フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

雑記

2007-10-24 21:33:41 | その他
最近、また調子が悪くて、更新もとどこおりがちです。
それでもまあ、労働組合の街頭活動を2つ取材しました。ただし、そのときのストレスまたはむなしさもかなりのものでした。
頭いたくなっちゃって、今はちょっとうpできません。
外資系ハゲタカファンドが、京都のある会社をのっとって従業員を解雇しているという話は、今の時代の象徴みたいな話なので、なんとか書きたいと思っています。(mixiの日記で書くと、幾人かのマイミクから「胃が痛むんならやめとけ」と心配されてしまった。だけどまあ、ハゲタカファンドにも腹が立つし、また組合批判も織り交ぜて書きたい。)

反貧困の話がどうして納得できないかというと、それが自分たちの自律性を壊す形の援助とか開発になると、かえって物質精神両面ともに貧しさがはげしく固定化されないかという不安。
それに、「緑の革命」のときみたいに、国際的な専門家が「これで豊かになれるよ」とすすめる農薬や化学肥料などを買っても、結局豊かにならないどころかかえって借金がかさむという方向に誘導されることを警戒するからです。
特に教育・訓練を通じて、いつまでたっても職につけないのに、社会から切り離される期間がますます長くならないか。
そこが気がかりなんです。

あと、「考えるための書評集」のうえしんさんの記事フリーター怠け言説が覆い隠してきたものにあるような観点からの心配もあります。
うえしんさんはリンク先の記事のなかで、若者全体を社会からリストラしながら、怠けているとあんなふうに下層になってしまうぞ、と圧力をかけるためにフリーター=悲惨のイメージが流布されていやいないかと問いかけます。
反貧困運動というのも、「ほうっておいたら社会全体がフリーターみたいにかわいそうになるぞ」と勤労者に脅しをかけるためにやっているんじゃないかとの疑いをわたしは持っています。
そこでは、「怠ける権利(マルクスの女婿・ポール・ラファルグ)」をはじめとする生存権はきびしく監視され、今以上に取り締まられることになるでしょう。
たとえ物質的に貧困であっても精神的には貧困ではない場合もある。たとえ旧華族や旧財閥の家柄の出であっても、精神的に貧しい人間も存在する。
まあ、両方ともに豊かであればそれにこしたことはないのですが、貧しい者を悪者扱いしたり、差別的に安易に同情したり、世界の生活文化の多様性を無視して人を救済しようとしたりするような横暴には、抗議していきたいと思っています。
たとえ乞食になったとしても、山の植物の利用法を知っていれば、生き延びられる。これを日本では里山伏などがが継承していたのに、明治以降の近代化政策のもと、途絶えてしまいました。
服部志保さんによると、アフリカの狩猟採集民ピグミー・バカは、森の植物をよく知っており、ひとりひとりが自分にあった薬草を知っているそうです。
こうした「遅れた」「貧しい」知恵を、全部否定したうえで人々に捨てさせ、画一的な学校教育で近代ヨーロッパの豊かさを教え込んだり、反貧困運動によってフリーターの「貧困な」文化・慣習が撲滅の対象となったりする可能性には注意しなければならないと思う者です。

日雇い派遣の職場の、ホワイトカラーみたいに細かな礼儀や言葉遣いにこだわらないのびやかさ、縦よりも横の関係、競争よりも協力優先の姿勢、そしてブログや紙のメディアやストリートでのレイブによる抵抗の文化、それらを「貧困」の名のもと、撲滅させてはなりません。
それを矯正するためのドミナントな専門家による教育や治療を許してはいけません。

あのばかばかしい進歩的文化人が何を言おうとも、自分の働いてきた・生きてきた文化を否定できないし、サラリーマンにしかなれないような新兵養成訓練も、人文教養も、人には断る権利があるのです。
知識豊かな優等生は、自己責任論と結びつく知的好奇心なんかよりも、生きているうちに米を食べたいという人の感情について学ぶべきです。





貧困である権利の訴え

2007-10-14 09:16:40 | Weblog
どうして反貧困運動は、貧困を罪悪視できるのだろう。
富が不平等な配分をされているならば、誰かが文字通り貧乏くじをひくということに考えが及ばないのだろうか?

