フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

魔物としてのコミュニケーション

2004-09-25 10:37:17 | 文化
 コミュニケーションはフリーターにとって魔物だ。

 よくフリーターはコミュニケーションに難があると言われる。(その点、「引きこもり」と似ているとも。)
 これは、正社員中心のムラ共同体たる会社中心の発想だ。それはまた言葉の暴力であり、文化の暴力だ。
 その言説をばらまく彼(女)らは、だいたいは社会的地位の高い人たちだ。それで、「あなたは自分を磨く努力をしていない」「人づきあいを大切にしていない」「人と人との間で生きていけないかわいそうな人」といったことを叫ぶ。怒鳴る。
 冗談ではない。いい加減にしてほしい。
 その人たちにとって、「人」とは正社員のことなのだ。正社員はたとえば、交通費が出ないなんて考えにくいし、ちょっと病気やケガをしても簡単にはクビにならない。人から軽蔑されることもない。正社員しか受けられない研修から外されてもいない。部分就業でも半失業でもない。残業時間が長くても、自立できる。マスコミに揶揄される情報に囲まれることもない。それはフリーターからすれば特権階級のようなものだ。
 「自分を磨く努力」は、最低限の自尊心と生活レベルの確保できる正社員の特権みたいなものだ。明日のライフ・ライン例えば携帯を維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。)を確保できるかどうかも分からない貧しい人間には関係ない。(1)今の社会の「魅力」が中流~上流の人たちのそれに限定されていることも、問題を深くする。
 「人づきあい」は大事だと思う。けれど、特に90年代半ばごろから、余裕がない。以前はときどきしていたことーー誰かの家に集まってクリスマスパーティーを開くとかーーは、今はもう昔だ。少なくとも自分とその周りの人間ではそうだ。「父親福祉」(竹信三恵子)が使える人は別かもしれないが、違う条件の人たちもいることを忘れてはならない。
 そもそも、そういう人たちが前提とする「人」とは、だいたいは中産階級の暮らしのできる正社員のことである。また、学校教育の中で大きく失敗した人も含まれない。人生の途中で経済的に苦労した経験を持つ人もいないようだ。その人たちの言い分をよく聞いていると、フリーターどうしの職場が変わる中でなんとかメールで連絡を保つことは人づきあいのなかに入れない。「とにかく、人と会え!」などとお説教をしてくる。しかし部屋は狭く散らかっている。私の場合は片付けられない。人が余裕がなくて、他人に親切にしたり、恥ずかしくない格好で街に出たり、ちょっと喫茶店に入ったりするお金もないのにそれを求める。もちろん、ムリをして借金をしたり、ボロボロの格好で外に出たり、最新の情報を仕入れていなかったりすれば「何をやっているんだ!」と叫ぶ。「古いよ~!」とバカにしつつ抗議してくる。
また、また、「つきあい」のパターンも正社員中心のものだ。一日一日いっしょに働くメンバーが変わる日雇いのフリーターには無関係だ。
 なのに、ムリヤリいっしょの価値判断で人を計る。あまりに不公平な競争だ。経営者の価値観に媚びた考えだ。狭い、偏った、就職試験に使うことも考慮の余地のある発想ではないのか? ただ、こういうことを言えば「ルサンチマンが強すぎる」「攻撃性が強すぎる」「コミュニケーション能力がない」とさらに非難をあびる。
 だから、みなおとなしくヘラヘラ笑っている。でもストレスはたまるので、時々キレる人や、いきなり相手につっけんどんな態度をとる人も出てくる。そうするとまた「攻撃性が~」「コミュニケーションを大事に~」とのお説教だ。
 明るさ、ゆとりのあるさわやかさの強要もそうだが、これは「象徴暴力」だ。社会学者のブルデューが言い出した概念で、言葉や文化、恣意的な正当性などによって特定の偏った価値を押し付けるという意味で使われる。物理暴力の対抗概念だ。
 象徴暴力を打ち破ることができるのは、オルタナティブな象徴暴力だろう。
 「いい人」を演じて疲れ果てる。そもそも自分の生活実態とあわない演技を強いられて、努力とガマンを重ねて自分の素直な考えと感情を裏切り、あげくのはてによりスムーズにそれをこなせるグループから「不自然」となじられる。それもまた、社会的な配分によっているのに。それもまた文化の中の概念なのに。
 そこで「自然主義の誤謬」を持ち出せば、また「頭はよくても性格が悪いんだね」といった道徳的なお説教が飛んでくる。
 それでも、わたしは「抵抗勢力」になってしまう。短いフリー・スクールの生活で身に着けた「パレーシア」の慣習があるから。つまり、自分と同等かそれ以上の者の前で自分の真実と思うところを、リスクをかけても訴えるから。すなわち、古代ギリシャの民主制を支えた「権利の平等」
と並ぶもうひとつの柱を守るべき価値とみなすので。

 そういえば、もともと内申書・勤務評定・心のノートにも反対なのだった。コミュニケーションとかいう階級差別の道具にして意味不明の選抜手段に忠誠を誓いたくはない。たとえ江戸時代の家臣のように切腹を命じられてもあえて「異心」を抱きたい。

 絶望の状況と気分がわたしにこれを書かせた。
 
 人づきあいは大事だ。しかしそれは自分が自由に選べないといけない。また、互いに尊敬できないと難しい。互いに偏見を抱き、自分たちの未来のなさ、今の悲惨から目をそむけるために互いに軽蔑しあう今の状態では、フリーターどうし、継続的に相手とつきあいたいとは思えないことが多い。もちろん、ひとつの職場に長くいられないこと、職場のサークル等に規則と経済的条件の両方の理由によって所属できないこと、地域のNGOによる無料または安価な社交サークルが充実していないことなども原因のうちだ。
 そのような多重苦のなかで、いつも明るく上品に礼儀正しくふるまえ、と言われても本当に困難なのだ。
 もちろん、正社員にそう言わせる背景には経営者の集団的自己中心主義が存在する。それこそを最も強く批判しなければならない。しかし、スポンサーに遠慮してばかりのTVなどには難しいだろう。
 それでも、コミュニケーションとか自然主義とかとかは、争いたい。自分の権利と尊厳のために闘っていきたい。



(1)例えば、携帯電話が使えるように維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。携帯電話は会社やフリーター仲間との連絡に欠かせない。フリーターの職場はよほどのことがないかぎりコンピューターを使えない環境にあるからだ。また、携帯所持者出なければ連絡に不便だからと雇用を嫌がる会社もある。ある労働組合アクテイヴィストは「今は携帯電話が『寄せ場』になっている」と語っている。彼によると、携帯を通じて細切れの≒日雇いの仕事の情報を手にしているというわけだ。

