フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

villancico work 村っ子労働

2005-03-25 00:07:00 | 現状
 どんな仕事だってないよりはマシだ。たった一日でも仕事があると会社や友人から連絡が入れば、なんとしてもかけつける。日雇いの身とはそんなものだ。

 ところで、職場でけっこうつらい任務がある。これもイリイチの言うシャドウ・ワ-ク(影の労働)のひとつにカウントしてはどうかと思うのだが。機能集団の中で、村人でもないのに村人ぶる業務のことである。(ちなみにvillancico とは、中世からルネッサンス期の音楽CDを聴いているとよく出てくる語で、「村人」よりも「村っ子」というニュアンスがある。「江戸っ子」とか「横浜っ子」というのと同じ感覚だと思ってほしい。現スペイン語でmexicana といえばメキシコ人のことだが、mexicanito と語尾を変化させるとメキシコっ子という意味になる。何か小さなものを表すときに-ito,-icoといった語尾をつけるので、多分中世のラテン語で○○っ子の意でいいと思う。)
 
 さて、村っ子労働の内訳だが、昨日・今日会ったばかりで、明日には配置転換や職場転換になるかもしれないもの同士が、仲良しを演じなければならないのだ。とりあえず敵ではなく味方だと示すためだけなら、あいさつや微笑みだけで充分だろう。しかし、たくさんの業務がある。
 その会社の社風・カラ-にあわせること。なるべく周りのみなと同じ服装や髪型でいること。同じドラマに同じ程度に興味を持つこと。会社の中のおかしな風習に批判を言わないこと。上司や先輩の不正や横暴に目をつむり、苦情者を密告すること。なるべくよく似たイント-ネ-ションでしゃべること。
 さらに、一人でたくさんしゃべりすぎないこと。漫談は歓迎だが、真剣な対話は禁止。真剣な議論には必ず誰かが横槍を入れてぶち壊さねばならない。プライバシ-を大切にしてはならない。できれば、自己暴露をすることが望ましい。ただし、ひとりでたくさんしゃべりすぎては僭越、生意気、浮いている。これすべて最大の罪悪。
 アルバイトのくせに正社員よりも要領がよかったり、仕事について詳しくてはいけない。正社員なら自由に見れる職場の掲示板、社内新聞などはアルバイトは閲覧禁止。職場に慣れて影響力を発揮するなど身分不相応。SP(セ-ルス・プロモ-ション)の会社でスリ-・サイズや血液型や彼氏の有無を訪ねられたときには嫌がるそぶりを示してはいけない。一日12時間拘束なのに、一日中トイレ使用禁止の職場で、それでもどうしてもトイレに行かせてくださいとお願いしてはならない。会社に迷惑をかけるから。年長のフリ-タ-は会社にいてはいけない。それは若いものの見習い仕事だから。つまり、年功序列を乱すな。

