フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

若い人を中傷するフェミニズム

2006-12-07 18:32:30 | ジェンダー
予想通りに……

↓ こちらのブログをごらんください。

評論家・池内宏美のブログ

http://ikeuchihiromi.cocolog-nifty.com/ikeuchihiromi/2006/11/post_35a3.html

もともと、期間工は漢字が書けるのか? という雇用形態差別になる発言をしたあと、2ちゃんねるや他のサイトでも「ひどい」「むちゃくちゃ」という声があがった。そのため、後日、期間工が漢字を知らないとした部分を削除したうえで再掲載した記事です。

80年代なかごろ・十代半ばのころよりわたしは、フェミニズム・女性の社会進出・地位向上がこうした結末をもたらすのではないかと危惧していました。
その予想がズバリ当たりましたね。

大人の女性が、高等教育とやらを受け、階級、じゃなかったジェンダー的裏切り者となる。そうすると、地位があがって女性解放だ。

このシナリオは、選抜されたごく一部の女性しか女性≒家畜状態から救わない。OLなんて下級社畜だ。日雇い派遣フリーターにいたっては、家畜になる権利すら奪われている。

それに結局この案は、女性差別を学歴差別におきかえることになるだろう。管理職なんて社会全体の何割かしか必要ではない。「現場」で危険な仕事をこなす人たちも、社会には必要な要素なのだ。

おおかたそんな予想を抱いた。

学校教育は可能か


世界中の人間が高等教育を受けるためにいったいくらの予算を組めばいいのだろう。今でも世界には初等教育の学校にも通えない子どもたちもかなりの割合でいる。
そのことを無視して、どうするのだ。
それに学校で身につくのは、上への従順さくらいのものではないのか。60年代のオルタナティブ教育運動が明らかにしたように、白人中心・男性中心の古典を読んで教養を身につけたり、そうでないものをさげずんだりすることを吸収するばかりの学校教育を礼賛してどうなるのだ。それでみなが東大旧理Ⅲに入れるのか。官僚になって、天下り先で何をやるのか。自然破壊の開発か、原発の推進運動か。登校拒否の子どもを薬づけにする「医療マフィア(イリイチ)」の幹部にでもなるのか。

当時十代のわたしは、そういうフェミニズムになじめなかった。

子ども・労働者を見捨てる教養フェミニズム

30代になった今、池内さんのブログを拝見して、本当にひどいなと思う。
だいたいブルーカラーになると、漢字がわかりにくくなる傾向がある。
書類とは別の世界に住まうことになるからだ。そのハビトゥスは、それほど否定されねばならないものだろうか?
それから、取材中一瞬のすれ違いの出会いだったが、自動車工場で働く女性もいる。そういう人たちにむかっても、漢字が書けないことをさも犯罪のように公の場で言い立てたりできるだろうか。
社会的地位のないことを、社会参加していないと罵れるだろうか。

そうした立場からわたしは、学歴や学力、それに社会や組織を崇拝する儀礼としてのフェミニズムには賛成できない。
しかし、子どもや若者の権利や解放をともに真剣に模索するようなタイプのフェミニズムであれば、喜んで連帯したい。
女性解放ならぬ子ども解放・アンファニズムと連携できるフェミニズムをわたしは求める。読者はどうか。

子ども・労働者を裏切ることなく

ところで、労働者(階級)は、「子ども」っぽいとみなされ、会社で・社会で侮蔑される傾向がある。
また、同じ労働者であっても、下層階級・肉体労働・日雇い労働・派遣などは、ホワイトカラーや正社員よりも「子ども」だと見下されることもある。
そうした役割としての子ども、イメージとしての子どもを容易に嘲笑したり見捨てたりしないフェミニズムがあってほしいと思う。
それは、東大旧理ⅢやMIT等を頂点とする大学のなかからは出てこないだろう。
大学の外から、院の外から生まれてくるだろう。
ちょうどわたしのような低学歴・低学力が、東大やMITを中心とするエリートの横暴をチェックする役目を果たすだろう。

いまのところこうした労働問題を扱うブログには、比較的男性の手によるものが多いように思われる。
そのうち、女性たちも組合の男の横暴も含めて声をあげるだろう。
今は、漢字の「一」という字も知らないそぶりをした紫式部の時代ではない。
教育のない女性が、「一」どころか「2」も「Ⅲ」も知っていてもいい時代だ。
学校教育を通じて、女の子らしく再生産されないすこやかな女性が、高学歴・高学力女のジェンダー的裏切りをただせるようになればどんなにいいだろう。
「言葉がない」「底辺」だからといって、相手に何をしてもいいわけではないのだ。

これはわたし一人の力ではできない。複数の女性、それに男性の助力も必要だ。今すぐにはダメだろう。
しかし、たとえば後藤和智さん、Lenazoさんらの主張を見ると、もうその芽は出ている。あとはそれが育つのを待つだけだ。























労働組合アクテイヴィストの横暴2

2006-11-28 19:47:58 | ジェンダー
font size="4" color="blue" style="line-height:160%;">女性≒植物?

