幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「聖書の天地」犬養道子著 ”行け、地の涯までも。わが言葉を宣べつたえよ”

2016-03-16 03:21:04 | 本の紹介
「行け、地の涯までも。わが言葉を宣べつたえよ」と地上最終のときイエスがのこした言葉に忠実にしたがって、「宣べ伝える」ためには、イエスの教えを直接に聞いた弟子たちが出来るだけ忠実にまとめ、「これはこういう意味で主の唇に語られたのだ」と共同体の全員にしっかりと告げ知らする飛鳥があった。わらに、「主よ、主よと(口先)言うだけの者は、悪をなす者」
とのイエスの教えをかたく記憶にとどめて、教えを実際に、共に、生きようとつとめつづけた。

ところで自由と言うのは、したいことをし、気持ちのおもむくままに振舞うことではない。自由とは、まず第一にものごとをより善き善(の基準)に照らして選択する力である。ものごとが起こったときに、どう見るか、どう処すかを、たくさんの(可能性としてある)処し方の中からひとつ、えらぶ力である。あるいはものごとを方向づけてひとつにまとめる識別である。

全聖書は歴史である。
その日その日の無事に過ぎることだけに心をかまけて、青春の日はるかに望み見て、これをこそ生きようと心にきめ選びとったもっとだいじな何かをすっかり忘れてしまったのではあるまいか。

神が「わたしは在るもの」と。人間は「成る者(赤ん坊から子どもに、大人に・・・)であって、時や空間やその他もろもろの制限の中に生きる。

Culture(耕作ひいては文化)。Cultは礼拝(神を仰ぐこと)を意味する句。より高き者への礼拝の心があってはじめて、自然のもろもろを心もて愛し知をもて育くむ耕作・文化が可能だと告げる語である。
仰ぎ見る。愛しむ。愛す。助ける。それらのみ、最人間的な行為である。

言葉を聞いて、言葉で願う。対話がそのとき生じる。祈りとは実は「聞くこと」を中心とする対話である。

最初の創造は、神が言葉を語るのみでこと足りた。
第二の創造は、神の御言葉が「人となって、人の世に入って、われらのうちに(ナザレのイエスと言う、具体的な人間として)住まわれる」と言う、てまをかけてなされた。

愛は身代わりと言う愚をも喜んで行うのだ。

四福音書がイエスの奇蹟を巡って使用する単語は、セメイア、ディナミス、エルガ、の三つだ。すなわち、
(1)人の身心を蘇生させ、
(2)生の充満の方に導く、
(3)その行為のしるしとして、
(4)神ここに在すことと、その力とを啓示する。ひいては、神の何者であるか言わず語りに語り知らせる。それがイエスの奇蹟であり、その意義なのである。

聖書の天地がキリスト教を通し、われわれに差し出すのは「出会い」である。キリストとの出会い。キリストを中心とする人々(の集り)の出会い。ついに神の国での神との出会い。

マザー・テレサ
「愛の反対は憎悪ではない。(憎悪は相手に関心があるから心中に湧く。だから憎しみ合った二人が親友となると言う現象があらわれる) 愛の正反対は無関心である!」

ヴァチカン第二公会議
1)キリストとわれ、われと他者もろもろのパーソナル・コンタクト(出会い)を持つ人々のあるまりとして教会を解した点にある。
2)キリストに聞く、他者もろもろに耳を傾ける。
3)神の生ける言葉であるキリストの言葉を聖書の言葉を通して日々味わいつつ、味わいついたその言葉を「いま、ここで」実行に移すと言うダナミズムに、立ち返ろうとした点。
4)キリスト教徒と称しつつキリストの心を忘れて、過去多くのあやまちをわれわれは犯したと教皇ヨハネス23世が公言したこと。ああ、この一語で教会はは新生への道を踏み出し得たのだ。

感想
クリスチャンではないですが、聖書は学生時代に教会に通っていたこともあり、触れる機会がありました。
三浦綾子さんの本はほとんど読んでいたので、クリスチャンとしての生き方も自然に学ぶことができました。
犬養道子著「旧約聖書」はとても面白かったです。「新約聖書」も聖書を理解するうえで役立ちました。
この本もまた違った観点で、聖書を知ることができました。

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