フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

移動の自由のために

2006-05-30 04:42:37 | 未来
 最近、ある会に行くのをもう止めることに決めた。

 そこの代表に、みんなといっしょに生きるようにと説教されたのがきっかけだった。とても悲しくて泣き崩れてしまった。おまけに、「人は一人では生きてゆけない。だから地域に密着しろ。弱者ならそうしろ。」と、イヤガラセとも脅しともとれる意味不明の言辞を吐かれた。さらに、地域や仲間はいらないと言っている人を雇う企業はないとも言われた。
 その後、帰宅して2日ほど虚脱状態が続いた。その人の言葉の毒が体中にまわったのだと思う。食欲もうせ、吐き気がおさまらず、夜もよく眠れない。

 どうして、それほど地域に密着しなければならないのだろう。そのうち、江戸時代のように、町に木戸が作られ、有事の際には閉じられるようにされるのだろうか。その人の言う抵抗とやらのために。憲法22条の移動する自由は保障されなくてもいいのだろうか。
 わたしには定着はできない相談だ。いつ・どこに仕事があるのかわからないフリーターは、大阪だろうが東京だろうが、仕事があれば稼ぎにいくほかない。また、そうしたい。それを通じて見聞を広めたいという願いもある。それの何が悪いのか。
 彼は漂流することがいけないのだと言う。
 かたや、わたしは違うと思う。漂流は必ずしも悪ではない。漂流しても排除されなければいい。

 仲間というものに、これまでわたしたちは縛られてきた。選べない人づきあいは、いじめ・いやがらせの温床だ。そうでなくとも社交を嫌いにさせられる。
 常に自由に移動できる可能性に向かって開かれていることによって、人は世間知らずにならない。視野を広め、いろいろな人々とのつきあいが寛容の精神をつちかう。互いに違ったバックグラウンドを認め合い、上手につきあう術を向上させてくれる。ひどいいじめの地域から脱出して、別の街で人生をやり直す機会を提供してくれる。その移動の自由を、抵抗のためにつぶさねばならないとしたら、とてもついてゆかれない。
 
 一人では人は生きてゆかれない。人間が有性生殖を行い、群れを作る生き物である以上、当然だ。他者を他の動植物や地球という惑星にも広めれば、なおさら当たり前だ。そんな当然の前提をなぜ再確認する必要があるのだろう。
 確認しておこう。地域から地域へと移るからといって、他人や他の生き物や環境と切れているわけではない。むしろ、いろいろな地域とそのつど関係を作りながら生きてゆくのだ。土地の水があうこともあればあわないこともあるだろう。そうするうちに自分が何にあうのかあわないのか分かってくる。人間の一生は関係と学習だとも言える。
 関係があるからこそ、水のあわない土地には長居しないほうがいい。肌合いの悪い人や組織とは縁を切ったほうがいい。苦痛な人間関係ならやめたほうがいい。一度や二度の移動では自分にあった地域がみつからないのなら、さまざまな地域をまわってみるほかない。
 組合の仲間主義または共同体主義に生理的嫌悪感があることが、どうしてそれほどいけないことなのか。正社員中心主義、男性中心主義という偏狭な共同体主義によって、数多の労働法無視が起こり、明確に違法とはいえないいやがらせも発生してきた。それが嫌でも何も悪くない。
 人は一人では生きてゆけない。だからこそ、ちゃんとつきあえる人がいる別の土地に渡ってゆく必要がある場合もある。それをつぶすのは、やはり憲法22条への蔑視だろう。
 そうした論理では、地元の慣習によって横暴をふるう地域ボスに抵抗できるわけがない。地元の人たちがしがらみによって反対できない無謀な開発計画に外部から反対できるわけがない。
 オンライン上のコミュニティは、リアル世界のコミュニティよりも劣っていると彼は言った。ばかばかしい。というのは、両者はつながっているからだ。オンラインがリアル世界での絆を深め、オンラインはオフラインのつながりを生み出すこともある。
 顔をあわせる地域が大事だとその人は言った。ならば、徒歩か自転車で移動できる範囲に生活を閉じ込めざるをえない。交通費の工面もむつかしい貧乏人にとってはそういうことになる。ムリだ。できっこない。
 「人は一人では生きられない」この殺し文句によって、心中という名の殺人も、ストーカーも正当化できる。ひどいいじめがあっても転校や登校拒否や転職や引越しによって逃れることもだ。人権意識を疑う。
 そもそも、顔をあわせなければならないのなら、印刷技術によってつながれた国家とか国連といったものも無視することになる。しかし、憲法、労働基準法、ILOの条約などをまったく使わないで市場原理主義に抵抗することは困難ではないのか。
 その方は会のキーパーソンらしい。明確なルールはなくとも、今後そこの会のイベント等に出入りするのなら、当然従わねばならないだろう。何よりも、フリーターとしての自分の生き方、自分が志向しながらも共同体主義によって阻まれてきた学習や人生のルートをばかにしている。フリーターという存在も、いまどきの若者も彼は下に見ているのだ。

 だったら、もうやめよう。死にたいほどつらい地域。とても理解できない密着。暑苦しいプレッシャーをかけてくる仲間。特に、仲間以外の存在も権利もいっさい認めない排除の機動力としての仲間主義。
 もしもわたしが所属するコミュニティがあるとしても、それはもっと世界に開かれていたり、定着を正義のように押し売りしたりしないところだ。定着しろとする圧力こそが、不幸の元だ。幸福になるために抵抗をはじめたのに、抵抗のために不幸になるのだとしたら、本末転倒だ。

わたしはこれまで少なくとも1万社を面接のためにまわった。80社以上で働いた。そこに顔をあわせる関係がないと言いたいのなら言っていればいい。そんな言説には客観性のかけらもないのだから。

「コミュニタリアンの社会は息苦しく、神聖政治もしくはナショナリストの独裁政治に変容する可能性がある。            --アラン・トゥレーヌ」


抵抗運動を地域ナショナリズムの枠内に閉じ込める必要はない。その人の指示とはうらはらに、わたしが大阪という街に定着しない権利はあるし、実際にしていない。
地域で痛い目にあったものにとっては、地域から地域へと移動している間だけが自由で安全だ。あるいは、いつかそういう地域に行くと考えるだけで自殺を回避できる。そのルートをふせぐ地域密着主義には賛成できない。

わたしは地域よりも定着よりも自分の命と人権のほうが何倍も大事だ。息苦しくないこと、独裁的な地域ボスに自分の人生を売り渡さないこと。そちらのほうがより重要だ。
経済的にも精神的にも、地域からの自由を手放す気はない。

もちろん、定着する人はすればいい。そういう役割も世の中には必要だ。ただし、移動を選ぶ自由だって尊重されてしかるべきだ。

それが尊重されない会だからこそ、やめる決心がついた。




 

  
 

 
 
 

信濃毎日の記事より

2006-05-23 23:45:51 | イベント/ミーティング
↓信濃毎日新聞に長野のプレカリアート・オフの記事が出ています。他の府県でもプレカリアートオフが行われたのはうれしいかぎりです。それに、ユニオンぼちぼちのことが出ているのもいいですね。
http://www8.shinmai.co.jp/job/2006/05/13_001917.html

このなかで気になるのは、熊沢 誠さんのコメントです。
若者が地域に定着しなければいけないとおっしゃっています。

なぜ? もしも保守的な地域にねざせば、デモをやるなんて「アカ」か「キチガイ」扱いです。そして、地域共同体の一員らしく、デモをやる人の悪口を言ったりのけものにしたりしないと、文化不適応になってしまいます。
地域住民のなかにとけこむためには、フリーターたたきやニートたたきに同調する必要もあるでしょう。(残念ながら、それをやっているのが一部の地域ユニオンです。)
逆です。労働組合は地域から浮いているほうがいい。でないと、企業城下町で殿様企業はすき放題やり放題です。その地区の寡占企業や地元ボスにへいこらする労働組合に、わたしたち不安定雇用の者、あるいは地元の下請け・孫受けの会社はムリを言われ、大企業好みのファッションや立ち居振る舞いさえ求められてきた。それを断ち切るためには、地域共同体から離れた組合や、それに類するグループやネットワークが必要ではないでしょうか?

