フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

「分からない」考

2006-12-29 14:36:44 | 哲学・思想
あるブログのコメント欄で、フリーターの貧困の痛みは他の立場の者に理解できるかという問いがあった。

分かるか、分からないか。

わたしはこの2つのキーワードを包括する答えを出す。

「分からない」ことが「分かる」ことが大切なのだ。

そう簡単には他の個人やグループの辛さ・痛みを知ることはできない。
「気持ちは分かるけれど~」ではじまるセリフは、単なる社交辞令の場合もある。
誤解だったり、よくて一知半解といったところだ。

そのことを素直に認めることが大切なのだ。

その後、分からない者をいかに分かるようにするかというテーマが出てくる。
分からないなら分からないなりに相手を認めるほかない。
では、分からないなりにどうやってつきあえば相手を傷つけないですむのか。
もちろん、相手が他人を傷つけることを許したり、ましてや美化するのは誤りだ。

他人同士なのだから、「分からない」ことを理解することは大切だ。
そこからイメージや、外れることもある勘や、脳がオーヴァーヒートしたような根拠のうすい推論から抜け出る回路が開ける。

分からないから相手と話しあう。分からないからつっこんだ話を聞いてみる。別の角度から観察する。メモをとり、問題点を整理する。第三者とも意見を交換してみる。
そうすると、これまでとは違った情報が拾える。別の考え・イメージが見えるようになってくる。

そうした新しい認知回路を作り上げる可能性を「分からない」という訴えはもっている。

それを「不幸自慢」などと意地悪い発想で揶揄したりせず、前向きに使うことが求められている。

相手が分かっていないと見たら「あなたはフリーターの状況が分かっていない」と言ってもOKだ。
しかし、それは相手を責めたりなじったりするだめのニュアンスをこめてはいけない。
これからもっと話しあいましょう。こちらもプレゼンの仕方を工夫しますから。大事な点なら何度でも繰り返します。

もちろん、他の人であり立場である以上、完全な理解というのはないだろう。
自分が分からない自分の苦しみについては、他人に説明することもできない。
それでも、不器用であっても説明を試みるうちに、ふと理解の道筋が開けてしまうこともある。
そこを狙って、フリーターが具体的にどんな風に苦しいのか、わずか1%でも他人によく見えるようにものを言っていきたいと考えている。

ある程度分からないのは仕方がない。自分でよくつかめない部分も仕方がない。
けれど、分かる範囲においては、なんとか他の立場の人たちにも分かる状態にし、ともに改善策を練ってゆけばいい。

そのためにこそ「あなたは分かっていない!」という叫びは存在するのである。













学歴と労働の間

2006-08-15 22:22:47 | 哲学・思想
偽装請負・多重派遣にまつわるいろいろな苦痛をとりあげるときに、「もっと(いい)学歴があればいいのに」という意見が出ることもある。

しかし、学校はリストラ事始だ。大学全入がもしも達成されたとしよう。そうすると、今度は大学の中で今よりももっと細かくランクがつけられ、いいコースに乗れなかったもの、ひとつのコースのなかで成績の悪かったものは、やはり条件の悪い職につくだろう。
また、そうなると、大学という画一の文化のなかで、自分は徹底して無能か努力なしなのだと本人は思い込まされる。自信喪失、劣等意識による自己否定は、人と人との連帯をこわしてしまう。
「よい」職業訓練コース(高校)を多数作る案にも同じ問題が噴出するはずだ。

問題は、「よい教育」ではない。労働や生活のあり方そのものに潜むワナを見抜き、乗り越えてゆくことだ。

補足

2006-05-09 19:43:44 | 哲学・思想
以下は、当ブログ内記事「ニートって言うな」「不登校って言うな」1,2
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/9cccf62c9230fff1fff03ab93cea3d38

への補足です。

この記事が脱学校者叩きに使われることへの警告

<2006.5.9補足>なお、だからといって、子どもが学校に行かなければならないわけではない。子どもの学校に行く・行かないの権利は尊重されてしかるべきだ。それが有名無実化するようなすさまじい社会の学校化も解除されてしかるべきだ。
こういう話をすると、「だから学校には行け。行けばなんとかなる」とう話と混同されるかもしれない。だが、誤解のないよういっておきたい。学校に行きさえすれば、不安定雇用がなくなるわけでもない。「不登校親の会」が、就職の斡旋をしなければならないわけではない。ましてや、フリースクールはなおさら関連性がうすい。登校拒否が国の経済の足を引っ張るなどという議論など、論外だ。
また、このことによって、これまで登校拒否でもいいじゃないかと言ってきた人びとへの価値おとしめがなされてはならない。いわゆる「閉じこもり・ひきもこり」のことについて、これまでたとえば渡辺位といった「登校拒否でもよい」とする論者は、講演や著書のなかで言及してきた。
なお、「明るい登校拒否」か「暗い登校拒否」といった議論は、登校拒否への偏見を反省しない東京のマスメディアが勝手に言い出した概念である。そして、登校拒否という、それ自体病気でも症状でもないものを、病院にくくりつけるために、専門家集団が「明るい登校拒否は治療しにくくて困る」などと難癖をつけて、なんとか医療の専門家の監視化におきたがってきたのも事実だ。それに対して、素人の利益に近い立場の専門家は、医療は必要ない、クスリづけは危険だ。登校拒否の症状の一部は医原病だ、といった警告を発してきた。
フリースクールは、公教育とは別の教育をめざるさまざまなスクールの総称である。そこに、登校拒否を矯正する機関とのイメージをかぶせると、実態を見誤る。
この記事は、「不登校」の子どもたち、親たちの「自己責任」を訴えるものでは断じてない。登校拒否・不登校をひとくくりに「悪」とみなさない前提に立っている。それが善でも悪でもない、あたりまえの子どものありかただとすれば、誰の責任を追及するということもなくなる。
山田さんも、当初「登校拒否でもいいじゃないか」と言った、その必要性・妥当性は認めている。しかし、もうそろそろ「登校拒否/不登校って言うな!」を言う時期に来ているんじゃないか、との見解だ。わたしは、時間軸ではなく空間軸においてこの見解に賛成している。学校に行かない、たったそれだけのことで人をひとまとめに悪者扱いする勢力には、これからも「登校拒否でもいいじゃないか」と切りかえす必要がある。しかし、何が本当の登校拒否かといった本質主義的な議論や、登校拒否の責任追及や正しい直し方をめぐるハイアラーキー争いに対しては、「登校拒否って言うな!」という問題の脱構築こそ必要になってくる。
<2006.5.9補足>


