どんな仕事だってないよりはマシだ。たった一日でも仕事があると会社や友人から連絡が入れば、なんとしてもかけつける。日雇いの身とはそんなものだ。
ところで、職場でけっこうつらい任務がある。これもイリイチの言うシャドウ・ワ-ク(影の労働)のひとつにカウントしてはどうかと思うのだが。機能集団の中で、村人でもないのに村人ぶる業務のことである。(ちなみにvillancico とは、中世からルネッサンス期の音楽CDを聴いているとよく出てくる語で、「村人」よりも「村っ子」というニュアンスがある。「江戸っ子」とか「横浜っ子」というのと同じ感覚だと思ってほしい。現スペイン語でmexicana といえばメキシコ人のことだが、mexicanito と語尾を変化させるとメキシコっ子という意味になる。何か小さなものを表すときに-ito,-icoといった語尾をつけるので、多分中世のラテン語で○○っ子の意でいいと思う。)
さて、村っ子労働の内訳だが、昨日・今日会ったばかりで、明日には配置転換や職場転換になるかもしれないもの同士が、仲良しを演じなければならないのだ。とりあえず敵ではなく味方だと示すためだけなら、あいさつや微笑みだけで充分だろう。しかし、たくさんの業務がある。
その会社の社風・カラ-にあわせること。なるべく周りのみなと同じ服装や髪型でいること。同じドラマに同じ程度に興味を持つこと。会社の中のおかしな風習に批判を言わないこと。上司や先輩の不正や横暴に目をつむり、苦情者を密告すること。なるべくよく似たイント-ネ-ションでしゃべること。
さらに、一人でたくさんしゃべりすぎないこと。漫談は歓迎だが、真剣な対話は禁止。真剣な議論には必ず誰かが横槍を入れてぶち壊さねばならない。プライバシ-を大切にしてはならない。できれば、自己暴露をすることが望ましい。ただし、ひとりでたくさんしゃべりすぎては僭越、生意気、浮いている。これすべて最大の罪悪。
アルバイトのくせに正社員よりも要領がよかったり、仕事について詳しくてはいけない。正社員なら自由に見れる職場の掲示板、社内新聞などはアルバイトは閲覧禁止。職場に慣れて影響力を発揮するなど身分不相応。SP(セ-ルス・プロモ-ション)の会社でスリ-・サイズや血液型や彼氏の有無を訪ねられたときには嫌がるそぶりを示してはいけない。一日12時間拘束なのに、一日中トイレ使用禁止の職場で、それでもどうしてもトイレに行かせてくださいとお願いしてはならない。会社に迷惑をかけるから。年長のフリ-タ-は会社にいてはいけない。それは若いものの見習い仕事だから。つまり、年功序列を乱すな。
もちろん、「封建的」「原始的」と言われるのはあくまでモデル名にすぎない。各時代の再編成を受けた共同体が、近代市民社会と混在しながら、各個人の人格と人権を圧搾しつつあるのだ。
そこに合理的・科学的思考はいらない。なんとなくみなといっしょである「かのように」振舞うことこそ必要だ。
あいまいなその基準からはみ出すと、いやがらせののちクビだろう。少し茶色の茶髪ならいいが金髪みたいなブリ-チはダメとか、茶髪はいいけれどピアスはとってくださいとか、会社や職場、その場の担当者によっても判断が違う。募集広告と実際がズレている場合もあれば、管理職とその知り合いはフリ-・パスだが、その他大勢は規制だらけということもある。複数の会社を廻る身は、混乱してしまう。
みなといっしょでないだけで、いやがらせは始まる。ひとつのチ-ムのなかでたまたま一番年長か年少だというだけで、小突かれ、異端者扱いされ、追い詰められる。別の世代や性別の者と親しげに話しただけで、皆の前で叱責し恥辱を与える。同じ会社・職場というだけで、デ-トしてもらって当然だと思ってうたがわない男性正社員やアルバイタ-たち。
クビにならないために、いじめ・いやがらせの餌食にならないために、好きな服も買えない。フリ-タ-の低賃金では、仕事用とプライベ-ト用の両方の服やくつをそろえることはできないからだ。