それに、定着って何? いろいろな地域のいろんな会社を渡り歩く人々を、まるで差別するもの言いではありませんか。
牧畜民だからといって、使い捨てられていいわけではないのです。わたし自身も交通調査の仕事で鳥取や名古屋のほうに行ったことがあります。そういったことを「地域に定着していない」を理由に否定されるのはなぜでしょうか?。
ここでの地域って何なのか分かりません。大阪なら大阪地域だけで仕事・生活しないといけないのか? それとも東アジア地域として日本・中国・朝鮮で仕事をしろということなのか? 
これは、そもそもフリータ=ふらふらしている→ロクでもない という根拠なき偏見・感情論でしょう。こういった農耕民族中心主義とは闘っていきたく思っています。遊動生活を送る牧畜民や狩猟採集民にだって悪くない職場で働いたり、失業したら助けてもらったりする権利はあるのだから!

当ブログ関連記事 離合集散、いいじゃない


社会的排除推進調査会?

2006-05-23 22:44:11 | その他
電車に乗るときに、キオスクで見た新聞の見出しに驚かされた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060522-00000007-kyodo-pol
5月22日(月)2時5分

ニートは扶養控除外 自民が検討

 「自民党税制調査会(柳沢伯夫会長)は21日、少子化対策としての子育て支援減税の財源を確保するため、所得税の扶養控除(1人当たり38万円)に年齢制限を新設し、成人したニート、フリーターを対象から外す方向で検討に入った。」


仮に、時給700円のアルバイトで週に5回、一日8時間働くとしよう。

一ヶ月で、700×8×5×4=112,000(円)

そこから税金等が控除される。一割を引くと、100,800(円)

年収は、1209、600円

ボーナス・退職金はなし。各種の保険にも入れないこともある。交通費が出ないこともある。

なお、一日8時間入りたいのに6時間しか入れないとか、ずっと勤めたかったけれど体を壊すなどしてクビになった場合、次の仕事を見つけるまでの間の損失とかは、ここには含まれていない。なお、深夜・早朝にかえての仕事や、体力的にきつい作業はもう少し時給が高めである。しかしおおむね、アルバイトの時給は700円~800円程度だ。最低賃金は地域によっても異なるが、かぎりなく最低賃金に近い時給で働くこともある。

なお、「ニート」としてどこの企業にも学校にも通っていないのがなぜいけないのだろうか? *1宅浪、2*仕舞屋ぐらし、家事手伝い、自宅休養、派遣会社からの連絡待ち、失業保険で生活している……いったい何がいけないのかわからない。特に派遣会社のスッポット・バイトという作業は、日雇い、週雇いの世界だ。常にレイオフとリコールが繰り返される。仕事があるときにはあるが、ないときにはない。しょっちゅう一時帰休になるとイメージしていただきたい。

そうした層を扶助家族として認めないとはどういうことか。フリーター・ニートは国≒家のメンバーとして認めないという意思表示だろう。
個人は、会社という「家」に仕えることを通じて、国に所属する。でなければ社会の外にある。というわけだ。
これは、人頭税にも通じるお粗末な政策だ。それも、社会的排除をうながす政策だ。自民党は党内に社会的排除推進局でも設けているのだろうか?
人は一人では生きにくい。集団では、一人ではできない作業もできる。狩猟、採集、牧畜、農耕、大きなコンピュータプログラム……。
だからこそ、人は家族をつくり、共同体を作り、官僚制を発達させてきた。
その人類の進化の歴史をすべて無にする政策を、おろかにも自民党は発案している。
困ったときに助け合ってこその家族であり社会である。それを、助けるなという。うすると自立すると言って。
しかし、その自立は絶対ではない。また、自民党の言う自立は、国にカネを収めるための自立だ。自分たちで組合やNGOを作って、与党の政策を批判する自立性ではない。

ともあれこれは、若い世代から金を吸い取るための方策だ。
絶対にやめさせなければならない。

これまで、自民党は、若者を学校と家と地域に囲い込む政策を実行してきた。そして、最後に残ったーーということはそこしかないーー、セーフティネット・家族の福祉機能さえ破壊しようとしている*3。
上流・上層の利益だけを擁護するフェミニズム・男女共同参画などと歩調をあわせて、他のセーフティ・ネットを充実させることなく、家族を壊してはいけない。約500万年前にチンパンジーと共通の祖先から枝分かれして以来、人類は、いろいろな形態の家族を持ってきた。ゴリラなどの霊長類にも、母と子だけではなく父という存在が大切になってくる。それは、エサをとれない個体を助けてやることはあっても、とりあげたりはしない。霊長類もやっている相互扶助を、するなと言い出すのが今回の自民党の「ニート・フリーターを扶養家族だとみなすな」といいたげな案である。これは、数百万年にわたる生物の進化にも反する、超保守反動である。
人が生きるには競争のほかに協力も必要だし、労働のほかに休暇や余暇も大切だ。なぜ自民党税制調査会には、分からないのだろう?

*1 自宅浪人の略。
*2 商売や株で成功したあと、むかし商売をしていた家で人が生活すること。
*3 たとえば失業保険を一年以上受けられるようにするとか、生活保護を受ける  のに、100万円以内の貯蓄なら持っていてもいいことにするとか。財源は、  お金をもっている上の世代・階層などから税金を取るしかない。それでは金持  ちは海外に逃げる。だったら国連を通じて国際的に再配分をやったほうがいい  のか?

なお、深夜のシマネコさんのサイトで、風刺的な改変バナーを発見した。
表現は少しキツイが、納得させられる。http://www7.vis.ne.jp/~t-job/


トラックバック用URL
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060523
















県庁所在地でプレカリアート・オフを!

2006-05-20 16:36:37 | 未来
別のサイトで見たのだが、毎日新聞のネット版でフリーター+ニートたたきの企画があったそうな。もう、あきれてものが言えない。後藤和智さん、深夜のシマネコさん、非正規労働組合ぼちぼちさん、LENAZOさんなどいろんな若い世代が声をあげている。なのに、また・・・・。後藤さんや深夜のシマネコさんたちがおかしな報道のファイルを作り上げてくれているので、いまさらわたしが加えることがあるのものか。(基本的にここは労働・失業問題のサイトとしてやっているんだし……。ま、ブログって何書いてもいいんだけど。)

正直言って、このブログは暗い、あるいは痛い話が多い。ここでひとつ暗くない話に挑戦してみたい。

ささやかでもいい。未来の夢について話してみたい。ただし、不安定雇用の人々にとっての夢だ。

ひとつはプレカリアート・オフがありふれた集まりになること。

今は、たった1度、大阪の梅田で開いただけだ。これが、月一度くらいの間隔で、日本の都道府県の県庁所在地で開かれている状態になってほしい。さらに、大阪でもキタで集まるオフ、ミナミで集まるオフというふうに、何箇所かで開かれればいい。サーヴィス業の人が集まりやすいように、週末だけではなく、火・水・木曜日に集まるのもいいことだ。
きっとそこではいろんな情報が飛び交うだろう。あそこの会社はヒドイ、ここの会社は結構マシといった話。組合活動家による近況報告。ブロガーによるサイト案内。労働や失業、若い世代の問題に関するイベントの宣伝または報告。興味をもっている組合主催の集会にあなたは行きそびれたとしよう。だけど、近所のオフに参加すると、他の参加者がいて、集会の時に配られた資料を見せてくれたり、集会で話し合ったこと、主催者の背景などについて話してくれるはずだ。
また、そこでの会話のなかで、実務的な観点から労働基準法や派遣労働者法やILOの条約について学ぶことができるだろう。そうすれば、前後左右がわからずに一人立ちつくすこともない。仲間とパーティーを組んで、困難あふれる冒険の旅に出る決意も固まるはずだ。

