中韓のナショナリズム論のなかで紹介されている。

 







最近買った本

2007-01-27 12:48:57 | 映画&本
久々に紙の本の情報も。
大阪の金融機関からの帰りすがら、梅田の紀伊国屋で購入しました。


「労働者派遣と請負・業務委託・出向の実務」安西 マサル(←漢字が変換できない)

労働調査会 平成17年 定価:3000円(税込み)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E6%B4%BE%E9%81%A3%E3%81%A8%E8%AB%8B%E8%B2%A0%E3%83%BB%E6%A5%AD%E5%8B%99%E5%A7%94%E8%A8%97%E3%83%BB%E5%87%BA%E5%90%91%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%8B%99%E2%80%95%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E6%B4%BE%E9%81%A3%E3%81%A8%E8%AB%8B%E8%B2%A0%E7%AD%89%E3%81%AE%E9%81%A9%E6%AD%A3%E5%8C%96%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E5%AE%89%E8%A5%BF-%E6%84%88/dp/4897828813/sr=8-1/qid=1169869460/ref=pd_bbs_sr_1/249-3874919-7021945?ie=UTF8&s=books

派遣・請負・出向の3つの違いは分かりにくい。そこを詳しく説明してくれている。
けっこう読むところは多い。必要なところの部分読みだけでも助けになりそう。


ホルクハイマー・アドルノ著 徳永 恂訳「啓蒙の弁証法ーー哲学的断層」岩波文庫 2007 定価1200円

http://www.amazon.co.jp/%E5%95%93%E8%92%99%E3%81%AE%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95%E2%80%95%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%AD%E6%83%B3-%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC/dp/4003369211/sr=8-1/qid=1169870146/ref=pd_bbs_sr_1/249-3874919-7021945?ie=UTF8&s=books

こちらは以前図書館でハードカヴァーを読んでいたもの。
十代の半ば以降の再読となる。
十代のころは、ユダヤ人を登校拒否におきかえて当てはまるところだけを読んでいた。
今では、ユダヤ人が分数のできない大学生、漢字の書けない期間工、怠け者のニート、犯罪者扱いされるオタク……要するに「若者(と子ども)」とオーヴァーラップする箇所がある。
昨今、「戦前みたいなムード」が言われている。その時期に、文庫本にして出すとは岩波も商魂たくましい。
もちろん、いち読者として大歓迎だ。





マンガ「ワタリ[第三の忍者]」

2006-08-03 23:39:51 | 映画&本
最近、コンビニエンスストアで「ワタリ」というタイトルのコンビニサイズのマンガを見つけた(笑)。
出版形態は異なるが、アマゾンのリンクはここ。http://www.amazon.co.jp/gp/product/4091922732/503-7532927-3516739?v=glance&n=465392&s=gateway

作者は白土 三平。 

時代は戦国時代後期という設定。ご存知伊賀と甲賀の対立がくりひろげられる。そのなかで、伊賀でも甲賀でもない流れの民としてワタリ一族のおじいさんと、子ども忍者ワタリは、保護とひきかえに伊賀の百地党(ももちとう)の下人(ある種の奴隷)になる。
この党というのは、司馬遼太郎が、江戸初期まで残った大名とは違う日本各地の組織的な支配体制で、奴隷制度の流れをくむと紹介していたものと思われる。
この世界での下忍の扱いは、要するに使い捨て労働力だ。危険な仕事を請け負わせ、失敗したり上のものの気に入らなければ「掟」によって処刑してしまう。下忍らは、残酷だとかかわいそうだと思いながらも、それを当然のように受け入れている。なるほど、こうして日々の「実践」が「構造化」される(ブルデュー)わけだ。
その同じ忍者同士を処刑する「掟」は、どんなものかわからない。現場のリーダーにもまったく分からないという。この点、どんな仕事があってどんなルールやシステムで動いているか、たずねても「分からない」という現代日本の派遣会社の営業と重なって見える。
あるいは、労働に関する法をほとんど知らされずに働く日本のフリーターとも構造的に類似している。
下忍たちが、どんなものかも分からない「掟」にしばられるのはイヤだと上層部に反乱を起こすのは、まるで忍者の労働組合運動みたいだ。それに対して上は弾圧する。19世紀おわりのイギリスの労働者団結禁止法のようなルールが「掟」には含まれているようだ。