バックグラウンド


ちなみに、山田さんのバックグラウンドを。
この山田さんという人は、元・全共闘、研究会・「職場の人権」会員、「学校に行かない子と親の会・大阪」世話人、定時制高校の教諭にして私立文系大学の教員をつとめ、かの「ハマータウンの野郎ども」の共訳者であり、さらに日教組の委員長でもある。さすが、山田さんは、とイウエッセーだ。本人は気まぐれに書いていると謙遜するが、質は高い。「写経」していて、「うん、そうだよね」と思った。


自由・自由主義・不安定雇用1.不安定被雇用者は自由か?

2006-02-25 22:46:45 | 哲学・思想
しばらくシリーズものとして、「自由」についての情報をお届けします。

フリーターを含む不安定雇用の人たちは、「正社員よりも自由でいい」とうらやましがられることがあります。と思えば、「それほど不自由な生き方もないでしょう」との批判もあります。

ここでは、個人の生き方を道徳的に断罪するのではなく、一般的に「自由」とは何なのか、それは不安定雇用に悩む層にとってはどのように関わっているのかについて書いていきます。
後藤さん、すなふきんさんらの取り上げていらっしゃる「待ち組」批判も大事です。けれど、こういうのをいちいち批判・分析していたのでは、モグラたたきみたいなものでキリがない。
それで、自由とは何かについて書いたほうが、おかしな自由主義もどきへの抵抗力が増すと考えたわけです。個人にとって自由とは? 社会にとっての自由とは? 組織のなかの自由とは? といったことについて論じてゆきます。読者各位もトラックバック・コメント・メールなどで議論にどんどんご参加ください。


はじめの質問です。自由って何でしょう?

束縛のないこと。放縦(わがまま・ヤケクソなど)とは違う。反動(ただやみくもに反発をくりかえすだけ)とも異なる。自分の自由は大事・だけど人のそれも尊重しないといけない。

それらを両立させ調停させるものとして、人々はルールやエチケットを作った。(↑実際には上のものにとって都合のよいようにルールや礼儀が作られている側面もあるのですが、ここではとりあえずそのように仮定した自由主義のルール・エチケットにかぎって話をすすめます。)

フリーターや派遣社員など不安定雇用の人々は、「自由でいいですね」という世間・マスコミの声。これは本当なのか? 読者はどうお考えになるだろうか?

管理人@ワタリの答えは、違う。

不安定雇用は自由ではない。むしろ正社員のほうが自由だ。
いつでもクビにされ、あるいは恣意的に減給される。左遷も日常茶飯事。突然の配置転換、遠方に行けと夜の11時半にも朝の5時にもかかってくる派遣会社の営業係の号令。タテマエとはうらはらにダメと言えない慣習と雰囲気。もし言えば、ワガママ・横柄と人格をおとしめられ、仕事を干される。その立場になればわかる。そうなったり、なりかけた知人なら、誰もが一人や二人知っている。

自主的・自律的な判断、主体の尊重はそこにはない。ただ複雑に移り変わる状況に、風に舞う木の葉のように翻弄される人の群れがわたしくしどもプレカリアート(=不安定階級・階層)なのだ。

景気がよければ職がある。交通費も弁当代もつく。景気が悪くなれば職はない。あるとしてもたまに、一日に入れる時間も、週のうち仕事に入れる回数も減ってゆく。当然、収入も、身分も、アイデンティティも、「労働者」としての世間からのわずかな尊重も失ったり、小さくなったりしてゆくわけだ。

以前のエントリーにも記したとおり、正社員なら許される作業効率の悪さ、会社への批判、正社員なら許される服装・髪型の自由、山登りのサークルに加わるなどの結社の自由・・・・・・すべてがアルバイトや派遣には閉ざされている。ルールというよりも“暗黙の了解”によって、あるいは、あまりに貧しくかつ不安定である状態によって、門は閉ざされる。会費も払えないのに、NPOに参加できるわけがない。スイミングクラブにも通いにくい。あまりに低収入で、かつ不安定だから。
日本国憲法に記された「移動の自由」もない。生きてゆくのに必死の収入では旅行もむつかしい。失業や半失業状態では、新しい不動産も借りられない。車のローンもしかり。