会社では、会社がおかしいと思っているのは自分ひとりだと思っていた/思いこまされていた。だけど、偶然同じ会社で働いた人も、実は同じように思っていたことを知り、あなたは驚くだろう。そうすれば、主観的な孤立が消えるだろう。
同じように非正規雇用で苦しんでいる他の会社で働いた人間を知って、あなたは自分がたったひとりこの世で苦しむわけではないと分かるだろう。となりに座っている人も、労働力商品として扱われたり、信じられないひどい条件で必死に働いている同じ人間だと知るのは大切なことだ。


このオフ会は、プレカリアートと名乗る必要はない。非正規雇用の会でも何でもいい。
できれば労働組合・労働行政・弁護士と連携しつつ、非正規雇用者の友愛団体が各地にできるといいと思う。
歴史的に見て、そういった*1友愛団体や、クラブの役割を果たす*2パブやセツルメントハウスが、組合のストライキを助けてきた。また、独自の文化を育む母体にもなった。

今日の日本にも、プレカリアート・オフ、あるいはそれと似た労働者&失業者&半失業者のたまり場ができないだろうか。
それほど費用はいらない。駅前の広場、公園などで集まればいい。たった数名とか十数名の集まりでも、0と1では大違いだ。
全共闘世代のように、声高に演説をしたり、えらそうに説教をしたりしなくてもいい。わたしたちも、梅田の待ち合わせスポット・ビッグマンに集まり、近所のドトールでコーヒーを飲みながら盛り上がった。小さいテーブルに4人で陣取り、最近の組合の近況、これまでやってきた/今やっている仕事、どこの会社がムチャや明らかな違法行為をやっているかについて情報を交換した。ちょっとブログでは書ききれないうちわだけの話も出た。たとえば、ひどいことをやっている会社や部署の名前は、ブログでは書けない。対面したときだけに言えるものだ。
なお、こうしたネットワーキングが、結果として労働組合に近い役割を果たすかもしれない。だからといって組合と敵対するわけではない。そこから組合に入る人もいれば入らない人もいるだろう。それでも、そこの参加者が、組合に以前よりも親しみを抱き、ふだんは批判的なことを口にしながら、いざというときには味方になってくれる可能性はあるだろう。
組合の下請け、というのではなく、労働者または失業者相互の親睦や情報交換や孤独つぶれ防止のための機能を、プレカリアートオフは果たすだろう。

なんとか、県庁所在地で、プレカリアートのネットワークを作れないだろうか。そして、ひとつひとつの集まりが連絡をとりあい、引越しをしたり、遠くに出稼ぎにいくときに、オフ会関係者に連絡をするとどこの会社がひどいかひどくないかを教えてくれる。そういうネットワークを作ってみたい。
たいへん苦しい状況の中で、それでも少しでも余裕のある人たちが音頭を取って、各地でプレカリアートオフをやってほしい。それが今の自分の夢だ。



*1 森 たかし(一文字で上半分は日、下半分は木) 「アメリカ職人の仕事史ーーマス・プロダクションへの軌跡ーー」中公新書 1996 PP256-257
19世紀までの20年あまり、アメリカでははげしく労働争議が行われた。連邦軍、資本の施設軍が出動し、死者が出たにもかかわらず、ストライキはやまなかった。スト破りが大量導入されたにもかかわらず、1880年代を通じてストライキ勝利は47%、敗北は39%、スト中止は14%と、労働運動側の勝利が多い。その要因としてひとつめには地域住民の支持、もうひとつは労働騎士(ナイツ・オブ・レイバー)という働く人々の雑多な欲求をもちよった組織ーーただし、地域によっては黒人排斥だったり、禁酒運動のこともあったーーによるものと指摘しておられる。

*2 松田 裕之 「メーデー発祥の地 シカゴ 労働者文化の胎動ーー精肉都市の光と影ーー」 清風堂書店1991 PP101-110 第二章 精肉町の労働と生活 ジェンダー的な空間の役割 

19-20世紀にかけて、シカゴの精肉町のなかには、男の空間と女の空間があった。男の空間はウイスキー横丁という居酒屋街。女の空間はセツルメントハウスという女性向き社交クラブ。そこで男たち、女たちは、民族の違いをこえて、下層労働者であることの労苦をわかちあった。
ウイスキー横丁の居酒屋の経営者はしばしば労働争議でクビになった元労働者だった。
かたや、セツルメントハウスは、中産階級の社会改良家たちによって設立された、教育・慈善事業、工業地区の条件の調査・改善の拠点だ。スラムの人々のための食事の提供、職業訓練、働く母親のための育児サービスなどを行った。
(なお、こうした男の空間、女の空間を破壊するのが、フェミニズムの唱えるジェンダーフリーである。労働者または失業者として、こうした空間をつぶすフェミニズムには警戒的でありたいと著者は願っている。)











メモーー1984のブログ

2006-05-17 04:50:21 | Weblog
閑話休題。ハラナさんのブログのコメント欄にていいブログを発見!

↓ 1984blog
http://1984.asablo.jp/blog/

おそらく、国会では、共謀罪・教育基本法改正の次は、労働基準法改正が議事日程にされるだろう。そのとき、どうするのか。

今後の経済政策の流れを考えるために、読んでおきたいサイトだ。

自由主義の擁護

2006-05-14 10:19:51 | その他
岩波文庫に入っている古典なら、ミルとかロックとかを見てもらうと分かりますが、 自由は自律にもとづくというのがリベラリズムの大前提です。
ゆえにリベラルは少数派を尊重するし、社会福祉を否定しないし、自由とわがまま(放縦)の区別もしています。


その点では、「橋も道路も個人が建てればいい」というリバタニアリズムとは異なります。
リバタニアリズムは「社会福祉・保障・保険はいらない。不自由と堕落のもとだかから」といいます。そうすることによって人は国家や共同体に従属させられるというのです。
今年金を苦労して払っても、あとで受け取れるかどうかわからない、もし受け取ってもスズメの涙、という世代にこれはウケるでしょう。
しかし、より一般的に言って、人を従属させたり腐敗させることの少ない社会福祉・保障制度ができないか、検討の余地はあると考えています。

日本では、大企業限定で、会社がすべてを保障しています。そしていったん会社の外に出されれば、給与・保障のみならず、組合による共済がないため物価が上がったも同然です。おまけに、登山・釣りなど趣味のクラブからも追放されてしまいます。これは、私企業が人の人生を左右することになる。ということは、政府が統治していないということです。企業によるやりたい放題です。

そんなことでは困るから政府が要る。セーフティネットも要る。企業のわがまま(放縦)を政府がおさえこむ。だから生活保護があったり、労働行政もあったりする。
今は、政府がそれを自分で壊していっています。政府単位のリストカットです。これまで苦労して立ち上げた社会保険・福祉をどんどん自分で切っていっている。そういう病的でイタい行いに、本来心を痛め、止めなければならないのが「保守」とか「愛国」です。ところが、「切れ、もっといっぱい切れ。手首を切れば切るほどよくなるんだあ」と国単位のリストラである構造改革に歓声と拍手を送っている。それが今時の「保守」であり「右翼」なのです。
かたや、左ーー社会主義とか共産主義ーーは、硬直したイデオロギーの宣伝につとめてばかりです。マルクスやエンゲルスの経典に書かれていないことについては、ほぼ、議論しようがありません。

以上の理由から、わたしは自由主義がもっともバランスがとれており、優れていると判断しています。よって自由主義を支持しますが、読者は?