机の上のハサミやカッタ-がいつ凶器となるか分からない、馴れあいと殺伐の同居するオフィスで、冷や汗と緊張感に見舞われる。いつ仕事の連絡のメ-ルが「炎上」するか分からない恐ろしさとともに携帯やPCを開く。派遣会社登録の個人情報が売買されているかどうか、知れない。それでも、「ヒュ-マン・スキル」として、明るく楽しそうにふるまわねばならない。給料も保障も正社員なみにあるように、決してやせこけず、ゆとりあるような中産階級的な身振りを示す「必要」を作られる。そこから外れれば、クビ、そして次は、たいへん雇われにくくなるにちがいない。
みなが同じ「村の子」というわけではないのに、そのように振舞う仕事。
村人ぶっていては会社への批判もできず、かえってリストラ・賃下げ等がひどくなる悪循環なのだが。それでも目先の保身術や惰性に流され、個人としてふるまう勇気を学校教育によってスポイルされて、村っ子ぶっている。
いつもみないっしょ。長々だらだら残業するのは楽しい。せまい休憩室にキツキツの状態でたむろするのは面白い。早朝出勤はハイになって気持いい。休日出勤は「どうせヒマだしいいよ。」えんえんと人のプライバシ-を詮索する。給料や保障のことを話すのは、神秘のタブ-に包まれている。みながやっているかぎり神聖にして犯すべからざる。みなといっしょなら法王にも天皇にもなれる。
自分たちの人権を主張する同じフリ-タ-をたとえ労働組合主催のイベントで見つけても、会社のクセをひきずって、怖がり、敬遠する。「あなたはとても悪い人でしょう」とはねのける。いじめの実態を調べるための社会調査に誘われれば、「どうしてあなたは今同じ職場で働いている仲間でもないのに、電話してくるのか!」と怒鳴っている。現在の会社村社会の常民とも言える正社員ではないため、「エタ・非民」に近い立場にあるフリ-タ-の大半が自らを恥じていることも認識せずに調査に協力を依頼したわたしもわたしだった。これは「あなたは、差別主義者だ!」などと罵られても仕方がない。ひたすらに拒絶されても当然だろう。
が、もうひとつ、自分たちの不正や残虐さが明るみに出ることへの拒否という意味あいもあるのだろう。(調査のお手伝いをしているうちに自分自身がめちゃくちゃになってきたので、調査のお手伝いは途中で断られることになった。)
長年、村っ子労働を演っていると、だんだんとおかしくなってくる。名誉やプライバシ-感覚が鈍る。いじめやいやがらせやリンチに対して罪悪感が薄れる。「人格」とか「人権」とか「実存」といった言葉が絵空事に見えてくる。自分と他人の区別のつかない危うい状態が進行する。
後に残されるのは、性別や年齢や学歴や役職による(半)身分的な縛りである。個人の自由をすべてわがまま、自意識過剰、甘え・ふざけと決めつける反自由主義的感情は恒常化する。多様性をどこか醜いものと感じ、意見を出したり投票したりする権利・つまり公民権への敵視である。いつも相手の言葉の裏の裏まで読み、独立心ある個人を追いつめるためならば、何でもやるようになってしまう。そのための情報とスキルを磨くことが「コミュニケ-ション・スキル」「ソ-シャル・スキル」などと呼ばれ、奨励されている。
もしその流れに反抗すれば、精神科医(流)のお説教が待っている。「(幼児的)万能感が消えていない」「去勢不全」「出会いぞこない」「会社には行けるが、心がひきこもっている云々。
何よりも、村っ子労働をやりなれすぎると、情趣が分からなくなる。何の根拠があってか、人は会社村に生まれ、会社村に死すことになっている。それも、一人になって落ち着く時間などなく、いつも集団の熱気の中に包まれることが唯一の幸福とされている。
そこでは、平家物語にも出てくる「生者必滅、会者定離」の感覚もない。要するに「もののあわれ」の感覚がないのだ。だから平気で人を縛りつけたり閉じこめたりするような真似ができる。村っ子集団としてならば、いつもならできないことも何でもできる、それって素晴らしい! というのが村っ子の意見の最大公約数だ。
なお、かわいらしくきゃあきゃあと騒いでいる村っ子が、型にはまった大人らしさ/子どもらしさから自由な存在だと思ってはいけない。村っ子労働にいそしんでいる人たちは--それが面従腹背の場合は例外だが--子どもの権利や子ども差別反対について語ったり行動したりしない。むしろ、もっとも年少の者に仕事に必要な情報を流さず、少し違った服装だというだけの理由でとてつもなく辛く当たるのは優秀な村っ子ワ-カ-である。