タイトルがわたしのハンドルネームといっしょということで買ってみたのだが、とても興味深いマンガだ。読者が最寄のコンビニでこの本を見つけたときには、一読をおすすめしたい。日本の労働問題を考える際に、役に立つマンガだと思う。

フリーターは漂流しているから悪いのか?

2006-07-22 23:43:39 | 映画&本
今日は「研究会・職場の人権」というところで、「若者は地域に定着しろ」と「主体性」を問う御仁の発表があった。

あえて参加してクレームつけようかとも思ったが、調子が悪くて行けなかった、いや、行かなかった。

NHKの「フリーター漂流」は、本を読んだだけで、いい番組だったと分かった。フリーターは遊び人、豊かさの象徴というデタラメをくつがえす画期的なドキュメンタリーだった。
だけど、ひとつだけ問題がある。「漂流」というタイトルをつけてしまったこと。
それによって、

フリーター=漂流=悪=かわいそう、しかし若い世代の自業自得

というイメージを形成・流布したこと。

このマイナスも大きかった。

それでは、すべてのフリーターが漂流しているのか? 定着しないで移動することは悪いことなのか? 必要があってそうしていないか? 遠くに働きに行くようでも、歴史的につながりの強い地を選んではいないか? また、遠くで働いてみたいという冒険心が混じっている場合はないのか? 悪いのは搾取か、移動か? 高度成長期以降、みんながいわば「高度成長村」の「常民」になれるのか? (1)会社という田んぼに封建的にとらわれた人々が自由に移動できるようになったプラスとマイナスのどちらが大きいのか? 地域とは何か? 地域に定着すれば問題解決になるのか?

そうした問いはこれから出していかないといけない。

注(1)いい解説が木村正司さんのブログ記事にある。公教育内オルタナティブもいいこと言っている。

中流崩壊という封建制の崩壊(1)http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/63a23ecb099e3a6eed29f123f8bb9f6f

中流崩壊という封建制の崩壊(2)http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/0f1908577c8f4ec6ae19e8e6be14c89a

中流崩壊という封建制の崩壊(3)http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/bf635b8b0efd28683f234541e6c46f7e


(いずれ、もう少しくわしく書く予定です。)

<2006.8.7追記>
姉妹ブログ内関連記事
「孤立型メモ」
http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/d28b6316b47f0c5b6ca5e3411078a493

気になるマンガーー絶望の階級社会?

2006-06-20 21:58:51 | 映画&本
デスティニィーーー運命ーー

作画:河 承男  原作:倉科 遼  企画:フリーハンド
https://www.j-n.co.jp/cgi-bin/product_detail.cgi?code=20834-0124-06


貧乏暮らしが続くと、近所の小さい本屋やコンビニで立ち読みするマンガが数少ない娯楽となる。なかなかアルバイトが見つからなくても、コストなしで楽しめる。アルバイトに入るときには、見知らぬ人との共通の会話の糸口となり、コミュニケーションがとりやすくなる。

なかでも、階級問題についても臆せずとりあげているマンガがある。
倉科 遼原作の「デスティニィーーー運命ーー」だ。
実業日本社の週刊マンガサンデーに連載中で、今連載23回目だ。
この作品は、近年の日本のマンガにしては珍しい。日本のマンガは私小説の系譜を引いて、ごく狭い世界を描く傾向がある。そのなかでこのマンガは、個人の運命と社会や経済の動きの両方を描いてみせる。プロレタリア文学でもなく、私小説でもない、たいへんバランスのとれた世界観を「デスティニィーー運命ーー」は描いている。それは、この作品が優れていることの証明となっている。
原作は日本人でも、作画は韓国人というとりあわせもいい。今の日本のマンガ家は、絵はうまくてもストーリーや世界観を示せなくなって久しい。萌えるキャラを作ることは上手でも、世界または社会を描くためには、韓国のマンガ家に頼むのがいいに違いない。