 もちろん、「封建的」「原始的」と言われるのはあくまでモデル名にすぎない。各時代の再編成を受けた共同体が、近代市民社会と混在しながら、各個人の人格と人権を圧搾しつつあるのだ。
 そこに合理的・科学的思考はいらない。なんとなくみなといっしょである「かのように」振舞うことこそ必要だ。
 あいまいなその基準からはみ出すと、いやがらせののちクビだろう。少し茶色の茶髪ならいいが金髪みたいなブリ-チはダメとか、茶髪はいいけれどピアスはとってくださいとか、会社や職場、その場の担当者によっても判断が違う。募集広告と実際がズレている場合もあれば、管理職とその知り合いはフリ-・パスだが、その他大勢は規制だらけということもある。複数の会社を廻る身は、混乱してしまう。
 みなといっしょでないだけで、いやがらせは始まる。ひとつのチ-ムのなかでたまたま一番年長か年少だというだけで、小突かれ、異端者扱いされ、追い詰められる。別の世代や性別の者と親しげに話しただけで、皆の前で叱責し恥辱を与える。同じ会社・職場というだけで、デ-トしてもらって当然だと思ってうたがわない男性正社員やアルバイタ-たち。
 クビにならないために、いじめ・いやがらせの餌食にならないために、好きな服も買えない。フリ-タ-の低賃金では、仕事用とプライベ-ト用の両方の服やくつをそろえることはできないからだ。
 机の上のハサミやカッタ-がいつ凶器となるか分からない、馴れあいと殺伐の同居するオフィスで、冷や汗と緊張感に見舞われる。いつ仕事の連絡のメ-ルが「炎上」するか分からない恐ろしさとともに携帯やPCを開く。派遣会社登録の個人情報が売買されているかどうか、知れない。それでも、「ヒュ-マン・スキル」として、明るく楽しそうにふるまわねばならない。給料も保障も正社員なみにあるように、決してやせこけず、ゆとりあるような中産階級的な身振りを示す「必要」を作られる。そこから外れれば、クビ、そして次は、たいへん雇われにくくなるにちがいない。
 みなが同じ「村の子」というわけではないのに、そのように振舞う仕事。
 村人ぶっていては会社への批判もできず、かえってリストラ・賃下げ等がひどくなる悪循環なのだが。それでも目先の保身術や惰性に流され、個人としてふるまう勇気を学校教育によってスポイルされて、村っ子ぶっている。
 いつもみないっしょ。長々だらだら残業するのは楽しい。せまい休憩室にキツキツの状態でたむろするのは面白い。早朝出勤はハイになって気持いい。休日出勤は「どうせヒマだしいいよ。」えんえんと人のプライバシ-を詮索する。給料や保障のことを話すのは、神秘のタブ-に包まれている。みながやっているかぎり神聖にして犯すべからざる。みなといっしょなら法王にも天皇にもなれる。
 自分たちの人権を主張する同じフリ-タ-をたとえ労働組合主催のイベントで見つけても、会社のクセをひきずって、怖がり、敬遠する。「あなたはとても悪い人でしょう」とはねのける。いじめの実態を調べるための社会調査に誘われれば、「どうしてあなたは今同じ職場で働いている仲間でもないのに、電話してくるのか!」と怒鳴っている。現在の会社村社会の常民とも言える正社員ではないため、「エタ・非民」に近い立場にあるフリ-タ-の大半が自らを恥じていることも認識せずに調査に協力を依頼したわたしもわたしだった。これは「あなたは、差別主義者だ!」などと罵られても仕方がない。ひたすらに拒絶されても当然だろう。
 が、もうひとつ、自分たちの不正や残虐さが明るみに出ることへの拒否という意味あいもあるのだろう。(調査のお手伝いをしているうちに自分自身がめちゃくちゃになってきたので、調査のお手伝いは途中で断られることになった。)

 長年、村っ子労働を演っていると、だんだんとおかしくなってくる。名誉やプライバシ-感覚が鈍る。いじめやいやがらせやリンチに対して罪悪感が薄れる。「人格」とか「人権」とか「実存」といった言葉が絵空事に見えてくる。自分と他人の区別のつかない危うい状態が進行する。
 後に残されるのは、性別や年齢や学歴や役職による(半)身分的な縛りである。個人の自由をすべてわがまま、自意識過剰、甘え・ふざけと決めつける反自由主義的感情は恒常化する。多様性をどこか醜いものと感じ、意見を出したり投票したりする権利・つまり公民権への敵視である。いつも相手の言葉の裏の裏まで読み、独立心ある個人を追いつめるためならば、何でもやるようになってしまう。そのための情報とスキルを磨くことが「コミュニケ-ション・スキル」「ソ-シャル・スキル」などと呼ばれ、奨励されている。
 もしその流れに反抗すれば、精神科医(流)のお説教が待っている。「(幼児的)万能感が消えていない」「去勢不全」「出会いぞこない」「会社には行けるが、心がひきこもっている云々。
 何よりも、村っ子労働をやりなれすぎると、情趣が分からなくなる。何の根拠があってか、人は会社村に生まれ、会社村に死すことになっている。それも、一人になって落ち着く時間などなく、いつも集団の熱気の中に包まれることが唯一の幸福とされている。
 そこでは、平家物語にも出てくる「生者必滅、会者定離」の感覚もない。要するに「もののあわれ」の感覚がないのだ。だから平気で人を縛りつけたり閉じこめたりするような真似ができる。村っ子集団としてならば、いつもならできないことも何でもできる、それって素晴らしい! というのが村っ子の意見の最大公約数だ。
 なお、かわいらしくきゃあきゃあと騒いでいる村っ子が、型にはまった大人らしさ/子どもらしさから自由な存在だと思ってはいけない。村っ子労働にいそしんでいる人たちは--それが面従腹背の場合は例外だが--子どもの権利や子ども差別反対について語ったり行動したりしない。むしろ、もっとも年少の者に仕事に必要な情報を流さず、少し違った服装だというだけの理由でとてつもなく辛く当たるのは優秀な村っ子ワ-カ-である。
 村っ子ワ-クは、人の冷静・沈着さを破壊する。合理的・論理的・客観的なものの見方や行動を溶解・変質させしてしまう。人と距離をおきたいときに、人間にとって大切な隙間をとれなくしてしまう。
 組合にも村っ子労働は見られる。団結、連帯、ガンバロ-、そして組合行事に休まず参加すること。男尊女卑、年功序列は当たり前。会社での村っ子労働に違和感や苦痛を覚える若い世代は、組合にも裏切られるわけだ。
 村っ子労働は、長時間労働や労働密度の強化と同じく職場の環境を悪くする。労働密度が低まると、今度はみながいっしょを演じる労働に借り出されて、自我認識がぼやけてくる。会社の外での人づきあいや、自分自身とのつきあいがおろそかになるのである。自分を知らないものが他人を知ることはできず、世界を知ることもかなわない。そうして、人を愚かにさせるワ-クは完了する。
 かつて、旧厚生省の役人だった宮本政於は役所の村社会的慣習を著書で批判した。そうすると、有給休暇を取っただけで、懲戒免職になった。そのことを日本のマスコミ等で訴えると、一時は文化スタ-扱いされたが、後にパ-ジされることになった。イギリスやフランスで日本社会のおかしさを訴えながら、彼はパリで客死している。
 日本の職場のいたるところに宮本はいる。ほんの少し職場の問題を指摘したから、当然の権利を利用したから、違った風情をかもしだすから、といった理由で、組織の仕事全体の効率を落としてでも人を囲い込み、排除し、追い落とす。業績悪化によるリストラも、そういったいじめ・いやがらせ、それを支える村っ子労働と抱き合わせで行われている。
 会社側は、村っ子労働を、労務管理の一環として暗に認知している。組合も、組織固めの基盤として反対する気はない。このたいへんな労働を廃止するためには、地道な啓蒙が必要なのだろう。間違っても「村っ子労働に賃金を!」 などとやってしまってはダメだろう。