わたしは貧困でありたい。貧困への自由を主張する。
ただし、社会的排除は望んでいない。
社会的に排除されない貧困を求める。
そのためには、年収300万円程度のベイシックインカムによる所得保証がほしい。
できればある程度は自給自足しつつ、外部のコミュニティとも交流・交換できる生活を求めている。

低学歴・低学力で30代の女性のわたしは、これまでの労働でもう体力も気力も使い果たしてしまった。
それでも貧困という困難をかかえてでも、生きてゆきたい。

この貧困にでもいいから生きたい! という願いを「思想犯罪」のように考えるのが、反貧困運動をやっているグループだ。
自由や平等や共生のための貧困をつぶそうとしている。

反貧困運動の連中にどれほどお説教をくらったって、わたしは六本木ヒルズやミッドタウンに住みたいとは思えない。
アジアのスウェット・ショップで子どもや大人を使い捨てにして作った商品を買いあさって「豊かな社会」「成熟社会」などと言う中流インテリの言葉遊びにも加わりたくない。

世界中の人間がアメリカの硫酸階級の暮らしをしては、環境は立ち行かないとよく言われる。
ハイソ・セレブの暮らしを地球中の人たちがやってしまえば、文化的多様性はどうなるか。

実証されてもいないトリクル・ダウン効果を呪文のように唱えて、世界経済が地球上のすべでの人間に中産階級の暮らしを保証できるとする妄想を、これ以上まき散らすべきではない。

私は求め訴える。貧乏なまま社会の中に生きさせてください、と。

インテリ・サヨクへの呼びかけ

2007-10-14 01:09:07 | 連帯・社会運動
彼らは言う。あんたたちは何も知らないし、遅れている。もっと良い頭に変えたほうがよいね。

彼らは言う。
この世で生まれ変わるような学識のある先生が、
あんたたちをそう言っていると。

この川の両岸に何が見えますか、
先生。
双眼鏡とメガネを出して、
よくご覧なさい。

段々畑には
500種類の花が咲き、
500種類のジャガイモが育っている。
あなたの目に見えないような彼方の
あの500種の花が
わたしの頭であり
わたしの体なのです。」
(ホセ・マリア・アルゲーダスの「学者たちへの呼びかけ」からケチュア語からの翻訳はウィリアム・ロー。ヴァンダナ・シヴァ 浜谷喜美子訳 「緑の革命とその暴力」1997 264Pより孫引き。)

ちなみにホセ・マリア・アルゲーダスはペルーの作家・民俗学者。白人でありながら、インディオのようにして育った。先住民のケチュア語の香りのするスペイン語で小説も書いている。アンデスのフォルクローレ音楽の詩的な世界のような小説を書ける人だ。最期にはピストル自殺した。日本語の翻訳も出ている。『深い川』
『ヤワル・フィエスタ』

ホセ・マリア・アルゲーダスに敬意を払い、彼の言葉に習って、日雇い派遣フリーターからインテリ高学歴サヨクへの呼びかけを書いてみたい。

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インテリサヨクへの呼びかけ
インテリサヨクへの呼びかけ

あなたたちは言う。
「フリーターは無知だから派遣会社にだまされている。
もっと勉強しなければダメだね。」

インテリの高学歴のサヨクは言う。
小さい頃、浜学園で上から一割に入っていた
びっくりするような先生が
あんたたちをそう言っていると。

派遣会社を知っていますか? 人権派弁護士の先生。
そのへんのニートでもつかまえて、虚心に話を聞いてごらんなさい。
工場で若者は体を壊し、労災とばしにあっている。
倉庫の中で、若い体力だけがウリの仕事をしながら、貧しさに耐えている。
派遣会社は危ないと知りつつ、就職先がなくて泣く泣く派遣に登録し、
人から軽蔑される肉体労働につく。
あなたの目に見えないような辺鄙なところにある
工場が、倉庫が、就職のなさが、
わたしの頭であり、
わたしの体なのです。

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読者ならどんなインテリサヨクへの呼びかけを書くだろうか?