こんな雇用形態のどこが自由なのか? 入りたいときには職がない。入りたくないみなが嫌がって逃げ出す職場をまかされる。選挙民ではないけれど、選べるのははいめのうちだけ。あとは、不安定雇用という身分のしがらみから、一部の例外はのぞいて、抜け出せない。

g2005さんの記事にもあったとおり、「正社員」というニンジンを目の前にぶらさげればいくらでも酷使できる。実際、「もうすぐアルバイトから正社員にしてあげるから」と雇用主に言われながら、いざその期限がやってくると「もうちょっと待って」と言われてから半年も正社員になれないという例もある。同じような条件で、3年もそうなれないケースもある。

また、こういう状態はあまりおめでたくない。親類や友人の結婚式には出席を断られるか、遠慮することになりがちだ。晴れの席にはふさわしくないという判断だろう。

自らによって自らが動く。それが自由だとしよう。そうすると、会社の都合にふりまわされ、組合にも守ってもらえず、世間からはたたかれることのほうが多い不安定雇用は、不自由なのである。



そもそも労働って何?

2005-10-30 22:21:31 | 哲学・思想
 ここ数日、体調を崩したので、体を労わっていた。
 日本語では、中古・上代では、「悩み」は精神的苦痛のみならず肉体的苦痛も意味した。
 今でも、精神的な悩みは、肉体的な悩みにも通じている。肩こりがひどくなって、腕や手首まで痛んだこともあった。それがひいたころには、喘息の発作がやってきた。

 薬を飲み、家で寝ていた。なるべく休むようにした。すると、いくつかの苦しみのピークをむかえたのち、静まった。

 労働とは、労わって働くことと書く。「いたわる」は大事にするということだ。「働く」は、動き回る、活発に動くという意味だ。

 いまどきの労働は、ちっとも自分自身を労わらない。かといって、他人をいたわるわけでもない。単なる苦行になっているみたいだ。どうして、いつからこうなってしまったのだろう? 自分や他人をいたわる働きは、再生産労働に一括されてしまった。人生が充実するような労わり、かつ働く行為は可能だろうか?

 20代~30代くらいの同世代を見渡すと、労働関係で体を壊している人が多い。勤務先の乗っ取りにまいって寝込んだり吐いたりする人がいる。人間関係の苦痛により過呼吸症候群になったりしている。長時間の神経の疲れる労働に昼休みからバテてしまい、毎日のように昼食をとれない職種の人たちもいる。
あるいは、ストレスで極端にやせるか太るかしていたりする。
 精神的な苦痛もある。人と5分おきくらいに携帯の電話かメールでつながらないと、イライラ・ソワソワして落ちつかない人もいる。アニメやゲームのオタク趣味が、生きる気力をつなぐ命綱になっている者さえいる。 

 それらはすべて、不適当な労働がもたらしたものだ。長時間の勤務、プライバシーの保障されない共同体ゆえの苦しみ、不安定な雇用と不安定な企業存続の生み出す体調と気分の不安定。睡眠不足。
 いったい誰が、子どもにこうしたことを真似させたいと願うだろう。子どもたちも、親の世代の自己破壊型労働を好ましく思わなくても当然だ。
 
 (1)タイの少数民族・アカ族の子どもは、「お母さんについて森のことを学びたい」と語るという。資源の管理や薬草の知識など、彼らの森についての知識は相当なものがあるという。(2)カナダでは、先住民が、サケなど水産資源の管理法を熟知しており、それは白人の方法より優れていると最近の科学的研究により判明している。
 明治維新以降、わたしたちは学校を作り会社を作り役所を作って、よくなったということにしてきた。しかし、それとひきかえに、大切な世界を壊してきたのも事実だ。
 今この世界で、人が豊かで幸せであるための労働とは、そして将来労働をするための教育とは、いったいどのようなものだろうか? わたしたちはまだそれをつかんでいない。ということは、これからよく働き、よく学ぶ可能性もあるということだ。

 日々の生活が苦しくとも、決してあきらめずに探してゆこうではないか。
 どんなマイナスのなかにもプラスが、どんなプラスのなかにもマイナスが含まれている。肉体や精神の痛み・悩みは、決して無意味ではない。
 不思議にも、美しいものを作り出す原動力にもなりうる。泥沼の中には蓮の花が咲き、水鳥の群れは優美に泳いでゆく。秋には夕焼けを背景に赤とんぼが飛び交うだろう。水面には紅葉が散っている。
 
 未来に確かな約束は、ない。だからこそ、そこに向かってゆける。約束の地も約束の時もない。それでも人生は続く。他人も自分も信じられない状態から、それでも信頼できるものができれば、より強固な信頼が芽生える。絶望から希望は生まれる。
 