 

(ここは後で注をつける予定です。少々、お待ちください。)
 
 

 
 
 
 
 
  
 
 
 


ガラスの板~赤信号

2004-09-25 02:14:03 | 現状
 フリーター生活はガラスに囲まれた生活と似ている。
 ずっと長く続けられそうな職がある、と思うけれど、ない。求人広告はネットにも雑誌にも張り紙にもたくさんあるように見える。だけど、手が届かない。少なくとも自分の20代後半以降、90年代の半ば以降はそうだった。
 ガラスの天井、というキーワードがある。キャリアウーマンが、男性総合職と同じように出世できそうでいてできないこと、また有形無形のその障壁を指す言葉だ。
 フリーターの場合は、四方八方をガラスで囲まれているようだ。
 
 自分は、二十代半ばから、だんだんと面接に行けなくなった。面接に向かう途中で道のりが以前の数倍にも思える。面接時間はずっとつづく赤信号。永遠に渡れないものであるように見える。そして、なんとかやっと職を見つけたときには、もう疲れ果てて燃え尽き寸前の状態だ。当然、ミスも多く、スピードも遅い。他の人に気を使う余裕もない。スキルアップするゆとりもない。部屋の中を片付けることも、服の手入れもできない。腹や腰、頭に足に腕と、体中がしょっちゅう痛み、痛み止めのクスリは手放せない。眠れないので睡眠薬もよく使う。
 何度か服毒自殺も試みたが、失敗に終わっている。
 やがて、電話をしたのに面接によく遅れるようになった。次に、面接に行けなくなった。服がボロボロでみすほらしいこともあるし、疲れはてて「労働力にならない」と雇い主から見られているのも絶えがたかった。ストレスで食欲も失せる。雇われるためにも食べなければと思えば思うほど食べられない。自分が自分を家畜にして売るようにも思えて、みじめでかなわない気持ちになる。また、「使い捨て労働力」の真の姿を悟る。そう、くたくたに疲れて効率よく働けなくなったら、もう要らないのだ。若くて体力と色気のあるううちだけが失業ではなく半失業/部分就業できる時期だったのだ。
 それでも、しばらくの間は、惰性であっても情報誌を買ってながめていた。電話もした。気力のゆとりのあるときに、懸賞に応募した。一度だけ、J-oneという雑誌で大阪の日本橋の文楽若手講演会を当てて、見に行ったこともあった。
 さらに、情報誌を買っても電話もできなくなった。
 それに加えて、情報を見れなくなった。
 そうするうちに、しまいにはフリーペーパーの情報誌を街角で取ることさえできなくなった。
 
 立法形の水槽の中に魚がいる。例えば水槽の右半分には魚が泳いで行けないようにガラスで仕切りを作る。そうすると、仕切りを取り去ったあとにも、魚は以前仕切りのあった部分よりも右方向には泳がなくなる。小さいころ見た動物の図鑑に書いてあった。たしか、マウスを使った動物実験でも同じような結果が出ていた。
 わたしは、ガラスの壁を打ち破れなかった。自分が弱いのがいけないのか、周りに適切な支援がないのがおかしいのか? それともガラスの壁を作った人が悪いのか?
 この場合「自立していない」などというアングロサクソン・フェミニズムの言説は、トートロジー(同義反復)にすぎない。なぜ自立したくてもできない条件が存在するかを抜きに「自己責任」を唱えても問題解決にはならない。「自立」を唱えれば失業者がなくなるものではないのだ。

 そうこうするうちに、わたしは交通事故にあった。愚かにも赤信号を渡ったのだった。とても象徴的な事件だった。そう、職はなく、融資も受けられず、社会的な信用もない。お金がないから大学院や専門学校にも行けない。疲れ果てて、TOEICなどの勉強もはかどらない。「リスクをとれ」「失敗を恐れるな」という金持ち中心の説教はよく聞かされる。
 つまり、どこを向いても赤信号なのだった。
 そのなかで安全感覚は崩壊してゆく。犯罪発生率や検挙率よりも、安全を求めてもいいんだといった生存のための知恵が壊されていたのだった。そのときのわたしは、「はやく面接に行かなきゃ。そのためにさっさと買出しを済ませなければ」と近所のスーパーへと向かう途中だった。





 
 
 
 
 
 

 

フリーター生活のなかで失ったもの

2004-09-23 20:34:27 | 日常生活
 フリーターをするなかで損得勘定をすると、圧倒的に失ったもののほうが大きい。
得たものは、ほんのわずかのこずかい。
失ったもの。スキルアップの機会。自己信頼と他者信頼。友人との社交。いつも仕事のことに悩まされる苦痛。人生計画の建てられなさ。悲しいときに泣けない、腹を立てるべきときに立てられないなど、感情の鈍磨。それと対になった、ちょっとしたことで落ち込んだり傷ついたりしてしまう感情の鋭敏化。

 フリーターになってから、ストレスによりホルモンのバランスが崩れるのか、アトピーがひどくなったり、ぜんそくの発作がひどくなったりした。そのほか、月経が数ヶ月に渡って止まったり、月経痛が激しくなって薬局の痛み止めでは対処できなくなった。
 フリーターになるまえには、医者に行って副作用の強いステロイドの飲み薬を使わなくてもなんとか乗り切れた。また、フリーターになる前には、月経痛もあるにはあったが、たまに薬局のクスリを飲むだけで難なくすごせたのだった。もちろん不安定な雇用だけが原因ではないかもしれない。それでも、フリーターになってからというもの心身ともに不安定になったのだ。
 これは、外面的条件が内面的条件に反映したものと自分では考えているが、どうだろうか?