村っ子ワ-クは、人の冷静・沈着さを破壊する。合理的・論理的・客観的なものの見方や行動を溶解・変質させしてしまう。人と距離をおきたいときに、人間にとって大切な隙間をとれなくしてしまう。
組合にも村っ子労働は見られる。団結、連帯、ガンバロ-、そして組合行事に休まず参加すること。男尊女卑、年功序列は当たり前。会社での村っ子労働に違和感や苦痛を覚える若い世代は、組合にも裏切られるわけだ。
村っ子労働は、長時間労働や労働密度の強化と同じく職場の環境を悪くする。労働密度が低まると、今度はみながいっしょを演じる労働に借り出されて、自我認識がぼやけてくる。会社の外での人づきあいや、自分自身とのつきあいがおろそかになるのである。自分を知らないものが他人を知ることはできず、世界を知ることもかなわない。そうして、人を愚かにさせるワ-クは完了する。
かつて、旧厚生省の役人だった宮本政於は役所の村社会的慣習を著書で批判した。そうすると、有給休暇を取っただけで、懲戒免職になった。そのことを日本のマスコミ等で訴えると、一時は文化スタ-扱いされたが、後にパ-ジされることになった。イギリスやフランスで日本社会のおかしさを訴えながら、彼はパリで客死している。
日本の職場のいたるところに宮本はいる。ほんの少し職場の問題を指摘したから、当然の権利を利用したから、違った風情をかもしだすから、といった理由で、組織の仕事全体の効率を落としてでも人を囲い込み、排除し、追い落とす。業績悪化によるリストラも、そういったいじめ・いやがらせ、それを支える村っ子労働と抱き合わせで行われている。
会社側は、村っ子労働を、労務管理の一環として暗に認知している。組合も、組織固めの基盤として反対する気はない。このたいへんな労働を廃止するためには、地道な啓蒙が必要なのだろう。間違っても「村っ子労働に賃金を!」 などとやってしまってはダメだろう。
最後に。ここで書いた村っ子労働をわたしもそうとうやってきた。そして、会社村以外での人づき合いや働き方にその悪い癖を持ち込み、他人に迷惑をかけ、自分を粗末にしてきた。そのことの罪深さを自覚しながらこのエッセ-をしたためた。せまじきものは村っ子労働。
ところで、職場でけっこうつらい任務がある。これもイリイチの言うシャドウ・ワ-ク(影の労働)のひとつにカウントしてはどうかと思うのだが。機能集団の中で、村人でもないのに村人ぶる業務のことである。(ちなみにvillancico とは、中世からルネッサンス期の音楽CDを聴いているとよく出てくる語で、「村人」よりも「村っ子」というニュアンスがある。「江戸っ子」とか「横浜っ子」というのと同じ感覚だと思ってほしい。現スペイン語でmexicana といえばメキシコ人のことだが、mexicanito と語尾を変化させるとメキシコっ子という意味になる。何か小さなものを表すときに-ito,-icoといった語尾をつけるので、多分中世のラテン語で○○っ子の意でいいと思う。)
さて、村っ子労働の内訳だが、昨日・今日会ったばかりで、明日には配置転換や職場転換になるかもしれないもの同士が、仲良しを演じなければならないのだ。とりあえず敵ではなく味方だと示すためだけなら、あいさつや微笑みだけで充分だろう。しかし、たくさんの業務がある。
その会社の社風・カラ-にあわせること。なるべく周りのみなと同じ服装や髪型でいること。同じドラマに同じ程度に興味を持つこと。会社の中のおかしな風習に批判を言わないこと。上司や先輩の不正や横暴に目をつむり、苦情者を密告すること。なるべくよく似たイント-ネ-ションでしゃべること。
さらに、一人でたくさんしゃべりすぎないこと。漫談は歓迎だが、真剣な対話は禁止。真剣な議論には必ず誰かが横槍を入れてぶち壊さねばならない。プライバシ-を大切にしてはならない。できれば、自己暴露をすることが望ましい。ただし、ひとりでたくさんしゃべりすぎては僭越、生意気、浮いている。これすべて最大の罪悪。
