フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

株主として会社を変えられないか

2007-01-18 17:50:37 | 未来
先日、ちょっと用事があり、大阪の証券会社に行った。
それは、別の人からある会社の株の講座を引き継ぐ手続きのためだった。
いくらか書類をわたし、書き、ハンを捺す。

フロアの天井近くに電光掲示板があり、各社の株価を示している。オムロンや任天堂といった会社のほか、グッ○ウィルの名もあった。そう、あのトラブルと苦情で有名なグッ○ウィルが。

係の人から説明を受けながら、頭の中では別の考えが働いていた。
そうだ、お金が手に入ったて、生活が安定したら、株を買ってはどうか。
株主になれば、株主総会に出席できる。そうしたら、登録した派遣従業員を粗末に扱っていないかどうか問いただすこともできる。
息子・娘がグッ○ウィルに勤めている親で、労働環境に疑問のある方のなかで、お金に余裕のある人にも声をかけてみよう。そうすれば、会社を少しでもいい方向に変えれないだろうか。
現場の日雇いの派遣労働者らは、仕事探しに疲れ、仕事に入ってからも体と神経を使い、ぼろぼろだ。これではとても、社会運動などできない。
賃金も低く、雇用は細切れ。とても株を買う余裕などない。
だけど、親とか、他の有志らが株を買い、株主総会で労災や、労働法違反などを指摘・批判すれば、少しはあの地獄の派遣労働も人間らしいものになるかもしれない。

株もたった一株や二株では証券会社などで取引できないようだ。
だが、お金に余裕のある方はまとめて株をもち、株主の視点から会社を透明性のあるものに変えてゆける。
もちろん、労働組合も、労働NPOも、その正統性を与える学術団体も大切だ。弁護士も、過労死認定に協力的な医師も必要だ。そのネットワークに、株主団体も加われないものだろうか。


<2007.1.20付記>早速、本屋に行って季刊『会社四季報』(東洋経済新報社)を探した。あいにく売り切れている。
かわりに季刊『日経会社情報』(日本経済新聞社)2007年新春号を購入。
クリスタルを買収したグッドウィルのほか、フルキャスト、松下電器産業、キャノンなど偽装請負・派遣を使っている企業がいくらか株式を公開している。
株については初心者のため、これから調べてゆくことになる。
下請け・孫請け・ひ孫請けといった小さな会社は株を公開していないため、載っていない。そういう企業には株主運動は効かないため、労働運動を軸にするしかない。しかし、他の会社の待遇が上がれば、自分たちにも同じ権利を、と求める動き、外部よりそれを承認・応援する動きも活発になる可能性がある。
そういう状態を作り出すことを目指して、やってゆくほかないだろう。<2007.1.20付記>

当ブログ内関連記事:株主として会社を変えられないか@mixi
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/4bd38dfca94f5eba449192c450643ee0












コメント (6)   トラックバック (1)

移動の自由のために

2006-05-30 04:42:37 | 未来
 最近、ある会に行くのをもう止めることに決めた。

 そこの代表に、みんなといっしょに生きるようにと説教されたのがきっかけだった。とても悲しくて泣き崩れてしまった。おまけに、「人は一人では生きてゆけない。だから地域に密着しろ。弱者ならそうしろ。」と、イヤガラセとも脅しともとれる意味不明の言辞を吐かれた。さらに、地域や仲間はいらないと言っている人を雇う企業はないとも言われた。
 その後、帰宅して2日ほど虚脱状態が続いた。その人の言葉の毒が体中にまわったのだと思う。食欲もうせ、吐き気がおさまらず、夜もよく眠れない。

 どうして、それほど地域に密着しなければならないのだろう。そのうち、江戸時代のように、町に木戸が作られ、有事の際には閉じられるようにされるのだろうか。その人の言う抵抗とやらのために。憲法22条の移動する自由は保障されなくてもいいのだろうか。
 わたしには定着はできない相談だ。いつ・どこに仕事があるのかわからないフリーターは、大阪だろうが東京だろうが、仕事があれば稼ぎにいくほかない。また、そうしたい。それを通じて見聞を広めたいという願いもある。それの何が悪いのか。
 彼は漂流することがいけないのだと言う。
 かたや、わたしは違うと思う。漂流は必ずしも悪ではない。漂流しても排除されなければいい。