茨木市の地域ユニオンの主催した映画の上映会でのことだ。

配られたミニコミには、女性を職場の「花」として表現する記事が掲載されていた。
それはおかしい、ヘンだ、差別的だとわたしは組合活動家らに抗議をした。
彼らは顔を見合わせてニヤニヤ笑っていた。
女性には言葉などない、われわれは認めないぞと言わんばかりの様子だった。
その組合の映画の上映のあと、交流会も持たれたが、労働者至上主義宣伝・広告を一方的にきかされる会だった。しかもそこには男尊女卑と若者たたきが含まれていた。

マルクスを崇拝する儀礼

具体的な職場の動向や生活上困ることについて話そうとしても、いつしかマルクスを崇拝する儀礼に話をもっていかれる。「社会主義になれば失業はゼロになる」といった話だ。しかし実際、社会主義国にも失業者はいた。これは事実に反する。自分は以前小室直樹の本を読んでこのことに触れていたため、惑わされなかった。

さらに、個人が組織のために滅私奉公することがいかに尊いかについての教説を主催者側は垂れていた。

ML炎上

その後、「失業者の権利ネットワーク」というわたしが管理人をしていたメーリング・リストにそのうちの何名かを誘って入ってもらった。
しかし、その人たちがネットに過剰な期待・幻想があったためか、それとも管理人が若い世代で女性だからか、理解できない叩き・荒らしがやってきた。
そこでメール情報をやりとりして見えてきたのは、上の世代の男性のアクテイヴィストは、若い世代や女性をいかにバカにしているか、まるでわたしたちを奴隷のような目で見ているということだった。
また、実際の派遣やフリーターらの生活についても、実際よりもずっと恵まれてると決めつけていた。そして、わたしたちにはとてもできないようなお金のかかるスケジュールをおしつけてきた。
いつもその組合主催の集会に出ようとしても、それが自分と関係あるか必要あるかどうか分からない。
不安定雇用だと、いつ派遣元会社のほうから仕事があるという情報が手に入るかわからない。予定がたたないのだ。
また、直接雇用で比較的休日がはっきりしている場合も、サーヴィス業だと土日に休めないことがしょっちゅうだ。
なのに、土日・祝日は組合の行事に出ろと圧力をかけてくる。
いつも用もないのに、あるいは仕事が入って断ろうとしてもできない立場であっても、イベントや会議などに出ろと相当のムリを言ってくる。
それも、無言の圧力だ。言葉・態度のニュアンスにそれを見いだし、あうんの呼吸で動けと言っているのだ。
だけど、仕事を断ったら派遣元会社から仕事を干されてしまう。嫌がらせのメールもやってくる。それも一日に何件も。
どうしてもわたしをはじめ、女性や若者がそいつらのいいなりにならない/なれない状態だと分かると、今度は彼らは何をしたか。

ネットサヨクのML荒らし

何と、そのうちの一人は、正社員が派遣社員をいじめることを合理化・美化するショート・ショートの小説を投稿したのだ。
しかも、その原稿はこれまで複数のMLで投稿を断られたものだという。
一読してわかった。小林多喜二風の文体や、工場労働者の社会立場の弱さと肉体的な仕事のしんどさとともに、派遣は楽をしているというとんでもない偏見が表現されていた。
電話でまるで泣き落とすかのように「派遣はダメだから」「アルバイトは豊かでしょう」などと訴えるその人の話を聞いて、うつがひどくなってしまった。
目くらましを繰り返しても、やはりそれは嫌がらせに違いなかった。

もう一人は、観念的で長々とした長文を投稿してきた。そこには、マルクス主義に忠誠をささげれば、女性や若者の問題、失業・ホームレス・民族等の諸問題はすべて解決できるという信仰告白が書かれていた。
旧ソ連が崩壊して十数年になるというころに、時代錯誤の投書だった。