 また、友達に約束していたプレゼントをほとんどいつも買えない。いっしょに食事をするときにもおごってもらってばかりでは気まずくなってしまう。また、そのために恩着せがましくなって威張りだす友人がいたのも事実だった。
 そのことを根にもって「うそつき」「不誠実」「あなたは二重人格じゃないの?」「ホンキで働く気(職を探す気)がないんでしょう!」と責められたこともあった。ただただ相手に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、思わず土下座をしたこともあった。
 
 フリーター生活において、少なくともわたしの場合は、派遣でたくさんの職場を転々とした。一日一日いっしょに入る人が違う。また、へとへとに疲れる職場なので、ゆっくりしゃべったり交流していられない。わたしはたまたま同じ職場の人々と趣味が違う。これは、機能集団なのに共同体の顔をしている日本の会社では、道徳的な罪に当たる。
 それで、いじめやいやがらせにあうこともあった。弟にプレゼントされた上着が刃物でメチャクチャにされたときにはずいぶん辛かった。また、他の人とちょっと別の本(確かサルの観察記)を休み時間に見ただけで、「スパイ」呼ばわりされたこともあった。まだPHPを使っていたころ、のPHPメールに「バーカ!」「死ね」と一日に十数件も入っていたこともあった。
 わたしの服装がいわゆるヤンキー風やコギャル風ではなくコンサヴァ風であったこと、髪の毛が茶髪ではないこと、あまり汚い言葉を使わないこと、マクドナルドが好きではないことなどが、そこの派遣会社の「カラーに合わない」と判断されたゆえのイヤガラセだった。仕事はちゃんとこなしていて、派遣先から「ワタリさんは勤務態度がいい」「また来てほしい」と言われるが重なったのも、気に食わないようだった。
 あとで別のところで同じ派遣会社の別の仕事に入っていた人とバッタリ知り合って耳に入れた情報がある。そのころ派遣会社の派閥抗争が激しく、わたしも巻き込まれた模様。なるほど、それで現場のチーフが猜疑心でいっぱいになっていたり、あるときなど一日も働かないうちに十代半ばの女の子をクビにしたりしていたのか。フリーターだから派閥抗争とは無縁だと、なぜ何の根拠もなく思っていたのだろう?
 
 フリーターをしていると、自律性/自立性が低いからだろう。生きるのに必要な最小限の自尊心や誇りがどんどんなくなってゆく。自意識過剰ではなく自意識過小の病に悩まされる。自分はもともと女性とか不登校ということで自意識過小傾向なのに、ますますひどくなっていった。
 あるとき、パーマ屋で、パーマ液が目に入った。でもそのときにはなぜか何も感じず、自分が悪いとしか考えられなかった。なので、「目を洗いに行きます」と美容師に申し出たときに、「ダメです。全部巻きおわってから」と言われても驚くことも抗議することもできず、いいなりになってしまった。なんでも上のいいなりの生活で思考停止・奴隷根性になっていたのだった。
 あとで総合職の知人に「自分が悪いんだから仕方がないよね」と話すと「どうして? わたしだったら店長を呼んで、料金無料にさせるよ!」と騒がれてしまった。

 もともと自分には、自己否定的で敗北主義的な側面が強い。それはフリーター生活でより強化された。保守王国とも言われる実家はまるでカースト制度のように、学歴・偏差値・年功序列や男尊女卑によるハイアラーキーが組まれていた。自分は幼稚園受験と小学校受験に失敗したのでいわば「キャリア組」ではない。そのため、小さなころからいつも長所を認められず、短所を(ときに捏造してでも)責められ、自己嫌悪でいっぱいになってきた。自分で自分が信用できない状態を子どものころから培ってきた。
 特に思春期になってからは、女性と登校拒否をしたことでことによって、敗北主義はいっそう激しくなった。
 
 フリースクールに数週間だけいけたとき、その因果論的悪循環を断つきっかけが訪れた。しかし、フリースクール側の説明とサポートの不足、それに親の不登校への敵意と被害者意識と無理解、戸塚ヨットスクールと精神病院の閉鎖病棟に送られる恐怖から過剰に保守的にならざるをえなかった自分により、自由のなかで育つことは終わってしまった。家に・地域に・自分が選べない塾や家庭教師や予備校にいるかぎり、わたしの実存はなかった。好きな服も買えなかったし、バイトも旅行もダメだった。生きているか死んでいるか分からないゾンビのようになってしまい、罪悪感ばかりが大きくなっていった。
 
 わたしにとって吐き気のする信用の置けない予備校に、泣く泣くしぶしぶ逝かされて、自分が自分である感覚が壊れていった。予備校の大検コースの設立者を血祭りにあげたいと何度願ったことだろう。「予備校に行っているのは自分の体だけで心は関係ない」「心はフリースクールとかコミュニテイに行っているんだ」と考えなければ精神の均衡を失っていたに違いない。
 自分が選べなかったので、選びたいところでもなかったので、実存ではないのだが、信用のおけないフリースペースにも行っていた。しかし学歴・女性・下層階級・民族への差別がひどいところであり、苦痛だった。 
 しかし、そのとき自分の行きたい国内外のフリースクールやコミュニティのことも、忘れていた。かつて学校や家や地域の外で自主的に学んだ選択・実存といった大事な言葉も意味がわからなくなってしまっていた。ただ、ひたすらフリースペースという記号にしがみついていた。それは自分が望まないものである以上、エセ選択、エセ実存でしかないのだが。目の前にあるあてがわれたものを選ぶのは真に選択らしい選択とはいえないからだ。
 それでもフりースペースのスタッフを半年勤められたのはわずかの慰めだった。
 
 それで、フリーターをはじめたとき、志した。「早く親から自立しよう。そして、自分でフリースクールを作ろう。昔行きたくても行けなかった所へ旅行したり、ボランテイアをしたり、日本各地やアメリカのいろいろなフリースクールやコミュニティを何箇所も回るんだ! プライベートでは好きな服を着て、ライブハウスやデイスコで踊るんだ。梅田のブルー・ノート(ジャズ系のライブハウス)、なんばのハードロック・カフェとかに行きたいな。」
 しかし、ぜんぜん自活できない。20代前半はそこそこ職があった。月に2~6万円程度は稼げた。
 一日何社まわっても、成果は出ない。会社・仕事のこと意外何も考えられない。
 フリーターの賃金を計算できたのは、いっさい職を探すのをやめて、コンピューターの学校に親の援助で通うことになったときだった。少し心に余裕ができて、「どうしてこんなに生活が苦しいのだろう?」「どうして自活できないの?」と思い、時給をいろいろなシフトと就業/失業の組み合わせて計算をしてみた。そうすると、どうあがいても自分ひとりで京阪神で一人暮らしをする賃金も保障も、アルバイトをしているかぎり不可能なのだった。
 だが、世間の常識は「大学を出ていないのは服を着ていないも同じ」。また、二十代後半でフリーターというのは、共同体の規範が許さない。世間の空気が認めないのだ。いくら働く気があっても、たった1歳ちがうだけで受付の人間は身をよじって嫌がる。本当に生理的な嫌悪感と憎しみでいっぱいになっているのが電話口からでも確認できる。
 そんななかで、どんどんアルバイトを探すのが難しく、またイヤになっていった。
 のちにアルバイトをあきらめてNPOに関わったときに、正社員に比べて自分の着るものやくつがみずほらしいこと、いっしょにレストランに入ったときに頼むものの金額が違うこと、それにスキルの圧倒的な違いに衝撃を受けた。
 パソコンも英語も、勉強したくてもまるでできなかったのだ。それでいかにも道徳的に断罪をする視線でにらまれたり、露骨に同情や説教をしてくる人もいるので、そのNPOはやめた。フリーターをしているからだろうか、「ヤル気」の有無について発起人からとやかく言われたのも応えた。
 