 最後に。ここで書いた村っ子労働をわたしもそうとうやってきた。そして、会社村以外での人づき合いや働き方にその悪い癖を持ち込み、他人に迷惑をかけ、自分を粗末にしてきた。そのことの罪深さを自覚しながらこのエッセ-をしたためた。せまじきものは村っ子労働。
 

流動性に制約を

2005-03-24 22:55:39 | 現状
 乞食芸から世界の舞台へかけあがった故・高橋竹山。日本の青森地方に伝わる津軽三味線奏者として名高い彼は、芸のために各地を渡る貧しく不安定な生活を思い起こして、一箇所に住みたいと思ってばかりいた、と述べている。

 これは、フリ-タ-としてあちこちの会社や職場や配置を流されていると、切実に理解できる。あまりよくない労働環境。軽んじられ、ケガレ扱いされ、犯罪者予備軍扱いされさえする日々。落ち着いて一箇所に勤められる正社員が無性にうらやましく思えてくる。正社員なんてせいぜい中産階級なのに、相手が貴族のように思えてくる。そして、自分(たち)を情けなくみずほらしく思い、段々嫌いになってゆく。
 その低い給料や保障、たった1日でもクビになる過酷な立場を無視して「がんばればなんとかなる」と主張する正社員。昔なら奴隷か召使の仕事をやっているゆえにバカにされる現実を無視して「それは単なる役割であって、人格は対等」とタテマエ論によって相手の悲鳴を封殺してしまう観念的な文科系の先生がたは、その辛さに拍車をかける。

 確かに、まったく移動してはならない、移動は罪、などという江戸時代的な制約は撤廃されてしかるべきだ。あまりに不自由で非合理的だからだ。
 だからといって、何でもいいから移動していればよいというわけでもないのである。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。度重なる配置転換、会社間移動、一日に何社もかけもちする仕事がいかに疲れるか。タテマエでは「忠誠心」「一所懸命」が疑いなき価値とされる世界で、他の会社や職場や部署のことを隠して、自分たちがどこの会社から派遣されたかも秘密にしなければならない。それは、身をむしばむ重圧である。