補足

2006-05-09 19:43:44 | 哲学・思想
以下は、当ブログ内記事「ニートって言うな」「不登校って言うな」1,2
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/9cccf62c9230fff1fff03ab93cea3d38

への補足です。

この記事が脱学校者叩きに使われることへの警告

<2006.5.9補足>なお、だからといって、子どもが学校に行かなければならないわけではない。子どもの学校に行く・行かないの権利は尊重されてしかるべきだ。それが有名無実化するようなすさまじい社会の学校化も解除されてしかるべきだ。
こういう話をすると、「だから学校には行け。行けばなんとかなる」とう話と混同されるかもしれない。だが、誤解のないよういっておきたい。学校に行きさえすれば、不安定雇用がなくなるわけでもない。「不登校親の会」が、就職の斡旋をしなければならないわけではない。ましてや、フリースクールはなおさら関連性がうすい。登校拒否が国の経済の足を引っ張るなどという議論など、論外だ。
また、このことによって、これまで登校拒否でもいいじゃないかと言ってきた人びとへの価値おとしめがなされてはならない。いわゆる「閉じこもり・ひきもこり」のことについて、これまでたとえば渡辺位といった「登校拒否でもよい」とする論者は、講演や著書のなかで言及してきた。
なお、「明るい登校拒否」か「暗い登校拒否」といった議論は、登校拒否への偏見を反省しない東京のマスメディアが勝手に言い出した概念である。そして、登校拒否という、それ自体病気でも症状でもないものを、病院にくくりつけるために、専門家集団が「明るい登校拒否は治療しにくくて困る」などと難癖をつけて、なんとか医療の専門家の監視化におきたがってきたのも事実だ。それに対して、素人の利益に近い立場の専門家は、医療は必要ない、クスリづけは危険だ。登校拒否の症状の一部は医原病だ、といった警告を発してきた。
フリースクールは、公教育とは別の教育をめざるさまざまなスクールの総称である。そこに、登校拒否を矯正する機関とのイメージをかぶせると、実態を見誤る。
この記事は、「不登校」の子どもたち、親たちの「自己責任」を訴えるものでは断じてない。登校拒否・不登校をひとくくりに「悪」とみなさない前提に立っている。それが善でも悪でもない、あたりまえの子どものありかただとすれば、誰の責任を追及するということもなくなる。
山田さんも、当初「登校拒否でもいいじゃないか」と言った、その必要性・妥当性は認めている。しかし、もうそろそろ「登校拒否/不登校って言うな!」を言う時期に来ているんじゃないか、との見解だ。わたしは、時間軸ではなく空間軸においてこの見解に賛成している。学校に行かない、たったそれだけのことで人をひとまとめに悪者扱いする勢力には、これからも「登校拒否でもいいじゃないか」と切りかえす必要がある。しかし、何が本当の登校拒否かといった本質主義的な議論や、登校拒否の責任追及や正しい直し方をめぐるハイアラーキー争いに対しては、「登校拒否って言うな!」という問題の脱構築こそ必要になってくる。
<2006.5.9補足>


バックグラウンド


ちなみに、山田さんのバックグラウンドを。
この山田さんという人は、元・全共闘、研究会・「職場の人権」会員、「学校に行かない子と親の会・大阪」世話人、定時制高校の教諭にして私立文系大学の教員をつとめ、かの「ハマータウンの野郎ども」の共訳者であり、さらに日教組の委員長でもある。さすが、山田さんは、とイウエッセーだ。本人は気まぐれに書いていると謙遜するが、質は高い。「写経」していて、「うん、そうだよね」と思った。


研究会・「職場の人権」5月定例会のお知らせ

2006-05-07 19:06:18 | イベント/ミーティング
研究会・「職場の人権」5月定例会のお知らせです。この研究会のHPより転載します。http://homepage2.nifty.com/jinken/
ここの研究会の定例会には以前2度おじゃましました。ここは、非正規雇用に差別的ではない研究会です。また、質疑応答(意見やPRもOK)やお茶会も含めて、男女老若が活発に意見を交換するところです。定例会には誰でも参加できます。

ちなみにわたしは、当日、交通費が出る状況で、疲れて寝込んでいなければ行くでしょう。先の予定が立たないのは、非正規雇用のつらいところです。

点線以下、転載。

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■第81回研究会(5月)
『ある私立大学の雇用差別と労働強化
       -使い捨てられる大学教職員-』
 *と き:2006年5月27日(土) 午後1時30分~4時30分(1時開場)
 *ところ :エルおおさか5階 視聴覚室 電話06-6942-0001
         (地下鉄谷町線・京阪電鉄「天満橋」駅下車。徒歩5分。駅から西へ約300m)
         エルおおさか(天満橋)  http://mic.e-osaka.ne.jp/l-osaka/access.htm

 *参加費:500円(当会の会員は参加費無料)
 *報告者:
     遠藤 礼子さん(立命館大学非常勤講師
                /ゼネラルユニオン副委員長)
     山原 克二さん(ゼネラルユニオン委員長)
 *コメンテーター:
     脇田 滋さん(龍谷大学法学部教授、労働法・社会保障・有期雇用問題)

 雇用の流動化政策のもと、有期雇用化が止めどなく蔓延し、いまや働く人の3人に1人が有期雇用の働き方です。
 とりわけ、均等待遇等制度の整っていないもとでの有期雇用=非正規職への置き換えは、働く人びとを劣悪な労働条件へと導き、正規職に対しては、使用者側への限りない忠誠心や長時間労働(働きすぎ)が「自発的」に求められています。
 これは、アカデミズム(大学や高等教育)の世界も同様で、いま、非常勤の教員・職員を大量に生み出しています。
 その最先端を突き進んでいるのが関西にあるR大学で、雇用契約年数に上限を定め、3年から5年で、のきなみ解雇を通告するという「使い捨て」雇用をおこなっています。
 恒常的な職務・業務であるにもかかわらず、有期雇用で使い勝手のよい、物が言えぬ状態に働く人びとを追い込むやり方は、はたして、教育や学問にたずさわる資格はあるのでしょうか。
 ついにというべきか、必然的に、このような「不条理」が告発される事態にいたっています。
 5月例会では、今回の告発の当事者であるゼネラルユニオンと、辛酸をなめさせられている多くの非常勤の教員・職員にお話をして頂きます。
 また、フロアからは、正規職にある教職員からの発言も予定しています。
 教育の場における雇用のあり方、大学や学校で働き続けることについて議論します。
 ぜひ、ご参集ください。





(転載)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」1

2006-05-06 02:43:25 | 政策
ひとつ下の記事に、「『ニートって言うな!』『不登校って言うな!』」の後半部分の転載があります。その前半部を、ご本人の許可を得て転載します。ーーで区切り、その後にわたしのコメントを入れます。
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「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」 その1
山田 潤


 「中央公論」4月号、「若者を蝕む格差社会」という特集を組んでいる。そのトップを飾る三浦展と本田由紀との対談が、やはり、おもしろかった。いまなぜこのふたりの対談か、は、ふたりの語りだしからすぐにわかる。

三浦 昨年、『下流社会』という新書を発表しましたが、思いがけないほど売れてしまった結果、わたしが「下流」という言葉で指摘した問題が過度に単純化されたことに、少々閉口している面もあります。「下流」=フリーター、ニートと単純化されたり、下流がよいか悪いかも、二者択一で語られている。
 あの本では「下流」を、生きる意欲に欠けた人々と想定していますが、厳密な定義をしたわけではありません。ただ、確実に言えるのは、この10年ほどにわたり、若者の階層意識がはっきりと低下していることだけです。


本田 それは明らかに、この10年間に若者が労働市場で直面した困難から生じたものですね。しかし、『下流社会』の世間での受け取られ方を見ていると、「だらだらして意欲に欠けた若者」に反感を持っている年長世代が、「若者叩き」のアイテムとして、飛びついているような印象があります。
 三浦さんの従来の消費社会論からすれば、消費や競争に倦んだ「下流」の登場は必然ではないでしょうか。にもかかわらず、若者を叱咤されるような内容の本を出されたことに私は違和感を持ったのです。