 フリーター生活は、わたしのすべてを奪っていった。ささやかな夢、自信、希望、有能感、自己肯定感情、スキル、社交、趣味、稼ぐためだけではない価値のある仕事……。

 もう絶対にフリーターを脱出したい! 誰がなんと言っても関係ない。マスコミのヨイショ&叩きも労働組合の説教も聞いてはいられない。
 
 ブルーハーツの「月の爆撃機」という曲にこんな歌詞がある。
「手がかりになるのは薄い月明かり」
このブログでコメントやTBをしてくれた人たちが、わたしにとっては薄い月明かりであり、希望である。

 
 
 
  



 

 

 

 
  
 
 
 


 
 
 

失業期間の辛さ

2004-09-21 02:07:24 | 現状
 
 フリーターの生活は、就業→失業→元に戻るのサイクルを描く。
 
 「長く勤められないなんて根性がない」と怒鳴る人もいるだろう。だが、フリーターはそもそも企業から長く勤めることを求められていないのだ。ある総合職の知人が語った言葉がある。「あのね、企業っていうのは、アルバイトには2、3ヶ月もしたら会社から去っていってもらいたいと思っているの。アルバイトっていうのは、そこでがんばってスキルアップをしたり、周りに影響を与えたりしないで、やることだけやってさっさと会社を出て行けばいい。それが会社側の考え方よ。」
これは90年代半ばの発言だった。今は、企業も余裕がないのだろうか、長くても2ヶ月以内に解雇するようだ。そうすると、例えば解雇予告金(解雇する前に一か月分の給料をいつもより余分に払う制度)の適用を免れるからだ。また、詳しいことは知らないが、社会保険金の支払いも節約できるらしい(この事は、あるアクテイヴィストの方から教えてもらった)。

 それから、失業期間というのはけっこうしんどい。ストレスがかかりまくる。その間、次のアルバイトを探すこと、専門学校に通うこと、資格試験の勉強をすることなどが「労働」となる。「求職労働」「資格取り労働」「スキルアップ労働」にいそしむのだ。
 これは大変つらい。わたしは求職労働をやっていて、壊れてしまった。以前は一日に5社~7社ほどまわっていた。ところが、そうするうちにどんどんおかしくなっていったのだ。
 ひとつは簡単なおつりの計算ができない。簡単な漢字や英単語を間違えてしまう。つまり、集中力・思考力の低下だ。
 ついさっき人から聞いたばかりの情報(人の名前・趣味など)を5分もたたないうちに忘れてしまう。短期記憶の障害だ。
 そのほか、留守番電話に吹き込んだ自分の声を聞くと、ゾっとするような声をしている。文字情報におきかえるのは難しいが、奇妙で、とても不幸そうな、地獄の底を歩いているような声なのだ。自分でもなんて悲惨なのかと驚き、みじめになる声だった。
 会社訪問を週に6回も7回も行っていたのを週に3、4回にする。一日2、3社にとどめる。それでも、精神的にも物質的にも余裕のない生活は、じわじわとわたしを蝕んでいった。
 本を読むスピードは以前の1/5くらいに落ちた。読める量もだ。
 雇用の底が抜ける、という言葉が労働組合や労働ジャーナリストの間で使われていると知ったのは、木沢哲彦というライターが主催した、竹信三恵子さんの講演会でのことだった。そのとき、ピンときた。「あ、そう。わたしの苦しみってまさにソレ! 底が抜けているんだー!」
 そう、わたしは底が抜けていた。先の見えない苦しみ。予定の立てられない悲しさ。比較的リベラルな人でもフリーターの置かれた厳しい状態には理解がなく、誤認・否認・および再認を繰り返すこと。自立したいのに、自立しなければと考えながら達成できない雇用形態と賃金と保障。

 話を失業者の求職労働に戻そう。わたしの知り合いは、正社員をやめさせられてから、やせこけてしまった。ストレスで食がすすまないのだと言う。また、実際に専門学校に行くときのお昼は「はなまるうどん」で100円のかけうどんを食べると言う。自由にトッピングできるかつおぶしやネギ・しょうがなどをたっぷり入れて食べるのだ。彼は20代半ばの男性だ。だが、おにぎりなど他のメニューはお金の関係で食べられないと言う。

 また、別のリストラされた求職者は、夏の暑いさ中、ヒートアイランド現象に包まれる大阪のオフィス街を歩き疲れて、過呼吸症候群を起こした。
 ある「プー太郎」と名乗る20代の男性は、電話に出ても話せなくなってしまった。外の世界への恐怖と苦痛が先立つのだ。彼は上品で賢い人なので、人一倍フリーター差別が応えたにちがいない。竹信三恵子や島本慈子の本を読んだり、組合関係者の知り合いもいたりとしっかりと勉学するタイプだった。それだけに、物事を客観的に観れるからこそつぶれていったのだろう。

 (なんかまとまらないけど、今日はもう寝ます。この下書きは、あとでいくつかのトピックスに分けて書き直す予定です。) 
 

NEETを保護せよ!ーー人の住む場所を守るためにーー

2004-09-18 18:30:17 | その他
 TBSのラジオコラムで鳥越俊太郎さんが、NEETという言葉を説明していた。そして、NEETは文明病だと共演者のパーソナリティとともに叩いていた。
 
 その話を聞いたわたしは、やるせない気分になった。かなーり濃く憂鬱になったのだった。

 しかし、数時間の睡眠ののち、反撃に出ることにした。昨日、終電に乗り遅れて一夜をすごしたインターネットカフェで読んだ金子勝さんのインタビューで「勝ちに行け」「根拠のない自信が大事なんだよ」と発破をかけられたのも効いているのだろう。(MUSIC MAGAZINE 2004年2月号)