 ならば、現代に可能なよき労働をあきらめまい。その再生産である学習も。

 自宅で体を労わりながら、そんなことを考えた次第だ。

(1)講座 人間と環境 第一巻 自然は誰のものかーー「コモンズの悲劇」を超えて  福井 数義  秋道 智ヤ  田中 耕治 編 昭和堂1999 216P 総合討論(秋道 智ヤ 岩崎・グッドマン・まさみ 熊本 一基 佐伯 弘次 田中 耕治 野中 健一 葉山 アツ子 福井 勝義 宮路 淳子 鬼頭 秀一 山田 勇 家中 茂)のなかの福井の発言「たとえば、北タイの少数民族であるアカの人たちの調査で、少女に大きくなったときの夢を聞いたら、『お母さんから森の知識を受け継ぐことだ』と言う。それくらいかれらの森の知識は豊富です。そこへ国やNGOが『地球に緑を』ということで、焼畑の休閑林の若いところなんか荒廃農用地にみえるからマツを植えてしまう。結局、住民が使えなくなる。」
(2)同上書 81-82p岩崎・グッドマン・まさみ サケ資源減少とナムギースの人々 「新しいサケ漁管理法は専門教育を受けた漁業管理者によって導入された方法であり、その結果、サケ資源の減少を招いたことは明らかに先住民族の漁業の経験と知識が勝っていたことを証明していると指摘している。」
 

 

はたらく/じぶくる/じぶらく

2005-09-04 19:44:53 | 哲学・思想
 働くとは、はたのものをらくにしてやることだ、とよく言われる。
 ただし、働いている間はけっこう苦しいこともある。
 それでは、はたらく=じぶくる(自分は苦しい)なのか? といえば、違う。
はたをらくにしつつ、自分も楽しいとか充実するとかいうこともあるからだ。
 自分は、ある派遣会社を通じたイベントスタッフの仕事をしているときに、はたらく=じぶらく を味わった。
 ABC-TV主催の、奈良の唐招提寺というお寺の、数十年に一度の鑑真像公開イベントで、切符もぎりやお客の案内・誘導をする仕事だった。季節は寒い時期で、朝から晩まで広い寺の敷地内をかけめぐったりと体力はいった。それでも、仕事をする誇らしさとか、ありがたさ、喜びといったものを確かに感じられた。ちょうど同時期に開催されていた、同じ寺の東山魁夷という画家の襖絵と、中国の山水画の展示もあり、スタッフもいい絵を見ることができた。また、お茶の先生が、働くスタッフたちに、アルバイトも除外しないでお茶をふるまい、お庭を見せてもらったことも、うれしい驚きだった。
 なかにはインドのサリーを着たお客さんもいたし、身体障害者とそのご家族もやってきた。日本や世界の各地からやってきたいろいろな人に出会えて刺激的だった。
 コギャル系、英検は役に立たない英語だから勉強しないほうがいいとのたまう男性など、社会的に排除されているか、されかかっている人たちが派遣のアルバイトのなかにはいた。かんたんな数学、というよりも算数の問題がわからないために、上司の指示を理解できずにうろたえている短大生もいた。それでも、協力して大事な行事をやりとげる充実感と爽快感はたまらなかった。一週間ほどでその仕事は終わってしまったが、またやりたいと思わせるものがあった。

 わたしは、スキルが低いのと、長年の貧乏生活によって髪を整えるなど最低限の文化的なゆとりを剥奪された状態にある。そのため、そこの派遣会社からは締め出されてしまった。そのときは、親・兄弟も今よりももっとフリーターについて理解しておらず、一日3食食べることもできなかったのだ。やせていると、体力がない、もう使い捨てるころとみなされ、登録していても声がかからなくなる。だけれども、「よい仕事とは何か」を考えるにはいい経験だった。

 短期の不安定な雇用であり、時給800円、交通費は出ないという条件なので、
この雇用形態は賛成できない。けれど、仕事の内容は興味深く、またすばらしかった。スタッフどうしも、仕事の性格上、競争よりも協力のムードが強く、マニュアル的ではなく自然と声をかけあったり、にこやかな表情で、明るくおちついて働いていた。
 こうした、はたをらくにする と同時に自分が楽しくなるような仕事は、今のところマイナーだ。けれども、これから増やしてゆけないだろうか? 働くのと同時に自分が楽しくなるような仕事は。
過労死・過労自殺・心身症・軽い慢性的なうつ病などの問題も、はたらくのは自分が苦しくて当然という発想が一枚かんでいる。まず自分のためになって、しかも他人のためにもなる仕事(観)ってないだろうか? そういう仕事観の会社/社会なら、やすやすと仕事のしすぎで体を壊すこともないだろう。えんえんと残業を求め、終電の関係でほんの数分早く会社を出ることをも罪悪視するような風潮もなくなるにちがいない。
 自分も他人もらくになれる仕事や働き方は、かんたんには見つからないだろう。だからこそ求めてしまう。ま、ねばりづよく探しますか。今やっている楽器2種類で稼げるようになれば、それに近い状態もあるかも。(練習は孤独で気の滅入るものだけれど。)



 
 

INSTABILIAT

2005-06-12 17:21:18 | 哲学・思想
 ラテン語の instabilis は、不安定、ぐらつく、不確実、の意味。

 これをドイツ語・フランス語に名詞化すると、Instabiliat つまりインスタビリア-ト。不安定階級・不確実階級、またはぐらつき階級とでも言えばよいのか。

 アルバイト・パ-ト、のほか派遣・業務請負、契約社員、2~3年でリストラされる正社員などが含まれる。アジアのswet shop(こき使い工場)で「お前らのかわりは他に山ほどいるんだ」と言われながら働く工場労働者、天然資源開発の恩恵から遠ざけられる先住民も含まれる。開発計画によって持続可能な農耕・牧畜・狩猟・採集を奪われる人々もだ。あるいは、すさまじい開発、あるいは人の手が適切に入らないことによって生物多様性を減少させられ、絶滅の危機にある動植物をくわえてもいい。地球上におそらく一万5000種はいるであろう生物種のなかのひとつである人類の利益だけを考えることはできないのだ。

 わたしは呼びかけたい。まるで使い捨てカメラのように粗末にされている兄弟姉妹。インスタビリア-トよ。

 わたしたちは、ネオリベの奴隷ではない。それぞれの特性を生かしながら、ネオコンの専制に抵抗しよう!
 