ストーリーは次のとおり。
この物語の主人公・将は、大金持ち北条家おかかえの運転手の子どもとして生まれる。同じ日の同じ時刻、北条家にも麗奈が誕生する。ふたりは一時は結婚を誓い合ったが、北条家と成り上がりの金持ち五条家とのむすびつきのために、麗奈は達也と結婚することに。将は、北条家を追い出されてしまう。
麗奈への思い断ちがたい将は、香港に渡る。そこで、ホテルを経営するフェニックス・グループ・劉(ラウ)家のお嬢様・碧琶(ペクハ)と結婚する。だが、それは成り上がるための結婚だった。しかも、そのため、将は闇社会の仲間とともにペクハの兄を暗殺することになる。
フェニックスグループの中で出世した将は、東京でのホテル事業をまかされ、再び日本に舞い戻る。そこで麗奈と再会。麗奈はちょうど、五代家に北条家の土地を手放せと迫られ、実家との板ばさみになっていた。それに麗奈と将はまだ相手のことをあきらめてはいなかった。互いに五代家・劉家を切って結婚しようと二人は計画を練る……。

階層が分極化する世界のなかで、貧しい家と豊かな家の人間が、はじめは愛のために、次には打算として結婚するように変化してゆく様は、まさに現代という時代を象徴している。
金持ちでなければ好きな女性とつきあえないし、上流の社交界で相手にされなければ結婚もできない。だから将は、人を殺してまで成り上がった。
一方、麗奈は、常に相手が財産の豊かな男でなければつきあわない。彼女は自分の家の財産の価値をよく知っており、自分と自分の家を安売りしないのだ。
甘い家族幻想、現実離れした「身分や階層を問わず愛し合える」とする恋愛幻想は、この作品世界には存在しない。常に利害の衝突が起こり、家族だからこそ相手を疑い、時には抹殺しようとさえする。そうした現実的な血なまぐささ、人間の業をエンターテイメントとしての質を保ちながら読者に示してくれる。
それは、「がんばってコツコツやれば幸せが手に入る」という物語がもはや信じられなくなった時代のマンガなのだ。
将がなりあがるのは日本ではなく香港が舞台というのも考えさせられる。日本では、家柄・学歴のない人間が出世する抜け道が、他の地域・国よりも機能していないことの反映なのかもしれない。もしも将が日本で成り上がったら、まったくリアリティのないお話になってしまうだろう。

このマンガがこの先どういう展開をたどるのかは、まだわからない。しかし、タイトルがズバリ「運命」とある。ということは、あくまでも宿命論から脱出しないことを前提にしているのだろう。運命の糸で結ばれた二人にしか階級・階層の壁は越えられない。階級の運命とカップルの運命との狂想曲。(同じ日に生まれたから結ばれる運命、という世界観はあまり豊かではないとはいえ。)
そこに運命からの自由はないように見える。それは、一般の読者の夢と現実感に対応しているのだろう。