学校の外の読書

十代のころからわたしは、エレーヌ・カレーヌ・ダンコースという歴史学者による旧ソ連崩壊予言の書(ダンコース「ソビエト帝国の終焉」藤原書店1991 http://www.amazon.co.jp/gp/product/493866125X/sr=8-7/qid=1164973109/ref=sr_1_7/250-8325537-0669803?ie=UTF8&s=books )や、オクタビオ・パスの「くもり空」というラテンアメリカ側から見た東西陣営の評論を読んでいた。(http://www.jca.apc.org/gendai/kikan-index2.html
また、少しだけだが反ユートピア小説にも関心があった。ほんの少しずつ「つまみ食い」であっても、ドストエフスキー、ザミャーチン、ハックスリー、オーウェルなどに目を通していた。
また、女性や子どもの人権のことを十代から考えており、組合側の考えにはなじめないものがあった。

そのことを、細かいところはあやしいが、おおむね網羅した反共系サイトがある。
宮地 健一さんのHPだ。(共産党・社会主義問題を考える
そのサイトへのリンクとともに、自分は社会主義には染まっていないこと、進歩主義とは相性がよくないことを盛り込んでMLに投書をした。


ネットサヨクのパラノイア

そうすると今度は、その社会主義者は、非常に怒っていた。
さんざキレたり、スネたり、ゴネたりと、オヤジ的パフォーマンスをひとしきり演じたあと、「わたしもうこのMLやめます」といって、別の左派系MLのほうに引っ越していった。
遅れた、愚鈍な植民地のようなものが、僭越にもやれダンコースだのパスだのオーウェルだのの情報を背景に、社会主義・進歩主義を拒んだ。
自分はいいことをしているのにどうして感謝していいなりにならないのか。どうして独自性・自律性を保とうとするのか。時に「遅れた」子ども・若者・女性・旧第三世界の権利や名誉を訴えるのか。
その人は、先進国の男性として目の前の権利行使に被害者意識でいっぱいになって、文字通り「イカれて」いた。

いずれも醜い行動だ。
進歩主義独特の傲慢・自意識過剰から労働組合は自由になったほうがいい。
でなければ、せっかく連帯できる若者や女性・それに在日外国人らにこれからもそっぽを向かれつづけるだろう。


養ってくれるお嫁さん募集

2006-07-09 23:23:21 | ジェンダー
当ブログともつきあいのあるブログ;深夜のシマネコ さんが、「バックラッシュ」を非難し、ついでに彼を養ってくれるお嫁さんを募集してはる。

http://www.journalism.jp/takagi/2006/07/post_136.html

弱者男性のほうが、弱者女性よりも生きにくいというのは女性問題軽視または見落としではないか、主観的な弱者意識が認識をくもらしている。この点は立場が違うと言っておこう。

フェミニズムとのかかわり


だが、プレカリアートの立場のものが、研究者/教員を中心とするフェミニズムに違和感・被排除感を抱くのは、理解できる。
かつてわたしはフェミニズムの著作の熱心な読者だった。1980年代、十代半ばで小倉千賀子の講演会に行き、フェミニズムやゲイのコミュニティに出入りしていた。その方面の同人誌・ミニコミ誌も読み漁った。

そこで味わったのは、上流・上層の話にはついてゆけない、ということだった。
ちょうどそのときわたしは登校拒否をしていた。フリースペース、フリースクールにもかかわっていた。ライマーやイリイチを皮切りに、文明批評にも関心があった。
そういう立場・視点から言えることは、フェミニズムに加担すれば、自分が否定され排除されるということだった。それは、不登校コミュニティ、あるいは現代産業文明批判のコミュニティへの裏切りをも意味していた。
なぜならば、フェミニズムは超学歴差別なのだ。ハッキリ言おう。80年代なら、東大か、そこをすべっても京大・阪大クラスの大学に進学しなければ、ほとんどの女性にフェミニズムの提唱するライフスタイル(キャリアウーマンとかいうもの)は不可能ではないのか? 学校教育の中で落ちこぼされた女性は権利を認められなくても当然なのか?

学校教育ばんざい! なのか?

