学校に行かない子と親の会・大阪発行の会報・ココナッツ通信2006年4月号に、山田 潤さんが若者と仕事についてのエッセーを書いていらっしゃる。このエッセーの後半部分を、本人の許可を得て掲載する。そのうえで、コメントをワタリがつけてゆく。読者もどんどん意見をしてほしい。
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「不登校」と「親の会」(15)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」
山田 潤
(前半は当ブログ内記事
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746に収録)
大学生の場合は、しかし、がんばれば自分は座れるかもしれないと期待できるほどには、まだしも「椅子」は残されている。
数十社・場合によっては数百社を超える企業にエントリーし、面接で何度も「御社こそ・・・・」と心にもない決意を繰り返すしんどさ、そのうえで何度も「不採用」の苦杯を飲まされるつらさ、それは生半可なものではない。そのことを重々わきまえたうえで、それにしても、大学生はともかく、「ゲーム」に参加することはできる。
高校生の場合は、エントリーすら全員に約束されてはいなかった。ここ十数年、新規高卒生にたいする有効求人倍率は「1」を下回っていたのだ。最近、ようやく「1」に回復しかけているが、これは100人の求職に対して100人の求人ということであり、ひとにぎりの「優秀な」生徒をのぞけば、選ぶ自由はほとんどない。そして、もっと深刻なことには、「正社員」の求人倍率はなお「0.6」という水準にとどまっていて、これは今度も容易に回復する見込みがないのである。
つまり、高校生の場合には、「ちゃんとした椅子」はここ十数年、最初から誰の目にもわかるかたちで、大幅に足りなかった。そのぶんだけ高校生は「フリーター」か「ニート」になるほかなかったのである。そのうえでなおかつ、「フリーターやニートにしかなれない若者」などと、自らの人間性が問われたりもする。いや、直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにしない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。
お遊びとしての椅子取りゲームでは、たまたま座れなかった人の「(ちゃんと座る)能力」や、「(座ろうとする)意欲」、あるいは、「(他人を押しのけて座ろりながらも、その場の雰囲気を壊さない)人間性」を問うたりはしない。もともと、確実に誰かが座れなくなるように、椅子の数を減らしているのだから。
ところが、お遊びではない現実の社会では、「椅子」の数の不足はほとんど問われない。ほんとうは、数的な過不足だけではなく、質的な良否もきびしく問われねばならないのだが、そちらは問われないままに、もっぱら「座れる」か「座れない」かで人の勝ち負けを判断し、その勝ち負けの原因をその人個人か、その人を育てた家庭に絞り込んで平然としている。こうした風潮に対するいらだちと、こうした世相に便乗する知識人たち(三浦展もそのひとり!)への怒りこそが、本田由紀に『「ニートって言うな!」』(光文社新書)を書かせたのだ。それは、上に引用した本田の、押さえ気味の発言からでも察することができる。だが、この対談タイトルは「『失われた世代』を下流化から救うために」となっていて、せっかくの本田の起用を台無しにしてしまっている。
わたしたちは、この社会に用意すべき良質な椅子の数を、政策として減らしてきているのだ。1986年秋には、まだしもさまざまな制限を付して施行された「労働者派遣法」は、この十年の間に対象業種がつぎつぎに拡大されてほとんど無規制になり、そのたいへん不安定な雇用関係が「正社員」の雇用保障をも危うくするまでになっている。いま厚労省が来年にも国会に提出しようとしている「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくくする道がつけられている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。
そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こえてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げている。「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすような「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと。そして、総じて、若者たちが個人単位に分断されて「自己責任論」に呪縛されていること。だから、この社会の「労働市場」のありかたそのものを社会的な連帯によって変えうるという展望をもてないでいること。
わたしも、どうだと思う。しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめておくべきだと思っている。だが、それにしても、雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキで呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。
2006年4月8日
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救世主幻想
