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アメリカ産白浪もの--ダンサ-・イン・ザ・ダ-ク

2004-09-11 01:59:59 | 映画&本
 東欧出身の移民が、自らの生命と息子の目の治療をはかりにかけて処刑されてゆく物語。
2001年の公開。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005L97N/qid=1094843220/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8016210-2673053

 
 最近、やっと観れた。貧乏生活は、レンタルビデオの楽しみも奪う。どうせ観れないと思うと情報もチェックしなくなる(できなくなる)。それで、観たいと望んだ作品を数年、ひどぴときには10年ほども遅れて見ることになる。当然、正社員で生活の安定した人とは話があわず、「やる気がない」「自立していない」「甘えるな、ふざけるな」「(なぜか被害者ヅラをして)古いよ~!(人を軽蔑した視線)」という対応がかえってくる。落ち込むのはこっちだが、相手は何かとお説教をしたがる。
 あとになってから「あの人たちネオコン(新しいバカ)だ」と思いなおしても遅い。
まあいい。歌舞伎とか能なんて数百年遅れて見るんだ。数年の遅れでガタガタ言うな、というわたはすでに歪みはじめている?

 話の本題に移ろう。
 東欧からアメリカに移民した女性セルマ。息子の目の手術を成功させるか、自分の生命をとるかの二者択一をせまられる。結局、彼女が選んだのは、後者だった。
 自由主義は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」選べることだとアドルノは言った。しかし、彼女に残されたのは、息子の目の治療しか選べなかった。
 人生に疲れたのか、生きた証を残したかったのか。
 彼女の選択を身勝手だという人もいるだろう。しかし、ほかに彼女が納得できる選択肢は残されていなかったのだった。
 不安定な雇用、社会福祉のなさ、「自立」イデオロギ-の呪縛、中産階級中心主義の文化の壁、貧しさイコ-ル不道徳という偏見、それにだんだんと見えなくなっていく自分の目。多重苦に囲まれた彼女が尊厳をもって生きるために、道はほかになかったのである。

 セルマを助けようとする友人・理解ある看守・ヤル気まんまんの弁護士の努力もむなしく、彼女は最後には処刑されてしまう。
 日本の歌舞伎にも、恵まれない境遇から犯罪者になったものが、しまいには自殺をしたり心中をしたり幕府の手のものと戦って切腹をはたすスト-リ-がある。
 たとえば「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)」。三人の恵まれない立場の若者が、徒党を組んで悪事を犯す。やがて、お上の知るところとなり、なんとか逃げようとするが、徒党のうち一人がつかまってしまう。なんとか兄貴分を助けたい一心のお嬢吉三は、鐘を鳴らす。そうすれば監獄都市・江戸の各町にしつらえられた木戸がいっせいに開けられ自由に移動できるからだ。三人は雪の中で落ち合い互いに会える幸せをかみしめたあと、互いに殺しあって果てる。
 雪の降るさまが太鼓によって表されるラストシ-ンをTVで観たが、大変美しかった。やはりこの歌舞伎もセリフは七五調で書かれており、形式美に流れると嫌うむきもある。
 
 ダンサ-・イン・ザ・ダ-クはアメリカの白浪ものである。貧しさに追い詰められて悪事を働く人間にも「三部の利」があることをていねいに描いていくからだ。また、七五調のかわりに主人公・セルマのシュ-ルで空想的なミュ-ジカルのシ-ンが挿まれるのも似ている。
 
 ここで思いおこすのは、壮子の「胡蝶の夢」だ。ある日壮周は蝶になった夢を見た。朝になっておきてみると、「自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも、蝶が自分になった夢を見ているのか」と自問する話だ。
 彼女が選ばざるをえなかった生活と環境。それは法廷で支配的な中産階級中心のリアリティではとらえられなかった。それは、法廷の場では語りえぬ世界だった。セルマにとってはつらい労働と足りないお金と自己犠牲の連続こそ、日常だったわけだ。
 工場の労働はたいへん疲れて気分が悪くなる。わたしも経験があるので分かる。ケガや事故も多い。自分で自分の仕事のやり方を調整できない。簡単に人をクビにする業界でもある。それは現代社会における誰もが嫌がる「貧乏くじ」だ。
 そのなかで、彼女は工場の機械のリズムをダンス音楽と感じはじめる。危険で疲れる仕事を、楽しいミュ-ジカルの舞台だと思う。多分それは生きるためのユーモアだったのだろう。
 そのことを「現実逃避」「幻聴・幻覚」などととがめる人もいるかもしれない。だが、彼女にとってはそれが真実だった。でなければ耐えられなかった。また、他の者も同じ立場になれば同じ反応をするかもしれない。だとしたら、誰が彼女を責められるのか?
 いいかえれば、何を現実とし、何を幻想とするかは実は恣意的な正当性(正統性)によっているのではないか? 

 セルマは絞首刑直前に歌い、処刑場を劇場に見立てることによって恐怖に耐え、自らのギリギリの選択をまっとうしようと試みたのだった。
 わたしはそれを責める気にはなれない。彼女は彼女なりに必死に生きようとした。そして日本の歌舞伎とはちがい、個人として死んでいった。
 江戸時代なら、彼女の処刑を延期し再審を請求しようと証拠集めに奔走する友人二人と心中するか切腹をして果てていたのだろう。
 
 まるで歌舞伎のようなこの映画に親しみと共感を覚えずにはいられない。とても残酷でかつ美しい映画だった。
 それはまた、現代のアメリカにおける下層階級が、日本の江戸時代の庶民と同じように圧制に苦しみ、資本の循環のなかで生きがたさをかかえていることの現れでもある。

↓「三人吉三廓初買」については下のHPがよく説明されています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin50.htm



(これは下書きです。数日以内に趣旨を変えない程度に手を入れる予定です。)
 
 
 
 

 

 

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