アルバイトのくせに正社員よりも要領がよかったり、仕事について詳しくてはいけない。正社員なら自由に見れる職場の掲示板、社内新聞などはアルバイトは閲覧禁止。職場に慣れて影響力を発揮するなど身分不相応。SP(セ-ルス・プロモ-ション)の会社でスリ-・サイズや血液型や彼氏の有無を訪ねられたときには嫌がるそぶりを示してはいけない。一日12時間拘束なのに、一日中トイレ使用禁止の職場で、それでもどうしてもトイレに行かせてくださいとお願いしてはならない。会社に迷惑をかけるから。年長のフリ-タ-は会社にいてはいけない。それは若いものの見習い仕事だから。つまり、年功序列を乱すな。
もちろん、「封建的」「原始的」と言われるのはあくまでモデル名にすぎない。各時代の再編成を受けた共同体が、近代市民社会と混在しながら、各個人の人格と人権を圧搾しつつあるのだ。
そこに合理的・科学的思考はいらない。なんとなくみなといっしょである「かのように」振舞うことこそ必要だ。
あいまいなその基準からはみ出すと、いやがらせののちクビだろう。少し茶色の茶髪ならいいが金髪みたいなブリ-チはダメとか、茶髪はいいけれどピアスはとってくださいとか、会社や職場、その場の担当者によっても判断が違う。募集広告と実際がズレている場合もあれば、管理職とその知り合いはフリ-・パスだが、その他大勢は規制だらけということもある。複数の会社を廻る身は、混乱してしまう。
みなといっしょでないだけで、いやがらせは始まる。ひとつのチ-ムのなかでたまたま一番年長か年少だというだけで、小突かれ、異端者扱いされ、追い詰められる。別の世代や性別の者と親しげに話しただけで、皆の前で叱責し恥辱を与える。同じ会社・職場というだけで、デ-トしてもらって当然だと思ってうたがわない男性正社員やアルバイタ-たち。
クビにならないために、いじめ・いやがらせの餌食にならないために、好きな服も買えない。フリ-タ-の低賃金では、仕事用とプライベ-ト用の両方の服やくつをそろえることはできないからだ。
机の上のハサミやカッタ-がいつ凶器となるか分からない、馴れあいと殺伐の同居するオフィスで、冷や汗と緊張感に見舞われる。いつ仕事の連絡のメ-ルが「炎上」するか分からない恐ろしさとともに携帯やPCを開く。派遣会社登録の個人情報が売買されているかどうか、知れない。それでも、「ヒュ-マン・スキル」として、明るく楽しそうにふるまわねばならない。給料も保障も正社員なみにあるように、決してやせこけず、ゆとりあるような中産階級的な身振りを示す「必要」を作られる。そこから外れれば、クビ、そして次は、たいへん雇われにくくなるにちがいない。
みなが同じ「村の子」というわけではないのに、そのように振舞う仕事。
村人ぶっていては会社への批判もできず、かえってリストラ・賃下げ等がひどくなる悪循環なのだが。それでも目先の保身術や惰性に流され、個人としてふるまう勇気を学校教育によってスポイルされて、村っ子ぶっている。
いつもみないっしょ。長々だらだら残業するのは楽しい。せまい休憩室にキツキツの状態でたむろするのは面白い。早朝出勤はハイになって気持いい。休日出勤は「どうせヒマだしいいよ。」えんえんと人のプライバシ-を詮索する。給料や保障のことを話すのは、神秘のタブ-に包まれている。みながやっているかぎり神聖にして犯すべからざる。みなといっしょなら法王にも天皇にもなれる。
自分たちの人権を主張する同じフリ-タ-をたとえ労働組合主催のイベントで見つけても、会社のクセをひきずって、怖がり、敬遠する。「あなたはとても悪い人でしょう」とはねのける。いじめの実態を調べるための社会調査に誘われれば、「どうしてあなたは今同じ職場で働いている仲間でもないのに、電話してくるのか!」と怒鳴っている。現在の会社村社会の常民とも言える正社員ではないため、「エタ・非民」に近い立場にあるフリ-タ-の大半が自らを恥じていることも認識せずに調査に協力を依頼したわたしもわたしだった。これは「あなたは、差別主義者だ!」などと罵られても仕方がない。ひたすらに拒絶されても当然だろう。
が、もうひとつ、自分たちの不正や残虐さが明るみに出ることへの拒否という意味あいもあるのだろう。(調査のお手伝いをしているうちに自分自身がめちゃくちゃになってきたので、調査のお手伝いは途中で断られることになった。)
