フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

若い世代に求められる政策とは?

2007-02-07 12:30:44 | 政策
過日、さる全国紙の新聞記者から取材を受けた、知り合いのブロガーからの紹介だった。

若い世代の見る安倍首相の印象、キャラクター評のほか、若い世代にとって必要な政策は? という質問もあった。

それに答えたものを中心にブログでも報告したい。

まぜ、何といっても社会的排除に歯止めをかけて、憲法保障されている生存権を実質保障させなければならない。
そのためには、若い世代をはじめ貧乏人に現金がまわる仕組みを整える必要がある。

○若い世代を正規雇用した企業を減税する
これは自民党の機関紙「自由民主」でもとりあげられている。(このあいだ国立国会図書館関西分館に行ったときに読んできた。)

○アルバイトの時給の倍増。
これも政治からが最近検討していると政治部の記者より聞いた。また、一部の社会運動・労働運動関係者も数年前から主張している。

○国内版トービン税
ベルギーでは導入ずみとの情報もある。金融取引に税をかけ、福祉専用に使用することによって格差是正をしてゆく。

○生活保護基準の切り上げ・拡充
イタリアの生活保護は、日本の幾種類かの生活保護をあわせたくらいもらえる。
また、生活保護を受けたら一日二日の日雇い労働もダメだとか、百万円程度の貯金も持ってはいけないといったことは廃止したほうがいい。

○適当な住宅
あまりにも狭い住宅にわずかの家財を押し込む状態を緩和する。

○違法派遣を行政指導だけではなく、ドイツと同じく刑法・民法・行政法から罰せられるようにする。

○労働NPOにも刑事免責を適応する。

○労働NPOが団体交渉を求めたら企業は断れないようにする。
労働組合はあてにならない。労働組合に入って差別的なオヤジ中心に会費が使われ、タテマエのリベラルさのために情報が利用されるのを防ぐ。

○ベイシック・インカムの導入。
いつもみなが座る席があるとはかぎらない。長年の使い捨てアルバイトのためにスキルが身につかなかったり人間不信が強まることもある。そんな場合にも憲法保障されている18条生存権を護るためには現金が必要だ。

○非市場部分の温存
正規に会社に属さなければ排除される構図を書き換える。
コムニタス フォロの活動は参考になる。

○労働法のガイダンス
学校教育だけではなく、マスコミでの啓発、ワークショップやセミナー、社会教育などいろいろな形で労働法について分かりやすく解説する。

○学校教育においては、初等・中等・高等を問わず、奨学金を増やす。また、通
信・夜間・単位制を充実させる。なおそれは、初等のほうから優先される。

○年齢差別禁止法の制定
歳だけで人をはねのけ排除する慣習の廃止。

○ブランク差別禁止法の制定
失業期間をただのマイナス視して再就職の門戸が閉ざされている。少しでもそれを開くために。
ブランク中も勉強、旅行、自己省察など自己向上したこともあるはず。それを無視させないために。

○市民農園、狩猟・採集のスキル普及
とにかく生き延びるための装置・スキルを

○会社を唯一の成人のための共同体としない

○業界ごとに仕事の手順を標準化する。業界ごと・企業ごとの落差の大きさが、転職を難しくしている。
会社がなくなれば自分も死ぬ、あるいは大変不利になるという状況を緩和するために。
同じ業界でも会社によって、会社でも部署によって仕事のやり口やルールが違いすぎることは問題だ。
これは消費者にとっても得になる。たとえば、レンタルビデオ店ならツタヤみたいな大チェーン店から中小の店まで、カード一枚で借りられるようになるだろう。コンピューターでィ一括検索できるようになる。そうした便利さも生まれる。


>読者へ

ほかにもいい政策があれば、コメント欄にどんどん書いていってください。










ホワイトカラー・エグゼンプションのトピック(紹介)

2006-12-14 15:21:25 | 政策
mixi内コミュニティ「解放の神学」にホワイトカラーエグゼンプションのトピックスが立っている。

ちなみに私自身はクリスチャンではない。それでも「解放の神学」には関心があるので、最近このコミュに入ったばかりである。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=307180&id=11918609

残念ながら、mixiに未登録の方は見られなくなっている。
なんとか誰かに招待してもらって、ぜひ見ていただきたい。議論も充実しつつある。

日雇い派遣アルバイトへの扱いは、言うまでもなくもっと過酷だ。
しかし、いつでも海外のどこにでも財産・身体ともに逃避できる富裕層とは違って、中産階級のなかでは相対的に貧しい層はかんたんには逃げられない。
その人たちといっしょに組んで、共謀罪、改憲その他一連のファシズムの系法案を廃止させねばならないだろう。
デモにいっしょに参加するグループに不満をいだきつつ、フリーターの窮状を何度もひとつづつ訴えつつ日本社会のファッショ化に、できるかぎりの抵抗をやってみよう!


非大学文化圏へのオマージュ

2006-11-02 15:40:16 | 政策
エヴァレット・ライマー

イヴァン・イリイチの片腕として、普遍的学校教育制度の経済的な破綻について知らせてくれた。


本宮 ひろ志

司馬 遼太郎の「項羽と劉邦」をマンガ化してくれた。人々が中国の歴史に興味をもつきっかけを作ってくれた。
またイラク戦争のさなか、反戦マンガを連載し、右翼の攻撃を受けて連載中止になるまで粘り強く戦争に反対する表現活動を続けた。



浜田 滋郎

中南米のフォルクローレを中心とした音楽を解説してくれた。ラテン系の明るく透明な感受性を理解する手助けをしてくれた。
自国・日本と欧米に偏りがちだった音楽文化評論に、ラテン諸国、とくにラテン・アメリカからの視点を導入した。


保坂 展人

学校教育のおかしいな点を広範に調査・報告してくれた。
その後国会議員となって、年金問題についても知らせてくれた。
すぐれた啓蒙ジャーナリストにして政治家。


川田 龍平

まだ大学に入学しない時期に、薬害エイズ事件の被害者だとカムアウトをした。
その後、製薬会社に謝らせるために、予備校に通いながら社会運動をした。


今井 紀明

まだ大学に入学しない時期にイラクに行った。そしてイラク現地の様子を大勢の日本人に報告してくれた。

G.オーウェル

高校卒業後のアジアでの仕事を通じて圧政について学んだ。共産主義とファシズムの恐怖を人々に知らせた。


もしも本当に大学を義務教育にしてしまったら、こうした人たちが活躍する土壌を壊すことになる。
大学義務教育論者は、文化の多様性、反骨精神、批判精神を破壊するだろう。

これは思いつくままにあげたものだ。追加があればコメント欄に記していただきたい。




大学を義務教育にするべきか?

2006-10-26 14:13:29 | 政策
なんだか最近体調がよくない。胃腸がこわれているようで、痛みをかかえて寝込むことも多い。
だけど薬を飲んだたら快方に向かっている。
寝込んでいては取材はできないけれど、これまでの貯金をもとに書こう。

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大学を義務教育に

以前オフ会で、ある労働組合の活動家がこんなことを言っていた。

「大学を義務教育にしたほうがいいと思う。」

わたしは、この提案を受けて、すぐさま意見を言えず、押し黙ってしまった。

それは自分自身、二つの考えに引き裂かれたからだった。

ひとつは、なんてひどい、ということ。これまで日本では、準義務教育とも言える高校を卒業できない人間を労働市場から追い出すか、もっとも条件の悪いところに閉じ込めてきた。
それは中等教育のカリキュラムにあわない人間を労働市場からはじき出し、冷遇する仕組みだった。
それを大学にまで拡張すれば、学校があわないタイプの人間はどこまでムリを重ねればよいのだろう。
職人的な仕事の価値は、今以上におしこめられ、強制的に通わされる大方の人たちは鬱屈を重ねるだろう。
そこは収容所独特のいやがらせの温床となるだろう。また、各大学各学部が今以上に細かくランキングされ、画一的な価値と文化のもと、多様性が圧殺されるだろう。
個人が払うにせよ、国が支払うにせよ、学費もいくらかかのだろうか。
とてもムリな計画としか見えない。
たとえばわたしのような、一生学校や大学に行きたくない、行かなくてもいいと考えているグループはどうすればよいのか?