進学するたびに人を減らしてゆく元祖リストラ学校教育を徹底賛美・擁護するのは、脱学校論や文化社会学の洗礼をあびたものにとって、耐え難い現実隠蔽だった。
また、フェミニズムは女性差別にはハンタイするけれど、子ども差別にはあまりよく反対していないように見えた(子どもの人権弁護士の坪井節子など一部の例外は除く)。
で、子どもの意見をできるかぎり尊重して運営しているフリースクールやフリースペースの文化を作っていたものとしては、ついてゆけなかった。
家父長的な家族の欺瞞や不公平への反発を、権威でもって後押ししてくれたのは助かった。権威主義者にとりかこまれたときに、「こういうエライ人も同じような意見をおっしゃっていますよ」と言えば、ナメられないですむこともあったからだ。


だけど、子どもは学校教育に行くべしという強制、「大学出ていないのは服を着ていないも同然」という「世間の常識」の自明視にはついてゆけなかった。
そのころ、わたしは家のなかで自分自身の子ども・女性・登校拒否の権利のために日夜闘っていた。学歴が高い両親はわたしをないがしろにしていた。偏差値の高いところに幼少のみぎりより選抜された弟は、2歳や5歳のときにリストラされたわたしをモノ扱いしていた。夕ごはんを食べているとき、弟がいきなりお茶や味噌汁をわたしにぶっかける。それに対して、両親は、制止ひとつしない。そういう、教育熱心な家庭の教育に責めさいなまれていたとき、講演会のあとのお茶会で福島瑞穂にこう言われたことがある。「あなたはどこの大学に行くつもりなの?」

子ども差別!ーー人格的自律権を侵害したフェミ系弁護士


それはわたしの人格的自律権(自己決定権)への侵害だった。「子どもに選択も実存もあってはならない。ただ周囲の圧力にしたがって学校や大学に行け。権利は、それからだ。」「大学出ていないのは服を着ていないもいっしょ。当然、こういう講演会に来てお茶会にも出るようなら、大学くらい行くよね。どうもあなたは意見があって、本も読んでいて、ということは将来服を着る人のようだから。」彼女の言葉にはこうしたニュアンスが含まれていた。
将来は、アメリカや日本のフリースクールを旅して、自分の納得できるフリースクールを日本に開校するんだ。そう思い描いていたわたしは、彼女の硬直した大学的発想によって、進路を否定され、言葉を奪われた。本当に息苦しくてたまらなかった。
この人たちは、子どもの、登校拒否の、低学歴・低学力のものの言うことをどこまでも無視して、相手を困らせ、傷つけるのか。もし相手が大学に進学できない経済状態でも、大学以外の進路を希望していても、親戚のうち誰も大学に行っていなくてそういう世界になじみがないとしても、十代半ばの人間をつかまえて、世間の常識ーー非大卒者差別ーーへの圧力をかけるものか。
ここで、「ええ、当然東大か、関西なら阪大を考えています。今時大学を出ていないのは服着てないも同じですからね」と世間の常識への順応主義を示せば、立派なフェミニストなのだろうか? 逆に「大学も絶対じゃないし、わたしは一生フリースクーラー/脱学校者としてやっていきます」と言えば、女性差別にとらわれた遅れた子どもであり、教育と啓蒙のために選択の余地なく、一日も休まずに学校や大学や院に出席し、学習ではなく単位をとらねばならないのか。学校の外の学習したことーー学校のカリキュラムにはない各駅停車の旅、楽器や音楽のこと、動物の生態について、高度成長・開発への批判ーーなどはすべて女性差別的な罪であり、学校のために一切を忘れねばならないのか。
いやだ。わたしはフェミニズムよりも脱学校のほうがあっている。女性解放の前に子ども解放だ。フェミニズムではなくアンファニズムをやりたい。自分には、大学を出ていない人が服を着ていないふうには見えない。そんな大学的な偏見ーーつまり教養に染まりたくない!!

to be or to do?--生存権に近いのはどっち

それに比して、フリースクールやフリースペースは、人に「どこの大学に行くのか」と聞いたりしなかった。相手が子どもだからといって自己決定権を侵害することもなかった。そこでの「人間の条件」は成人することでも大学卒業資格を手にすることでもなかった。図式化すると次のようになる。

人間の条件

不登校コミュニティ:存在すること。生きていること。(to be)      

フェミニズムのコミュニティ:高い偏差値の学校に選抜され、傲慢に人を見下す文化(教養!)を身につけること。登校拒否・自閉症およびその女親は排除・差別されて当然。(to do)

プレカリアートとしては、より生存権尊重をしている、日本国憲法の精神にも近い
不登校コミュニティの人間の条件のほうが、フェミニズム・コミュニティの「人間の条件」よりも好ましくて当然だと思うが、どうだろうか。