 仲間というものに、これまでわたしたちは縛られてきた。選べない人づきあいは、いじめ・いやがらせの温床だ。そうでなくとも社交を嫌いにさせられる。
 常に自由に移動できる可能性に向かって開かれていることによって、人は世間知らずにならない。視野を広め、いろいろな人々とのつきあいが寛容の精神をつちかう。互いに違ったバックグラウンドを認め合い、上手につきあう術を向上させてくれる。ひどいいじめの地域から脱出して、別の街で人生をやり直す機会を提供してくれる。その移動の自由を、抵抗のためにつぶさねばならないとしたら、とてもついてゆかれない。
 
 一人では人は生きてゆかれない。人間が有性生殖を行い、群れを作る生き物である以上、当然だ。他者を他の動植物や地球という惑星にも広めれば、なおさら当たり前だ。そんな当然の前提をなぜ再確認する必要があるのだろう。
 確認しておこう。地域から地域へと移るからといって、他人や他の生き物や環境と切れているわけではない。むしろ、いろいろな地域とそのつど関係を作りながら生きてゆくのだ。土地の水があうこともあればあわないこともあるだろう。そうするうちに自分が何にあうのかあわないのか分かってくる。人間の一生は関係と学習だとも言える。
 関係があるからこそ、水のあわない土地には長居しないほうがいい。肌合いの悪い人や組織とは縁を切ったほうがいい。苦痛な人間関係ならやめたほうがいい。一度や二度の移動では自分にあった地域がみつからないのなら、さまざまな地域をまわってみるほかない。
 組合の仲間主義または共同体主義に生理的嫌悪感があることが、どうしてそれほどいけないことなのか。正社員中心主義、男性中心主義という偏狭な共同体主義によって、数多の労働法無視が起こり、明確に違法とはいえないいやがらせも発生してきた。それが嫌でも何も悪くない。
 人は一人では生きてゆけない。だからこそ、ちゃんとつきあえる人がいる別の土地に渡ってゆく必要がある場合もある。それをつぶすのは、やはり憲法22条への蔑視だろう。
 そうした論理では、地元の慣習によって横暴をふるう地域ボスに抵抗できるわけがない。地元の人たちがしがらみによって反対できない無謀な開発計画に外部から反対できるわけがない。
 オンライン上のコミュニティは、リアル世界のコミュニティよりも劣っていると彼は言った。ばかばかしい。というのは、両者はつながっているからだ。オンラインがリアル世界での絆を深め、オンラインはオフラインのつながりを生み出すこともある。
 顔をあわせる地域が大事だとその人は言った。ならば、徒歩か自転車で移動できる範囲に生活を閉じ込めざるをえない。交通費の工面もむつかしい貧乏人にとってはそういうことになる。ムリだ。できっこない。
 「人は一人では生きられない」この殺し文句によって、心中という名の殺人も、ストーカーも正当化できる。ひどいいじめがあっても転校や登校拒否や転職や引越しによって逃れることもだ。人権意識を疑う。
 そもそも、顔をあわせなければならないのなら、印刷技術によってつながれた国家とか国連といったものも無視することになる。しかし、憲法、労働基準法、ILOの条約などをまったく使わないで市場原理主義に抵抗することは困難ではないのか。
 その方は会のキーパーソンらしい。明確なルールはなくとも、今後そこの会のイベント等に出入りするのなら、当然従わねばならないだろう。何よりも、フリーターとしての自分の生き方、自分が志向しながらも共同体主義によって阻まれてきた学習や人生のルートをばかにしている。フリーターという存在も、いまどきの若者も彼は下に見ているのだ。

 だったら、もうやめよう。死にたいほどつらい地域。とても理解できない密着。暑苦しいプレッシャーをかけてくる仲間。特に、仲間以外の存在も権利もいっさい認めない排除の機動力としての仲間主義。
 もしもわたしが所属するコミュニティがあるとしても、それはもっと世界に開かれていたり、定着を正義のように押し売りしたりしないところだ。定着しろとする圧力こそが、不幸の元だ。幸福になるために抵抗をはじめたのに、抵抗のために不幸になるのだとしたら、本末転倒だ。