子どもの権利か労働者の権利か

しかし、もうひとつの考えがそのとき脳裏をよぎったのも事実だった。
子ども・若者、それに学位のないものをずっと学校・大学に社会的に隔離すれば、
失業率が下がる。それに賃金が上がる効果も期待できる。
組合活動家なら、子どもや若者を学校や大学に閉じ込めることになったとしても、失業率を下げ、賃金を上げることを優先するだろう。
そこにあわない個人は、社会的に隔離されることを拒否しているにもかかわらず、
「社会生活能力が低い」「コミュニケーション能力がない」ということにされる。
今でもその傾向はあるが、大学を義務教育にすれば、それよりも長く学校に通わなかったものは、ますます社会的に排除されることになる。

自分の答え


さあ、大学を義務教育にするべきか、しないほうがいいのか。
ひどく難しい問題であり、簡単に正解は出ないだろう。

わたしの答えを書いておこう。
不登校出身ということもあり、わたしはこの活動家の案には、反対することにした。
子どもだから(若者だから)失業と社会的隔離の憂き目にあって当然というのは、労働組合の中の家父長制である。これは改善されてしかるべきだ。失業の痛みは、各年代ごとになるだけ平等に負担すべきだ。
また、低学歴者だから労働市場から排除されても仕方がないという考えにも反対する。
学歴が低くてもできる仕事は世の中にたくさんある。また、そうした発想のもと、ムリに高校に通うと、小さいころ自分がやりたかった仕事のイメージが薄れたり、中産階級中心の学校文化のなかでマイナスのイメージを作られたりして、途方にくれる例も報告されているからだ。
そもそも、大学を卒業さえすれば安定した職があるとは限らない。
あまり伝統のない私立文系の大学のなかには、卒業の一年も一年半も前にすでに就職をあきらめている人もいる。大学側も、そういう学生が大学にやってくることを嫌うムードさえあるという。大学としては世間体が悪いのか、どう扱っていいのかわからずとまどうのかは知らないが、実際そのようなものである。
にもかかわらず、望まない者まで一律に、大学の中に封じ込めるような政策を支持するわけにはいかない。

大学の帝国

かつてキリスト教は「ひとつの信仰、ひとつの教会、ひとつの司教制度」という方針をかかげた。それは統一をめざすローマ帝国にとって好都合なイデオロギーだった。
それと同じように、「ひとつの教育、ひとつの学校、ひとつの教員制度」を労働組合が目指すべきなのだろうか?
働いたり、失業したりしながら学ぶことは、社会的排除の条件にしなければならないのだろうか?
学校教育や大学教育だけが教育なのではない。学校や大学の外で学ぶこともたくさんある。それを企業にも評価するようにねばりづよく訴えるべきだとわたしは考える。
学校や大学の中にも外にもいろいろな教育が、学びのルートがあることこそ、多様性の観点から見てのぞましい。
また、教師や教授から教わらなければ何も学べないわけではない。自らの内なる目覚め、気づき、師匠について学ぶこと、口伝、インターネットを使った学習など、他の多彩な教員制度も尊重されなければならない。

したがって、提案をした直後に活動家のように「いまどき大学出ていないヤツなんて~」というのは、まったくの筋違いだ。

(念のめに言い添えると、ここでわたしが言う多様性は縦ではなく横の多様性だ。
分極化を賞賛し推進するのではなく、分極化を和らげる多様性だ。)

以上の理由によって、大学は義務教育にしないほうがいいとわたしなら考える。読者はどうだろうか?

追記1:先ほど睡眠から目覚める寸前の意識の中で気がついた。
こちらの記事で紹介した労働組合活動家は、旧「帝国」大学・元国立大学を中退したと別のところで本人の口から聞いたことがある。
旧大日本帝国の「天皇の下、国民は平等」という統一理念を、彼は「大学教育の元、国民は平等」という統一理念におきかえていたのである。
しかし、それは学歴による身分制を招く。その学歴は金で買うものである。
親が貧しければ子は学歴をまず買えない。しかも、イリイチら指摘するように、「自分が学校で努力しないか能力がないから自分は大学を出らなかった。就職できなくても仕方がない」という論理のもとで、自己否定を強いられる。
これは、天皇陛下の「大御心」の堕落した形態である。
知らない間に勝手に「臣民」扱いされ、不本意にも「救済」されかけた一人として、抗議しておこう。
ずっと大学から乳離れできない象徴的な赤ちゃんの状態がいいとは思わない人間、それが苦痛でかなわないと感じるタイプもいるのだ。
世の中には学者以外の人間も必要だ。「学者子ども」タイプ以外はすべて社会不適応にしてしまうような「救済計画」は、ある種の人間を選択的に殺傷する毒ガスを地下鉄にまくようなものである。















技術と政策

2006-09-11 23:05:08 | 政策

2度目に派遣労働者・Aさんと、駅前のドトールコーヒーショップでおちあった。
そのとき、わたしはひとたばのコピーをA4書類の入るバッグに押しこめていた。
それぞれ医師・看護士養成向けの公衆衛生のテキストからのコピーである。
そこには、騒音と難聴との関係や、VDT労働をする際の適切な環境設定について書かれてあった。

Aさんとわたしは、ついこのあいだ、労働組合主催の学習会で知り合ったにすぎない。ということは当然、お互いのバックグラウンドや人となりについてよく知らない。
またふたりとも、「研究会・職場の人権」や京阪神圏の地域労働組合(非正規雇用でも一人からでも入れる労働組合)主催の定例会やイベントなどに顔を出している。かかわりながらも、その中にあるファシズムの傾向や若者蔑視の風潮には、違和感を持っている。

駅の改札で、予定よりもやや遅れてやってきたAさんをむかえて、駅前のドトールへ向かう。
はじめはちょっと雑談。けっこうしんどい話になると二人とも予想も覚悟もできていた。だからこそ、一見ムダに見えるノイズを入れなければ耐えられないだろう。そのことは暗黙の了解だったといってよい。

Aさんはこのブログの熱心な読者でもある。なので、すでに「靴づれしない安全靴」や、「ばね指になりにくい機械装置の発明」という発案は知っていた。
公衆衛生のテキストのコピーを丸い机の上に広げたわたしは、ベルトコンベアの騒音を小さくすれば、耳栓のかけ忘れによって後年難聴(具体的には耳鳴り)に悩まされることはなくなると言った。それに対してAさんは、「いや、実際には耳栓をしていれば大丈夫。耳鳴りになった人は、めんどくさいからって耳栓をしていないことがあったから」とただし書きのようなことをおっしゃった。
それに対して自分は、「それでも、人間耳栓をし忘れたり、むずがゆくてしたくないときもある。それに対応した耳鳴りとか難聴を作りにくいベルトコンベアがあったほうがいいんじゃないかな?」と応じた。「それはそうですね」とAさんはうなづいた。
さらに、自身の経験も含めて、「ベルトコンベア酔いは機械の振動によって起こるのだろう。だったら、機械の振動数を小さく設計すれば、ベルトコンベア酔いも防げる。もし酔ったとしても軽い酔いになるんじゃないだろうか?」とわたしは言った。Aさんは「なるほど、技術的な問題としてそれは解けるかもしれないぞ」といった。彼は少し明るくなったようだった。

少したってからわたしは言った。
「今いった技術的なことも大事なんだけど。ベルトコンベア作業独特の単調さとか、人減らしの会社の政策ってのは、科学技術の問題としては解けないよね。それは政策の問題になるから」
Aさんは、「うーん、そこは、難しいところですね。」と言った。



失業者の権利

2006-07-10 09:24:09 | 政策
あるとき、東大阪の親類のところに行く用事があった。そのとき、わたしは失業中だった。途中、乗り換え地点の鶴橋駅で、手土産に大判焼きをいくらか買おうとした。そのとき、母はこう言った。「あんたは今仕事をしていない。ということは子どもなのだから、手土産なんて持っていかなくてもいい」