社会的排除ーー学校・科学・教養礼賛の末路

学校の外で成長している子どもを、「自閉症」の子ども、そしてなぜかその女親がおかしいとする科学・学問・教育がある。久徳重盛、戸塚博、上野千鶴子らの理論と実践である。
大学に行く気もないのに放り込まれた予備校というオリのなかで、前述の上野の本をある講師が授業で紹介していた。実家にいたときに、父が母を責めるときに使っていたテキストだとすぐ分かった。そこでは、K塾というところは偏差値の高い浪人生が使うところだという事実無根のきめつけによって、基礎から学ぶベーシックコースなどを利用する予備校生が排除され、東大選抜コースや名大選抜コースなどの選抜された予備校生だけが話しかけられる対象となっていたことも付しておこう。
それから、「深夜のシマネコ」さんもとりあげている教養主義。上野千鶴子の講演を聴きにいったときに、えらくオタッキーな絵画の話が出てきた。そんなものが女性差別や社会学とどういう関係があるのか。そういった趣味の階層性は日本ではどういうものなのか? 芸術に触れる余裕のない層もいるだろう。また、絵画よりも音楽とかゲームといった別のジャンルの芸術を好む層もいるはずだ。そういう、大方の人たちにとっては、NHKの絵画番組にも出てこないようなマニアックな絵画をネタに話をされてもわからない。なのに、120分の講演のうち、15分もその絵画と、それに言及した人間の教養の高さについて講釈をふるっている。それもやたらとハイになって。こういうインテリのヘタクソなプレゼンテーションにはつきあいたくないと思わざるをえなかった。

なお、フェミニズムの人たちは、学校幻想が激しい。学校教育でしか人は学べないとか、学校の中で教わったことはきっちりと身について学校の外でも通用するといった思い込みが激しすぎる。
十代のころ、脱学校論への助走として教育問題に関心をもっていたわたしは、学校の外の学びによって「剥落する学力」という話を目にしていた。学校で学ばされた知識は、テストが終わるか卒業すると抜け落ちてしまうという話だった。
また、「学力」または「偏差値」では、毛筆の字の美しさ、朗読の上手さといったことははかれないといった議論にも触れていた。
そういう学校や大学の外の「認識力(なーんちゃってw)」をもってすれば、フェミニストの、学校・学力・教養がすべてニアリーイコールで結ばれる話は、失笑だった。それらがおおむね肯定的なニュアンスで語られ、時折礼賛に至る。おかしなことだ。

批判への不寛容

何よりもおかしいと思ったのは、バークレーのフェミニストらによる、文明批評家イリイチへの魔女裁判のような行動だった。
イリイチは、近代産業文明の毒をのりこえるために、たくさんの論考を残している。彼は、各民族・各地域の文化を守ろうとすれば、男と女が、違うけれど平等の存在としてあることが重要だと言った。
文化人類学に半族構造というのがある。右と左、東と西、男と女……といったように、ひとつの民族の中に互いに対になる要素があることを意味する。世界を画一的に西洋化・アメリカ化すれば、各民族の独自の文化がこわれてしまう。それを防ぐためには、もう一度男と女の半族を見直してはどうか。そういった意義のある問題提起だった。
また、彼は、近代産業文明後、男の仕事には賃金が、女性の仕事には無賃金がわりあてられ、それが近代独自の女性抑圧を産んだと主張した。なお、女性が市場に進出しても分極化することにも触れている。

フェミニストらは、アメリカ化・西洋化を絶対視したいのか、社会進出が一部のエリート以外の貧困をもたらすことをバラされたくなかったからか、言論封殺にもつながるような感情的な反発をした。
彼女らにとって、民族的マイノリティのアイデンティティへの権利なんてどうでもいいこと、上のほうの一割以外の女性たちの自律性低下や低賃金なんて、どうでもいい問題だということを裏側から照射している。
この種の学校的な手法にはほとほと嫌気がさす。かつて内申書裁判の保坂展人は、中学校で全共闘を名乗り、生徒会役員に立候補しようとした。それを、教員たちは彼を密室にとじこめて暴行を加えた。保坂さんは内申書裁判を決意、市民はそれを支えた。イリイチは成人していたから、フェミニストらに保坂さんのようなむごい扱いを受けずにすんだ。
しかし、もしイリイチが子どものころに同じ批判をすれば、フェミニストの先生たちは、同じことをやったのではないか。そう思わされるものがあった。ルソーに影響をあたえたモンテーニュは、教育の目的は学者子どもを作ることにあってはならないと述べている。こういう意味での教育的なふるまいをわたしは嫌う。