 椅子取りゲームというのがある。輪に並べてある椅子のまわりを、みんなで歌でも歌いながらぐるぐる回る。笛の合図で、急いで近所の椅子に座るのだが、人数よりも椅子の数が一つづつ少なくなっていくのだから、かならず誰かが座れなくなって、つぎつぎにゲームから脱落していく。椅子がどんどん取り払われて、最後に勝ち残るのは、たったひとりというお遊び。これをお遊びとして、みんなが楽しむためには、それなりの配慮がいる。最初に座れなくなる人がはじめからわかりきっているような場合には、やらないほうがよい。遊びとはいえ、誰かを押しのけて座る浅ましさを感じて、しだいにゲームから腰が引けてしまう人もいるだろう。
 それで、このゲームにも工夫がこらされて、椅子は人数よりも少なくなっていくのだが、ゆずりあって、一つの椅子に何人でも、場合によっては、すでに座っている人の膝の上に腰掛けさせてもらってもよい、という変化型もある。何人かが同じ椅子に殺到した場合、みんなが、何らかのかたちで座れるように工夫しないと、そのグループの全員がアウトになる、というルールもあるようだ。
 「みんなハッピー」にあまりこだわりすぎると、ゲームとしてのスリリングな楽しみがそがれて、そもそも椅子取りゲームではなくなってしまう。この手の遊びには、現実世界にシビアなかたちであるもの(さしずめ「リストラ」という名の人員整理)を笑い茶化してガス抜きするという効用もあるのだ。
 さて、上の対談で本田が「この十年に若者が労働市場で直面した困難」とは、笑ってすますことのできない、シビアになる一方の椅子取りゲームだった。わたしは、この10年間、関西大学の3回生を相手に「教育学購読演習」という授業を担当してきたが、就職活動(学生用語で「シューカツ」)にいよいよ乗り出そうとしり若い人たちの重苦しい心中をのぞきみて、わたしの気分まで重くなるのが毎年のことであった。さきの対談で、本田も同じ思いを語っている。三浦が、「自分探し」などほどほどにして、「まずは社会に飛び出すことも必要」と、若者に苦言を呈したのを受けて、彼女はこう言い返している。

(本田)ただ、今はとりあえず社会に出ようとしても、気楽に仕事をはじめられない状況がありますよね。たとえば会社の採用面接でも、くどいまでに熱意と意欲を表現するように求められる。就職活動をしている学生の話を聞くと、「あそこまで自分を偽ることはできない」と言います。会社も大量採用の時代とは異なり、慎重に採用をすすめますから、とことんまで会社に尽くす人材を求めてくる。
 そこまで身をすり減らさないといけないなら、それに耐えられるくらい好きなことでないと仕事にできない、と考えるのも無理はないと思います。働かない若者だけに責任を負わせるのは酷なことではないでしょうか。

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自分探しは悪いのか

>三浦が、「自分探し」などほどほどにして、「まずは社会に飛び出すことも必
>要」と、若者に苦言を呈したのを受けて

「不毛なこと」「文化不適応になる」「アホみたい」などと見下され、揶揄されがちな「自分探し」の若者。けれど、どんな仕事に就き、どのような性格の人間になるのかを自分で考え、決定することが建前の近代社会において、これはきわめてまっとうな反応ではないだろうか。「選択の自由」が増し、自分で自分をカスタマイズし、自分で自分を説明する必要にかられれば、多くの人々が「自分探し」をするのは当然の帰結ではないだろうか。
じっさい、本田さん、山田さん、その他の論者も言うとおり、いったん会社社会に入れば、「社畜」化するほかないのだ。
そのまえの時期に、いい思い出をつくりたいのであれ、確かな自我や人格を確保したいのであれ、旅をしたり、哲学書を読みふけったり、演劇やアニメやバンドなど好きなことにチャレンジしたりすることは、おかしくない。
確かに、そんなことをすれば、みんなから浮いてしまうし、「確固たる自我」や「成熟した人格」は、共同体主義の日本社会での処世術と対立する。
それでも、いや、だからこそ十代や二十代の、まだ失敗や逸脱が大目に見られる時機に、「自分探し」をやらないと、と思いつめることもあるのではないか。禁じられた恋愛のほうが激しく燃え上がるのと同じようなところが「自分探し」にはある。
なお、就職活動に必要な自己分析ができないと困る、という意識からそうする層もいるだろう。

上の世代は反面手本

Cunさんうえしんさんらがご指摘のとおり、上の世代を見渡せば、魅力的な層はいない。みんな「反面手本(Cunさん)」だ。
せっかく学校で「いい子」にして、大企業の正社員・総合職になった。けれど、たった2~3年でリストラ。あるいは倒産。外に出されなくても、労働強化と減給、保障や手当てなど度重なる社内福祉の廃止。低所得者への増税。軽い慢性的なうつ病なんて、いまどき珍しくもない。くわえて、マスコミに跋扈する若者バッシング報道。
脱サラをやろうにも、若い店主の自営業のお店はやはり2~3年で店をたたむ。中小企業の経営者の息子が過労死したという話もある。それも、地域の労働組合(大企業の組合とはちがって、中小企業の労使紛争を受け持つことが多い。)の関係者が、経営陣の過労死を、怒りとあわれみをこめて伝えていた。

自分探し叩きの心理
 
三浦さんは>若者に苦言を呈した(山田) のではない。これは若者バッシングにすぎない。「若者の『自分探し』なんて、甘えたりふざけたりしているだけ。単に『若気の至り』でしょう。ハッハッハハ。」といった、若い世代へのみくびりがあるのではないか。そして「若者叩き」が年長世代に受ける・売れるという言論市場におけるニーズもからんでいる。
あるいは、若者を「自分探し」をする「悪い若者」と、「自分探し」には興味も示さない「よい若者」に分割統治しようというのだろうか(苦笑)。

自分探しをめぐる世代間対立が大変明瞭にわかる例をあげておこう。
ある若者は、インドに文字通り自分探しの旅に出た。彼の親は九州にある地方都市の会社の社長2代目だった。家父長の権威をおがんで、家や地方の非合理的な慣習にあわせておけば、だまっていても彼には3世社長の座が転がり込んできたはずだ。だけど、彼はそうしなかった。
成人して、東京にある仏教系の大学に進学した。そして、日本の裏側のペルーに飛んだ。そこで友達をつくり、その友達の従兄弟にあたる先住民の女性と結婚した。今は夫婦でインドにいる。インドで、エイズにかかった人が最期のときをむかえる仏教系のホスピスで働いているのだ。当然、保守的な田舎の家では、年長者を中心として、かなりの反発と嫌悪でむかえられ、とても妻を連れて帰宅できる環境ではない。
彼の祖母は「あの子は家を捨てた」と思っている。先祖を守らず、家業を捨て、自分の生まれ故郷や国のために働いていないと考えているのだ。異国の地で、ほかの国や地域の人のために働いていることは評価されない。
若い世代のわがまま・気まぐれから家や国の伝統を守れ、との意識から上の世代がとったのは、彼の妹に婿をとらせることだった。彼の妹がいる東京から九州にある実家にムリヤリ帰省させた。東京でつきあっている男性と分かれさせ、職もやめさせてのことだ。
どうだろう。若い世代の「自分さがし」を恐れたり嫌がったりしている人たちのホンネがすけて見えるような話ではないか。これはちょっと極端な例だが、これをややゆるめた例なら、身近に転がっていないだろうか。要するに、上の世代が舌の世代の自由や多様性についてゆけず、恐れをなして反動化しているのだ。

こういう「自分探し」の旅は、いけないことだろうか。彼の場合は、あまりにも保守的な、自民党以外は政党ではないと思われているところ、ショッピングセンターでいつも知り合いに出くわすところから自由になりたかったのだ。そのためにはまず地球の裏側に行って、友達ではなく家族を作る必要があった。
そのうえで、妥協するかのように地理的にも近いアジアに戻ってきたわけだ。
いったい「自分探し」の何がいけないのか、さっぱりわからない。