たとえ失業していてもわたしは18歳以上の成人だ。もし手土産ひとつもって行かなければ、非常識、気が利かないなど親類から嫌われたことだろう。確かに親の福祉を利用している。しかし、ひとつ60円程度の大判焼きを数枚もっていく程度のことが「節約」だろうか? ただでさえ気むつかしい祖父母らのゴキゲンをとるために、足も弱って家にいるしかなくて退屈している人達への気配りから、数百円のお菓子を持っていくのは大人≒正社員・就業者の「特権」なのだろうか?
この程度の出費ならば安いもの、とする自律的な判断を侮辱する物言い。それは、失業者への人格的自律権(自己決定権)への侵害である。
いいかえると、それは失業者差別である。失業者または半失業者という身分ならば、まともな大人じゃない。人格の独立性や自己決定など僭越だ。そう言っているわけだ。

ニートやフリーターなど「下流」の若者に対して、コミュニケーション能力が「未熟」だと言い放つ。自律のための教育をして成長させてやる必要があるとみなす。これは高度成長を反省しない無反省な能力「開発」信仰である。失業者には成長主義にまきこまれない権利もあるのではないか。

建前では憲法保障されている生存権。それは、侮辱されながら生きる権利であってはならない。
また憲法は、失業者の権利を保障し、それに沿って法整備されてしかるべきだ。

あるニートは、フリーターとかニートたたきのTV報道を見るとつらくなると言っていた。失業者は、もっともっと尊重されてしかるべきだ。失業=一生の罪ではないのだから。

ワイマール憲法は、適当な職を保障されないときには生計費を手当てされると保障している。日本国憲法にも、これとほぼ同文がGHQによって用意された。しかし最終的には国民は勤労の権利と義務を負うとされた。これに、失業の権利と義務(誰かが就業できれば別の誰かが失業することもあるので)の組み込むとどうなるだろうか? そう、ニートは失業の権利と義務を遂行していることになるのだ。
もしこうした発想がゆきわたれば、失業や半失業は、自己否定のアリ地獄ではなくなるだろう。また、生活保護の「水際作戦」も違法にできる道が開ける。
「われが失業者であることを誇るときが来たのだ」「失業は美しい」と言う人々が、失業者いじめ、そして失業者自身の際限ない自己否定→自殺をせき止める力になれば、と願ってやまない。

〈追記〉記事をあらためて、「失業者の権利宣言」を作ってみたい。

トラックバック用URL:http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060703






(転載)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」1

2006-05-06 02:43:25 | 政策
ひとつ下の記事に、「『ニートって言うな!』『不登校って言うな!』」の後半部分の転載があります。その前半部を、ご本人の許可を得て転載します。ーーで区切り、その後にわたしのコメントを入れます。
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「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」 その1
山田 潤


 「中央公論」4月号、「若者を蝕む格差社会」という特集を組んでいる。そのトップを飾る三浦展と本田由紀との対談が、やはり、おもしろかった。いまなぜこのふたりの対談か、は、ふたりの語りだしからすぐにわかる。

三浦 昨年、『下流社会』という新書を発表しましたが、思いがけないほど売れてしまった結果、わたしが「下流」という言葉で指摘した問題が過度に単純化されたことに、少々閉口している面もあります。「下流」=フリーター、ニートと単純化されたり、下流がよいか悪いかも、二者択一で語られている。
 あの本では「下流」を、生きる意欲に欠けた人々と想定していますが、厳密な定義をしたわけではありません。ただ、確実に言えるのは、この10年ほどにわたり、若者の階層意識がはっきりと低下していることだけです。


本田 それは明らかに、この10年間に若者が労働市場で直面した困難から生じたものですね。しかし、『下流社会』の世間での受け取られ方を見ていると、「だらだらして意欲に欠けた若者」に反感を持っている年長世代が、「若者叩き」のアイテムとして、飛びついているような印象があります。
 三浦さんの従来の消費社会論からすれば、消費や競争に倦んだ「下流」の登場は必然ではないでしょうか。にもかかわらず、若者を叱咤されるような内容の本を出されたことに私は違和感を持ったのです。


 椅子取りゲームというのがある。輪に並べてある椅子のまわりを、みんなで歌でも歌いながらぐるぐる回る。笛の合図で、急いで近所の椅子に座るのだが、人数よりも椅子の数が一つづつ少なくなっていくのだから、かならず誰かが座れなくなって、つぎつぎにゲームから脱落していく。椅子がどんどん取り払われて、最後に勝ち残るのは、たったひとりというお遊び。これをお遊びとして、みんなが楽しむためには、それなりの配慮がいる。最初に座れなくなる人がはじめからわかりきっているような場合には、やらないほうがよい。遊びとはいえ、誰かを押しのけて座る浅ましさを感じて、しだいにゲームから腰が引けてしまう人もいるだろう。
 それで、このゲームにも工夫がこらされて、椅子は人数よりも少なくなっていくのだが、ゆずりあって、一つの椅子に何人でも、場合によっては、すでに座っている人の膝の上に腰掛けさせてもらってもよい、という変化型もある。何人かが同じ椅子に殺到した場合、みんなが、何らかのかたちで座れるように工夫しないと、そのグループの全員がアウトになる、というルールもあるようだ。
 「みんなハッピー」にあまりこだわりすぎると、ゲームとしてのスリリングな楽しみがそがれて、そもそも椅子取りゲームではなくなってしまう。この手の遊びには、現実世界にシビアなかたちであるもの(さしずめ「リストラ」という名の人員整理)を笑い茶化してガス抜きするという効用もあるのだ。
 さて、上の対談で本田が「この十年に若者が労働市場で直面した困難」とは、笑ってすますことのできない、シビアになる一方の椅子取りゲームだった。わたしは、この10年間、関西大学の3回生を相手に「教育学購読演習」という授業を担当してきたが、就職活動(学生用語で「シューカツ」)にいよいよ乗り出そうとしり若い人たちの重苦しい心中をのぞきみて、わたしの気分まで重くなるのが毎年のことであった。さきの対談で、本田も同じ思いを語っている。三浦が、「自分探し」などほどほどにして、「まずは社会に飛び出すことも必要」と、若者に苦言を呈したのを受けて、彼女はこう言い返している。

(本田)ただ、今はとりあえず社会に出ようとしても、気楽に仕事をはじめられない状況がありますよね。たとえば会社の採用面接でも、くどいまでに熱意と意欲を表現するように求められる。就職活動をしている学生の話を聞くと、「あそこまで自分を偽ることはできない」と言います。会社も大量採用の時代とは異なり、慎重に採用をすすめますから、とことんまで会社に尽くす人材を求めてくる。
 そこまで身をすり減らさないといけないなら、それに耐えられるくらい好きなことでないと仕事にできない、と考えるのも無理はないと思います。働かない若者だけに責任を負わせるのは酷なことではないでしょうか。

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自分探しは悪いのか

>三浦が、「自分探し」などほどほどにして、「まずは社会に飛び出すことも必
>要」と、若者に苦言を呈したのを受けて

「不毛なこと」「文化不適応になる」「アホみたい」などと見下され、揶揄されがちな「自分探し」の若者。けれど、どんな仕事に就き、どのような性格の人間になるのかを自分で考え、決定することが建前の近代社会において、これはきわめてまっとうな反応ではないだろうか。「選択の自由」が増し、自分で自分をカスタマイズし、自分で自分を説明する必要にかられれば、多くの人々が「自分探し」をするのは当然の帰結ではないだろうか。
じっさい、本田さん、山田さん、その他の論者も言うとおり、いったん会社社会に入れば、「社畜」化するほかないのだ。
そのまえの時期に、いい思い出をつくりたいのであれ、確かな自我や人格を確保したいのであれ、旅をしたり、哲学書を読みふけったり、演劇やアニメやバンドなど好きなことにチャレンジしたりすることは、おかしくない。
確かに、そんなことをすれば、みんなから浮いてしまうし、「確固たる自我」や「成熟した人格」は、共同体主義の日本社会での処世術と対立する。
それでも、いや、だからこそ十代や二十代の、まだ失敗や逸脱が大目に見られる時機に、「自分探し」をやらないと、と思いつめることもあるのではないか。禁じられた恋愛のほうが激しく燃え上がるのと同じようなところが「自分探し」にはある。
なお、就職活動に必要な自己分析ができないと困る、という意識からそうする層もいるだろう。