 自然も文化もわたしたちのものだ。経済に売り渡すわけにはいかない。自分たちの価値を守ろうYO!

 精神科医のココロ主義は無視しよう。わたしたちの精神性は医者よりもはるかに高い。

 この星のインスタビリア-トよ、分割せよ! 労働者が、消費者が、市民が、伝統文化の守り手が、地球に広がるネオコンの悪影響を各個撃破しよう。
 多国籍企業による遺伝子組み換え食品は、それぞれの国で、地域で阻止しよう。
 不必要なダム、不必要な長期学校教育、合理化された原発と関連施設、病気を生み出し貧乏人を切り捨てる医療……をやめさせよう。個々の個人・グル-プが、それぞれの活動を行い、必要とあらば協力しよう。
 団結はいらない。団結などムリだからだ。自分たちがネオコンを分断統治しよう。相手にとってもやりにくいはずだ。何せ、誰と誰がつながっているのかわからないのだから。

 上のほう一割だか二割の金持ちの特権を、みんなにとっての人権に分割しよう。特権は一部のものしかもてないが、人権は誰でも持てる。
 それがダメならば、経済的に貧しく精神的には豊かな道を歩もう。つまり、分配だ。

 もう一度言う。万国のインスタビリア-トよ、分散せよ!

<追加情報2005.7.12>

ロナルド・ドーア著 石塚 雅彦訳「働くということーーグローバル化と労働の新しい意味」中公新書 2005年 4月、6月:107-108 
のなかに、次のような紹介がありました。
 
 南ヨーロッパでは、不安定な条件で働く非正規雇用の人々の割合が高い。イタリアでは最近、街の落書きに「プレカリアート」という新造語があらわれた。無産階級ではなく無安定階級の意味だ。2004年11月、ローマでスーパーマーケット略奪事件が起こった。その人たちは、略奪した商品を年金生活者に配った。また、インテリの非正規労働者、選択的パラサイト・シングルのフリーターが多かった。昔の日本の打ち壊しに「お守りの神様」が大事であったように、このグループは「聖プレカリア」(カソリック教にありそうな聖人の名前)を「不安定フリーターの神様」として拝んでふざけている。(要約はワタリによる)

↑ 手元にイタリア語の辞書がないため、プレカリアートのニュアンスまでは分かりません。
ワタリとしては、インスタント・カメラみたいに使い捨てにされちゃうのなら、インスタなんとかだろうと見当をつけて、小さなラテン語の辞典を引いたところ、instabilisを見つけました。それで、語尾にatをくっつけて、Instabiliatで記事を書いてみたのです。南ヨーロッパでは、けっこう大変な状態のようです。
フリーターの権利のための運動も、せまく一国的な視点だけではなく、他の国や地域のことも考慮してやらなければならないのだと、改めて思い知った次第です。そのためにも、旅行と語学が必要。英語とスペイン語とラテン語なら少しできるのですが、他はなかなか。
読者も、いい情報があれば、コメント、T・Bで連絡ください。

<追加情報2005.7.12>

 













 

NEETについて

2004-12-20 01:37:04 | 哲学・思想
 コメント欄で、ニートに関する議論が行われています。
 厳密にはフリーターとニートは別です。なお、自分としては、NEETというイギリス産の新用語そのものへの疑問も持っています。が、今日はそのことについて論じられません。
 
それで、NEETを擁護する議論を紹介します。ブックマークにもあるNATIVE HEART ブログより、
スト~ンド・タイムスの「ニート・イズ・ビューティフル」です。http://www.ne.jp/asahi/stoned.head/sh-home/diary/index.html
 
 わたしはこれらの議論すべてに賛同するわけではありません。しかし、マス・メディアがNEETたたきの集中豪雨状態になっている現在、思考のバランスをとるために紹介しておきます。