「自分探し」を無碍に否定するのは、若いころに自分とは何かについて、悩んだことがないし、人に上手に説明する必要に迫られてもいない世代だ。その人たちが、下の世代の就職用/文化用の悩みを受け止めきれないで、世代エゴをふりまわしていると思うのだが、いかがだろうか。

生きる知恵としての自分探し

フリーターのなかには、「バンドや自主制作映画とか、何か自主的な活動とか夢とかをやっていると、正社員になりやすいんだって?」というウワサがある。特に90年代の後半にはよく聞いた。それにあわせて演劇やバンドをやっていると面接で言ったり、実際にはじめた者もいる。
もうひとつは「何をしている人か」というアイデンティティ・クライシスによる自我崩壊を防ぐ手段でもある。周囲にも自分がどんなタイプの人間か説明しやすいし、安心感を持ってもらえる。自分自身も「自分って何?」と過度の問い直しによる自我崩壊や自己否定を防げる。なので、特定の楽器をやってみたり、同人誌をやってみたりする。そういうタイプの「自分探し」は、切実な必要性から編み出された若者の「知恵」だ。それを否定する理由は何なのか。


*この記事のつづきはひとつ↓の
http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/9cccf62c9230fff1fff03ab93cea3d38です。













                                                                         

(転載)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」2

2006-05-05 20:34:23 | 政策
学校に行かない子と親の会・大阪発行の会報・ココナッツ通信2006年4月号に、山田 潤さんが若者と仕事についてのエッセーを書いていらっしゃる。このエッセーの後半部分を、本人の許可を得て掲載する。そのうえで、コメントをワタリがつけてゆく。読者もどんどん意見をしてほしい。

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「不登校」と「親の会」(15)「ニートって言うな!」「不登校って言うな!」
山田 潤 

(前半は当ブログ内記事http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/8b453bc77740595ab7b5aec13dd3b746に収録)

 大学生の場合は、しかし、がんばれば自分は座れるかもしれないと期待できるほどには、まだしも「椅子」は残されている。
数十社・場合によっては数百社を超える企業にエントリーし、面接で何度も「御社こそ・・・・」と心にもない決意を繰り返すしんどさ、そのうえで何度も「不採用」の苦杯を飲まされるつらさ、それは生半可なものではない。そのことを重々わきまえたうえで、それにしても、大学生はともかく、「ゲーム」に参加することはできる。
 高校生の場合は、エントリーすら全員に約束されてはいなかった。ここ十数年、新規高卒生にたいする有効求人倍率は「1」を下回っていたのだ。最近、ようやく「1」に回復しかけているが、これは100人の求職に対して100人の求人ということであり、ひとにぎりの「優秀な」生徒をのぞけば、選ぶ自由はほとんどない。そして、もっと深刻なことには、「正社員」の求人倍率はなお「0.6」という水準にとどまっていて、これは今度も容易に回復する見込みがないのである。
 つまり、高校生の場合には、「ちゃんとした椅子」はここ十数年、最初から誰の目にもわかるかたちで、大幅に足りなかった。そのぶんだけ高校生は「フリーター」か「ニート」になるほかなかったのである。そのうえでなおかつ、「フリーターやニートにしかなれない若者」などと、自らの人間性が問われたりもする。いや、直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにしない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。
 お遊びとしての椅子取りゲームでは、たまたま座れなかった人の「(ちゃんと座る)能力」や、「(座ろうとする)意欲」、あるいは、「(他人を押しのけて座ろりながらも、その場の雰囲気を壊さない)人間性」を問うたりはしない。もともと、確実に誰かが座れなくなるように、椅子の数を減らしているのだから。
 ところが、お遊びではない現実の社会では、「椅子」の数の不足はほとんど問われない。ほんとうは、数的な過不足だけではなく、質的な良否もきびしく問われねばならないのだが、そちらは問われないままに、もっぱら「座れる」か「座れない」かで人の勝ち負けを判断し、その勝ち負けの原因をその人個人か、その人を育てた家庭に絞り込んで平然としている。こうした風潮に対するいらだちと、こうした世相に便乗する知識人たち(三浦展もそのひとり!)への怒りこそが、本田由紀に『「ニートって言うな!」』(光文社新書)を書かせたのだ。それは、上に引用した本田の、押さえ気味の発言からでも察することができる。だが、この対談タイトルは「『失われた世代』を下流化から救うために」となっていて、せっかくの本田の起用を台無しにしてしまっている。
 わたしたちは、この社会に用意すべき良質な椅子の数を、政策として減らしてきているのだ。1986年秋には、まだしもさまざまな制限を付して施行された「労働者派遣法」は、この十年の間に対象業種がつぎつぎに拡大されてほとんど無規制になり、そのたいへん不安定な雇用関係が「正社員」の雇用保障をも危うくするまでになっている。いま厚労省が来年にも国会に提出しようとしている「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくくする道がつけられている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。
 そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こえてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げている。「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすような「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと。そして、総じて、若者たちが個人単位に分断されて「自己責任論」に呪縛されていること。だから、この社会の「労働市場」のありかたそのものを社会的な連帯によって変えうるという展望をもてないでいること。
 わたしも、どうだと思う。しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめておくべきだと思っている。だが、それにしても、雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキで呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。
                                                                                                2006年4月8日
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救世主幻想

>「労働契約法」では、金銭的補償で社員の解雇をやりやすくする道がつけられ
>ている。こういう一連の動きを放置しておいて、「下流化から救うために」若者
>をどうこうしようとする発想が、そもそもたいへんゆがんでいる。

同意する。以前の記事でも書いたが、この種の救世主コンプレックスには困ったものだ。こういう「善意」や「使命感」に燃える人々が、戸塚ヨットスクールを応援し、アイメンタルスクールのような手錠で人を拘禁する施設の存在を期待し、黙認している。
ルネッサンス期の名画に、偽救世主をテーマにしたものがある。偽救世主とその一党は、魅惑的な演説によって人々の注目をあびる。それだけではなく、人々を暴力で強引に信者にしようとする。偽救世主の演説に立つ台には、前足を上げた馬ーー傲慢のシンボルーーが描かれている。知恵のある人は、救世主一味に背を向けている。
どうだろう。救世主コンプレックスに満ちて、善意や使命感によって人に暴力を加え、親や行政から多額の金を受け取る引きこもり・ニート救済業の人々とそっくりではないだろうか。

ちなみに、その絵のなかでは、偽救世主とその仲間たちは、最期には、大天使の放った光の矢に貫かれて、地上に墜落してしまう。平成の現実世界でも、できればそうなってほしいものだ。

親と子は別人格


>直接に批判されるよりももっとつらいのは、「わが子をフリーターやニートにし
>ない子育て」などと、「親」を経由してみずからの育ちの「不全」を揶揄される
>場合だろう。「不登校」の場合にも、子どもはまったく同様の経験をしている。