結論

諸々のことが重なり、わたしはフェミニズムにはあまり信頼をおいていない。
いろいろと学ばせてもらったのはありがたかったが、気持ちの悪い思い出が多すぎる。

わたしは、女性だ。と同時に、元子どもであり、元登校拒否であり、今プレカリアートでもある。低学歴者・低「学力」者でもある。失業者/半失業者でもある。

そういういろんな要素が複合しているわたしとしては、とてもフェミニズムに期待できないし、信頼もできない。登校拒否とかプレカリアートとかの権利を主張すれば、学校教育を通じた能力主義や高学歴のみの救済を唱えるフェミニズムとは利害が対立する。
子どもの人権が大事なら、女性の人権と対立する場面も出てくる。労働者の文化を肯定すれば、中産階級中心の学校文化のフェミニズムには賛成できない。それどころか生理的な嫌悪感さえわいてくる。

知り合いに「上野千鶴子直伝」を吹聴している総合職の女性がいる。わたしの失業をすべて努力のなさ、反抗期の遅れ、発達の障害または自己責任だと言って、医者に行けとか、カウンセラーが必要だとか言ってくる。彼女は関西のトップクラス私大の法学部を出ている人だが、労働行政、労働組合、弁護士の話はできない人だ。

もういい。わたしはかつてフェミニストだった。そして、イリイチの影響と自身の社会的な立場の複合性によって、脱フェミニストになったのだ。

だって、わたしは大学を出ていない服を着ていないんだもの。フェミニストはわたしのことを権利を擁護すべき女性市民とはみなさない。そんなものにつきあわなくてもいい。
もっとも、裸とまでいかなくても半裸で暮らす民族なんて世界中にいくらもいるんだから、裸・または半裸で何が悪い、ごてごて着込むのだけが絶対か? ってツッコムこともできるんだけど。
フェミなんかにそんなことを言っても、あの学歴主義・教養主義のなかでは、自分の情報なんてあってなきがごとしだろうし。とにかく、フェミとは距離をおくことで決定!

〔おまけ〕
ああ、わたしも養ってくれるお嫁さんほしいなあ。できれば資産十数億、でなければ年収1000万円くらいの。ついでに部屋のお掃除もやってくれれば。ほかのことは自分でやりますので。
あ、そうそう「大学出ていないのは文字の読み書きもできない」とか説教する頭のカタイ人はだめ。「不登校はお母さんが悪い!」とか言って、返す刀で自閉症の悪口を言うような方もダメ。「ニートは労働問題ではない、心の問題だ」とかおっしゃる人文電波も禁止。学校・学歴・学力の好きな方もだめ。できればイリイチ、アリエス、トフラーあたりをいっしょに読んでくださる方。
仮にも「お嫁さん」ですので、家父長的な親類がいじめることもあると思います。そんな場合にちゃんと自己主張して敵をけちらせる口ゲンカに強い方。
そうそう、結婚である以上、個人と個人だけでなく家と家とのつながりですので、学歴主義の親類のいない方。居住地はあなたにあわせます。できれば県庁所在地くらいの都市部がいいけれど、詳しいことはあなたの事情も聞いたうえで相談に応じます。

どうです、フェミニズムの人たち。教養豊かな学問も年収もある女性たち。わたしのお嫁さんになって養ってくれますか? もしも誰も養ってくれないのなら、フェミニストは社会の分極化推進論者、民族差別主義者、同性愛者差別主義者、学歴差別主義、と解釈してOKと(笑)。



対話の必要性

2005-01-29 02:47:47 | ジェンダー
 二つ前に書いた「いつか王子様が……」は、われながらヒドイ出来だと思う。

 説教臭い、押しつけがましい、結論を急ぎすぎ、一方通行……。そう、とても奇妙な話になっている。うまく挑発できればいいが、下手をすれば相手「不愉快」「失礼」と受け取るかもしれない。

 かつて識字教育家パウロ・フレイレがそうしたように、対話が必要なのだと思う。
 あるいは、そういったことをゲームなどによってで楽しみながら学んだり考えたりできるような仕掛けも必要だろう。わたし自身、そういった人たちともう少しゆっくりゆっくり互いのことを話し合ってみたい。
 
 ただし実際には、職場は目の前の作業に追われるため、ゆっくり話し合うことはできない。また、時に「非常識」なことや「会社の秩序を乱す」話題は話せない。そのためには、会社から離れたところで、リラックスした雰囲気で行う必要がある。時にユーモアも交えて、ホンネで話し合える環境が必要なのだ。
 そのためには、いわば「解放の教育(フレイレ)」を行うためのチームが必要だ。それに予算があって、いろいろなことに使えること、自分たちの生活が保障されることも必要だ。そうなると、今の自分にはムリだ。
 なのでああいう急いだ書き方になった。
 