 人は多彩であり、生きるのにさまざまな環境が必要だ。たとえば熱帯の川にも木陰や川の深さで守られた涼しい水域がある。そこに暑さに弱い魚が棲んでしる。や激しい暑さから一時避難した魚たちもやってくる。また、エコト-ンの領域もある。たとえば水と陸の間にある葦原地帯などだ。そこで魚が卵を産む。あるいは、渡り鳥が休息をとる。葦原は水質の浄化にも役に立っている。

 同じような環境が人間にも必要だ。資本主義の中であまり競争が熾烈でない世界。また、会社と社会の緩衝地帯。就業と非就業の緩衝地帯。
 いいかえれば、会社での競争が暑いすぎる人、会社での生活が窮屈な人の住める領域が社会環境にも必要なのだ。
 
 NEETは棲んでいる。今まさに破壊されんとする市場化されていない領域に住んでいる。雇用、教育、および訓練。それらのない地帯に住んでいる。人は一生を雇用や教育や訓練のために生きるのではない。時にそれらから離れることも必要だ。とりわけ破壊的なタイプの雇用や教育や訓練を受けた後にはかなり長い間、体と心をそれらから離して自律性を取り戻させてやらなければならない。いつも監視され処罰され自分で自分を道徳的に断罪してばかりではうつから自殺に至るばかりだ。
 
 そのことを理解してかせずか、政策担当者はただ年金対策の視点からNEETを罪悪視し、殲滅せんとする。NEETのほか失業者・ひきこもり・野宿者などが住む熱帯の中の涼しい水域のような環境はどんどん奪われている。合理主義や単線的進歩主義など人の独自性を常に経済的な価値に換算して
人を選別しハイアラ-キ-化してゆくのとは違う原理の世界--市場の外--が、次々と壊されつつある。
 あえて言おう。NEETを守れ。その生息域とともに。NEETの棲むところとは、人を会社の所属だけで評価しないコミュニティの別称でもある。人が人として生きられるところ。二宮金次郎ばりの勤勉道徳を絶対視しないところ。障害者を排除しないところ。
 
 それはそこかしこにある。作ることもできる。あなたがひとりの失業者を道徳的に断罪しないだけでNEETの住むところは確保できる。

 なお、働きたくてもまともな職・雇用・労働環境がないために働けない人たちのためには、とりわけ中小零細下請け企業群の労働環境整備が求められる。たとえば、有給休暇がとれること、不潔なところで働かなくてもいいこと。休憩時間にはちゃんとトイレには行けること。アルバイトでも社員食堂が使えること。
 それを整えずに「病気だ」「親が甘やかすからだ」「失業手当など福祉があるからだ」と叫ぶのは、事実誤認と誹謗中傷にほかならない。



プライドか階層脱落か

2004-09-16 14:36:52 | 現状
フリーターをめぐって、あるいは失業や再就職をめぐって、本人の「プライド」や「見栄」を問題にする言説をよくみかける。とりわけ女性に対してよく言われている気がする。(くわしくは未調査。)実際、著者も親類から「あなたが失業をしているのは高望みしすぎだから」と責められたことがある。本当にそうだろうか? 

 社会学者のブルデューは、失業問題を語る際、階層脱落(デクラスマン)という言葉を用いている。日本でもこれは当てはまるのではないだろうか?
これ以上賃金・保証・労働条件を悪くしたくない。これ以上軽蔑されたくない。そう考えると妥協もできず、なかなか職がない。
 ではその「いまある職」とは何かが問題になる。実際には一時的な細切れの雇用、保証のない雇用、交通費など手当てのでない仕事、あまりにつらくてたいていの者が1~2日で「自主的」に辞めてしまう仕事……などである。
 また、女性の場合は、同じ大学を出ても女性というだけで労働条件がよくない。ならば、思い切って難しい資格ーー例えば司法試験などーーを受けようとする。または、大企業に入ってせめて貯金を多くしたり、産休・育休をとったり、極端に見下されない程度の地位を手にしたいと考えるのではないだろうか?

 おかしな雇用政策への個々人の無意識の反乱。それが「望みが高い」「プライドが高い」と現状肯定派に叩かれている可能性はないだろうか?
 小さいころから極端に「自分はステージが高い」と思って壊れている、絵に描いたような「東大クン」タイプの人以外は、多分プライドが高すぎるのでも、見栄の張りすぎでもないのだとわたしは疑っている。必要以上に本人の道徳的罪障感をあおるのはやめてもらいたい。神経毒を盛られるのにも似て、感覚がしびれてくる。ひどい言葉や態度を何とも思わない鈍感な人になってゆく。
 こういった言説はフリーターや失業者や女性本人に、さらなる自己否定的自己分析を強いる。
また、自己責任感をおしつけて憂鬱の元をはびこらせる。そして、社会への視点、人との交流、新たなコミュニティの形成と維持を不可能へと追いやる。そして、しまいには本人から希望や夢を奪ってしまう。
 そうすると、「なんでも自己責任」のネオコン論はさらに犠牲者をいたぶる。「もっとヤル気を出せ」「がんばればなんとかなる」「ちゃんと自分を知りなさい」云々。そうして、何でも個人の意識・細かすぎる態度の問題ーー心の問題ーーにすりかわる。学校教育における「心のノート」と内申書、職場での勤務評定は社会や組織の問題をすべて個人の問題にすりかえる機能を持っている。
 失業者の苦悩。それは、ひとりで悩みに悩んだ末に吐き出される。いろいろな会社を職を当たったすえ、自己否定と絶望と共に押し出される。その言葉を相対的には恵まれた正社員や、階層的に上の立場にあることの多い上の世代から「見栄・プライド」などと言われると、絶望はいや増す。そして、侮辱や罵倒に対してどんどん鈍感になってゆく。ネオコトドキシンという神経をしびれさせる毒を盛られたかのように。とにかく、トンチンカンかつ残酷な言葉なのだ。この手の、現実の厳しさを隠蔽・検閲し、フリーターら下位のグループの人々の希望を殺す言説に、わたしは反対だ。
 自分は、階層脱落に抵抗していきたいと考えている。見栄とかプライドではない。生きるための欲求であり、「権利のための闘争(イェーリング)」なのである。
 
 読者はどのようにお考えだろうか? 






