高校公民Blog

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中流崩壊という封建制の崩壊 3

2006-08-31 11:03:54 | 社会時事

近代以前の社会と市場

 社会学者のマックス・ウェーバー(1864~1920)は、最後の講義録(邦訳『一般社会経済史要論上)のなかで次のようなことを言っています。ちょっと難解ですが引きます。

「最初は営利活動にたいして、全く正反対の二つの態度が対峙しあったまま、何の連関ももたずに併存している。一方には、対内的に、伝統の拘束への献身的服従がある。すなわち、種族・氏族・家族の仲間はたがいに純情無垢の肉親的同胞愛の紐帯で結合され、この間では、無拘束なる営利活動は絶対にゆるされず、こういう仲間に対する純情無垢の肉親的同胞愛の関係に即して、一切が律せられる。要するに、この意味の対内道徳が共同体の中での交渉を支配する。他方、対外的には仲間にあらざるものは、すべて敵であり、これを遇するの如何なる道徳的制限も存しない。いわばこの対内道徳と対外道徳の二元的対立が、最初の状態である。」。(邦訳下p240)

 日本の大企業や公共企業体は先の文章(中流崩壊という封建制の崩壊 1 )でも書きましたが、家を擬制した、共同体原理でこれまでやってきたのです。家にいかに帰属するか、江戸時代はそれを武家の仕官という形でリクルートしたわけですが、もちろん、最終的には世襲化するわけです。同様に、戦後の日本社会でも佐藤俊樹が『不平等社会日本』(中公新書)で書いたように、北朝鮮顔負けの世襲化が進むわけです。だから、今、流行のようにいわれる格差社会問題をまず基層のレベルとしてこの世襲化というレベルで考えなければいけないわけです。ケインズはこの問題を重視し、西洋的な文脈ではありますが、相続税の重税化を身分制阻止のために主張するわけです。
 さて、その日本的現実を踏まえた上で、ウェーバーが上の文章で書いていることには注目しなければいけません。それは、大きく二点あります。
 一点目は、いわゆる共同体社会には「対内倫理と対外倫理の二重性」が存在するということです。対内的にはある種の平等と親愛をもとにした人間関係が維持されます。しかし、対外的な人間関係には、それは一切適用されません。くりかえしになりますが、これが同一労働同一賃金の適用を阻んでいるわけです。
 そして、もう一点は、対内的には、「無拘束なる営利活動は絶対にゆるされないということなのです。企業体が非効率や機能無視を平然とおこなっていく対内的な原因がじつは、ここにあるのです。問題はここからなのです。しかし、対外的には市場原理が機能しているわけです。戦後の成功は、この二重性が、まさにプラスに機能するという偶然が起きた、それが高度成長だったということです。対内的な団結がきわめて重厚長大の産業資本主義とマッチしていたのです。ところが、それが一転、1990年代以降破綻してしまったのでした。重厚長大型の産業資本主義から、消費を基本としたポスト産業資本主義段階にはいり、この共同体型の一律平等システムは機能不全に陥ったのです。

後期産業資本主義からポスト産業資本主義へ

 
この後期産業資本主義からポスト産業資本主義への移行の失敗こそ現在の私たちの経済的な大問題だと考えたらよいと思いますね。
 いまもって、自動車や機械機器、コンピューターなどのIT機器の海外への売上は巨大な黒字を重ねています。しかし、国内のいわゆる60%強を占める、サービス産業がまったく機能不全となっているのです。欲しいものはない、というより、欲しいサービスはない。したがって、サービス商品の売上があがらない。とりわけ地方での落ち込みが激しい。つまり、売買の連鎖がおきない。
 それは、重厚長大から軽薄短小へのサービス業の構造転換が失敗している、その大きな原因の一つが構造として多様で少量な需要を創造できなくなっている。地方へ行けばもっとも給料がいいのは公務員というシステムは頑として壊れていないわけです。公務員というのはあくまで結果の経済です。みなさんが売り上げた結果のピンはね(笑)で生きているわけです。どうしたって、需要に関する感度なんてあがるわけがないわけです。そのピンはねの団体=家になんとか帰属するという、その家のなかで親愛の平等社会でぬくぬくしたい、これが公務員社会なんですね。しかし、この形式では多様で少量のニーズへの対応の結果としての貨幣獲得ができないわけです。

規制緩和という独立

「さて、いまや発展は次のごとくして始まる。すなわち、一方において、計算の要素が上記の伝統的なる諸団体の内部に向かって浸透し、そこで古き肉親的同胞の関係を破砕する。家族共同体内部において、勘定・計算がおこなわれ、経済がもはや純粋に共産的には営まれなくなるとともに、かの素朴純情なる肉親的同胞愛も、また、かの営利衝動の抑制も、終わりをつげる・・・。他方、これと同時に、かくのごとき営利原則の体内経済への受け入れと平行して、利潤の無制限なる追求の緩和がおこる。発展は、かくのごとくして進行しはじめるが、その結果として生ずるものは、営利活動にたいして或る程度発動の余地を残すところの自制される経済、これである。」(『一般社会経済史要論』下p240)

 つまり、本当はいま求められているのは、多様できめ細かい少量のニーズ、それもそのニーズに応えることが次の需要を循環的に喚起するという期待と希望がもてるニーズに、応えられるサービス商品がいかに発生するかということなのです。それは、公務員国家ではなく、自立する企業体が、敬虔なる精神を持って不可解なニーズという神を捕らえようとするなかから発生するのだと思います。そうした連鎖こそがデフレ脱却という事態だと考えていいと思いますね。
 学校でいえば、もはや学校が公共サービスであることは維持するにしても、それを地方公務員がしなければならないという必要性はないわけです。つまり、県民、市民のみなさんへの担税に応じた公平公正なサービスを保証するという機能は必要にしても、その機能をなぜ地方公務員がしなければいけないのかということです。したがって、これからは、公務員天国社会学校に、どのようにして県民のニーズ本位のシステムを入れていくか、つまり教育委員会のリストラということが当然大きな課題となると思いますね。これは避けられない。
 しかし、現状はそのようなシステムが入るための備えがまったく学校社会にはありません。相変わらず、機能分化と専門化という効率原理を無視しています。このまえ、爆笑問題が司会をする特番で学校へと入っている塾が出ていましたが、
「私たちは教えることだけを専門にしている。だから、学校の先生とはちがって教えることのプロなわけです。ぜんぜん比較にならんわけです、教えるここと関して。生徒は塾の先生を評価するわけです。そういう刺激になればと思っているんじゃないですか。教育委員会は」
といっていっていたのですが、下手に市場が今の現場に入れば、いかに需要に応えるかという機能分化がなされていないので、一気に中流崩壊ということになってしまうと思いますね。そういう意味で上でひいたウェーバーのことばは意味深長な言葉だと思うのです。行くも戻るも地獄なんです。


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