 だったらはじめから書かなくてもよいではないか、と指摘するむきもあるだろう。
 
 なぜ「あえて」書いているか?
 それは、解放の教育をするために協力してくれる人と、こちらのブログを通じて知り合えるかもしれないからだ。あるいは、わたしとは独立にジェンダーのカテゴリーのエントリーを見て、アルバイトらへの啓蒙をやろうとする組合なりNPOがあるかもしれない。そこに希望をかけているからだ。
 それは安直な他人やシステムへの依存とは違う。一度は絶望を経た者のみが持つことの出来る、
自らの限界を認識したうえでの「他力本願」である。それはまた少々の圧力によって折れることのない、試練によって鍛えられた後に残る、細くても確かな希望なのである。
 
 

ストレス

2005-01-29 01:31:27 | ジェンダー
 ひとつ前のエントリで紹介した職場に通ったのは、ブルーカラーの仕事が少なくなったからだった。
 子どものころ学校にムリヤリ拉致・監禁されたアレルギーで、机の上の仕事はどうしてもやりたくなかったのだった。それでも背に腹は変えられない。なのでホワイトカラーの仕事にも面接に行った。そうするうちに雇われたのが前に紹介したところだった。

 そこで働いていてたいへんな孤立感と恐怖を感じたのは事実だ。はじめの一週間はただ何でもいいので職があるだけで嬉しかった。しかし、その後「こんなことをしていたのではいけない、けれど今はこうするしかない。」というあせりが襲ってくるのだった。
 
 その後、月経痛が激しくなった。薬局で手に入る薬を二倍量飲んでいたのに、勤務中にいきなり激しく痛んで、もんどりうったのはその職場での出来事だ。
 ブルーカラーよりも肩にはまった女性らしさ、華やかさを求められた。家の方針でそういったものを十代半ばから禁じられて育った身にはついてゆけなかったのだ。そう、ブルーカラーをしている間は女性らしさから多少なりとも自由であれた。こまかな礼儀作法など必要なかったし、いっしょに重い荷物を運んでいればタイプの違う人とも仲良くなれた。
 なによりブルーカラーの人たちは陰険ないじめをあまりやらなかった。つきあいやすくてさっぱりしたいい人が多かった。親切だし、組合に入っている人はホワイトカラーよりも環境問題に関心が高く、休み時間の会話も充実していた。
 本当にホワイトカラーというのは中途半端に体力があまっているからか、陰湿ないやがらせめいたことを日常的にやっている。もちろん、親切な方もいるのだが、グループごとに比較すると、管見かもしれないが、どうしてもそうなってしまう。
 
 もう絶対にホワイトカラーの仕事はやりたくない、と思う。でも、ブルーカラーの仕事がないなら仕方がない。

 え? こうしてパソコンをいじるのもホワイトカラーの仕事ではないかって?

 パソコンいじりと自由な読書、それに書くことは、学校教育において強制されたものではないので、キライにならないし、楽しんでやれるのです。何も大学を出なくても文字の読み書き能力は身につくのです。
 
 
 

いつか王子様が……

2005-01-29 01:09:34 | ジェンダー
 ある事務系のアルバイトに入ったときのことだ。そこは、子会社を作って親会社に派遣されるという形の仕事だった。事務系といっても、ホワイトカラーとブルーカラーの境のような単純作業と呼ばれる仕事だった。
 チケットを封筒に手作業で封入したり、ベルトコンベアー式の機械を使って封入していったりする。

 そこは女性の職場だった。十代から40代くらいまでの女の人たちが、中高年の男性の上司に仕えていた。男性たちは、親会社からの出向組みと思われたが、正社員だった。女の人たちはみな派遣会社を通じたパートかアルバイトだった。

 そこでの十代おわりから二十代半ばくらいの女性たちは、彼氏と結婚に非現実的なまでの幻想を抱いていた。
 朝の8時または9時から夜の5時~11時までの勤務。単調な仕事。絶対にないと予想できる昇進。何よりも、細切れの雇用。そこは一週間~二週間程度のあいだ、とても忙しい時期だけ女性に来てもらう職場だった。それに低い賃金に保障。社会的に尊重されない立場。