ちょっと待ってほしい。実は自分自身も以前「不登校」というマイナスのレッテルを貼られた経験があった。しかし、そのとき「親がおかしい・悪い」という言説を知って、ホっと胸をなでおろした。悪いのは自分ではない、別の人だと考えたからだ。
この種の言説は、「不登校親の会」かいわいで、親によってよく語られる。だが、子ども本人どうしでそのことでつらいよねえ、と話し合った記憶はない。
もうひとつ、大人になってから、琴・三味線教室の師匠から、わたしの演奏の出来がよくないのは、わたしの母がわたしを甘やかして育てたから、ときつくお叱りを受けた。そのときには、うんざりしつつ悔しい気持ちが湧いてきた。というのは、独立したわたしの人格を認めない文脈で、その言葉が使われたからだった。
ひとくちに「不登校」と言っても、いろんな年齢の子がいる。また当然言葉の使われ方にはニュアンスや背景も関わる。総合的に見て、「親が甘やかしたから」は、子ども本人にとって、肯定にも否定にもなりうる。それをひとくくりにして「子どもが傷つく」、としてしまうのは、「子どものため」「『当事者』がそう言っているから」を隠れ蓑にした、親の自己防衛ではないだろうか。特に、子どもが心理的に親から離れてゆく十代の子どもたちにはあてはまらない。
もっとも、これをおかしいとする立場にも一理ある。「不登校」「フリーター」「ニート」すべてにわたって政治的にネオコンのバイアスのかかっているのは事実だ。そして、親としてまたは本人としての「当事者」の気を悪くする可能性のある言説だと言うことはできる。ただしこれは親が主であって、子どもはそれをどう受け止めるかにはばらつきが見られる。
<2006.5.9補足>こうした混乱をさけ、偏見と差別をなくすためにこそ本田 由紀に習って「不登校って言うな!」と言う戦略の有効性がよくわかる。<2006.5.9補足>

>そうしたゆがみをほんとうに衝くことができるのは、当の若者たち自身だろう。
>だが、三浦と本田の対談においても、三浦が「そもそも当の若者たちの声が聞こ
>えてこないところに問題がある」と嘆き、本田も、その理由をいくつか挙げてい
>る。
 
この記述には異論がある。
当の若者たちが自分たちの状況をよく知る立場にいるのは、事実だ。しかし、逆に「灯台もと暗し」ということもある。自分たちのことゆえにきっちり見つめられなかったり、感情抜きの冷静な判断を誤ることもある。
だからといって、経済的に利害の対立する上の世代にわたしたちを語られるのは迷惑だ。自分たちだからこそ言えること、言いたいこともあるからだ。
たとえば、次のサイトを見てほしい。
ShiroさんComaさんCunさん、後藤 和智さん古鳥羽護さんLenazoさん、深夜のシマネコさん非正規雇用労働組合 ぼちぼち さんうえしん さんg2005 さんshigeto2004 さん。そして、不肖わたくしのブログも、声をあげている。
三浦さん、本田さん、山田さんまで、それを知らないと言うのはなぜだろうか。上の世代はネットに慣れていないのでご存知ないのだろうか。それとも、東大などの「よい」学校に行き、「当事者学」のような形で情報を発信しなければ、学者・評論家らには認知不可能なのだろうか(苦笑)。
もしも若い世代に信頼される大人であれば、身近な若い世代との会話や観察から、若者の声が聞こえるのではないだろうか。沈黙のとともに存在する身振りや身なりや雰囲気も含めて、理解できるのではないだろうか。
立場の違うはずの3人がの識者が、そろって「若者の声が聞こえない」とするのは、要するに知らないフリをしているだけではないのか?

フリーターは楽?

>「フリーター」が不利で不安定だからといって、企業に身も心もささげつくすよ
>うな「正社員」の勤務実態がよいとは決していえないこと

この意見の半分は同意、残り半分は同意できない。というのは、大阪地裁でアルバイトの20代なかばの男性に過労死判決が下りた例もあるからだ。アルバイトといえども、いったん仕事に入ると殺人的なスケジュール、会社や現場への拘禁かとみまごうような長時間拘束は珍しくない。
派遣やアルバイトであっても、正社員と同じ時間・同じ種類の労働をこなすこともある。
また、アルバイト、ということで、周囲がその労働を過小評価した可能性もある。それゆえに、これは「過労死」だという訴えが遺族から起こりにくいという「認識の落とし穴」があったのかもしれない。
通常、過労死は、たいへんまじめに勤勉に職場につとめていた者が、それゆえになくなったフシがあった場合、「どう見ても会社側の労務管理がおかしい」とみなした遺族らの調査・訴えによって裁判の場に現れる。勤勉に必死につとめていたとしても、「まさかアルバイト(派遣)」で過労死なんて」という偏見が盲点となり、過労死との訴えが起こらない場合もあるだろう。もし訴えても、やはり「認識の落とし穴」により、認定はむつかしいだろう。<2006.5.9補足>さらに、いろいろな職場を短期で移り歩く派遣やアルバイトの場合、複数の会社での疲労蓄積によって過労死にいたる可能性も考慮しておこう。その場合、どこの会社でどんな風に働いたのか、のちに証拠づけようとしても、長らく一箇所に勤めている正社員に比べて難しい。周囲もアルバイトを軽く見るし、本人の記憶もあいまいだからだ。細切れ雇用される雇用者は、ひとりひとりが一日きざみとか数時間きざみで職場を入れ替えれられる。そのなかで、一緒に働くうちに互いを理解しあったり、仲間意識をもったりすることも難しくさせられている。そのうえ、貧乏は社交の基盤を失わせる。それゆえに、証言を集めることも難しい。<2006.5.9補足>
以上の理由によって。わたしは懐疑的な立場をとる。読者は?

人々を分け隔てる学校教育

>しかし、わたしは、本田さんとはちがって、学校教育こそが、人々を個々人に分
>断し、「自己責任論」が蔓延する培養器になっている側面をきびしくみつめてお
>くべきだと思っている。

同意する。
学校教育は、人々に集団行動や共同性への生理的な嫌悪感と憎悪を抱かせる。
意味がなく、個人の権利や尊厳とのバランスを考えない集団主義は、「集団とか共同体に参加したがる奴は、頭が悪くて、鈍感で、視野狭窄」といった印象を人々に与えている。そうして、自ら選ぶことができる、またそこでの規則を自分たちの手でカスタマイズすることもできる共同体(自分たちで作る労働組合や人権問題NPO/NGO)をも「組織である異常人権無視」との疑いの目で見るように誘導する。
かつてアドルノらは、極端な集団主義と極端な個人主義はともにファシズム・権威主義の方向を向いていると「権威主義的パーソナリティ」で言った。義務教育に在籍し、その後コミュニタリアンの考えもとりいれて運営しているフリースクールに在籍したわたしも、同じ感触をいだき、30代になってからの読書によって、前述のフランクフルト学派の研究の成果に触れた。なるほど、と思わされた。
以上は1973年生まれのわたしの、世代限定の議論だ。今では、数学のⅠ・Ⅱ・ⅢとA,B,Cといった、誰が何のために作ったのかわからない選択肢によって人々は極端な個人主義を身につけているのではないだろうか。あるいは、専門学校の営業の人から聞いた話だが、スチュワーデスや翻訳事務など英語の必要な仕事では、TOEICの一点でも高い人から採用され、派遣されて現場に行ける仕組みになっている。これもまた学校的な、テストの点数によって分割統治されている。
かつてイリイチが「脱学校の社会」で言及したように、「誰でもがんばれば進学・出世できる」という約束を、学校教育制度は、おおかたの社会の成員に対して破るように設計されている。みんな終身雇用されると言っておきながら、進学するごとに「リストラ」組が増えていく。誰でも東大に行けるわけではない。「ドラゴン桜」メソッドを導入しても、定員がなくなるわけではない。たとえ希望者はみな東大に入れるように「改革」しても、その後の選抜がなくなるわけではない。
進学するたびに何割かは外に出される。それが社会であり人生であると錯覚させる効果を学校教育は失っていない。むしろ強化している。
<2006.5.14>元祖リストラとしての学校教育は、人々のリストラへの抵抗力をそいでいる。国立の大学に行けずに高い学費に泣くのは、努力不足だったからだ。そうしたイデオロギーを信じさせるのが学校教育だ。これを打ち破るのは非学校教育の勤めだ。このブログもオフ会もそのひとつだ。<2006.5.14>