上の世代は反面手本

Cunさんうえしんさんらがご指摘のとおり、上の世代を見渡せば、魅力的な層はいない。みんな「反面手本(Cunさん)」だ。
せっかく学校で「いい子」にして、大企業の正社員・総合職になった。けれど、たった2~3年でリストラ。あるいは倒産。外に出されなくても、労働強化と減給、保障や手当てなど度重なる社内福祉の廃止。低所得者への増税。軽い慢性的なうつ病なんて、いまどき珍しくもない。くわえて、マスコミに跋扈する若者バッシング報道。
脱サラをやろうにも、若い店主の自営業のお店はやはり2~3年で店をたたむ。中小企業の経営者の息子が過労死したという話もある。それも、地域の労働組合(大企業の組合とはちがって、中小企業の労使紛争を受け持つことが多い。)の関係者が、経営陣の過労死を、怒りとあわれみをこめて伝えていた。

自分探し叩きの心理
 
三浦さんは>若者に苦言を呈した(山田) のではない。これは若者バッシングにすぎない。「若者の『自分探し』なんて、甘えたりふざけたりしているだけ。単に『若気の至り』でしょう。ハッハッハハ。」といった、若い世代へのみくびりがあるのではないか。そして「若者叩き」が年長世代に受ける・売れるという言論市場におけるニーズもからんでいる。
あるいは、若者を「自分探し」をする「悪い若者」と、「自分探し」には興味も示さない「よい若者」に分割統治しようというのだろうか(苦笑)。

自分探しをめぐる世代間対立が大変明瞭にわかる例をあげておこう。
ある若者は、インドに文字通り自分探しの旅に出た。彼の親は九州にある地方都市の会社の社長2代目だった。家父長の権威をおがんで、家や地方の非合理的な慣習にあわせておけば、だまっていても彼には3世社長の座が転がり込んできたはずだ。だけど、彼はそうしなかった。
成人して、東京にある仏教系の大学に進学した。そして、日本の裏側のペルーに飛んだ。そこで友達をつくり、その友達の従兄弟にあたる先住民の女性と結婚した。今は夫婦でインドにいる。インドで、エイズにかかった人が最期のときをむかえる仏教系のホスピスで働いているのだ。当然、保守的な田舎の家では、年長者を中心として、かなりの反発と嫌悪でむかえられ、とても妻を連れて帰宅できる環境ではない。
彼の祖母は「あの子は家を捨てた」と思っている。先祖を守らず、家業を捨て、自分の生まれ故郷や国のために働いていないと考えているのだ。異国の地で、ほかの国や地域の人のために働いていることは評価されない。
若い世代のわがまま・気まぐれから家や国の伝統を守れ、との意識から上の世代がとったのは、彼の妹に婿をとらせることだった。彼の妹がいる東京から九州にある実家にムリヤリ帰省させた。東京でつきあっている男性と分かれさせ、職もやめさせてのことだ。
どうだろう。若い世代の「自分さがし」を恐れたり嫌がったりしている人たちのホンネがすけて見えるような話ではないか。これはちょっと極端な例だが、これをややゆるめた例なら、身近に転がっていないだろうか。要するに、上の世代が舌の世代の自由や多様性についてゆけず、恐れをなして反動化しているのだ。

こういう「自分探し」の旅は、いけないことだろうか。彼の場合は、あまりにも保守的な、自民党以外は政党ではないと思われているところ、ショッピングセンターでいつも知り合いに出くわすところから自由になりたかったのだ。そのためにはまず地球の裏側に行って、友達ではなく家族を作る必要があった。
そのうえで、妥協するかのように地理的にも近いアジアに戻ってきたわけだ。
いったい「自分探し」の何がいけないのか、さっぱりわからない。

「自分探し」を無碍に否定するのは、若いころに自分とは何かについて、悩んだことがないし、人に上手に説明する必要に迫られてもいない世代だ。その人たちが、下の世代の就職用/文化用の悩みを受け止めきれないで、世代エゴをふりまわしていると思うのだが、いかがだろうか。

生きる知恵としての自分探し

フリーターのなかには、「バンドや自主制作映画とか、何か自主的な活動とか夢とかをやっていると、正社員になりやすいんだって?」というウワサがある。特に90年代の後半にはよく聞いた。それにあわせて演劇やバンドをやっていると面接で言ったり、実際にはじめた者もいる。
もうひとつは「何をしている人か」というアイデンティティ・クライシスによる自我崩壊を防ぐ手段でもある。周囲にも自分がどんなタイプの人間か説明しやすいし、安心感を持ってもらえる。自分自身も「自分って何?」と過度の問い直しによる自我崩壊や自己否定を防げる。なので、特定の楽器をやってみたり、同人誌をやってみたりする。そういうタイプの「自分探し」は、切実な必要性から編み出された若者の「知恵」だ。それを否定する理由は何なのか。


*この記事のつづきはひとつ↓の
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/9cccf62c9230fff1fff03ab93cea3d38です。













                                                                         

(転載)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」2

2006-05-05 20:34:23 | 政策
学校に行かない子と親の会・大阪発行の会報・ココナッツ通信2006年4月号に、山田 潤さんが若者と仕事についてのエッセーを書いていらっしゃる。このエッセーの後半部分を、本人の許可を得て掲載する。そのうえで、コメントをワタリがつけてゆく。読者もどんどん意見をしてほしい。

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「不登校」と「親の会」(15)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」
山田 潤 

(前半は当ブログ内記事http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746に収録)

 大学生の場合は、しかし、がんばれば自分は座れるかもしれないと期待できるほどには、まだしも「椅子」は残されている。
数十社・場合によっては数百社を超える企業にエントリーし、面接で何度も「御社こそ・・・・」と心にもない決意を繰り返すしんどさ、そのうえで何度も「不採用」の苦杯を飲まされるつらさ、それは生半可なものではない。そのことを重々わきまえたうえで、それにしても、大学生はともかく、「ゲーム」に参加することはできる。
 高校生の場合は、エントリーすら全員に約束されてはいなかった。ここ十数年、新規高卒生にたいする有効求人倍率は「1」を下回っていたのだ。最近、ようやく「1」に回復しかけているが、これは100人の求職に対して100人の求人ということであり、ひとにぎりの「優秀な」生徒をのぞけば、選ぶ自由はほとんどない。そして、もっと深刻なことには、「正社員」の求人倍率はなお「0.6」という水準にとどまっていて、これは今度も容易に回復する見込みがないのである。
 つまり、高校生の場合には、「ちゃんとした椅子」はここ十数年、最初から誰の目にもわかるかたちで、大幅に足りなかった。そのぶんだけ高校生は「フリーター」か「ニート」になるほかなかったのである。そのうえでなおかつ、「フリーターやニートにしかなれない若者」などと、自らの人間性が問われたりもする。いや、直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにしない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。
 お遊びとしての椅子取りゲームでは、たまたま座れなかった人の「(ちゃんと座る)能力」や、「(座ろうとする)意欲」、あるいは、「(他人を押しのけて座ろりながらも、その場の雰囲気を壊さない)人間性」を問うたりはしない。もともと、確実に誰かが座れなくなるように、椅子の数を減らしているのだから。
 ところが、お遊びではない現実の社会では、「椅子」の数の不足はほとんど問われない。ほんとうは、数的な過不足だけではなく、質的な良否もきびしく問われねばならないのだが、そちらは問われないままに、もっぱら「座れる」か「座れない」かで人の勝ち負けを判断し、その勝ち負けの原因をその人個人か、その人を育てた家庭に絞り込んで平然としている。こうした風潮に対するいらだちと、こうした世相に便乗する知識人たち(三浦展もそのひとり!)への怒りこそが、本田由紀に『「ニートって言うな!」』(光文社新書)を書かせたのだ。それは、上に引用した本田の、押さえ気味の発言からでも察することができる。だが、この対談タイトルは「『失われた世代』を下流化から救うために」となっていて、せっかくの本田の起用を台無しにしてしまっている。
 わたしたちは、この社会に用意すべき良質な椅子の数を、政策として減らしてきているのだ。1986年秋には、まだしもさまざまな制限を付して施行された「労働者派遣法」は、この十年の間に対象業種がつぎつぎに拡大されてほとんど無規制になり、そのたいへん不安定な雇用関係が「正社員」の雇用保障をも危うくするまでになっている。いま厚労省が来年にも国会に提出しようとしている「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくくする道がつけられている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。
 そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こえてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げている。「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすような「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと。そして、総じて、若者たちが個人単位に分断されて「自己責任論」に呪縛されていること。だから、この社会の「労働市場」のありかたそのものを社会的な連帯によって変えうるという展望をもてないでいること。
 わたしも、どうだと思う。しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめておくべきだと思っている。だが、それにしても、雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキで呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。
                                                                                                2006年4月8日
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救世主幻想