書評:「ニートって言うな!」

2006-02-13 20:49:15 | 映画&本
「ニートって言うな!」本田 由紀、内藤 朝雄、後藤 和智 共著 光文社新書2006.1

やっと読みました。著書ひとりが一部を担当し、3部編成の書。

まず第一部。本田さんが「ニート」という概念のいいかげんさ、あやうさ、政治経済的な傾きを緻密にスケッチしている。
異論があるのは49Pの図。これほどニートという言葉を厳密に用い、かつその問題性を鋭く指摘される本田さんならば、ひきこもりという概念も使うべきではなかったのではないか。
「ひきこもり」とは、そもそもアメリカの医学診断基準のなかの統合失調症のなかの一症状だった。それが、日本に輸入され、若い世代で学校に行かない子どもの成人版としてメディア等によってグロテスクに宣伝され、バッシングされるようになっている。
もう最近では学校や会社に行っていても、「心が引きこもっている」と他人を非難したり、「ボクは学校に行っているひきこもりだったんですよ」と自己にレッテルを貼ったりするのに使われたりしている。つまり、「ひきこもり」という語の意味は拡散・希釈されている。
なのに、人にマイナスのレッテルを貼る機能だけは、いまなお使われている。これは、ニートと同じ、まやかしの語ではないのか?
ニートは自己責任ではないということ、ニート(という概念とそれへの蔑視)を生み出す社会こそ変えなければという最後の提案には、賛成できる。基本的によい仕事である。

つづいて第二部。いじめ学者の内藤朝雄さんが、ニートを切り口にして、若者にマイナスのレッテルを貼って特定の集団を追い詰め、排除しようとする「憎悪のメカニズム」を分析している。
また、教育が、まるで日本のキツネつきやヨーロッパのオオカミつきのごとく、若者にとりつくプロセスについても解説。「悪霊」としての教育、善意をかくれみのにした悪意の暗躍についてキッチリと指摘している。社会改良に関心のある方は必見だ。
統計を用いての若者の現状紹介は有益。読者が身近な若者とニュースのなかの若者の違いを認識する手がかりとなるだろう。
若者自立塾構想が、実は「プチ徴兵制」ではないかとの指摘は的確だ。実際、戦前を理想とする人々は、つねづねそうした構想を実行する機会を待っていたにちがいない。

さらに第三部は、ときおり拙ブログにトラックバックをくださる後藤和智さんが担当している。
新聞・雑誌などの若者報道の言説をつぶさに検証。ニート論の根拠のなさ・非科学性・思考停止ぶりに言及。さらに世代的または階層的・ジェンダー的利害の偏りをつぶさに批判している。
結局、彼は、「ニート」は若者全体の心を問題にするためのキーワードとして使われていると指摘。もう一度はじめに戻って、就業の問題としてニート問題を問い直し始めようと提言している。妥当な結論だ。
この第三部は、「書をことごとく信ずれば、書なきに若かず(孟子)」という格言の現代版である。後藤さんは手際よく、マスメディアのなかのおかしな言説を切り取り、その妥当性のなさを解説してゆく。ユーモアのセンスもあり、優秀な一部となっている。トリを飾るにふさわしい。

本書は、それぞれの著者が、独特の持ち味を生かして、人の思考を乱す有害な言説の群れにまっこうからいどんだ意欲作と言える。よく考えてみればどれも当たり前の指摘である。にもかかわらず、最近のマスメディアの若者叩きと新保守主義賛美・当然化の情報洪水におしながされて、ついつい忘れてしまう視点を簡潔にまとめている。
近年まれに見る良書であり、当ブログ読者にもぜひ一読をおすすめしたい。

注:人の呼称は「さん」づけで統一してある。通常、書評で用いられる「氏」という言い方は、個人よりも家を優先させている。ゆえに、個人の人格無視であり、非民主的と判断した。なので、「さん」づけしている。敬意が足りないわけではない。

<2006/2/14>読みやすくするため、記事の一部に手を入れました。大意に変わりありません。<2006/2014>

当ブログ関連記事

ニート対策って必要なの?
これってニート、それって悪い?


↓トラックバック用URL
もじれの日々
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20060113
http://d.hatena.ne.jp/rx78g/20060206
http://d.hatena.ne.jp/yodaka/20060123
http://d.hatena.ne.jp/moleskin/20060120/p2



ブレッド&ローズーー下層労働者の権利のための行動

2004-11-03 21:58:41 | 映画&本
今ネカフェからです。諸事情により、家のPC回復が大幅に遅れています。
あまり間をあけすぎるのも寂しいので、ブックマークに入れてある失業者の権利MLより転載します。とても勉強になって、しかも笑って泣けるいい映画ですので、一人でも多くの方に知ってもらいたくて。点線以下転載。

※後ろの注も必ずお読みください。大事な情報を加えました。(2004.11.9.)