 もう悲哀はたくさんだ。「生者必滅、会者定離(えしゃじょうり)は浮世の習い(平家物語)」というのは確かに一理ある。けれど、貴族の「もののあわれ」の題材にされてばかりではたまらない。労働者や失業者は、秋の山に散らばる枯葉とは違うのだ。
 せっかく職場になれてきたころにクビにするのが日常茶飯事では、生活の基盤はない。そこに住んでいるという実感もわかない。それで人間関係が悪い、もっとコミュニケ-ションや出会いを……と宣伝する妙な医者や労働経済学者もいるのだが、なんとものん気な話をしているサロンもあるものだ。
 この雇用の過剰流動性に抗して、落ち着いてあの世に行けることを望んで悪いだろうか? コンクリ-トで3面を固めた川では住める生物の種類が限られてくる。多分、人間社会にもおなじことが言える。あまりに早いと生物として反応できるスピ-ドをはるかに超えた環境で生きられなくなる個人やグル-プが増えるのではないだろうか。
 異様な、圧倒的な移動性に反して、基盤となる人間関係を求めておかしいだろうか?
 変わりえぬ基盤があってこそ、移動の旅に出たくなるものではないだろうか? いつもの家族や友人がいて、いつもやっているル-チンの仕事がある。そこに経済的な安定の基盤がある。
 貧しくとも、経済的に安定していてこそ、時折訪れる異邦人との出会いと別れを、ゆとりと安定をもってむかえられるのではないだろうか? もちろん、自分たちの共同体内部の異分子についても鷹揚に受け入れられるだろう。
 たとえば、不登校の子どもを3年間で半分にする大阪府の政策のごとき流動不安現象は静まるだろう。フリ-タ-を恐れたり、ニ-トを罪悪視することを煽ることが、利権と結びつくことなく、どこかへと消滅してくれるだろう。
 
 今日の超・流動的な社会に一定の制限をかけることを、流れの中で翻弄され、沈みかけている一人として訴えたい。ある程度職場にいなければ身につかないこともあるのだから。群れで生きる生き物である人間にとって、リストラは何度やられてもなれることの難しいストレスフルな出来事である。
 もちろん、会社側にも言い分はあるだろう。だが、決してそれはほめられたことではないはずだ。あわない会社ならクビになったほうがその人にとっても幸せだとの論調もある。また、それが本人の欠点への自覚をうながし、教育的な効果があがるとの指摘もある。
 ネイティブ・アメリカのある民族では、子どものしつけとして、言うことをきかなかったり困ったことを繰り返す子どもを村が無視するという。しかし、しかるべき行動を学習したとみなされたあとは、無視は解除されるという。この、しばしの後にシカトが解除されるということがなければ、ただいたずらに人を傷つけ排除するだけに終わる危険性もある。
 もちろん、会社とネイテイブの村とでは話が別だし、おかしな人と縁を切る自由は、時代に応じて再編成されつつある今日の日本の共同体の圧迫をかわす権利として確立されてしかるべきとの主張にはわたしも同意している。だが、ある日いきなり仲間やなれた環境から追い出されることは多少なりとも人にとって苦痛であろう。オウム真理教のようにそこを出たい人を閉じこめるのは論外として、何でもいいから人を追い出せばいいというものではないのだ。ましてや、そこに教育的な効果などを期待するのは、あくまでも結果論である。いつもその因果関係が成り立つかどうかはいかがわしい話ではないだろうか?
 
 

ダラケの弊害

2005-03-17 08:25:58 | 現状
 消極的な抵抗としてのサボタ-ジュがある。やりがいのない、退屈で、いつ終わるとも知れない作業をこなすうちに、徐々にスピ-ドや集中力が落ちてくる。身体的な疲れと心理的なストレスの相乗作用ではないだろうか?
 コントロ-ルできない仕事のなかで、唯一コントロ-ルできるのは、スピ-ドだ。それも、自分を大事にして会社や上司の非合理的な作業計画や、自分たち自身で作り上げた自主規制の画一世界を、わずかでもラクなものにするために、クビにならないギリギリのところで作業速度を落としている。

 なので、残業は増える。だんだん会社にいる時間は長くなる。小休憩をはさみ、夜食を食べてまで、えんえんと仕事をやっている。そんなこんなするのも、残業をしなければ生活が苦しい賃金だからだけれど。

 一番の問題は、毎日そうして勤めるうちに、他の仕事や勉強まで、低出力でやるクセが身につくことだ。何をやるにも全力を出し切れない。6割なら6割の力しか出せなくなる。毎日の慣習とは恐ろしい。こうして器用さ、集中力、大胆さ、いろいろな技量が衰えてゆく。あるいは新しく身につきにくくなってしまう。これは、プライベ-トの人生にとって致命的だ。
 もちろん、生産効率も幾分落ちているだろう。だけれども、時に会社がお茶・おにぎり、場合によってはクリスマス・イブのアイスクリ-ムを用意してまで、どこまでも労働時間を引き延ばす。 あたかもブロガ-が縦に長く文章を引き伸ばすように、早朝出勤、休日出勤、残業、徹夜、泊り込み……と職場滞在時間は増えてゆく。