>雇用保障を争点にして、高校生、大学生たちの抗議行動に労働組合がストライキ
>で呼応するフランスは、日本からはなんと遠い国であることだろう。

日本は、山田さんがおっしゃるほどフランスから遠くないのではないか。
フランス・5月革命のリーダーのひとりにダニエル・コーン・バンディッド、こと「赤毛のダニー」がいる。彼は高校中退だった。大阪では、実質的には中学中退のわたしが呼びかけて「プレカリアートOFF」をやった。かたや、東京でも100人を超え、警察の弾圧まで招く(その程度に存在感のある)同種の企画があったとMLやブログなどが伝えている。自分は、日本はダメ、と決めつけたくはない。

気になる論点


「不登校」の親の会の会報である「ココナッツ通信」のエッセーにこんなことを書くとは、「不登校」の子どもに何か期待しているのかなあ。
そういえば、もっとも気がかりなのは、このエッセーには中卒や不登校経験者の就職でぶつかる困難についてとりあげられていないことだ。もちろん、「不登校」というのも、子どもに休校権を認めない政治的な立場からの言葉であり、労働市場における若い世代や下層階級の困難を「不登校をしたから」という「自己責任論」に分断統治させないために、あえて使わないのかもしれない。だけれども、「」つきであっても、そのことについて情報がないのは、どうしてなのか。

4月の親の会の定例会では、「学校に行かなくてもちょっとした仕事すりゃ食っていけるし。。。。」というある親御さんの意見が出た。それに対して、誰も異を唱えていなかった。超がつくほど楽観的に、その発言は参加者にうけいれられていた。「ここは親の会であって子の会ではないから」という、これまで親の会関係者から耳にタコができるほど聞かされたものいいによって異論は周囲に拒絶されると予想したわたしは、ガマンして黙っていた。だからといって同意していたわけではない。
たとえば、時給700円のコンビニでアルバイトをするとしよう。睡眠障害になったり、ウツになったりするリスクもある、大変な仕事だ。これを、週に5回で年収300万円まで稼ごうとすると、一日あたり何時間実勤すればよいか。わたしの計算では、一日約22時間だ。
もちろん、その仕事に保障もないし、退職金もない。組合の割引販売も、どこかの海の家などの保養施設の割引特典もない。家を買ったり借りたりするときの社会的信用もない。深夜・早朝を中心に、フリーターのほか主婦・サラリーマンなどいろいろな人たちがコンビニで働いている。ムリをして体を壊すとやめることになり、次の労働による受益者か犠牲者か分からない人が同じシフトに入ることになる。そういう使い捨て、体力と年齢で切られる仕事で「なんとか食える」のかどうか……(~_~;)。
親が自分の学歴(や今の給与・保障ーー若い世代になればなるほどどんどん企業は切り崩す方針だーーをもとに、子どもたちもきっと同じ程度の労働と生活があると思い込み・決めつけているのではないだろうか。親の世代は今ほど学歴インフレがすすんでいないのだ。その点、見落としてはいないか。

念のため再確認を。特定のグループへの極端な美化は、極端に貶めることと同じ程度に、差別である。登校拒否・不登校はスクーリング(学校教育)からは脱け出した。だけど、スクリーニング(選抜)からは、まだ自由ではない。
それを、すべてから自由な存在であるかのように描くことは極端な美化であり、差別にあたる。
また、こうした、社会的排除のリスクの隠蔽は、親を利することがあっても、子を利することはない。
これは、多くの差別論・人権論のなかで、繰り返し言われてきたことの繰り返しにすぎない。はこの世の差別をなくす救世主ではない。女性は観音や聖母マリアじゃない。「障害」者は純真な天使じゃない。「不登校」も「若者」も、事情に変わりない。したがって、「不登校」だからといって、経済的な苦労がないわけもなく、「ちょっとした仕事」で親亡きあと、かんたんに食べていけるとはかぎらないのである。「不登校」をおとぎの世界の住人のように扱い、長くつづくプロセスでもある社会的排除を過度の対象の美化によって語りえぬものと化する親の作業は、元・「不登校の子ども」のひとりとして、重圧であった。
さように親のエゴが支配する「子と親の会」というのは、これは詐称ではないだろうか。


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プレカリアート・OFFやりました!

2006-05-01 17:37:15 | イベント/ミーティング
街中でプレカリアート! と叫ぶ

去る4/29、1:30より、プレカリアート・オフが大阪・梅田で開かれました。

阪急紀伊国屋のビッグマン前、画用紙に大きくOFFと描いたのを手にワタリは立っていました。非正規雇用等労働組合・ぼちぼちさんからお二人が。研究会・職場の人権や交通調査の仕事で知り合った方お一人が2:00までに到着。

集まった全員で「プレカリアート!」と大声で叫びました。

連休がはじまりお出かけ着で待ち合わせている人々は、すっかり行楽気分でしたが、自律性のある人間は、いい意味で他人のことを気にしません。ここでさる参加者の漏らした「無視されているよ」というセリフは、のちに「日本でもピクニックかデモかを同じ感覚で選べるようになればいい」「音楽やファッションと同じような感じで経済問題についても語れるようになればいい」という発言につながったのです。

ネットで探しておいたドトールコーヒーショップ・阪急かっぱ横町店までてくてく歩く。各自注文した飲み物を口にしつつ、不安定雇用について意見や体験を話し合いました。


対話

段取り不足により、参加者にはご迷惑おかけしました。それでも、互いに仕事や・職・雇用・労働・失業その他について、各人の意見が言える場所を設定できたのはプラスでした。
また、参加者の構成も多彩でした。正規雇用・非正規雇用・学生がそろったのです! フタを明けると、非正規雇用だけではなかったのです。これは主催者側にはうれしい誤算でした。立場を超えた連帯。こうやってたまには待ち合わせてお茶をすすりながら仕事や生活や組合についておしゃべりすることから始まるのです。


もちろん、雑談や漫談ではダメです。真剣さと客観性のある話でなくてはいけません。互いに尊重しあうなかで、言葉が自然発生的に湧き出すのをさまたげるような硬直した教条主義はダメです。上から下へ知識を注ぎ込むような権威主義や、思考停止をうながす一方的な演説や説教であってはなりません。互いの関係のなかで、問題の浮き彫りにすること。自由と自主を重んじること。
今回のオフ会は、そういったすべての要素を満たしてはいませんでした。どうやって組み立てていけばいいのか、これからの課題です。

連絡・連携

たまたま出席した人すべてが「研究会・職場の人権」つながりでした。ひとりは労働争議経験者。ふたりは労働組合のアクティヴィスト。もうひとりは失業フリーターにしてブロガー。ということで、行けなかったイベントや定例会の話題を互いに提供することもできました。「フーン、あそこの定例会はこのあいだ誰がどんな話をしていたのか。」「あれっ、今度定例会に出る予定のこの人たちをご存知なんですか?」「へー、今度大阪・京都でこういう催しもあるんですか」というあんばい。
ひとりですべてのミーティング・イベントにも参加することはできない以上、時折報告会をやるのもいいな、と思います。労働法にせよ、違反への対処法にせよ、他の組合や労働行政がどんなことをやっているかもわかったほうが、個人にとっても組織にとっても役に立つのではないでしょうか。

反省と展望

はげしく反省するところがあります。資金不足にて、予定していたおみやげの資料、用意できませんでした。また、司会役としてあれも質問して答えてもらおうと思っていたことの大半を言い出しかねました。
政治や宗教の話も、つらい立場なら関わるのは仕方がないと思って黙認したのですが、そうすると押しの強い人がひとり演説をしてしまい、他の客観的な話や多彩な体験・意見が出なくなってしまいます。これからは、経済政策に関わること以外の政治、とりわけ政局の話は遠慮するように、決まりを作らないといけません。
こうした会合が、大阪の北だけではなく南でも、三宮でもあればいい。京阪神3つだけではなく、大阪の中でも南大阪とか東大阪といったエリアごとに集まって互いにはげましあったり、知恵を分かちあったり、自分たちの言葉が立ち上がるゆりかごになってほしい。そう思わずにはいられません。


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