わたしはこれまで少なくとも1万社を面接のためにまわった。80社以上で働いた。そこに顔をあわせる関係がないと言いたいのなら言っていればいい。そんな言説には客観性のかけらもないのだから。

「コミュニタリアンの社会は息苦しく、神聖政治もしくはナショナリストの独裁政治に変容する可能性がある。            --アラン・トゥレーヌ」


抵抗運動を地域ナショナリズムの枠内に閉じ込める必要はない。その人の指示とはうらはらに、わたしが大阪という街に定着しない権利はあるし、実際にしていない。
地域で痛い目にあったものにとっては、地域から地域へと移動している間だけが自由で安全だ。あるいは、いつかそういう地域に行くと考えるだけで自殺を回避できる。そのルートをふせぐ地域密着主義には賛成できない。

わたしは地域よりも定着よりも自分の命と人権のほうが何倍も大事だ。息苦しくないこと、独裁的な地域ボスに自分の人生を売り渡さないこと。そちらのほうがより重要だ。
経済的にも精神的にも、地域からの自由を手放す気はない。

もちろん、定着する人はすればいい。そういう役割も世の中には必要だ。ただし、移動を選ぶ自由だって尊重されてしかるべきだ。

それが尊重されない会だからこそ、やめる決心がついた。




 

  
 

 
 
 
コメント (16)   トラックバック (2)

県庁所在地でプレカリアート・オフを!

2006-05-20 16:36:37 | 未来
別のサイトで見たのだが、毎日新聞のネット版でフリーター+ニートたたきの企画があったそうな。もう、あきれてものが言えない。後藤和智さん、深夜のシマネコさん、非正規労働組合ぼちぼちさん、LENAZOさんなどいろんな若い世代が声をあげている。なのに、また・・・・。後藤さんや深夜のシマネコさんたちがおかしな報道のファイルを作り上げてくれているので、いまさらわたしが加えることがあるのものか。(基本的にここは労働・失業問題のサイトとしてやっているんだし……。ま、ブログって何書いてもいいんだけど。)

正直言って、このブログは暗い、あるいは痛い話が多い。ここでひとつ暗くない話に挑戦してみたい。

ささやかでもいい。未来の夢について話してみたい。ただし、不安定雇用の人々にとっての夢だ。

ひとつはプレカリアート・オフがありふれた集まりになること。

今は、たった1度、大阪の梅田で開いただけだ。これが、月一度くらいの間隔で、日本の都道府県の県庁所在地で開かれている状態になってほしい。さらに、大阪でもキタで集まるオフ、ミナミで集まるオフというふうに、何箇所かで開かれればいい。サーヴィス業の人が集まりやすいように、週末だけではなく、火・水・木曜日に集まるのもいいことだ。
きっとそこではいろんな情報が飛び交うだろう。あそこの会社はヒドイ、ここの会社は結構マシといった話。組合活動家による近況報告。ブロガーによるサイト案内。労働や失業、若い世代の問題に関するイベントの宣伝または報告。興味をもっている組合主催の集会にあなたは行きそびれたとしよう。だけど、近所のオフに参加すると、他の参加者がいて、集会の時に配られた資料を見せてくれたり、集会で話し合ったこと、主催者の背景などについて話してくれるはずだ。
また、そこでの会話のなかで、実務的な観点から労働基準法や派遣労働者法やILOの条約について学ぶことができるだろう。そうすれば、前後左右がわからずに一人立ちつくすこともない。仲間とパーティーを組んで、困難あふれる冒険の旅に出る決意も固まるはずだ。

会社では、会社がおかしいと思っているのは自分ひとりだと思っていた/思いこまされていた。だけど、偶然同じ会社で働いた人も、実は同じように思っていたことを知り、あなたは驚くだろう。そうすれば、主観的な孤立が消えるだろう。
同じように非正規雇用で苦しんでいる他の会社で働いた人間を知って、あなたは自分がたったひとりこの世で苦しむわけではないと分かるだろう。となりに座っている人も、労働力商品として扱われたり、信じられないひどい条件で必死に働いている同じ人間だと知るのは大切なことだ。