<2005年4月10日:追記>

 日本の霊長類学の創始者であり、生態学者・登山家・哲学者でもあった今西錦二も、多分今風に言えばニ-トだったのではないでしょうか?
 今西錦二は、50歳をすぎるまで公職についていませんでした。それも、昆虫学者として世に出た彼がはじめて就職したのは、自然科学のではなく人文科学の研究所だったのです。
 家が裕福だったため、実家の財産を使って、職に就かずに学問をできたのです。(京都大学の文机以外に備品のない部屋をもっていたけれど。)
 もし、今西が「失業産業」ともいわれる専門学校で資格取得やスキルアップに励んでいたら。あるいはマニュアル労働でしかないアルバイトで体力を消耗し、半失業状態でいたとしたら。
 そうしたら、きっと世界と日本の生命科学は、世界観も、今よりももっと貧しくなっていたはずです。
 経済・精神両面の豊かさを自己否定するような、不確かな未来予測に基づいた、個の人格と人権を蹂躙するニ-トたたきって何でしょうか? 青少年取締り政策の激しい時期に彼が生きていなかったことは、わたしたちにとって幸いです。
 もちろん、反自由主義者はこう言うでしょう。それは、昔なら旧制高等学校に通うようなひとにぎりのエリ-トのためのものだ。草の根で一般的にそんな自由を認めてはならない。費用対効果も悪い……等。
 それに対しては次のように答えましょう。これは、かつてJ・S・ミルが「自由論」において展開した古典的な論法ですが。
 今西錦二のような傑出した個人さえも、自由とゆとりがなければ業績を残せなかったのだ。ならば、才能のない凡人はどうか? 凡人が自由を与えられなければ、才人よりももっとその能力を可能性を発揮できなくなるのではないだろうか? ならば、凡人にも能力をのばすために自由が必要なのだ。

 旧東ドイツは、理由のいかんを問わず、3ヶ月以上失業したものには矯正労働収容所送りが待っていました。ご存知のとおり旧東ドイツは今では西に統合されています。当然、そういった政策のない西の側が豊かだったわけです。
 その事実をふまえたうえで日本の国益を考慮すると、ニ-トたたきが国益にかなうのか否か、怪しい可能性はあります。
 
 



  






 

貧しさは道徳的な悪か?--ネオコンの道徳的説教を超えて

2004-11-03 23:08:23 | 哲学・思想
オルタナテイブ大学on blog より転載。
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貧しさは道徳的な悪か?

開発・貧困 / 2004年10月27日 01時58分50秒

貧しいから悪いのか? 難しい問題だ。

一口に貧しさといってもいろいろある。
自分の意思によって選んだ貧しであれば、あまり苦痛ではないし、周りの軽蔑も少ない。そうでなければ耐えがたい。
また、時代や地域によって、貧しさへの見方は星の数ほどある。
それが罪悪視されるようになったのは、勤勉道徳が一般的になる近代以降だろう。

貧しさが一律に罪悪視され、断罪され、侮辱される文化環境はマトモなのか?

インドの行者への尊敬、四国88箇所のお遍路さんへの地元の歓待を見るに、それはたいへん精神的に貧困な、物質崇拝の激しい世界ではないだろうか?

もちろん、餓死すれすれとか、水もなくて「干からびる(神保)」状態では、こんなことは言えない。それでも、節度のある生活を送り、カネやモノ中心ではない心や関係というものを愛する世界は、貧しさを忌み嫌い、遠ざけ、隔離さえする世界に比べて豊かではないだろうか? 中産階級中心の文化と距離をとれるかどうか。それが、たとえばホームレス排除やアメリカの要塞都市といった殺伐とした行為に賛成するかどうかのメルクマールである。

Shiro さんは信仰により「貧しきものは幸い」と主張している。
それが悲惨さの隠蔽に当たらないかぎりは、わたしはこの主張に賛成する。
人類は、これまで貧しい中を生きてきた。時に食料に欠きながら、歌い・踊り・家を作り、暮らしてきた。それを、現在の大量消費・大量生産文明の先進国の中産階級の基準を持って侮辱してはならないと思う。河原乞食の伝えた歌舞伎を、その他の文化をあなどってはならない。

岡倉天心が「東洋の理想」で紹介しているのだが、唐の太宗皇帝は、民が餓えているのを知って食を断った。高倉天皇(一説には安徳天皇)は、民が寒さに餓えているのを知って着物をお脱ぎになられた。昔ヴィデオで見たのだが、アフリカの採集狩猟民ピグミー(ムブティ)は、食料が手に入らないときに、みなで平等に餓えに対峙する。それゆえのストレスで暴れる人がいても、大目に見ていた。
こうした弱者へのいたわり、餓えるときにはともに餓えようという強い絆、それらを失って世界の富を独り占めするのが果たして道徳的に正しいと言えるのか? 貧しい他者をあわれんだり見下したりする資格があるのか? 答えはNOだ。

フリーターや引きこもりやNEETを罪悪視し、清潔な社会のなかの「ケガレ」扱いする憎しみに満ちた論説は、まともではない。労働者階級や中世以前や第三世界や各先住民の文化に学びながら、もう一度、貧しさは絶対にいけないのかどうかを、検討することは重要な論点である。


自立という攻め言葉1

2004-10-08 21:34:30 | 哲学・思想
「自立」

 この語は強者から弱者へ使われる。逆に使われることはない。

 途上国の自立は要請される。先進国からえらそうに説教めいた調子で語られる。しかし、途上国から先進国が「わが国の資源に依存している。もっと自立しろ」と責められることはない。

 正社員はフリ-タ-に自立しろと強要する。しかし、フリ-タ-が自分たちの分の給与や福利厚生をけずった分正社員はフリ-タ-に依存的だ、やめろと叫ぶことはない。たいていの場合、申し訳なさそうに俯いて「ええ、そうですね」などと語るのが精一杯だ。
あるいは、身分の高い相手の自尊心のお守りとして「ああ、そうか、そうですよね」などと、それをこれまで一度も考えたこともなかったように、幼児ぶって答えることもある。屈辱的だが、そうしなければ正社員のなかにはキレる人もいる。クビが怖ければご機嫌伺いをするしかない。いつもそうしていると、そうしたくない場面でもいつものクセがつい出てしまう。