>「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくする道がつけられ
>ている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者
>をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。

同意する。以前の記事でも書いたが、この種の救世主コンプレックスには困ったものだ。こういう「善意」や「使命感」に燃える人々が、戸塚ヨットスクールを応援し、アイメンタルスクールのような手錠で人を拘禁する施設の存在を期待し、黙認している。
ルネッサンス期の名画に、偽救世主をテーマにしたものがある。偽救世主とその一党は、魅惑的な演説によって人々の注目をあびる。それだけではなく、人々を暴力で強引に信者にしようとする。偽救世主の演説に立つ台には、前足を上げた馬ーー傲慢のシンボルーーが描かれている。知恵のある人は、救世主一味に背を向けている。
どうだろう。救世主コンプレックスに満ちて、善意や使命感によって人に暴力を加え、親や行政から多額の金を受け取る引きこもり・ニート救済業の人々とそっくりではないだろうか。

ちなみに、その絵のなかでは、偽救世主とその仲間たちは、最期には、大天使の放った光の矢に貫かれて、地上に墜落してしまう。平成の現実世界でも、できればそうなってほしいものだ。

親と子は別人格


>直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにし
>ない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される
>場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。

ちょっと待ってほしい。実は自分自身も以前「不登校」というマイナスのレッテルを貼られた経験があった。しかし、そのとき「親がおかしい・悪い」という言説を知って、ホっと胸をなでおろした。悪いのは自分ではない、別の人だと考えたからだ。
この種の言説は、「不登校親の会」かいわいで、親によってよく語られる。だが、子ども本人どうしでそのことでつらいよねえ、と話し合った記憶はない。
もうひとつ、大人になってから、琴・三味線教室の師匠から、わたしの演奏の出来がよくないのは、わたしの母がわたしを甘やかして育てたから、ときつくお叱りを受けた。そのときには、うんざりしつつ悔しい気持ちが湧いてきた。というのは、独立したわたしの人格を認めない文脈で、その言葉が使われたからだった。
ひとくちに「不登校」と言っても、いろんな年齢の子がいる。また当然言葉の使われ方にはニュアンスや背景も関わる。総合的に見て、「親が甘やかしたから」は、子ども本人にとって、肯定にも否定にもなりうる。それをひとくくりにして「子どもが傷つく」、としてしまうのは、「子どものため」「『当事者』がそう言っているから」を隠れ蓑にした、親の自己防衛ではないだろうか。特に、子どもが心理的に親から離れてゆく十代の子どもたちにはあてはまらない。
もっとも、これをおかしいとする立場にも一理ある。「不登校」「フリーター」「ニート」すべてにわたって政治的にネオコンのバイアスのかかっているのは事実だ。そして、親としてまたは本人としての「当事者」の気を悪くする可能性のある言説だと言うことはできる。ただしこれは親が主であって、子どもはそれをどう受け止めるかにはばらつきが見られる。
<2006.5.9補足>こうした混乱をさけ、偏見と差別をなくすためにこそ本田 由紀に習って「不登校って言うな!」と言う戦略の有効性がよくわかる。<2006.5.9補足>

>そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。
>だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こ
>えてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げてい
>る。
 
この記述には異論がある。
当の若者たちが自分たちの状況をよく知る立場にいるのは、事実だ。しかし、逆に「灯台もと暗し」ということもある。自分たちのことゆえにきっちり見つめられなかったり、感情抜きの冷静な判断を誤ることもある。
だからといって、経済的に利害の対立する上の世代にわたしたちを語られるのは迷惑だ。自分たちだからこそ言えること、言いたいこともあるからだ。
たとえば、次のサイトを見てほしい。
ShiroさんComaさんCunさん、後藤 和智さん古鳥羽護さんLenazoさん、深夜のシマネコさん非正規雇用労働組合 ぼちぼち さんうえしん さんg2005 さんshigeto2004 さん。そして、不肖わたくしのブログも、声をあげている。
三浦さん、本田さん、山田さんまで、それを知らないと言うのはなぜだろうか。上の世代はネットに慣れていないのでご存知ないのだろうか。それとも、東大などの「よい」学校に行き、「当事者学」のような形で情報を発信しなければ、学者・評論家らには認知不可能なのだろうか(苦笑)。
もしも若い世代に信頼される大人であれば、身近な若い世代との会話や観察から、若者の声が聞こえるのではないだろうか。沈黙のとともに存在する身振りや身なりや雰囲気も含めて、理解できるのではないだろうか。
立場の違うはずの3人がの識者が、そろって「若者の声が聞こえない」とするのは、要するに知らないフリをしているだけではないのか?

フリーターは楽?

>「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすよ
>うな「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと

この意見の半分は同意、残り半分は同意できない。というのは、大阪地裁でアルバイトの20代なかばの男性に過労死判決が下りた例もあるからだ。アルバイトといえども、いったん仕事に入ると殺人的なスケジュール、会社や現場への拘禁かとみまごうような長時間拘束は珍しくない。
派遣やアルバイトであっても、正社員と同じ時間・同じ種類の労働をこなすこともある。
また、アルバイト、ということで、周囲がその労働を過小評価した可能性もある。それゆえに、これは「過労死」だという訴えが遺族から起こりにくいという「認識の落とし穴」があったのかもしれない。
通常、過労死は、たいへんまじめに勤勉に職場につとめていた者が、それゆえになくなったフシがあった場合、「どう見ても会社側の労務管理がおかしい」とみなした遺族らの調査・訴えによって裁判の場に現れる。勤勉に必死につとめていたとしても、「まさかアルバイト(派遣)」で過労死なんて」という偏見が盲点となり、過労死との訴えが起こらない場合もあるだろう。もし訴えても、やはり「認識の落とし穴」により、認定はむつかしいだろう。<2006.5.9補足>さらに、いろいろな職場を短期で移り歩く派遣やアルバイトの場合、複数の会社での疲労蓄積によって過労死にいたる可能性も考慮しておこう。その場合、どこの会社でどんな風に働いたのか、のちに証拠づけようとしても、長らく一箇所に勤めている正社員に比べて難しい。周囲もアルバイトを軽く見るし、本人の記憶もあいまいだからだ。細切れ雇用される雇用者は、ひとりひとりが一日きざみとか数時間きざみで職場を入れ替えれられる。そのなかで、一緒に働くうちに互いを理解しあったり、仲間意識をもったりすることも難しくさせられている。そのうえ、貧乏は社交の基盤を失わせる。それゆえに、証言を集めることも難しい。<2006.5.9補足>
以上の理由によって。わたしは懐疑的な立場をとる。読者は?

人々を分け隔てる学校教育

>しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分
>断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめてお
>くべきだと思っている。