このオフ会は、プレカリアートと名乗る必要はない。非正規雇用の会でも何でもいい。
できれば労働組合・労働行政・弁護士と連携しつつ、非正規雇用者の友愛団体が各地にできるといいと思う。
歴史的に見て、そういった*1友愛団体や、クラブの役割を果たす*2パブやセツルメントハウスが、組合のストライキを助けてきた。また、独自の文化を育む母体にもなった。

今日の日本にも、プレカリアート・オフ、あるいはそれと似た労働者&失業者&半失業者のたまり場ができないだろうか。
それほど費用はいらない。駅前の広場、公園などで集まればいい。たった数名とか十数名の集まりでも、0と1では大違いだ。
全共闘世代のように、声高に演説をしたり、えらそうに説教をしたりしなくてもいい。わたしたちも、梅田の待ち合わせスポット・ビッグマンに集まり、近所のドトールでコーヒーを飲みながら盛り上がった。小さいテーブルに4人で陣取り、最近の組合の近況、これまでやってきた/今やっている仕事、どこの会社がムチャや明らかな違法行為をやっているかについて情報を交換した。ちょっとブログでは書ききれないうちわだけの話も出た。たとえば、ひどいことをやっている会社や部署の名前は、ブログでは書けない。対面したときだけに言えるものだ。
なお、こうしたネットワーキングが、結果として労働組合に近い役割を果たすかもしれない。だからといって組合と敵対するわけではない。そこから組合に入る人もいれば入らない人もいるだろう。それでも、そこの参加者が、組合に以前よりも親しみを抱き、ふだんは批判的なことを口にしながら、いざというときには味方になってくれる可能性はあるだろう。
組合の下請け、というのではなく、労働者または失業者相互の親睦や情報交換や孤独つぶれ防止のための機能を、プレカリアートオフは果たすだろう。

なんとか、県庁所在地で、プレカリアートのネットワークを作れないだろうか。そして、ひとつひとつの集まりが連絡をとりあい、引越しをしたり、遠くに出稼ぎにいくときに、オフ会関係者に連絡をするとどこの会社がひどいかひどくないかを教えてくれる。そういうネットワークを作ってみたい。
たいへん苦しい状況の中で、それでも少しでも余裕のある人たちが音頭を取って、各地でプレカリアートオフをやってほしい。それが今の自分の夢だ。



*1 森 たかし(一文字で上半分は日、下半分は木) 「アメリカ職人の仕事史ーーマス・プロダクションへの軌跡ーー」中公新書 1996 PP256-257
19世紀までの20年あまり、アメリカでははげしく労働争議が行われた。連邦軍、資本の施設軍が出動し、死者が出たにもかかわらず、ストライキはやまなかった。スト破りが大量導入されたにもかかわらず、1880年代を通じてストライキ勝利は47%、敗北は39%、スト中止は14%と、労働運動側の勝利が多い。その要因としてひとつめには地域住民の支持、もうひとつは労働騎士(ナイツ・オブ・レイバー)という働く人々の雑多な欲求をもちよった組織ーーただし、地域によっては黒人排斥だったり、禁酒運動のこともあったーーによるものと指摘しておられる。

*2 松田 裕之 「メーデー発祥の地 シカゴ 労働者文化の胎動ーー精肉都市の光と影ーー」 清風堂書店1991 PP101-110 第二章 精肉町の労働と生活 ジェンダー的な空間の役割 

19-20世紀にかけて、シカゴの精肉町のなかには、男の空間と女の空間があった。男の空間はウイスキー横丁という居酒屋街。女の空間はセツルメントハウスという女性向き社交クラブ。そこで男たち、女たちは、民族の違いをこえて、下層労働者であることの労苦をわかちあった。
ウイスキー横丁の居酒屋の経営者はしばしば労働争議でクビになった元労働者だった。
かたや、セツルメントハウスは、中産階級の社会改良家たちによって設立された、教育・慈善事業、工業地区の条件の調査・改善の拠点だ。スラムの人々のための食事の提供、職業訓練、働く母親のための育児サービスなどを行った。
(なお、こうした男の空間、女の空間を破壊するのが、フェミニズムの唱えるジェンダーフリーである。労働者または失業者として、こうした空間をつぶすフェミニズムには警戒的でありたいと著者は願っている。)










コメント (3)   トラックバック (1)