 また、自立は絶対なのか? 誰の自立なのか? その点も問われることはない。
先進国の中産階級風の生活ができること、大量生産・大量消費を問わず欧米近代文明を疑問に思わず、「給料も役職も右肩上がり」の神話を信じてやっていくこと。貧富の差に決して心を痛めないこと。豊かになれば、貧しいものに「もっと成長しろ・進歩しろ」と家父長的に傲慢に説教をすること。
 どうも、それが「自立」の正体らしい。

 近代的な学校教育において、先住民の文化を滅ぼすことや、「落ちこぼれ」を作ったことを祝う「進学・進級」という儀礼に何の疑問も持たない人間が、もっともよく自立を成し遂げる。

 彼らは相互扶助・福祉を徹底して忌み嫌う。平和運動のミ-テイングの後、参加者の一部がいっしょにファミリ-レストランで食事をすることになった。失業者や低所得者らがコ-ヒ-一杯、あるいはおつまみメニュ-をひとつなど低額のものを注文する同じテ-ブルで、ひつまむしセットなど割高のメニュ-を注文する。サヨクでフェミニストの大学教員を中心とするグル-プは、それを貧しいものに分け与えることはなかった。また、支払いはワリカンではなく各自で、と仕切っていた。フリ-タ-やそれに準ずる身分の低い正社員たちを敵視し、さげずみ、罪悪視するまなざしがそこにあった。ひとりだけ、自分と仲のいい隣の人にメニュ-をとりわけた人もいたが、やはり同情のまなざしがあった。
 その大学でフェミニストに教育を受けたお弟子さんの一人は、強硬な反福祉論者である。
彼と自分との会話を紹介しよう。ヴォイスデコ-ダ-を起こしたわけではなく、大雑把な内容を書いてある。

フェミニストの弟子 「オレはアナ-キスト。政府も法律も要らない。国があるから戦争が起こる。おかしいと思わないかい? 『同じ家族として』だの『同じ国民として』だのと言いながら、人の嫌がることをやるなんて……! ヒドイじゃないか! そんなことをして何が気持ちイイんだよォ! だから、国は廃止すべきなんだ。」
ワタリ 「え、政府を廃止する、ですって……? 」
フェミニストの弟子 「そう。町とか村とかでみんなで社会を運営すればいい」
ワタリ 「それに、国の福祉の役割はどうなるの? 例えば、失業手当とか、母子家庭手当てとか。奨学金や健康保険は?」
フェミニストの弟子 (不機嫌になってきて尊大な態度で)「そんなものは要らない。」
ワタリ「そうはおっしゃっても、例えば交通事故にあって働けなくなったり、リストラされたりしたらどうするの? 」
フェミニストの弟子 「 そんな、交通事故とか母子家庭とか失業者は、そいつらだけで集まって
福祉をした人だけが集まって村でも作ってやっていればいい」
ワタリ(半ばボ-ゼンとしながら)「何? 自分とか、家族や友達が同じ目にあってもそう言えるんですか?」
フェミニストの弟子 「当たり前。」
ワタリ 「それじゃ、あなたは、所得税は国による個人の財産権の侵害に当たるとでも?」
フェミニストの弟子 「そう! 国の税金とか年金とか、全部権利侵害だよ! あんなもの、なくなっちまえばいいんだあ!」

 アメリカのリバタニアリストの考えに影響を受けたとおぼしき彼の発想は、個人や各コミュニティの「自立」を前提とした発想である。彼は「自立」という語さえ発さなかった。それは、自立が当然の前提となっていたからだ。
 その後飲み会などを付き合ってわかったのだが、彼と近所に住んでいたり昔通っていた大学のよしみもあって親しくしている人たちは、みな一様に「自立」を強調する人たちだった。教師、大学教員、公務員、活動専業主婦など安定した、時間の余裕のある人たち
が大半を占めていた。 

そういう人たちは、「貧しさ」をマイナスとみなし、今の文明の基準による「豊かさ」を崇拝しているようだった。たとえイラク戦争に反対しているとしても、今の生活様式=生活水準を変える気は毛頭ない。

世界に飢える人をなくすために、ほんのわずか自分たちのぜいたくを慎む気はないのだ。喜捨も所得税もすべて「悪」なのだ。そして、貧者に汚名を着せ、社会的に排除しようと試みる。

こういった勢力から「自立」という具体的なイメ-ジが不明で強迫観念じみた物言いが発せられている。

 だいいち、自立したくてもできないと悩む人に対して「あなたが自立していないのは自立していないからだ。ケシカラーン。自立しろ。」と説教する同義反復にいつになったら気づくのだろう?
安価な労働力に依存して収益をあげる企業を「低賃金労働者に依存するな、自立しろ」と説教しないのはなぜだろう? 天下りする官僚を「官僚ネットワ-クと特殊法人に依存心が強すぎる。自立しろ」と批判しないのはなぜだろう?