 そうなるともう、会社や職場の外の世界はこの世にないように感じるようになる。例えば新聞にはリアリティがない。気がついたら冷蔵庫はカラになっている。役所での銀行での手続きがなおざりになっている。
 新入りはなかなか抜けさせてくれないが、少し長くいつくと休憩時間をオ-ヴァ-して郵便局やコンビニに行くことが許される。それで一段と会社中心の生活が深まる。深夜まであいている駅前ス-パ-も増えた。そのことによって、ますます夜遅くまでの作業を当たり前で、不便ではないと考えるようになってしまう。
 休憩時間に携帯で家族や友人と連絡をとれれば、なおさら錯覚は大きくなる。実際に相手といっしょにすごせるのではないのに、そうだと思い込む。簡単な用事なら携帯の電話とメ-ルですませられるので、どんどん通話料はかさむ。PC・モバイルの使える情報環境では、なおさらだ。それで疲れて、初詣に行けないとか、友人からの電話に数ヶ月も半年も出られないなんてことも起こる。

 つまり、能力は衰退し、すべてを会社にゆだねるようになってしまう。プライベ-トの生活はあってなきがごときものになる。アフタ-・ファイヴならぬアフタ-・終電なんてシャレになっていない。これでは会社のためにもならない。

 惰性でか、長老の顔を立てるためか、「こんなにがんばって働いている」という世帯主が扶養家族に印象づけるためなのか、長時間労働は終わらない。もちろん、仕事の量の増減もあるし、なんでもいいからハイ・ペ-スの高密度労働ですっとばして、日や一週のおわりにはガクっと効率が落ちるのでは困る。按配は難しい。
 だからといって、何もあそこまでダラダラとやる必要があるのか分からないんだけれど、どうよ?








 


更新のお休み+調査・革命お断り

2005-03-11 04:42:21 | Weblog
 しばらく、不定期でこちらのブログの更新をお休みすることにしました。
昔の辛かった事や不快だったことを思い起こしてブログらしい長文に仕立て上げるのは骨の折れる作業なのです。このブログを更新するストレスも相当のものです。

 コメント・TBの管理にも時間と集中力が必要です。

 ちょっと1、2ヶ月くらいは休まないといけないかもしれません。もうコメント・TB、ならびにメ-ル、すべてにお返事できません。

 このブログのアカウントは取り消しません。エネルギ-が充電したら、再開します。

 それから、ジャ-ナリスト・研究者の方へ。調査はお断りします。2回ほどすったもんだがあって、どうして調査を断ったほうがよいのか、学習したので。
 いくつもの市民団体や労働組合関係者から、どれほど調査が論外的にダメであるか、とうとうと説教された理由が、いま明確に分かります。
 調査って言うのはやはり調査対象をつかまえて苦しめてしまうところがあって、必死に嫌がる人がいるのも分かる気がします。もちろん、相手も仕事ですから、そのへんをうまく言いくるめるスキルはしっかり持っています。相手が地位の高い方だと断りにくいのももちろん利用して、情報をとろうとします。そこで断ろうとすると何かと大変なのです。
 人の奴隷になりたくなければ調査は断れ。アクテイヴィストの面々に、お前はアホか、絶対に断れとこき下ろされ、恐怖と苦痛で泣き叫ぶ人まで目撃することになったのです。世界古典文学を引用されて論難されることも。危機感で息のつまる状態の人たちから、四方八方から叩かれて、壊れそうでした。
 一人目の調査の方は、わたしを狭い世界に閉じこめようとしたので、必死に逃げ去りました。
 二人目の調査者には、かなり危なっかしい、強引過ぎるほど強引なやり口で、つきあいを拒否してもらいました。残念なことに、そのときのわたしに使える(ように見えた)手段は他にありませんでした。
  とにかく、もうやりとりはないというので最近やっと開放されたのですが。
 そんなこんなで、調査だけはお断りです。これほど争いに争い、消耗するとは、

それから、革命というのもダメです。いずれ革命への恐怖も克服しないといけないのでしょう。それでも、以前「フリ-タ-を寮に入れて真人間に更正させる」という施設の方に目をつけられて、アルバイトなどやめて、まずそこの引き出し団体のオフィスに通い、革命をやろうなどと、生活破壊的なお説教を長期間にわたって受けときには困りました。読書暦の関係から、革命にはマイナスのイメ-ジのほうが強いですし。とにかく、革命をやりたい方は、わたしを誘わないでください。どちらかといえばわたしは、反革命だと思っています。
 もっとも、メ-ルをいただいた革命の方は、非暴力の革命を志す方だったと後で判明したのですが、恐怖心を克服できず、過剰防衛してしまいました。革命の協力者を求める方は、メ-ルを控えてください。

(2005/3/12 gooの規約に触れるおそれのあった部分を訂正しました。調査だけではなく革命を断る旨も追記しました。)