積み木の上手なキュリオ

2006-02-03 01:16:09 | 未来
 さきほどの記事と同じく日経サイエンス2006年3月号のトピックスによると、ヴァージョン・アップしたソニーの人型ロボットキュリオは、積み木をつかみ、落としても検知できるようになった、という。

 近い将来、これが商品化され普及したとすれば、倉庫内作業の大半はロボットがやることになるのかもしれない。もちろん、人間がロボットを監督して、ロボットではわからない微妙な判断をすることになるだろう。それにしても人員削減にはなるはずだ。企業もこれを歓迎するにちがいない。
 それとともに。ロボットが故障したときだけ、数日派遣されるアルバイターというパターンが定着するかもしれない。
 そのとき、倉庫内で荷物を運び、積み上げる労働者たちはどうすればいいのだろう。今からエクセル・ワードでもやるか。それともロボットのメンテナンスでも身につけるか。仮に今の半分の人手で作業ができるようになったら、学校的な教養ぬきでも働ける職場が縮小されることになる。そんなとき、デスクワークぎらいの人たちはどうすればよいのだろう。
 

 
コメント   トラックバック (1)

暗~いシミレーションーーお葬式できるかな?

2005-09-19 20:49:13 | 未来
 シミレーション・ソフトなんて気の利いた道具を使える状態でもないので、大雑把にアナログでイメージできる悪い将来像を描いておきたい。

 こちらのブログでも何度か紹介している紀田 順一郎「東京の下層社会」(ちくま学芸文庫)のなかに、相互扶助の話が出ている。明治から大正の時期にかけて、乞食やスラムの住人のなかに、保険組合を作ろうとする乞食の運動、借金の連帯責任、家主が出産祝いを出す風習などが述べられている。たいていの場合は挫折におわったようだとの、紀田自身のコメントもついている。(前述書:132-136)
 そのなかで、葬儀のときのなんともいいようのない寒さが表現されている。お金がないと、お経を読んでもらうこともかなわない。さらに、お墓も作れない。なんとか火葬をすませても、そのあと、どうしようもないのである。骨壺が、長屋の四畳半に置き去りにされる情景も珍しくなかったとか。そうした状態になるのをおそれる住民のなかには、近所の浮浪者に、火葬の終わった骨を人知れぬ場所に埋めてくれるようにと頼むものもいたという。
 明治維新以来、64年ぶりの昭和7年、救護法が施行された。その法に助けられて、ようやく貧しいものが死亡したばあい、埋葬費として十円以内を与えられるようになったという。(136P)

 自分たち、フリーターを含む不安定雇用層は、どうなるのだろう。今でも生活費は不足気味で、保険証がもてないことも珍しくない。貯金を切り崩してやっと一日3食を確保している。仕事で疲れると、ほかのことをやる体力も気力もなえている。親の福祉もいつまでもつか、さだかではない。
 フリーターへの増税よりも、国による福祉が求められている。それから、たとえアルバイトであっても、こうした儀礼に参加してもクビにならない労務管理も。それをこれから権利として勝ち取っていかないといけないだろう。

 (ちなみにこのエントリーは、これまで書けなかった。あまりにもつらすぎるし、フリーターについて肯定的なイメージをもってもらわないうちに書けば、自己責任論によるさらなる非難を招くおそれがあったからだ。そして、なによりも、自分自身が辛くて書こうにも書けなかったためだ。しかし、これまでフリーターについての誤解を解くための記事をたくさん書き、読者に見てもらった。それが日本や世界の伝統に反するわけではないこと、本人や家族の自己責任というにはあまりに大きな問題であること、社会的排除にからむ問題であることなどを、読者と共有できたと思う。また、自分自身の自信のなさや、自己否定的なイメージも幾分訂正できた。いまこそ、こういった記事を書くタイミングかと考え、やっと記すことができた次第だ。)
コメント (3)

ターミネイターにはなりたくない--電車とエルメスになるために

2005-07-09 21:04:59 | 未来
 ターミネイターという植物がある。
 一度実を結ぶと、次の世代を残ることなく枯れるように遺伝子を組み替えられた植物だ。