アメリカのなかの亜細亜主義---ダンサ-・イン・ザ・ダ-ク

2004-09-11 02:50:50 | 映画&本
 今度はこのアメリカ産白波ものの、亜細亜主義としての側面を紹介したい。

 セルマの出身は東欧。ちょうど西アジアのとなりの地域だ。
 セルマは偉大だ。
 
 唐の太宗皇帝は貧しき民が飢えているのを知って食を断った。日本の高倉天皇は、民が寒さに震えるのを知って着物を脱ぎあそばした。菩提サツタは宇宙の塵の最後のひとつまでが涅槃に達するまでは自分もまた涅槃に達することはできないとおっしゃられた。(岡倉天心「東洋の理想」講談社文庫206P)
 
 セルマは自分の息子の目が見えるようになるまでは自分の人生は要らないと判断し自ら処刑を選んだのだった。
 セルマの仕事仲間のカヴァルタは、自分の時間を犠牲にしてもよく見えない目で夜勤に入るセルマを手助けし、頼まれずともセルマの命を助けるために走り回った。これもまたアジアの--そしてヨ-ロッパの価値である。
 個人の自立を絶対とし、孤立とエゴを推奨するアメリカニズムへのオルタナテイブがここにある。
 
 セルマはまた、「分配は大事なことだ」とも語っている。それも仕事仲間にバカにされながらもそう語った。
 終了採集民は、食料を共同体のメンバ-に平等に分配した。また、女性や子どもは働かなくても食料の配分にあずかる権利をもっていた。古くからの伝統的な共に生きる知恵を平然とふみにじるアメリカのネオコンは、下層階級・女性・子どもの権利に対立し、アジアやヨ-ロッパやその他の地球各地の独自の価値をよき慣習を破壊している。
 そのアメリカからこの白波もののような映画が--それもアジア主義を織り込んだ映画が出てくるとは驚きであり、同時に希望でもある。

 
 なんでもアメリカ流という流れへの小さくても確かな抵抗勢力がここにある。
 
 

アメリカ産白浪もの--ダンサ-・イン・ザ・ダ-ク

2004-09-11 01:59:59 | 映画&本
 東欧出身の移民が、自らの生命と息子の目の治療をはかりにかけて処刑されてゆく物語。
2001年の公開。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005L97N/qid=1094843220/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8016210-2673053

 
 最近、やっと観れた。貧乏生活は、レンタルビデオの楽しみも奪う。どうせ観れないと思うと情報もチェックしなくなる(できなくなる)。それで、観たいと望んだ作品を数年、ひどぴときには10年ほども遅れて見ることになる。当然、正社員で生活の安定した人とは話があわず、「やる気がない」「自立していない」「甘えるな、ふざけるな」「(なぜか被害者ヅラをして)古いよ~!(人を軽蔑した視線)」という対応がかえってくる。落ち込むのはこっちだが、相手は何かとお説教をしたがる。
 あとになってから「あの人たちネオコン(新しいバカ)だ」と思いなおしても遅い。
まあいい。歌舞伎とか能なんて数百年遅れて見るんだ。数年の遅れでガタガタ言うな、というわたはすでに歪みはじめている?

 話の本題に移ろう。
 東欧からアメリカに移民した女性セルマ。息子の目の手術を成功させるか、自分の生命をとるかの二者択一をせまられる。結局、彼女が選んだのは、後者だった。
 自由主義は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」選べることだとアドルノは言った。しかし、彼女に残されたのは、息子の目の治療しか選べなかった。
 人生に疲れたのか、生きた証を残したかったのか。
 彼女の選択を身勝手だという人もいるだろう。しかし、ほかに彼女が納得できる選択肢は残されていなかったのだった。
 不安定な雇用、社会福祉のなさ、「自立」イデオロギ-の呪縛、中産階級中心主義の文化の壁、貧しさイコ-ル不道徳という偏見、それにだんだんと見えなくなっていく自分の目。多重苦に囲まれた彼女が尊厳をもって生きるために、道はほかになかったのである。

 セルマを助けようとする友人・理解ある看守・ヤル気まんまんの弁護士の努力もむなしく、彼女は最後には処刑されてしまう。
 日本の歌舞伎にも、恵まれない境遇から犯罪者になったものが、しまいには自殺をしたり心中をしたり幕府の手のものと戦って切腹をはたすスト-リ-がある。
 たとえば「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)」。三人の恵まれない立場の若者が、徒党を組んで悪事を犯す。やがて、お上の知るところとなり、なんとか逃げようとするが、徒党のうち一人がつかまってしまう。なんとか兄貴分を助けたい一心のお嬢吉三は、鐘を鳴らす。そうすれば監獄都市・江戸の各町にしつらえられた木戸がいっせいに開けられ自由に移動できるからだ。三人は雪の中で落ち合い互いに会える幸せをかみしめたあと、互いに殺しあって果てる。
 雪の降るさまが太鼓によって表されるラストシ-ンをTVで観たが、大変美しかった。やはりこの歌舞伎もセリフは七五調で書かれており、形式美に流れると嫌うむきもある。
 
 ダンサ-・イン・ザ・ダ-クはアメリカの白浪ものである。貧しさに追い詰められて悪事を働く人間にも「三部の利」があることをていねいに描いていくからだ。また、七五調のかわりに主人公・セルマのシュ-ルで空想的なミュ-ジカルのシ-ンが挿まれるのも似ている。
 
 ここで思いおこすのは、壮子の「胡蝶の夢」だ。ある日壮周は蝶になった夢を見た。朝になっておきてみると、「自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも、蝶が自分になった夢を見ているのか」と自問する話だ。
 彼女が選ばざるをえなかった生活と環境。それは法廷で支配的な中産階級中心のリアリティではとらえられなかった。それは、法廷の場では語りえぬ世界だった。セルマにとってはつらい労働と足りないお金と自己犠牲の連続こそ、日常だったわけだ。
 工場の労働はたいへん疲れて気分が悪くなる。わたしも経験があるので分かる。ケガや事故も多い。自分で自分の仕事のやり方を調整できない。簡単に人をクビにする業界でもある。それは現代社会における誰もが嫌がる「貧乏くじ」だ。
 そのなかで、彼女は工場の機械のリズムをダンス音楽と感じはじめる。危険で疲れる仕事を、楽しいミュ-ジカルの舞台だと思う。多分それは生きるためのユーモアだったのだろう。
 そのことを「現実逃避」「幻聴・幻覚」などととがめる人もいるかもしれない。だが、彼女にとってはそれが真実だった。でなければ耐えられなかった。また、他の者も同じ立場になれば同じ反応をするかもしれない。だとしたら、誰が彼女を責められるのか?
 いいかえれば、何を現実とし、何を幻想とするかは実は恣意的な正当性(正統性)によっているのではないか? 