-------------------------------------------------------------------------------------------------



Date: 2004年5月12日(水) 午前8時19分
Subject: 5/9 ブレッド&ロ-ズ上映会@茨木




ブレッド&ロ-ズ(2000年・イギリス=ドイツ=スペイン合作
 110分 カンヌ映画祭正式招待作品 配給:シネカノン)
 
 大阪の茨木市(茨城県ではない)で開かれたブレッド&ロ-
ズ上映会に行って参りました。原題はBRED&ROSES;パン(生
きること)とバラ(誇りや尊厳)の意味です。
 映画のスト-リ-を全部しゃべってしまうと後のお楽しみが
なくなるので、かいつまんだ紹介を。

======================================
 
 ロサンゼルスのヒスパニック系移民たち。水商売か清掃会社
で働くしか選択肢はない。日本で言えばパ-トかバイトのよう
に気まぐれにクビにされる。賃金も少ない。そこに組合の活動
家が入り込む。
 大手の組合が、成功の見込みの小さそうな争議を見捨てるこ
と。本当にひどく抑圧され、ジェンダ-や民族に階級・階層、
移民してきたタイミングのちがい、故郷での生活事情などによ
り、今のままでも幸せだと思い込むしかない人。あまりにひど
い目にあいすぎて、抵抗する意思を完全にくじかれ、「生きる
ため」だと割り切って従ってしまう人。自らは奨学金を得て、
法科大学院に通いながらも組合活動にかかわる人。その中の友
情・恋愛・裏切り……。
 この映画は、様々な人間模様を通じて今日の下層労働者の
苦しみと喜びと希望を描いている。ただの組合礼賛、観念的な
労働者賛美とは明らかに一線を画している。誰もこの映画の監
督ケン・ロ-チを「弱者おたく」よわばりできない。
 9/11のテロの背景を知る上でも、人間の尊厳やジェンダ-の
問題を考える上でも大変優れた記録である。労働や失業の問題
、あるいはテロや戦争のない世界を望むすべての人にお勧めし
たい。

=============================
 
 なお、映画の後の交流会にも出てみました。世代や職種を超
えた人の集まりでした。
 なかまユニオンという組合の主催でしたが、上の言うことに
みながいっせいに従うという所ではありませんでした。まるで
ネイティブ・アメリカンのミ-ティングのように、一人一人の
語りをみなが静かに聞いていました。とても上品で民主的な会
合でした。

 以上、報告おわり。


※注:なかまユニオンという組合は、その後ググると、ある社会主義系の思想団体と密接な関係にあることが判明しました。
 わたしは、この記事をMLとこのブログに投稿した時点では、そのことを知りませんでした。
 ML上でも会話や議論ができない傾向があり、また上映会のあとの交流会でもマルクス主義系のイデオロギー注入と大衆操作の話が多いので、おかしいと感じてはいたのです。
 また、オルグといった特殊な用語が飛び交い、意味を尋ねると教えない、といった排外的な秘密主義が横行していました。
 権威主義的で家父長的な雰囲気のもと、アルバイトや派遣をあからさまに侮辱するような言葉や態度も目立ち、傷つけられて途中で講義するように退席した派遣の方もいらっしゃったほどです。 わたし自身、あまりの無理解と失礼さに感覚が凍ってしまい、なおかつ「ほかに理解者はいない」といった閉塞感に支配された状況で、この記事をはじめに書いたのも事実でした。
 ただし、映画自体は学習用として使い方によっては大きな効果を発揮すると思います。なので、あえてこの情報をいじらないで、注をつけることにしました。(2004.11.9)
                    
 