>「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくする道がつけられ
>ている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者
>をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。
同意する。以前の記事でも書いたが、この種の救世主コンプレックスには困ったものだ。こういう「善意」や「使命感」に燃える人々が、戸塚ヨットスクールを応援し、アイメンタルスクールのような手錠で人を拘禁する施設の存在を期待し、黙認している。
ルネッサンス期の名画に、偽救世主をテーマにしたものがある。偽救世主とその一党は、魅惑的な演説によって人々の注目をあびる。それだけではなく、人々を暴力で強引に信者にしようとする。偽救世主の演説に立つ台には、前足を上げた馬ーー傲慢のシンボルーーが描かれている。知恵のある人は、救世主一味に背を向けている。
どうだろう。救世主コンプレックスに満ちて、善意や使命感によって人に暴力を加え、親や行政から多額の金を受け取る引きこもり・ニート救済業の人々とそっくりではないだろうか。
ちなみに、その絵のなかでは、偽救世主とその仲間たちは、最期には、大天使の放った光の矢に貫かれて、地上に墜落してしまう。平成の現実世界でも、できればそうなってほしいものだ。
親と子は別人格
>直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにし
>ない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される
>場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。
ちょっと待ってほしい。実は自分自身も以前「不登校」というマイナスのレッテルを貼られた経験があった。しかし、そのとき「親がおかしい・悪い」という言説を知って、ホっと胸をなでおろした。悪いのは自分ではない、別の人だと考えたからだ。
この種の言説は、「不登校親の会」かいわいで、親によってよく語られる。だが、子ども本人どうしでそのことでつらいよねえ、と話し合った記憶はない。
もうひとつ、大人になってから、琴・三味線教室の師匠から、わたしの演奏の出来がよくないのは、わたしの母がわたしを甘やかして育てたから、ときつくお叱りを受けた。そのときには、うんざりしつつ悔しい気持ちが湧いてきた。というのは、独立したわたしの人格を認めない文脈で、その言葉が使われたからだった。
ひとくちに「不登校」と言っても、いろんな年齢の子がいる。また当然言葉の使われ方にはニュアンスや背景も関わる。総合的に見て、「親が甘やかしたから」は、子ども本人にとって、肯定にも否定にもなりうる。それをひとくくりにして「子どもが傷つく」、としてしまうのは、「子どものため」「『当事者』がそう言っているから」を隠れ蓑にした、親の自己防衛ではないだろうか。特に、子どもが心理的に親から離れてゆく十代の子どもたちにはあてはまらない。
もっとも、これをおかしいとする立場にも一理ある。「不登校」「フリーター」「ニート」すべてにわたって政治的にネオコンのバイアスのかかっているのは事実だ。そして、親としてまたは本人としての「当事者」の気を悪くする可能性のある言説だと言うことはできる。ただしこれは親が主であって、子どもはそれをどう受け止めるかにはばらつきが見られる。
<2006.5.9補足>こうした混乱をさけ、偏見と差別をなくすためにこそ本田 由紀に習って「不登校って言うな!」と言う戦略の有効性がよくわかる。<2006.5.9補足>
>そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。
>だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こ
>えてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げてい
>る。
この記述には異論がある。
当の若者たちが自分たちの状況をよく知る立場にいるのは、事実だ。しかし、逆に「灯台もと暗し」ということもある。自分たちのことゆえにきっちり見つめられなかったり、感情抜きの冷静な判断を誤ることもある。
だからといって、経済的に利害の対立する上の世代にわたしたちを語られるのは迷惑だ。自分たちだからこそ言えること、言いたいこともあるからだ。
たとえば、次のサイトを見てほしい。
Shiroさん、
Comaさん、
Cunさん、後藤 和智さん、
古鳥羽護さん、
Lenazoさん、深夜のシマネコさん、
非正規雇用労働組合 ぼちぼち さん、
うえしん さんg2005 さん、
shigeto2004 さん。そして、不肖わたくしのブログも、声をあげている。
三浦さん、本田さん、山田さんまで、それを知らないと言うのはなぜだろうか。上の世代はネットに慣れていないのでご存知ないのだろうか。それとも、東大などの「よい」学校に行き、「当事者学」のような形で情報を発信しなければ、学者・評論家らには認知不可能なのだろうか(苦笑)。
もしも若い世代に信頼される大人であれば、身近な若い世代との会話や観察から、若者の声が聞こえるのではないだろうか。沈黙のとともに存在する身振りや身なりや雰囲気も含めて、理解できるのではないだろうか。
立場の違うはずの3人がの識者が、そろって「若者の声が聞こえない」とするのは、要するに知らないフリをしているだけではないのか?
フリーターは楽?