同意する。
学校教育は、人々に集団行動や共同性への生理的な嫌悪感と憎悪を抱かせる。
意味がなく、個人の権利や尊厳とのバランスを考えない集団主義は、「集団とか共同体に参加したがる奴は、頭が悪くて、鈍感で、視野狭窄」といった印象を人々に与えている。そうして、自ら選ぶことができる、またそこでの規則を自分たちの手でカスタマイズすることもできる共同体(自分たちで作る労働組合や人権問題NPO/NGO)をも「組織である異常人権無視」との疑いの目で見るように誘導する。
かつてアドルノらは、極端な集団主義と極端な個人主義はともにファシズム・権威主義の方向を向いていると「権威主義的パーソナリティ」で言った。義務教育に在籍し、その後コミュニタリアンの考えもとりいれて運営しているフリースクールに在籍したわたしも、同じ感触をいだき、30代になってからの読書によって、前述のフランクフルト学派の研究の成果に触れた。なるほど、と思わされた。
以上は1973年生まれのわたしの、世代限定の議論だ。今では、数学のⅠ・Ⅱ・ⅢとA,B,Cといった、誰が何のために作ったのかわからない選択肢によって人々は極端な個人主義を身につけているのではないだろうか。あるいは、専門学校の営業の人から聞いた話だが、スチュワーデスや翻訳事務など英語の必要な仕事では、TOEICの一点でも高い人から採用され、派遣されて現場に行ける仕組みになっている。これもまた学校的な、テストの点数によって分割統治されている。
かつてイリイチが「脱学校の社会」で言及したように、「誰でもがんばれば進学・出世できる」という約束を、学校教育制度は、おおかたの社会の成員に対して破るように設計されている。みんな終身雇用されると言っておきながら、進学するごとに「リストラ」組が増えていく。誰でも東大に行けるわけではない。「ドラゴン桜」メソッドを導入しても、定員がなくなるわけではない。たとえ希望者はみな東大に入れるように「改革」しても、その後の選抜がなくなるわけではない。
進学するたびに何割かは外に出される。それが社会であり人生であると錯覚させる効果を学校教育は失っていない。むしろ強化している。
<2006.5.14>元祖リストラとしての学校教育は、人々のリストラへの抵抗力をそいでいる。国立の大学に行けずに高い学費に泣くのは、努力不足だったからだ。そうしたイデオロギーを信じさせるのが学校教育だ。これを打ち破るのは非学校教育の勤めだ。このブログもオフ会もそのひとつだ。<2006.5.14>

>雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキ
>で呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。

日本は、山田さんがおっしゃるほどフランスから遠くないのではないか。
フランス・5月革命のリーダーのひとりにダニエル・コーン・バンディッド、こと「赤毛のダニー」がいる。彼は高校中退だった。大阪では、実質的には中学中退のわたしが呼びかけて「プレカリアートOFF」をやった。かたや、東京でも100人を超え、警察の弾圧まで招く(その程度に存在感のある)同種の企画があったとMLやブログなどが伝えている。自分は、日本はダメ、と決めつけたくはない。

気になる論点


「不登校」の親の会の会報である「ココナッツ通信」のエッセーにこんなことを書くとは、「不登校」の子どもに何か期待しているのかなあ。
そういえば、もっとも気がかりなのは、このエッセーには中卒や不登校経験者の就職でぶつかる困難についてとりあげられていないことだ。もちろん、「不登校」というのも、子どもに休校権を認めない政治的な立場からの言葉であり、労働市場における若い世代や下層階級の困難を「不登校をしたから」という「自己責任論」に分断統治させないために、あえて使わないのかもしれない。だけれども、「」つきであっても、そのことについて情報がないのは、どうしてなのか。

4月の親の会の定例会では、「学校に行かなくてもちょっとした仕事すりゃ食っていけるし。。。。」というある親御さんの意見が出た。それに対して、誰も異を唱えていなかった。超がつくほど楽観的に、その発言は参加者にうけいれられていた。「ここは親の会であって子の会ではないから」という、これまで親の会関係者から耳にタコができるほど聞かされたものいいによって異論は周囲に拒絶されると予想したわたしは、ガマンして黙っていた。だからといって同意していたわけではない。
たとえば、時給700円のコンビニでアルバイトをするとしよう。睡眠障害になったり、ウツになったりするリスクもある、大変な仕事だ。これを、週に5回で年収300万円まで稼ごうとすると、一日あたり何時間実勤すればよいか。わたしの計算では、一日約22時間だ。
もちろん、その仕事に保障もないし、退職金もない。組合の割引販売も、どこかの海の家などの保養施設の割引特典もない。家を買ったり借りたりするときの社会的信用もない。深夜・早朝を中心に、フリーターのほか主婦・サラリーマンなどいろいろな人たちがコンビニで働いている。ムリをして体を壊すとやめることになり、次の労働による受益者か犠牲者か分からない人が同じシフトに入ることになる。そういう使い捨て、体力と年齢で切られる仕事で「なんとか食える」のかどうか……(~_~;)。
親が自分の学歴(や今の給与・保障ーー若い世代になればなるほどどんどん企業は切り崩す方針だーーをもとに、子どもたちもきっと同じ程度の労働と生活があると思い込み・決めつけているのではないだろうか。親の世代は今ほど学歴インフレがすすんでいないのだ。その点、見落としてはいないか。

念のため再確認を。特定のグループへの極端な美化は、極端に貶めることと同じ程度に、差別である。登校拒否・不登校はスクーリング(学校教育)からは脱け出した。だけど、スクリーニング(選抜)からは、まだ自由ではない。
それを、すべてから自由な存在であるかのように描くことは極端な美化であり、差別にあたる。
また、こうした、社会的排除のリスクの隠蔽は、親を利することがあっても、子を利することはない。
これは、多くの差別論・人権論のなかで、繰り返し言われてきたことの繰り返しにすぎない。はこの世の差別をなくす救世主ではない。女性は観音や聖母マリアじゃない。「障害」者は純真な天使じゃない。「不登校」も「若者」も、事情に変わりない。したがって、「不登校」だからといって、経済的な苦労がないわけもなく、「ちょっとした仕事」で親亡きあと、かんたんに食べていけるとはかぎらないのである。「不登校」をおとぎの世界の住人のように扱い、長くつづくプロセスでもある社会的排除を過度の対象の美化によって語りえぬものと化する親の作業は、元・「不登校の子ども」のひとりとして、重圧であった。
さように親のエゴが支配する「子と親の会」というのは、これは詐称ではないだろうか。


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睡眠のための一案--9時のルール

2006-04-14 15:50:23 | 政策
ちょっと思いついたことがあったので忘れないうちにメモしておきます。

派遣・請負会社からの仕事の連絡は、時間を問わない。うえしんさんも書いていらっしゃるが、朝の5時6時、あるいは深夜の11時12時代にも当たり前のようにかかってくる。

待っている身はそわそわしている。いつ連絡があるのかわからないのだ。それも、どんな仕事がどこであるのか、一日何時間入れて、どの程度の期間仕事の口があるのか、予想もできない。

そこで、借金のとりたてではないけれど、法で規制できないだろうか。

朝9時以前は夜9時以降は、派遣会社は労働者に電話・ファックス・メールをしてはいけない。、派遣会社は労働者に電話・ファックス・メールをしてはいけない。

こうした案を、派遣にからむ法のなかに、なんとか入れられないだろうか。

眠れないからといって睡眠薬をコッソリ飲むのはおかしくはないだろうか。
いつもかなりの人が胃腸薬を手放せない状態は、「自己管理」が弱いからなのか。
いや、少しでも環境を整備して、人が夜眠る権利を手にするべきなのだ。
もちろん、この程度の改良ですべての眠りが安らかになるはずもない。
それでも、声をあげられる人はあげたほうがいいんじゃないだろうか。
全共闘世代なら5月と間違えそうな、今回のフランスの騒動もそうだけど、少しでも考えたりものを言っても生きられる立場の人が主張してゆくほかない。
わたしも家族や親類の福祉によって、なんとか情報発信できる立場に今はいる。
だから、できるかぎり言っておきたい。

派遣会社は、人の眠る権利を侵してはダメだ。
こういう小さなところから、人が労働力商品扱いになるか、それとも人として働いたり勤めたりできるかどうかが分かれてくる。
パート・アルバイト・派遣・業務委託……。雇用形態はちがえど、その根底には共通項がある。同じ労働者であり、同じ失業者だ。なによりも同じ人間だ。さらに底に行けば同じ哺乳類とか同じ動物とかいう枠もある。
で、個々のユニットどうしでなくては通じない話もあれば、共通にわかる話もある。

労働者・失業者・人間あたりに共通する利害を、訴えて行きたい。。
それは派遣会社の従業員、それに派遣会社のお客になる企業の従業員の労働条件をよくすることにもつながるのだから。
技術の進歩による弊害を減らすということにもつながり、人と科学技術とのよきバランスを作り上げる品位ある仕事と生活に向けて、一考を願いたい。

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いつまで生きてもいい社会を

2006-01-10 22:26:06 | 政策
 労働は、人の時間をとる。企業は、人の時間を奪う。もともと狩猟・採集をしていたころの人類は、好きなときに食べていたと考えられるとサル学者の河合雅夫は述べている。(「森林がサルを生んだ」朝日文庫)