 フリーターもそうなりつつある。前にこのブログでも書いたが、あまりにもアルバイトの給与や保障は少なすぎる。
 
 にもかかわらず、ときどきトラックバックをいただく後藤さんの若者問題批判ブログでも扱っているように、フリーターというグループを、まるで人間の仲間ではないかのようにイメージさせる宣伝・広告が、マス・メディアを通じて進行中だ。
 抑圧的・家父長的な人々は、ネオコンという政治潮流を支持する傾向にあるようだ。そして、イラク戦争だけでは飽き足りないのか、身近な世界に敵を求めている。まるで国内でも戦争をやりたがっているようだ。その人たちは、フリーターのほか、ニート、引きこもり、不登校、最近の子どもと親(とりわけ女親)、フェミニスト、クィアーズなどを叩いている。
 そして自分たちの攻撃性や非論理性は棚にあげて、いまどきの子ども・若者は凶暴化していると統計的な根拠のない情報を流す。
 彼(女)らによると、フェミニズムはヒステリックで、緑はエキセントリック、リベラルは自由とわがままの区別がつかない、といった紋切り型の話も彼(女)らお好みの話題だ。子ども、若者は暴力的で攻撃性が強すぎると宣伝をしまくる。一番人を多く殺しているのは団塊の世代だと知っていても、だ。
 彼(女)らは、新しいものに弱く、変化をかたくなに拒む。たとえ歴史と伝統の中に類似例があるとしても、ちゃんと日本や世界の歴史・伝統をおさえていない、現代文化に純粋培養された人ほど、「新しい」として売り出された情報商品に飛びつき、不安をふくらませるようだ。
 伝統文化も数十、数百年前には最先端のハイカラな文化だったことも忘れて、国の外に内に害獣や害虫を捜し求め、根絶しようとする。
 他の先進諸国なら現代の移民排斥と過去の人種差別に、日本の過去に例を求めれば部落差別に近いタイプの迫害が、フリーターの生き難さになっている。経済的な重荷のほかに、政治的・文化的な重荷がフリーターをむしばむ。

 以前のエントリーでも指摘したが、フリーターにもしご先祖さまを求めるとすれば、古代ギリシャのデーミオエルゴーイ(国民のために働くものたち)があげられる。使者、医者、巫女などで、共同体と共同体を渡り歩き、技術や知識を伝えた。
 フリーターの一部は、文化に彩を添えている。絵を描いたり、音楽を演奏したり、演劇のプロをめざしていたりする。
 ある演劇をしているフリーターは、肉体労働でぼろぼろになりながらも演劇はあきらめていない、と語っていた。
 別の平和NGOで知り合ったクラリネット奏者は、マージャン屋や受付などの職を転々としながら、クラリネットで身を立てようとしている。彼女は、お金がなくて夏に家にクーラーがかけられない。だから楽器のコンデイションが不安だとあるときわたしに語ってくれた。普段明るくオシャレな人だけに、「ああ、裏にはこういった苦労があるのか、それを乗り越えるためにいつも派手な化粧をし、カラフルで色っぽい服装に身を包んでいるのかもしれないな」と納得。
おまけに彼女は、最近もう将来が見えなくて楽器を演奏する気もなくなっているとまで言う。
「彼女も大変なんだな」と思いつつ、
「つらいと思うけれど、毎日吹いてやりなよ。わたしは今お琴と三味線をやっていて、クラリネットのことはよく知らないけれど。毎日弾いてやるのが一番の手入れだってよく言うじゃない。一日5分でもいい、簡単な練習曲一曲でもいいから、楽器のためやと思って弾いてやったほうがいいって。」
と言った。
彼女は思い直したように
「ウン、そうやね。一日ちょっとでも弾こうっと。」
と声を太くして語った。

こうした、なおかつ文化的な豊かさを人々にもたらす人たちを、経済・政治・文化の圧力によってつぶしてしまってよいものだろうか? なかにはクラリネット奏者のように、社会的な問題にも関心を持って、会社のひけたあと無報酬でNGOで働く人もいるのだ。