アメリカのなかの亜細亜主義---ダンサ-・イン・ザ・ダ-ク

2004-09-11 02:50:50 | 映画&本
 今度はこのアメリカ産白波ものの、亜細亜主義としての側面を紹介したい。

 セルマの出身は東欧。ちょうど西アジアのとなりの地域だ。
 セルマは偉大だ。
 
 唐の太宗皇帝は貧しき民が飢えているのを知って食を断った。日本の高倉天皇は、民が寒さに震えるのを知って着物を脱ぎあそばした。菩提サツタは宇宙の塵の最後のひとつまでが涅槃に達するまでは自分もまた涅槃に達することはできないとおっしゃられた。(岡倉天心「東洋の理想」講談社文庫206P)
 
 セルマは自分の息子の目が見えるようになるまでは自分の人生は要らないと判断し自ら処刑を選んだのだった。
 セルマの仕事仲間のカヴァルタは、自分の時間を犠牲にしてもよく見えない目で夜勤に入るセルマを手助けし、頼まれずともセルマの命を助けるために走り回った。これもまたアジアの--そしてヨ-ロッパの価値である。
 個人の自立を絶対とし、孤立とエゴを推奨するアメリカニズムへのオルタナテイブがここにある。
 
 セルマはまた、「分配は大事なことだ」とも語っている。それも仕事仲間にバカにされながらもそう語った。
 終了採集民は、食料を共同体のメンバ-に平等に分配した。また、女性や子どもは働かなくても食料の配分にあずかる権利をもっていた。古くからの伝統的な共に生きる知恵を平然とふみにじるアメリカのネオコンは、下層階級・女性・子どもの権利に対立し、アジアやヨ-ロッパやその他の地球各地の独自の価値をよき慣習を破壊している。
 そのアメリカからこの白波もののような映画が--それもアジア主義を織り込んだ映画が出てくるとは驚きであり、同時に希望でもある。

 
 なんでもアメリカ流という流れへの小さくても確かな抵抗勢力がここにある。
 
 

アメリカ産白浪もの--ダンサ-・イン・ザ・ダ-ク

2004-09-11 01:59:59 | 映画&本
 東欧出身の移民が、自らの生命と息子の目の治療をはかりにかけて処刑されてゆく物語。
2001年の公開。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005L97N/qid=1094843220/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8016210-2673053

 
 最近、やっと観れた。貧乏生活は、レンタルビデオの楽しみも奪う。どうせ観れないと思うと情報もチェックしなくなる(できなくなる)。それで、観たいと望んだ作品を数年、ひどぴときには10年ほども遅れて見ることになる。当然、正社員で生活の安定した人とは話があわず、「やる気がない」「自立していない」「甘えるな、ふざけるな」「(なぜか被害者ヅラをして)古いよ~!(人を軽蔑した視線)」という対応がかえってくる。落ち込むのはこっちだが、相手は何かとお説教をしたがる。
 あとになってから「あの人たちネオコン(新しいバカ)だ」と思いなおしても遅い。
まあいい。歌舞伎とか能なんて数百年遅れて見るんだ。数年の遅れでガタガタ言うな、というわたはすでに歪みはじめている?

 話の本題に移ろう。
 東欧からアメリカに移民した女性セルマ。息子の目の手術を成功させるか、自分の生命をとるかの二者択一をせまられる。結局、彼女が選んだのは、後者だった。
 自由主義は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」選べることだとアドルノは言った。しかし、彼女に残されたのは、息子の目の治療しか選べなかった。
 人生に疲れたのか、生きた証を残したかったのか。
 彼女の選択を身勝手だという人もいるだろう。しかし、ほかに彼女が納得できる選択肢は残されていなかったのだった。
 不安定な雇用、社会福祉のなさ、「自立」イデオロギ-の呪縛、中産階級中心主義の文化の壁、貧しさイコ-ル不道徳という偏見、それにだんだんと見えなくなっていく自分の目。多重苦に囲まれた彼女が尊厳をもって生きるために、道はほかになかったのである。