 いまどきの人類は、企業に時間をささげているようだ。もとは平等であったはずの人の時間は、労働時間や利子の時間によってどこかに過ぎ去った。というのが、80年代にはやったエンデの「モモ」のテーマ、すなわち「時間」だった。

 現代日本の企業社会は、すさまじく時間を奪う。時間がブラックホールに吸い込まれるみたいに。
 年功序列は、特定の組織への隷属を促進する。不安定・低賃金雇用は、残業をことわれない人々を生み出す。個人の「私だけの時間」は、どこかへ押しやられている。沖縄やインドネシアあたりに行けば、かなり余っているというウワサを聞くこともある。その旅費のために体を壊しかねない労働をするという逆接をはらみながら。
 私事で恐縮だが、わたしの父は、50代初頭であの世へみまかった。「さあ、これから教育投資や年功序列で組織に忠誠を誓ったぶん、お金を返してもらえる。」そう言って妻と笑いあっている矢先のガン発病と死亡だった。
 たった一度しかない人生のなかで、将来のためといって、たくさんの学校教育を受け、若いころは給与以上の労働をもって、組織に奉仕をする。けれど、死神は死神のルールで動いている。人間の限りある予想や計画や戦略とは別のルールがあるのだ。よって、人はいつまで生きられるか、言い換えればいつ亡くなるか分からない。
 常日頃わたしたちは、そのことを忘れている。なるだけ考えないようにしている。でなければ、生活できない社会を作っているからだ。そうして、勉強や仕事や家事や雑用に逃げている。現実に向かって逃避する。思考停止は、不安をやわらげてくれる。
 だけど、そんなことでいのだろうか? 苦痛に満ちた、あるいは実存に違和感の強い何かのための準備ーー教育・訓練・下積み労働ーーは、「今、これだけのことだから」「いつか将来抜け出すぞ」ということで正当化できるかどうか。
 できない、というのがわたしの答えだ。いつまで生きるか分からない、だから退職金とか年金とか保とかいったシステムをわたしたちは考案し、使っている。それはそれで賢明なことだ。
 おまけに同時に、「いつ亡くなってもそれなりに満足できるシステムを整えよう」というのはぜいたくすぎる欲求だろうか? つまり、そのとき働いた分を、ちゃんとそのときに返してもらう仕組みだ。もちろん、一瞬・一瞬にそれはできない。しかし、一日・一週間・一ヶ月といった単位で、稼いだ分を現金その他の手段(日曜日はちゃんと休みがとれるなど)の方法で、そのつど還元するというのは、不可能なのだろうか。
 人は、いつまでも生きていられるとは限らない。ならば、死神と妥協をする謙虚さもまた、人の社会に求められるのではないだろうか?

 遠い未来のことを完全に予測できるとするのは、あまりにも大雑把で、楽観的で、傲慢な考えだ。そんなものに対していったい誰が「責任」をとれるというのだろうか。突如として現れた鳥インフルエンザウイルス発生に、誰が責任をとれるのだろう。もちろん、感染した家禽の処分などはやるべきだし、実際にやっている。だが、ほぼ確実に見通せるのは、ここ数日とか数ヶ月の範囲のことなのではないだろうか。
 自分たちの予知能力をあまり過大視せずに、素直に今日生きていることを喜ぶセンスは、どうすれば取り戻せるのだろうか。それは、「ニート」や「パラサイト」を排除できない社会になるだろう。
 


 

 

システム社会の戒厳的位相

2005-11-15 21:26:10 | 政策
 みなさん、フランスの暴動について、気になる報道がありました。
 シラク大統領は、メディアでの演説で、暴動にくわわった若者の親の責任を問う意向を、明らかにしています。
 なお、政府が若い世代に対して職業訓練を行う計画も発表しています。

↓yahooトピックス 産経新聞による報道

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051115-00000025-san-int

 さすがは戒厳令をはじめとする有事法制の発祥の地だけあって、なんとも革命的な政策と言えるでしょう。

 しかし、十代なかば以上の大きな子ども/若い大人たちの行動に、どうやったら親が責任をとれるのでしょう。端的に言って、そんなことは不可能ではないでしょうか。また、政府の責任というのは、どうなるのでしょうか。

 なお、職業訓練をしても、職場がないのでは、むなしいだけです。職業訓練所は、監視と矯正の息苦しい場所になるでしょう。かつて歴史家アリエスや文明批評家イリイチは、学校への子どもの長期間の閉じ込めと従属的な苦行を強いることを、特殊近代的として批判しました。それが、学校に行っていない若い世代にも拡大されようとしているのです。子ども・若者の自由にとって、これは脅威であり、近代の巨大な官僚的システムの支配する社会の隘路を示しています。

 職業訓練の正当性/正統性についても疑念が出されているのをご存知ですか?

「アイバー・バーグの優れた著書『訓練という大泥棒(原文:ルビ;グレート・トレーニング・ロバリー)』以降、それに類似した多くの研究がなされてきました。バーグが明らかにしているのは、人々が学校で学んだ教科と、あらかじめ特定の教科を学んでおくことを欲求する職業において彼らがどの程度の有能さを発揮するかということは、何ら相関関係をもたないということです。ある人間の学校教育どれだけのお金が費やされたかということと、かれがその一生のうちに受け取る賃金ととの間には非常に密接な相関関係がある一方、ある人間が学校で身に着けたと想定される能力と、かれの職業上の有能さには立証可能な関係が存在しないのです。(中略)それは資本投資であるばかりでなく、社会統制であり、等級づけであり、(中略)〔上の階梯へ進むにつれ〕脱落者がますます少なくなってゆく階級社会の創造でもあるのです。」(イリイチ著 ケイリー編 「生きる意味」藤原書店 2005:102-103)

 職業訓練にこめられた表の意義は職業能力の開発です。ところが、裏の意義もあります。人をおとなしく従順にさせることです。かつて、レイタント・カリキュラム/ヒドゥン・カリキュラムなどと呼ばれたカリキュラム(学習過程)のことです。
 たとえば、A/トフラーは、「第三の波」にて、産業革命期のイギリスの義務教育についてこう言っています。読み書き・そろばん・簡単な地理や歴史。それらを学校は子どもたちに教えた。しかし実際に求められ、また身についたのは、①時間厳守 ②ガマンづよさ ③上の命令に絶対服従すること だった、と。

 官僚的な統制、すべては教育・訓練が解決してくれるというドラッグ中毒ならぬ教育中毒の状態にわたしたちの社会はあります。(同上書:106)そこからどうすれば抜け出せるのでしょうか。
 近年見られる少年犯罪がおおげさに報じられるたびに出てくる「親」責任論、若年失業者への教育・訓練への強迫観念にも似た政策を見てください。半ば内戦状態にある国・地域と、遠くないところにわたしたち日本社会もあるのです。
 学校だけではなく、教育を、訓練を縮小しなければならない。核ミサイルやCO2を削減するように、学校や教育を削減する国際会議や条約が、日々の実践が求められているのです。

TB用URL→http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/

 

ネオコン・革命・および犯罪

2005-11-03 21:48:50 | 政策
「ファーナ・リソル あんたはステアン様にとって危険すぎる だから死んでもらう」
「…………!!  思い出したわ ステアンの手下に革命家気取りの戦争屋(テロリスト)がいたわね  マドゥイケ・レンタル 罪状が確定したものだけでも12件 クロア紛争の最中に失踪 逃亡中……」
「司法の犬が!」
「そう この星ではどうか知らないけれど あなたは裁かれる立場 革命に失敗した革命家がなんて呼ばれるか知ってる? ただの犯罪者ーーステアン・クライブのことよ!!」
「キサマぁ」

(天王寺きつね 新装版『オルフィーナ』Vol.9 角川書店2005年7月 初出/ドラゴンコミックス(角川書店刊)より移行 月刊ドラゴンエイジ(富士見書房刊2003年6月号 )(PP161-164)http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4049262525/249-7800381-6409122 )

↓ 竹中財相公式サイトより

◆政局マニア系◆ フリーターと新しい自民党との革命的可能性(1)(2)

http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/mania/2005/10/post_6c27.html

http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/mania/2005/10/post_c9e1.html

 上記のリンク先のふたつめをごらんください。フリーターは終身雇用だと言われています。「戦争は平和だ」式の二重言語です。
 細切れの不安定雇用こそ、終身雇用。使い捨て労働力としてのアルバイトや派遣こそ終身雇用だというわけです。資格等をとる余裕のない場合もあり、職場でくたくたに疲れて、体や心や頭をこわしたものから解雇され排除されてゆく。年をとればとるほど不利になってゆく。
 こちらのスタッフは、それこそが、終身雇用だと言い張るのです。
 
 もし、やみくもな改革への反省勢力が勢いを増し、革命の横暴をおさえる反革命が行われたとしたら、このスタッフは、そして構造改革をおしすすめた小泉総理や竹中蔵相や自民党は、マンガ「オルフィーナ」の主人公ファーナが言ったとおり、ただの犯罪者になります。

 この世の善と悪とのバランスを取り戻したいのならば、いまこそ、反革命を起こすときです。
 
 もう一度言いましょう。反革命、ばんざい! 自由のために。親の世代にただ反発するだけではない、反動とははっきりと区別された自由のために!
 