トラックバック用URL:希望は戦争? ブログ 「わたしが赤木智弘を応援する理由」

反・反貧困運動

2007-10-14 00:17:58 | 現状
「ヘレナ・ノーネンバーグ=ホッジの話によると、1975年に彼女がはじめてラダクを訪れたことには、その地には貧困という観念がほとんど存在していなかったのに、『いまでは、その地方の言葉の一部になっている』という。8年ほど前に辺鄙な村を訪ねたヘレンは、一人の青年に『村で一番貧しい家はどこか』と尋ねた。そのときには、『この村に貧乏な家はありません』という誇らしげな答えが帰ってきた。ところが、最近、そのラダク人が、アメリカ人観光客を相手にこう言っていたというのである。『あなた方の援助が得られるといいんですが。なにしろ、この村は本当に貧しいものですから』」(ウォルフガング・ザックス編 ヴォルフガング・ザックス、グスタボ・エステバ、C・ダグラス・ラミス、マリアンネ・グロネマイアー、ジェラルド・ベルトぅー、イヴァン・イリッチ、マジッド・ラーネマ、アルトゥーロ・エスコバル、バーバラ・ドゥーデン、ジャン・ロベール、ホセ・マリア・スベルト、ヴァンダナ・シヴァ、クロード・アルヴァレス、ハリー・クリーヴァー、セルジュ・ラトゥーシュ、アシス・ナンディ、オットー・ウルーリッヒ著 『脱開発の時代ーー現代社会を解読するキイワード辞典』227P マジット・ラーネマの「貧困」の章より 晶文社1996)

何が貧乏や貧困なのか? 
反貧困運動側は、国際的に貧乏はOK、だけど貧困はあってはならないものだとコンセンサスができていると主張する。

しかし、前述したラーネマの記載によると、ペルシャ語では何らかの意味で『貧しい』という印象を与える人々を形容する語は30以上ある。アフリカでは少なくとも3-5語が使われている。旧約聖書にはそれに担当する単語が8つ、中世ラテン語においては40語を超すという。
貧しい者を救おうとする専門家社会のなかでは、国際的に貧困はあってはならないのだろう。
しかし外のコミュニティに目を向けてみれば、決して貧困が単一の概念でもなければ、絶対悪でもないことは理解できる。

第三世界では、開発独裁という形で、国民を貧困から救うためと称して言論・表現の自由がないことに象徴される圧政がしかれることがある。また、そういった国の場合、金・ダイヤ・鉱物・石油・ダム・水など、人々の日常生活から離れた産業が盛んになる。
そうなると、貧富の差が大きく、経済学で言う「オランダ病」になる。(この辺の話は、videonews.comにメコン・ウォッチ
の松本さんが出演したときにも話されているhttp://www.videonews.com/on-demand/181190/000286.php

もっと詳しくこれからのエントリーでつめていく予定だけれど、経験的に言って反貧困運動が、文化多様性を無視した、貧困者にさらなる苦痛・屈辱・混乱を与える運動になるであろうと今から予測される。
今の日本で反貧困運動に反旗をひるがえすことは、貧乏人を救済しない冷たい人、格差社会の現場から目を背ける「認知のゆがみ」などと言われるだろう。
しかしそれでも、100人の会議場で99人が貧困への戦争に賛成票を投じるとき、たった一人であってもそれに反対票を入れる人間も必要だ。
わたしならそうする。貧困への戦争は、結果として貧困層への戦争になると予想しているから。
専門家だけの国際性を疑うから。

それから、わたしの選択と実存のためにも。
かつて進路に悩んだ十代のころ、わたしは一生学校に行かない人生を歩もうと誓った。
その理由はたくさんある。
学校や大学のルールやシステムに賛成できないということ。自分にあった学校なり大学に行く道を家の保守性や女性差別により阻まれたこと。そのほか、そこそこは豊かな国または家のメンバーとしての謙譲の美徳もあった。
そのころわたしは親の年収が少しは高い中流の暮らしをしていた。
そこには金やモノやサーヴィスはあっても、精神が貧しいと日々の暮らしより感じた。
また、脱学校論や再生産論の独学を通じて、学校や大学に行けるのはぜいたくなのだと知っていた。
だったら、自分ひとりが大学進学をやめたって、社会的にはいいことじゃないか。
だって、そうすれば自分の家よりももっと貧しい家の子も学校に進学できるのだったら。
自分は学校も大学もあわないし、賛成できない。だったら、個人的にも社会的にもいいことじゃないか。
そういう考えがあった。
それを「甘い」と人は非難する。家族や友人も含めて。でもそれがわたしなんだから、仕方がない。
貧しくても言いから、一生をフリースクーラーとして送りたい。死んだあとには、遺骨は十代のころに行きたいのに親による子どもの人権侵害によって行かせてもらえなかったアメリカのふたつのフリースクール(The Freeschool ,Meeting school)に散骨してもらいたい。そう思った。
30代になった今も、考えは変わらない。
そのわたし個人の人生をも、反貧困運動はおとしめている。ただのかわいそうな無知な低学歴として「救済」しようとする。
それは、自分に取ってたいへんな苦痛であり、侮辱であり、彼ら・彼女らの精神的・主体的貧しさの表現に見える。元国立大学となって公共性フリーになりつつある東京大学の教育社会学のとある一派が攻撃を強めている「自律的な学ぶ力」の大切さを今ほど強く感じるときはない。