長年、村っ子労働を演っていると、だんだんとおかしくなってくる。名誉やプライバシ-感覚が鈍る。いじめやいやがらせやリンチに対して罪悪感が薄れる。「人格」とか「人権」とか「実存」といった言葉が絵空事に見えてくる。自分と他人の区別のつかない危うい状態が進行する。
後に残されるのは、性別や年齢や学歴や役職による(半)身分的な縛りである。個人の自由をすべてわがまま、自意識過剰、甘え・ふざけと決めつける反自由主義的感情は恒常化する。多様性をどこか醜いものと感じ、意見を出したり投票したりする権利・つまり公民権への敵視である。いつも相手の言葉の裏の裏まで読み、独立心ある個人を追いつめるためならば、何でもやるようになってしまう。そのための情報とスキルを磨くことが「コミュニケ-ション・スキル」「ソ-シャル・スキル」などと呼ばれ、奨励されている。
もしその流れに反抗すれば、精神科医(流)のお説教が待っている。「(幼児的)万能感が消えていない」「去勢不全」「出会いぞこない」「会社には行けるが、心がひきこもっている云々。
何よりも、村っ子労働をやりなれすぎると、情趣が分からなくなる。何の根拠があってか、人は会社村に生まれ、会社村に死すことになっている。それも、一人になって落ち着く時間などなく、いつも集団の熱気の中に包まれることが唯一の幸福とされている。
そこでは、平家物語にも出てくる「生者必滅、会者定離」の感覚もない。要するに「もののあわれ」の感覚がないのだ。だから平気で人を縛りつけたり閉じこめたりするような真似ができる。村っ子集団としてならば、いつもならできないことも何でもできる、それって素晴らしい! というのが村っ子の意見の最大公約数だ。
なお、かわいらしくきゃあきゃあと騒いでいる村っ子が、型にはまった大人らしさ/子どもらしさから自由な存在だと思ってはいけない。村っ子労働にいそしんでいる人たちは--それが面従腹背の場合は例外だが--子どもの権利や子ども差別反対について語ったり行動したりしない。むしろ、もっとも年少の者に仕事に必要な情報を流さず、少し違った服装だというだけの理由でとてつもなく辛く当たるのは優秀な村っ子ワ-カ-である。
村っ子ワ-クは、人の冷静・沈着さを破壊する。合理的・論理的・客観的なものの見方や行動を溶解・変質させしてしまう。人と距離をおきたいときに、人間にとって大切な隙間をとれなくしてしまう。
組合にも村っ子労働は見られる。団結、連帯、ガンバロ-、そして組合行事に休まず参加すること。男尊女卑、年功序列は当たり前。会社での村っ子労働に違和感や苦痛を覚える若い世代は、組合にも裏切られるわけだ。
村っ子労働は、長時間労働や労働密度の強化と同じく職場の環境を悪くする。労働密度が低まると、今度はみながいっしょを演じる労働に借り出されて、自我認識がぼやけてくる。会社の外での人づきあいや、自分自身とのつきあいがおろそかになるのである。自分を知らないものが他人を知ることはできず、世界を知ることもかなわない。そうして、人を愚かにさせるワ-クは完了する。
かつて、旧厚生省の役人だった宮本政於は役所の村社会的慣習を著書で批判した。そうすると、有給休暇を取っただけで、懲戒免職になった。そのことを日本のマスコミ等で訴えると、一時は文化スタ-扱いされたが、後にパ-ジされることになった。イギリスやフランスで日本社会のおかしさを訴えながら、彼はパリで客死している。
日本の職場のいたるところに宮本はいる。ほんの少し職場の問題を指摘したから、当然の権利を利用したから、違った風情をかもしだすから、といった理由で、組織の仕事全体の効率を落としてでも人を囲い込み、排除し、追い落とす。業績悪化によるリストラも、そういったいじめ・いやがらせ、それを支える村っ子労働と抱き合わせで行われている。
会社側は、村っ子労働を、労務管理の一環として暗に認知している。組合も、組織固めの基盤として反対する気はない。このたいへんな労働を廃止するためには、地道な啓蒙が必要なのだろう。間違っても「村っ子労働に賃金を!」 などとやってしまってはダメだろう。
最後に。ここで書いた村っ子労働をわたしもそうとうやってきた。そして、会社村以外での人づき合いや働き方にその悪い癖を持ち込み、他人に迷惑をかけ、自分を粗末にしてきた。そのことの罪深さを自覚しながらこのエッセ-をしたためた。せまじきものは村っ子労働。