 




人生に無駄はない、と思える条件

2005-10-08 22:13:04 | 政策
 この記事はもじれの日々へのTBです。

 いろいろ書きたいことがあって長くなるので、TBにします。
 人生に無駄はない、というのは、個人の固有の価値に無駄はない、と言い換えることができるのではないでしょうか。

 ちょっと話がわき道にそれます。現在、生物の種の多様性とともに言語の多様性も急速に失われつつあります。言語を人類の知的遺産として、世界の価値の多様性を保つものとして保護しようとする動きが、言語学者らの間に広まっています。
『消滅する言語』によれば、危機的な言語が発展する条件をあげています。これは、危機的な状態にある個人(の価値)を守るためにも参考になりそうです。以下、「危機言語」→「危機個人(無駄とされる人生の価値)」におきかえてお考えください。

①危機言語は、優位な共同体社会内で話者の地位が向上すれば発展する。
②危機言語は、優位な共同体との比較において話者が富裕になれば発展する。
③危機言語は、優位な共同体から見て話者が法的に力を増せば発展する。
④危機言語は、話者が教育制度の中で強い存在感を持てば発展する。
⑤危機言語は、話者が自分たちの言語を書き記すことができれば発展する。
⑥危機言語は、話者が電子技術を利用できれば発展する。
(同書:181-198)

①~⑥までは「消滅する言語」に出てくる対策です。
 ここで日本文化を添えるとすれば、

⑦「危機人生は、無駄な人生がオタク文化のなかで重要な地位を与えられることによって社会的承認を得る」

 アニメ・マンガ・ゲームなどを通じて日本語学習者が増え、日本文化学習者も増えています。知り合いに日本人の「おたく」がいますが、彼の話によると、中国のおたくは小さいころから日本のゲームやアニメになじみながら日本語を覚えるそうです。
 そうして育った中国のおたくと日本のおたく(のなかで中国語の分かる人)が、ブログを通じて交流しているそうです。
 たとえば、彼が、「奥様は魔法少女」というアニメの紹介記事のなかで、舞台背景となった山口の萩市と松下村塾や伊藤博文のことを書きました。すると、中国のおたくから「日本の歴史・文化の勉強になってよかった」といったコメントが日本語と中国語のチャンポンで返ってくるそうです。つまり、中国のおたくは、アニメ・ゲームといったおたく文化を通じて日本文化と日本語の価値を認めているのです。
 いろんな職業や経歴の人を面白く、魅力的に描いたマンガ・アニメ・ゲームなどがもっと作られ、広まれば、「人生にムダなんてないんだから」という雰囲気が盛り上がるのではないでしょうか。フリーターやニートについても、人からバカにされつつも意外な活躍を見せるとか、そういうキャラが「萌え」の対象になれば、状況を変えるひとつの力になるのでは?
 
 もちろん、企業による年齢の足切りがやわらがないかぎり、「絵に描いたモチ」になってしまうところが難しい。

 とりあえず、自分は⑥をやっています。自分の人生の価値を認めさせるために。
 今のところ、一日150ip、一週間2000PVくらいはお客さんに見てもらっています。
 ときどき、多いときには2600~3600PVも人が来ていて、わたし自身がアクセスできない時期もあります。

 ⑤に関して。これを本にするにはどうすればいいのか分かりませんが、「ここでいい」という記事の区切りができたときにはそうしたいと考えています。

 以上、危機的言語を消滅から守る対策に学ぶ、危機的個人(の人生価値)を守る対策でした。

 読者は、どう思いますか?



 







 
 


賃労働の奴隷にならないために

2005-09-27 18:42:27 | 政策
 最近、古本で面白いのがあった。

 竹村 健一 「脱文明の旅ーーアフリカに学ぶーー」中公文庫 1984

 この本は、著者がアフリカへの旅を通して、いわゆる西洋近代の勤勉とかいった価値だけがすべてではないと知る旅行記である。まあ、文明あってこその脱文明なわけだが、それは当然の前提として、労働についてこんなエピソードが収められている。

 ケニアで働いている日本人が、ショールーム開設のために夜遅くまで仕事をしている。すると、警察官がやってきて、夜8時以降も働いていると逮捕するぞ、と圧力をかけたという。おどろいて、その日本人は帰宅した。(pp.182-183)

 少なくとも竹村さんが訪れた時期のケニアでは、国の法律で残業が禁止されていたのだそうな。
 日本でも、これを実行できないだろうか。労働基準法で、夜8時以降の残業を禁止できないだろうか?
 正社員かアルバイトかを問わず過労死・過労自殺が起こり、ワークシェアリングも遅々として行われる気配のない情勢の日本だが、夜8時以降の残業をもしみんな禁止できたなら、事情は違ってくるのではないだろうか?
 これには条件があって、もちろん、残業をしないと生きてゆけないような賃金体系も見直す必要がある。
 それでもなんとかならないか? 一度仕事に入れば殺人的に忙しく、ほかのことを考えられなくなるような職場一極集中の解除のために、一度試す価値はあるのではないだろうか?

 また、川崎 賢子・中村 陽一「アンペイド・ワークとは何か」(藤原書店2000)のなかに、比嘉 道子「沖縄におけるアンペイド・ワークの歴史」がある。
そのなかで、本土の男性が、沖縄の男性のワーキングスタイルについてゆけない様子が描かれている。
 ある一家が沖縄に来て、はじめて社宅以外の人たちとの交流ができたので、妻と子どもたちは大喜び。ところが、「夫はストレスがたまりはじめた」という。法事・PTA・地域の行事などで、地元の職員、特に男性が、当然のように有休をとるからだ。「男がこんなことで仕事を休むなんて」と彼は嘆いていたそうだ。(本書PP234-236)

 要するに、夫は、地域の行事や法事やPTAは男の仕事、仕事らしい仕事ではないという発想なのだ。しかし妻や子らはそうではない。それも大事なこと・面白いことだと思っている。
 こうした沖縄の人々の慣習は、とても健全ではないだろうか?
 本土では地域コミュニティは崩壊しているか、戦前の内務班の名残が強い。最近では、ネオコン的主導の再編成によって、地域が、地域の歴史・伝統とは関係がないとしか言いようのない学校へ子どもを追いやる総動員装置として活用されている大阪府や長野県上田市の例もある。
 本土のばあいは、地域の行事はファシズム防止のためにやめたほうがいい。そのかわりにNPO活動などが適当ではないだろうか。
 また、そうした暮らしが日常になれば、経済的な排除が即社会的な排除にならない。お金をかけなくても楽しめる社交の場が身近にあるからだ。就業者が地域行事で要領の悪いときに、失業者が有能さを示すこともあるだろう。現に、わたしの親類で旧七帝大を出て役所に入り、順調に出世している男性は、彼の弟の葬儀のおり、スピーチひとつ準備できなかった。
 かわりにスピーチの原稿を準備し、作法を指導したのは、専業主婦をしている彼の妹だった。そんなこともあるのだ。
 こうした機会が多いと、ひきこもりや失業者も、自己否定ゆえに鬱にならずにすむかもしれない。社会的排除にあった人や貧しいは、自信がなくなったり、主観的にせよ強い孤独感を感じやすいという。それが、やわらぐ可能性がありそうだ。
 
 以上、本でちょっと見ただけのケニアと沖縄の例だが、参考にならないだろうか?