 セルマを助けようとする友人・理解ある看守・ヤル気まんまんの弁護士の努力もむなしく、彼女は最後には処刑されてしまう。
 日本の歌舞伎にも、恵まれない境遇から犯罪者になったものが、しまいには自殺をしたり心中をしたり幕府の手のものと戦って切腹をはたすスト-リ-がある。
 たとえば「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)」。三人の恵まれない立場の若者が、徒党を組んで悪事を犯す。やがて、お上の知るところとなり、なんとか逃げようとするが、徒党のうち一人がつかまってしまう。なんとか兄貴分を助けたい一心のお嬢吉三は、鐘を鳴らす。そうすれば監獄都市・江戸の各町にしつらえられた木戸がいっせいに開けられ自由に移動できるからだ。三人は雪の中で落ち合い互いに会える幸せをかみしめたあと、互いに殺しあって果てる。
 雪の降るさまが太鼓によって表されるラストシ-ンをTVで観たが、大変美しかった。やはりこの歌舞伎もセリフは七五調で書かれており、形式美に流れると嫌うむきもある。
 
 ダンサ-・イン・ザ・ダ-クはアメリカの白浪ものである。貧しさに追い詰められて悪事を働く人間にも「三部の利」があることをていねいに描いていくからだ。また、七五調のかわりに主人公・セルマのシュ-ルで空想的なミュ-ジカルのシ-ンが挿まれるのも似ている。
 
 ここで思いおこすのは、壮子の「胡蝶の夢」だ。ある日壮周は蝶になった夢を見た。朝になっておきてみると、「自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも、蝶が自分になった夢を見ているのか」と自問する話だ。
 彼女が選ばざるをえなかった生活と環境。それは法廷で支配的な中産階級中心のリアリティではとらえられなかった。それは、法廷の場では語りえぬ世界だった。セルマにとってはつらい労働と足りないお金と自己犠牲の連続こそ、日常だったわけだ。
 工場の労働はたいへん疲れて気分が悪くなる。わたしも経験があるので分かる。ケガや事故も多い。自分で自分の仕事のやり方を調整できない。簡単に人をクビにする業界でもある。それは現代社会における誰もが嫌がる「貧乏くじ」だ。
 そのなかで、彼女は工場の機械のリズムをダンス音楽と感じはじめる。危険で疲れる仕事を、楽しいミュ-ジカルの舞台だと思う。多分それは生きるためのユーモアだったのだろう。
 そのことを「現実逃避」「幻聴・幻覚」などととがめる人もいるかもしれない。だが、彼女にとってはそれが真実だった。でなければ耐えられなかった。また、他の者も同じ立場になれば同じ反応をするかもしれない。だとしたら、誰が彼女を責められるのか?
 いいかえれば、何を現実とし、何を幻想とするかは実は恣意的な正当性(正統性)によっているのではないか? 

 セルマは絞首刑直前に歌い、処刑場を劇場に見立てることによって恐怖に耐え、自らのギリギリの選択をまっとうしようと試みたのだった。
 わたしはそれを責める気にはなれない。彼女は彼女なりに必死に生きようとした。そして日本の歌舞伎とはちがい、個人として死んでいった。
 江戸時代なら、彼女の処刑を延期し再審を請求しようと証拠集めに奔走する友人二人と心中するか切腹をして果てていたのだろう。
 
 まるで歌舞伎のようなこの映画に親しみと共感を覚えずにはいられない。とても残酷でかつ美しい映画だった。
 それはまた、現代のアメリカにおける下層階級が、日本の江戸時代の庶民と同じように圧制に苦しみ、資本の循環のなかで生きがたさをかかえていることの現れでもある。

↓「三人吉三廓初買」については下のHPがよく説明されています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin50.htm



(これは下書きです。数日以内に趣旨を変えない程度に手を入れる予定です。)