 なぜか彼女らは余裕があり、流行の服やアクセサリーで身をかざっていた。わたしとちがって京阪神圏の実家から通えたり、父親福祉も使える人が大半のようだった。
 お昼時には、資格試験やスキルアップの話はなく、彼氏と結婚の話題でもちきりだった。彼女らじゃほおをバラ色に染めてお金持ちの彼氏や社会的な地位の高いスマートな男性との結婚について語るのだった。
 それは、フリースクールで自立が大切だと育てられたわたしにとっては理解しにくい話だった。私にとっては彼女らは、あまりにも受身で無責任で依存的だと思えた。それは一種の「罪」のように感じられた。みなが同じことをしゃべるのも不気味だった。職業や人生を豊かにする経験を自ら選択せずに、どうして実存ができるのか? 十代のころに図書館で読んだボーヴォワールの「人間について(新潮文庫)」を思い起こした。
 彼女らの自我のなさには、正直言って吐き気さえ覚えた。彼女らは「企業戦士の銃後の妻」としての「「やまとなでしこ」を作る学校教育を無批判に受け入れているように見えたからだ。フリースクールにはそういうおかしなタイプの専業主婦予備軍はいなかった。そのように日本の伝統にそむくことをするものは、「明治以降たかだか百年」といって小バカにされた。

 彼女たちは男性、彼氏、結婚についてあまりに幻想が大きすぎる。ちょうどそのころ彼氏がいることを伝えると、「どうしてベンツの送り迎えがないの?」、「なぜブランドものの服や化粧品やバッグを持ってこない?」と質問責めにあって困ったことがある。
 そんな風に高望みをするから彼氏ができないんじゃない? と言ってしまえば嫉妬が恐ろしいので、笑ってごまかしておいた。沈黙は金だ。

 わたしは学校教育の問題に関心を持って、十代おわりのころから文化社会学を独学で学んでいる。そこで、結婚相手を選ぶときには、だいたいにおいて同じ階層を選ぶという知識を手にしていた。なので、過剰な幻想はない。十代半ばからのイリイチの「エネルギーと公正」を翻訳とはいえ読んでいることもあって、車よりも電車が好きだし。

 どうやら、彼女らは暗黙の前提として、結婚すればもう働く必要などなく、いわばシロガネーゼのような優雅な暮らしができると信じているようだった。だが、気づかないのだろうか? 同じ職場で既婚の女性が安い賃金と細切れの雇用で働いていることを。男性の上司が本来なら禁煙のルールの場所で喫煙をしていて、自分もタバコの煙のニオイが嫌いであっても注意できない低い身分を見て聞いて、それが自分たちの近い将来のありうる姿だと考えたことはないのだろうか?
 
 多分、彼女らは王子様を待っているのだ。自分を一挙にお金持ちの世界に連れていってくれるやさしくてカッコいい王子様を。だけど、自分で彼氏をつかまえるために動かないでどうするのだろう? 女性は動物であって植物ではない。まだ若くてエネルギーの有り余っている時期にそういった生き方は窮屈だとか味気ないとか感じたことはないのだろうか? 
 また、そういった専業主婦の生き方が大衆化したのは、特殊高度成長期的な女性のライフコースだったのではないだろうか?
 
 彼女らは環境から学ぶ力も、ものを考える力も去勢されている。そうして子宮(選択)と卵巣
(実存)を家父長制社会に奪われてしまっているのだ。
 王子様は、よほどの幸運がなければやってこない。自ら剣を持ち魔法を身につけ、ドラゴン(資本主義と家父長制)と戦え!
 自分で剣や魔法が操れるほうがいいではないか。そして強く賢い男をつかまえたければ、苦楽をともにするほうが感動的ではないか。修行を通じて自らを磨き、旅を通じて見聞を広めないで、どうしていい男を見分ける目が育つだろう。
 王子様はやってこない。ヘタをすると貴族やブルジョワの御曹司もやってこない。自分で自分にあった男性を探す旅に出なければ、待ってばかりではどうしようもない。
 王子様(近代核家族制度)に依存せずに、生きてゆくためには去勢を乗り越えねばならない。
「どうせダメ」という「敗北主義(ボーヴォワール)」をのりこえ、権利と実存のために積極性を取り戻さねばならない。奴隷根性に陥ってスポイルされている場合ではないのだ。
 それはつらく険しい道のりになるだろう。しかし、その結果自立が手に入るのなら、安いものではないか。自らが女王になるつもりで人生を送らないでどうするのだ。
 何かあったら父親や夫に責任転嫁するのはやめよう。何でも彼氏まかせもやめたほうがいい。だいいち、そういった収入を確保できる男性の絶対数もどんどん減っていっているではないか。生活をしてゆくために、今の職場がイヤなら結婚に現実逃避している場合ではない。