 セルマは絞首刑直前に歌い、処刑場を劇場に見立てることによって恐怖に耐え、自らのギリギリの選択をまっとうしようと試みたのだった。
 わたしはそれを責める気にはなれない。彼女は彼女なりに必死に生きようとした。そして日本の歌舞伎とはちがい、個人として死んでいった。
 江戸時代なら、彼女の処刑を延期し再審を請求しようと証拠集めに奔走する友人二人と心中するか切腹をして果てていたのだろう。
 
 まるで歌舞伎のようなこの映画に親しみと共感を覚えずにはいられない。とても残酷でかつ美しい映画だった。
 それはまた、現代のアメリカにおける下層階級が、日本の江戸時代の庶民と同じように圧制に苦しみ、資本の循環のなかで生きがたさをかかえていることの現れでもある。

↓「三人吉三廓初買」については下のHPがよく説明されています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin50.htm



(これは下書きです。数日以内に趣旨を変えない程度に手を入れる予定です。)
 
 
 
 

 

 

フリーター論をめぐって

2004-09-06 21:21:52 | 自己解説

集団的かつ個人的自己解説 
 
 宮台真二の指摘するとおり、ウヨクの精神論(「がんばれ」「ヤル気がない」)サヨクの硬直思考(「経済的に不況なので~」「賃金や保証の問題が~」)は役に立たない。厳密に言えば、精神論は役に立たない。経済問題一本に絞った問題設定は、複雑な現実の半分しか描けない。さらに、ネオコンの「自立」主義も、複雑な現実を単純化する機能しかはたさない。
 文化的な劣等感と絶望、人を従順にする飼いならしが社会的・経済的に不利なコースを人に自主選択させること。それがポイントだ。そして文化から経済へ、経済から社会・政治へと弱体化は進行している。
 ブルデューの言う「自己選抜」、ボーヴォワールが言う「敗北主義」がキーワードなのだ。「去勢」などとトンチンカンなことを言っていては、混乱をあおり絶望とヤケクソを促進するだけだ。

職場の国籍ミックス

2004-09-06 19:26:52 | エスニシティ
 あるとき、登録した請負会社から呼び出された。待ち合わせの駅から車で連れて行かれたのは、駅から数十分離れた倉庫だった。ここで、注文書通りに荷物をカートに積み込み、トラックの前まで運ぶ。「一週間か二週間か、いつまで職があるかわからない」と請負会社の営業は言っていた。一日6時間しか入れないのは残念だが、仕事がないよりはマシだ。
 
 その職場で中国からの留学生たちに会った。休み時間に日本人同士おしゃべりをしていると、「あの人たちは日本の語学学校に通っている」と、正社員の方がおっしゃった。
 中国人たちは自分たちでグループを作っておしゃべりしながらお昼を食べている。
 その職場には正社員・パート・バイト・請負、日本人に中国人がいた。歯がボロボロになっている元暴走族? とおぼしき兄ちゃんも必死に大きな荷物を運ぶ。しんどくて死にそうな思いをしながら、職場はスムーズに動いてゆく。
 国籍は違っても、あるいは正社員とアルバイトの「身分差」はあっても、やることは同じなのだ。漢字も読めるし。
 そういう職場ということもあって、運ぶときにひしゃげてしまったインスタント・ラーメンや缶詰を勤務後山分けしている。それも、アルバイトにも中国人にも「ハーイ、要る人は持っていってよー」と現場のチーフが言っている。わたしはナタ・デ・ココとパイナップルの缶詰を2~3個持ってかえった。
 こういうブルーカラーとか肉体労働とか言われる職場は、不安定で体力的にもキツい。でも、仕事が終わったあとのご飯は最高においしい。(それで外食をしてばかりだと家計が成り立たないけれど。)生きている実感はある。
 けれど、ケガなどからだの故障が多い。しょっちゅう汚れるのと低所得なので、親から自立していればいるほどファッションには凝れないのが残念だ。
 話が横にそれた。日本の労働現場で国籍ミックスは確実にすすんでいる。当然、職場の奪い合いも起こっている。
 別の会社の面接では、隣に漢字中心の履歴書を書いた中国人の方がライバルとして座っていた。
 幸い、今のところ外国人排斥の気配はない。言葉はわからなくても、笑顔を交わしたり、中国人がつたない日本語であいさつをしてくれたりする。「お疲れ様」程度のものであっても、やはりいっしょに仕事をすると仲間意識もわく。
 日本民族のわたしには理解できることに限界がある。日本とは別のエスニシティの人たちが、不当に賃金の上前をはねられたり、酷使されたりしないでいることを願ってやまない。また、住居も含めて問題があれば、解決することを求めたい。
 国籍が違っても、幸せになれればいい。でなければ、アメリカのようにテロの標的にされるだろう。

 
 
 

 
 
 

 

貨幣をめぐってーー2.保障

2004-09-06 02:37:35 | 現状
 フリーターに保障はない。誰かが検閲をしても事実は消えない。パレーシアもやまない。

 ケガをすればおしまい。病気も。こんなものは人の働き方ではない。人の人生とはいえない。
 医務室からまさに「社会的に排除」され、自分ひとりの給料では自活できないため、自立を試みるとやせこける。
 これでは自殺を煽っているようなものだ。これでは、会社のためにゆるやかに死ぬ行く人身御供を募集するようなものだ。
 絶対に許せない。
 ケン・ローチ監督の映画「ローズ&ブレッド」で、ヒスパニック系移民たちが最後には勝ち取ったように、安定した雇用・賃金とともに保障も勝ちとらなければならない。
 そのためには、フリーターの姿を「可視化(フーコー)」させることが必要だ。このブログはそのための試みなのだ。すべての記述が不可視化する圧力をはねのけるために書かれている。
 

 

貨幣をめぐってーー1.賃金

2004-09-06 01:44:11 | 現状

 フリーターをしていると、貨幣について考える。
 物々交換にかわる道具としての貨幣。神聖な・宗教的な意味と価値を持つ貨幣。リアル・マネーに電子マネー。人に年収を尋ねては失礼にあたるという礼儀作法ーー中産階級中心の。

 フリーターの賃金は、今わたしの住んでいる京阪神圏なら700円~800円くらいだ。
 ある労働組合関係者は、酒の席で「うちに相談が持ち込まれる範囲ではだいたい700円くらい」と語っていた。
 
 ライターの木沢哲彦は、時給2500円は保証しろと語っている。また、今年の5月、東京・新宿で行われたフリーターのメーデー主催者は、「ふざけるな。時給2000円以下で働けるか」とパレーシアを行った。
 わたしは、これまでに取り損なった賃金も加えて、最低年収300万円を目指したい。
 そのためには、どれほど働けばよいか、みなさんご存知だろうか? 一度でも計算をしたことがあるだろうか?