 自立という恣意的な価値観は、具体的な意味やニュアンスを忘れたまま、弱者の自己責任を追及するセリフである。

 



 

メモ・ランダムーー現実を隠蔽しないための

2004-10-03 04:00:25 | 哲学・思想
書簡25 パスカル氏の『パンセ』について
38
身分の高い人でも低い人でも、災難、苦悩、煩悩は同じだ。だが一方は車輪の先端におり、他方は中軸近くにいる、だから同じ動転によっても後者は揺られ方が少ない。


身分の低いものが高いものよりも揺られ方が少ないというのは嘘である。反対に、彼らの絶望感は、切り抜けの手だてが少ないだけにずっとはげしい。ロンドンで自殺する100人のうち、99人が下層民であり、上流の身分の者はわずかに1人といったあんばいだ。車の○えは気がきいているが眉唾物である。

※○はごんべんの上部に壁の上半分。たとえ。

ヴォルテール著 林辰夫訳 「哲学書簡」岩波文庫1951,1980,2002 246P

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別の手紙(1675年11月24日付け、グリニャン公爵夫人宛て書簡ーー訳者)で彼女はこう付け加えている。

 あなたはわたしたちの地方の不幸について大層楽しげに語られますが、私たちはもうそれほど人を車裂きにしてはいません。8日に一人処刑して、正義を維持しているのです。絞首刑は今ではちょっとした気晴らしのように思えるのは本当です。この地方に来てから、私は正義についてまったく新しい考えを持ちました。あなたのところのガレー船を漕ぐ囚人たちなど、私には、案隠な暮らしを送ろうと世間から身をひいた紳士方の集まりのように思われます。

 これらの文章を書いたセヴィニェ夫人が我執の強い残忍な女だと思ったら間違いだろう。彼女は心から子どもたちを愛し、友人の悩みには強い同情を示している。その書簡を読むと、彼女が家来や従者を優しく寛大に扱っていたとさえ認められる。しかしセヴィニェ夫人は、それが身分ある人のことでない場合には、苦しさというのがどんなことか、はっきりと理解することはなかったのである。

アレクシス・ド・トクヴィル著 岩永健吉郎・松本礼二訳 「アメリカにおけるデモクラシー」
 研究社 昭和47年、58年 140P (第三部 第一章 諸階層が平等化するにつれ習俗はどのように和らいでいくか)

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バルサックは女に女王様であるとおもいこませながら、実際には奴隷としてとりあつかえばいいのだと男に勧告したが、(中略)多くの男子はこれほど露骨にはいわず、女はほんとうに恵まれた存在なのだという風に説きつけようとする。今日、アメリカの社会学者の中には《Low-clss gain》 すなわち、《下層階級の利得》という説を大まじめに主張するひとがいる。フランスでもーーこれほど科学的なやりかたではないがーー労働者は《身なりをかまわんで》いいから得だということが言ってこられた。さらにまたルンペンたちはボロをまとい、道端にゴロ寝することもできるが、ボーモン伯爵とか、あのヴァンデルのあわれな紳士連中にはこんな楽しみは許されない。からだの虱を手ばやくひっかいている気楽な乞食たちや棍棒でたたかれてニタニタ笑っている快活な黒人たち、また餓死したわが子を口元に笑みを浮かべながら埋葬するあのスッスの陽気なアラビア人たち、これらの連中と同じように女は《責任を問われぬ》というあの比類ない特権を享受している。苦痛も責任も懸念もない彼女は、あきらかに《割がいい》側にいる。

ボーヴォワール著 生島遼一訳 「第二の性」(5分冊のうち3冊目 自由な女)新潮文庫 昭和34年、46年 198-199P 

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以上の3つの引用から分かるのは、現在、再び階層が分化しているとの疑いだ。
そして、別々の階層は互いに同じ人間だと思えないほどになっている。
フリーターと正社員との間にはたいへんな差がある。昔風に言えば「身分」の差が。現在、デモクラシーが退潮しつつあるのだ。
貴族社会の制度は、人の一般的な同情心を育てない、しかし政治的な絆で人を結びつけるとトクヴィルは述べた。農奴は貴族のために身をなげうち、貴族は名誉にかけて領地と領民を守る、といった具合にだ。
これは、戦争を起こすためにはとても都合のよい制度だ。また、人が人だからということでは大事にされない、主人だから、または領民だからということでないと大事にされない非情なシステムだ。個人が個人として生きられず、互いを思いやることもないのである。
ところで、今ではかつての貴族社会のような義務感を人々は持っていない。経営者が何が何でも従業員を守りはしない。国は国民を守ろうとしないことは、沖縄国際大学への米軍ヘリコプター墜落事故の際、顕著にされた。いわゆるシャッター商店街ーー実際にはゴースト・タウンーーは、東京による地方切捨て政策の象徴だ。自立したくてもできないフリーターもその流れの中で生み出された。

 上の3つの引用から明らかになるもうひとつのことは、階級・階層・人種・ジェンダーの低いものを「すばらしい」「よい」とする言説のいかがわしさだ。それは隠蔽であり、検閲であり、勘違いなのだ。
 ボーヴォワールが暴いたとおり、相手を神のように王のように思わせて支配するという戦略もあるのだ。
 したがって、この手の言説を真に受けてはいけない。

最後に、みに さんのコメントより。

会社の面接で言われたことがあります
「アルバイトの方が自分の都合で好き勝手に勤務できて自由でいい」

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この正社員の思考パターンは、まさに、貴族が奴隷を、男性が女性を見る視線と重なる、ともはや説明する必要もないでしょう。