この人たちを、経済的・政治的・文化的につぶしてはならない。

フリーターが生物的にも文化的にも再生産ができないように追いやってあの世に逝かせないでほしい。正社員中心社会への心からのお願いだ。

スラム街の住人のように窓のないせまい部屋に住み、家の中は狭すぎるために片づけにくい。葬式を出そうにも出せるかどうかギリギリの生活はしたくないのだ。

ではどうなりたいの? という質問が来るかもしれないので答えておく。
電車とエルメスだ。電車とエルメスになりたいのだ。

年収300万程度の収入は確保されていて、仕事が終わったら2ちゃんねるができる程度のゆとりがほしいのだ。
日常的に電車に乗れる治安も必要だ。そのためには、9.11後のアメリカ人のように下層民の嫉妬を叩くのではなく、嫉妬を大きく爆発させない政策が必要ではないだろうか? つまり、階層格差縮小策だ。もちろん、それは子どもや若者を差別し権利を蹂躙する形で行われてはいけない。また不登校やホームスクーラーを「害虫」扱いして排除しようとする勢力との争いは避けられまい。
 その争いは、物理暴力というよりも、情報を媒介にした争いになるだろう。このブログでフリーターの歴史を荒っぽいながらも描こうとしたのもそれゆえである。エセ伝統主義者を黙らせるためには「日本と世界を見渡せば、ギリシャのデーミオエルゴーイ、ドイツの遍歴職人、日本の渡り奉公人の伝統がありますよ。フランスの農民は、高度成長期以前は、兼業が普通だったのですよ。」と切り返すテンプレを提供するためなのだ。

 正社員のみなさん、あなたの職場で顔をあわすフリーターをターミネイターにしたくないと思ったら、フリーターをフリーターであるというだけでさげずむ目でみつめるのをよしてください。家族や親族や友人の方、どうかフリーターを「怠け」「甘え」と決めつけないでください。心ある本当の保守系政治家のみなさん、フリーターは日本の歴史のなかの伝統だということを思い出してください。フリーターを締めつける政策を、フリーターを肯定し応援する政策に切り替えていただきたいのです。
たとえば文化・芸術活動に奨学金や予算をつける。ベイシック・インカムやワーク・シェアリングの検討と実行。失業だけではなく半失業の統計もとること。生活保護を受けるときに、いくらか貯金を持つことを認めること(生活保護だけでは生活が苦しいということで、親から仕送りしてもらったり、コッソリ役人の目を逃れてスポット・バイトに来るフリーターもいる。)地域ごとの最低賃金を上げる。たとえスポット・バイトといえども3ヶ月以上は人をクビにしてはいけない旨を法制化する。などなど。ほかにもたくさんアイデアはあると思う。読者がコレ、というものがあれば、コメント、TB、メールで連絡をくだされば、思いがけない喜びになるでしょう。

訴えるためにはどうすればいいか? 有志をつのってデモをやる。

●自分たちの神様を作って、〝祭り〟にしてしまう。(イタリアの不安定労働者たちがやった。)
●十円玉の裏の平等院鳳凰堂の拡大したやつを持って、バツ印をつける。平等がないことを訴えるために。
●インスタントカメラを手に集まり、大事にしろと訴える。インスタントカメラみたいに粗末に使い捨てるなと叫ぶ。インスタビリアートのお祭りだから。

ターミネイターにならないですむために、当のフリーターは動きにくい。もし一時でも動ける人がいれば、そこに参加できるように、ピラミッド村共同体ではない個人主体のヨコの関係のネットワークの運動体が必要だ。
以前わたしは「失業者の権利ネットワーク」というMLをやっていた。けれどそこは、みなさん疲れてやっていられなくなった。上の世代の男性は、若い世代の苦しみをちっとも理解しようとはせずに、派遣社員を迫害する内容の投稿や、女性の人格を蹂躙するような投稿が信頼関係を壊し、やる気をなえさせた。さらにどこから紛れ込んだのか、元サヨクの関係者が管理人のわたしを「極右」よわばりしたり、過激派とみられるグループが、わたしたちのMLのトップページのURLを自分たちのサイトであるかのように紹介するニセのリンクを貼ったメールを送ってこられたりもした。結局、わたしはそこの面倒をみきれずに、MLを廃止することにした。わたし自身も、おどろくことに自分の名前を打ち間違えて署名するほど、神経が参っていた。
しかし、失敗の経験をちゃんと覚えておいて、次の活動の参考にしようと考えている。

(ただいま組み立て中。後日注を追加する予定です。)
















 


 
 

 
 

 
コメント (1)   トラックバック (1)