 実は、週に5回入るとすれば、一日1実勤19時間働くことになるのだ。休憩時間や仮眠の時間もとれば、拘束時間はたいへん長くなる。
 例えば、朝9:00からシフトに入るとしよう。お昼に一時間、夜に一時間休憩があるとしよう。そうすると30時まで働くことになる。
 
 これは一度アルバイトを見つけると、その後リストラや減給、働ける時間の減少が起こらないというありえない想定をしている。
 実際には体が壊れればすぐにクビだ。雇い主のリストラの「数合わせ」の犠牲になるかもしれない。単なる手違いやきまぐれで職場を失うこともある。会社やお店が倒産するリスクも考えておこう。
 そうすると、睡眠時間を削って働くほかない。
 マスコミのフレームアップによって「あそび人」カラーの強いフリーター。しかし、裕福な実家に同居して世帯賃金に依拠しないかぎり、優雅な生活はありえない。その世帯主の給与・手当て・保障も徐々に削られ、税金は上がってゆく。年金も心元ない。もし世帯主がリストラされたり倒産にあえば、生活苦にあえぐ毎日が待ち受けている。

 
 

 

 

 
 
 
 
 
 

 
 
 

TVの伝える「夢」2ーー「新しい」職の実態

2004-09-06 01:25:34 | 現状
 今日のTVの果たす役割は、あたかもかつての女工に対して経営者が行ったしうちと似ている。(1)以前、過酷な労働環境に耐えかね体を壊す女工たちの親に、経営者たちは手紙を送った。そこには労働問題の真の姿を覆い隠す情報が書かれていた。ネオコン風に言えば、「自己責任」とでもいうのだろうか。そこで働く彼女たちが「わがまま」でとんでもない、女工はとてもいい仕事だという情報操作である。

 工場が顔色の悪い女工を国元へ返して死亡統計に表れないようにしたり、工場の中の「虐使」の情報の達していない地方を開拓して3年経ったらよその地方へ移る、という方策を工場はとっていた。が、効果を薄めたころ、次の女工の確保策について、こう記している。

「たとえば強制貯蓄をさせ、それを無理に郷里に送金させた上で父兄に『あなたの娘は身体も丈夫である。これだけの送金もできる。しっかり勉励して稼ぐ。どうか誉めてやってくれ。』という手紙を出す。何も知らない父兄は「実に結構な工場だからしっかり稼げ」と返事する。--是は暗黒面から考えますればひどいやり方なので、娘たちが自分の父兄に向かって仕事が辛いということを言ってやりますけれども、是は娘たちの精神からではなしに娘たちは我儘で仕事を嫌うのであろうということを先ずもって父兄に思わせる所の辛辣の手段と思われます。そういう風にして父兄の威力を上手に使ってひきとめる、それは実に巧みにやったものでございます。
当時の工場経営者たちは、農村における家父長的な強権を徹底的に雇用関係の中に持ち込むことによって、いわば生理的に女工たちを支配していたと言えよう。利用された親たちも、無意識的に共犯者になっていたと言えよう。」

 この記述に出てくる「手紙」の役割を果たしているのは、今の情報環境では明らかにTVだ。 
 親や上の世代と、下の世代のフリーター、または下の世代の正社員とフリーターではいわば階級・階層が違うのだ。住んでいる世界が違うということだ。
 それで、上の引用は、女工をフリーターにおきかえ、食事事情の違いを無視すれば、ほぼ当たっている。働きすぎて体を壊すと「あなたはこの仕事にあわない」といってクビを切る所など、ソックリだ。本当は悲惨なのにパラダイスのイメージで現実を糊塗する点もよく似ている。構造としては変わっていない。

 その断絶をTVの届ける「夢」情報は煽っている。
 

(1)紀田順一郎「東京の下層社会」ちくま文庫2000-2002
PP257-258

TVの伝える「夢」ーー沈黙とマッチポンプ

2004-09-01 18:40:22 | 現状
 TVを中心とするマスコミには、フリーターに関する情報があふれている。
それはフリーター本人にとってリアリティがない。全ての情報を分析したわけではないが、ざっと見たところ偏見に満ちたものが多い。
 特にフリーターの悲惨さを隠蔽・検閲するものは目立つ。もし悲惨さを伝えたとしても、恐怖と不安をあおるばかりで具体的な政策には言及していない。
 例えば、会社に何年か勤務していない人でも使える教育ヴァウチャー制度(教育給付金)について誰も言及しない。少なくともわたしの知るかぎり、誰も指摘していない。
 地域ごとの最低賃金水準を引き上げることも、TVに出演する精神科医や「引き出し屋」らは語らない。個人の心の問題に話をすりかえ、本質をはぐらかしてばかりいる。そのほか、低家賃で住める住宅の提供など、誰も語っていない。まるで問題解決のためのたたき台を出さないことが美徳になっているかのようだ。
 
 「夢」をキーワードとする情報はその最たるものだ。これはマチポンプになっている。まずフリーターに「夢」を語るよう仕向ける。それに答えて「夢」を語ると、ケシカランとやっつける。しかし、まったく「夢」がなければやはり情けない、トンデモないと侮辱する、という順序をたどる。結局、どんな動機でどんな夢を語っても、語らなくてもフリーターは劣等で怠惰で考えナシという虚像ーー「2ちゃんねる」風に言えばDQNのイメージーーを捏造している。
 バンドなどをしている「夢」のある人のほうが就職しやすいとの口コミ情報もある。そうすると、口先だけにせよ「夢」を語ることになる。あるいは、あまりに低賃金・低保証の中で、安定した暮らしをしたければ、全体の一割だか1%とも喧伝される「勝ち組」に入るしかない。まともな生活を「夢」見て何が悪いだろうか? その必死の選択も、「認識が甘い」として蔑視しているのが大半のマスコミの情報だ。
 
 フリーターがマスコミの好きそうな答えをあらかじめ用意すること、マスコミが自分たち好みの、予定調和的な立ち居振る舞いをするフリーターを無意識にせよ探している可能性などについては誰も語らない。語らないことがTV出演の暗黙のルールになっている。