>「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすよ
>うな「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと
この意見の半分は同意、残り半分は同意できない。というのは、大阪地裁でアルバイトの20代なかばの男性に過労死判決が下りた例もあるからだ。アルバイトといえども、いったん仕事に入ると殺人的なスケジュール、会社や現場への拘禁かとみまごうような長時間拘束は珍しくない。
派遣やアルバイトであっても、正社員と同じ時間・同じ種類の労働をこなすこともある。
また、アルバイト、ということで、周囲がその労働を過小評価した可能性もある。それゆえに、これは「過労死」だという訴えが遺族から起こりにくいという「認識の落とし穴」があったのかもしれない。
通常、過労死は、たいへんまじめに勤勉に職場につとめていた者が、それゆえになくなったフシがあった場合、「どう見ても会社側の労務管理がおかしい」とみなした遺族らの調査・訴えによって裁判の場に現れる。勤勉に必死につとめていたとしても、「まさかアルバイト(派遣)」で過労死なんて」という偏見が盲点となり、過労死との訴えが起こらない場合もあるだろう。もし訴えても、やはり「認識の落とし穴」により、認定はむつかしいだろう。<2006.5.9補足>さらに、いろいろな職場を短期で移り歩く派遣やアルバイトの場合、複数の会社での疲労蓄積によって過労死にいたる可能性も考慮しておこう。その場合、どこの会社でどんな風に働いたのか、のちに証拠づけようとしても、長らく一箇所に勤めている正社員に比べて難しい。周囲もアルバイトを軽く見るし、本人の記憶もあいまいだからだ。細切れ雇用される雇用者は、ひとりひとりが一日きざみとか数時間きざみで職場を入れ替えれられる。そのなかで、一緒に働くうちに互いを理解しあったり、仲間意識をもったりすることも難しくさせられている。そのうえ、貧乏は社交の基盤を失わせる。それゆえに、証言を集めることも難しい。<2006.5.9補足>
以上の理由によって。わたしは懐疑的な立場をとる。読者は?
人々を分け隔てる学校教育
>しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分
>断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめてお
>くべきだと思っている。
同意する。
学校教育は、人々に集団行動や共同性への生理的な嫌悪感と憎悪を抱かせる。
意味がなく、個人の権利や尊厳とのバランスを考えない集団主義は、「集団とか共同体に参加したがる奴は、頭が悪くて、鈍感で、視野狭窄」といった印象を人々に与えている。そうして、自ら選ぶことができる、またそこでの規則を自分たちの手でカスタマイズすることもできる共同体(自分たちで作る労働組合や人権問題NPO/NGO)をも「組織である異常人権無視」との疑いの目で見るように誘導する。
かつてアドルノらは、極端な集団主義と極端な個人主義はともにファシズム・権威主義の方向を向いていると「権威主義的パーソナリティ」で言った。義務教育に在籍し、その後コミュニタリアンの考えもとりいれて運営しているフリースクールに在籍したわたしも、同じ感触をいだき、30代になってからの読書によって、前述のフランクフルト学派の研究の成果に触れた。なるほど、と思わされた。
以上は1973年生まれのわたしの、世代限定の議論だ。今では、数学のⅠ・Ⅱ・ⅢとA,B,Cといった、誰が何のために作ったのかわからない選択肢によって人々は極端な個人主義を身につけているのではないだろうか。あるいは、専門学校の営業の人から聞いた話だが、スチュワーデスや翻訳事務など英語の必要な仕事では、TOEICの一点でも高い人から採用され、派遣されて現場に行ける仕組みになっている。これもまた学校的な、テストの点数によって分割統治されている。
かつてイリイチが「脱学校の社会」で言及したように、「誰でもがんばれば進学・出世できる」という約束を、学校教育制度は、おおかたの社会の成員に対して破るように設計されている。みんな終身雇用されると言っておきながら、進学するごとに「リストラ」組が増えていく。誰でも東大に行けるわけではない。「ドラゴン桜」メソッドを導入しても、定員がなくなるわけではない。たとえ希望者はみな東大に入れるように「改革」しても、その後の選抜がなくなるわけではない。
進学するたびに何割かは外に出される。それが社会であり人生であると錯覚させる効果を学校教育は失っていない。むしろ強化している。