貧困者の尊厳を守れ

2007-10-08 11:20:01 | Weblog

あるブログのコメント欄から一部修正ののち転載。
貧困=悪ととらえて、それを殲滅しようとする、貧困問題の最終的解決を目指すナチスみたいな不気味な運動。
それにはなんとしても反対していきたい。
貧困は堕落でも不器用でもない。そうかんたんに疑似救世主に救済されてたまるか!

Commented by ワタリ at 2007-10-08 11:14 x
左巻きの人権派弁護士が、「国際的には貧困はあってはならない、救済せねばならないという概念がある」と言っているからといって、賛成しなければならないものではないと思います。
わたしは反対です。貧困者があってはならないということはありません。
救済が必要なのでもありません。
だいたい、格差があればそれが徐々に拡大して、貧困層が生まれるのは当然ではないでしょうか?
あってはならないのは、六本木ヒルズやミッドタウンではないでしょうか。労働組合つぶしや公共セクターの民営化ではないでしょうか。伝統的なサヴァイバル技術の風化や意図的な抹殺ではないでしょうか。
反貧困運動は、貧困者の魂に対する侮辱です。社会を悪くしているのは貧困者だという上流と中流による下流への責任転嫁です。
よってわたしはこれに反対します。

デザインについて…

2007-10-05 11:49:02 | 文化
なんだか最近、gooブログのデザインが横長になってしまって。
もうちょっと横幅が小さい方が、すっきりして見やすいし、目が左右にいきすぎなくて疲れない。
合理的であれば何でもいいってもんじゃない。
このブログのデザイン担当者には、次からはもっと横幅を短くして、読みやすい&書きやすいデザインを目指していただきたい。
これは管理する側も、以前よりも疲れが出るデザインになってしまったのです。
デザインについてはわたしは初心者でアマチュアだけれど、それだけはリクエストしたいのです。

それにしても、自分で横幅を小さくする技術があればなあ…。諸事情あって、まだまだデザインの勉強は進んでいません。

中間報告

2007-10-05 06:51:49 | Weblog
(今日の記事は、mixiの自分の日記からの転載です。)

三つに分けよ/大学院問題/第一物産
2007年10月03日22:43

赤木さんの応援理由文を書いているのだけれど長くなってきた。
これを要約するのは、うつ傾向の今の自分には難しい。
パートを分けて3つにして書くか。

大学院問題についても、「失業産業」の視点から書きたい。 (「失業産業」については「タカマサのきまぐれ時評」内記事「パワハラ最前線としての大学院」コメント欄を参照。)

そうそう。10月1日に、京都の河原町で、京都ユニオンの人たちが、第一物産従業員の解雇撤回のチラシをまいていた。何でも外資系銀行の子会社のサラ金から、敵対的買収をしかけられたらしい。第一物産はバブル期の拡大経営がひびいて、銀行は手を引いている。
ここの組合には問題のある人たちが何人かいる。世代もジェンダーも問わず。
だけど、解雇になった人たちは生活苦しくて大変そうだし、その人たちは自分がグッドウィルユニオン組合員だと言っても、バカにしたり「知的好奇心が足りない」云々のくだらない説教もしなかった。
だから、赤木応援文の第一部を集団ブログにあげたあと、その人たちの配っていたチラシを、自分のブログに転載しようと思う。そのための許可はもうとってある。パワハラ最前線としての大学院