<2006.5.14>元祖リストラとしての学校教育は、人々のリストラへの抵抗力をそいでいる。国立の大学に行けずに高い学費に泣くのは、努力不足だったからだ。そうしたイデオロギーを信じさせるのが学校教育だ。これを打ち破るのは非学校教育の勤めだ。このブログもオフ会もそのひとつだ。<2006.5.14>
>雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキ
>で呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。
日本は、山田さんがおっしゃるほどフランスから遠くないのではないか。
フランス・5月革命のリーダーのひとりにダニエル・コーン・バンディッド、こと「赤毛のダニー」がいる。彼は高校中退だった。大阪では、実質的には中学中退のわたしが呼びかけて「プレカリアートOFF」をやった。かたや、東京でも100人を超え、警察の弾圧まで招く(その程度に存在感のある)同種の企画があったとMLやブログなどが伝えている。自分は、日本はダメ、と決めつけたくはない。
気になる論点
「不登校」の親の会の会報である「ココナッツ通信」のエッセーにこんなことを書くとは、「不登校」の子どもに何か期待しているのかなあ。
そういえば、もっとも気がかりなのは、このエッセーには中卒や不登校経験者の就職でぶつかる困難についてとりあげられていないことだ。もちろん、「不登校」というのも、子どもに休校権を認めない政治的な立場からの言葉であり、労働市場における若い世代や下層階級の困難を「不登校をしたから」という「自己責任論」に分断統治させないために、あえて使わないのかもしれない。だけれども、「」つきであっても、そのことについて情報がないのは、どうしてなのか。
4月の親の会の定例会では、「学校に行かなくてもちょっとした仕事すりゃ食っていけるし。。。。」というある親御さんの意見が出た。それに対して、誰も異を唱えていなかった。超がつくほど楽観的に、その発言は参加者にうけいれられていた。「ここは親の会であって子の会ではないから」という、これまで親の会関係者から耳にタコができるほど聞かされたものいいによって異論は周囲に拒絶されると予想したわたしは、ガマンして黙っていた。だからといって同意していたわけではない。
たとえば、時給700円のコンビニでアルバイトをするとしよう。睡眠障害になったり、ウツになったりするリスクもある、大変な仕事だ。これを、週に5回で年収300万円まで稼ごうとすると、一日あたり何時間実勤すればよいか。わたしの計算では、一日約22時間だ。
もちろん、その仕事に保障もないし、退職金もない。組合の割引販売も、どこかの海の家などの保養施設の割引特典もない。家を買ったり借りたりするときの社会的信用もない。深夜・早朝を中心に、フリーターのほか主婦・サラリーマンなどいろいろな人たちがコンビニで働いている。ムリをして体を壊すとやめることになり、次の労働による受益者か犠牲者か分からない人が同じシフトに入ることになる。そういう使い捨て、体力と年齢で切られる仕事で「なんとか食える」のかどうか……(~_~;)。
親が自分の学歴(や今の給与・保障ーー若い世代になればなるほどどんどん企業は切り崩す方針だーーをもとに、子どもたちもきっと同じ程度の労働と生活があると思い込み・決めつけているのではないだろうか。親の世代は今ほど学歴インフレがすすんでいないのだ。その点、見落としてはいないか。
念のため再確認を。特定のグループへの極端な美化は、極端に貶めることと同じ程度に、差別である。登校拒否・不登校はスクーリング(学校教育)からは脱け出した。だけど、スクリーニング(選抜)からは、まだ自由ではない。
それを、すべてから自由な存在であるかのように描くことは極端な美化であり、差別にあたる。
また、こうした、社会的排除のリスクの隠蔽は、親を利することがあっても、子を利することはない。
これは、多くの差別論・人権論のなかで、繰り返し言われてきたことの繰り返しにすぎない。はこの世の差別をなくす救世主ではない。女性は観音や聖母マリアじゃない。「障害」者は純真な天使じゃない。「不登校」も「若者」も、事情に変わりない。したがって、「不登校」だからといって、経済的な苦労がないわけもなく、「ちょっとした仕事」で親亡きあと、かんたんに食べていけるとはかぎらないのである。「不登校」をおとぎの世界の住人のように扱い、長くつづくプロセスでもある社会的排除を過度の対象の美化によって語りえぬものと化する親の作業は、元・「不登校の子ども」のひとりとして、重圧であった。
さように親のエゴが支配する「子と親の会」というのは、これは詐称ではないだろうか。
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