幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「日本とイエスの顔」井上洋治著 ”日本の風土を背景にキリスト教を考える”

2018-01-30 01:09:24 | 本の紹介
人間は結局どんなことをしても人間を救うことなんかできないんだ、救いは神からだけ来るものなんだ。そう自分に言い聞かせながらも、やはりなんとなくあの善きサマリヤ人のたとえ話にでてくる(ルカ福音書10章30-37節)ユダヤ教の祭司やレビ人のように、傷つき倒れている人々の横を毎日通りすぎてしまっている自分ではないか、という思いに私は苦しめられていました。

永遠の生命-場になりきったイエスの教えなしには人間には無としてしか体験し表現しえない永遠の生命といった原事実が、イエスの教えを生きることによって初めて、神の愛の一つの合図(サイン)として受けとめられるようになるわけです。

聖書はいかに生きるべきかを教える実践指導の書であるということを記しましたが、その意味ではイエスの教えを伝える新約聖書は、無としか言いあらわしえない原事実が実は神の愛の語りかけ、合図という構造を持つものであることを私たちに気づかせてくれ書であるといえましょう。

トリスタン・イズ―物語は、孤児トリスタンと王妃イズ―の恋愛姦通物語です。道ならぬ恋のためにさまざまな迫害を受ける二人は、結局死においてしか結ばれないということと、2人で森の中で寝るときは二人の間に抜身の剣を置いておく、すなわち障害がなくなりそうになれば、情熱愛エロスを燃えたたせるために自分たちで障害を作っている点でしょう。

イエスの姿勢は、かくあるべしという規準をもって人を審くまえに、その人が哀しみと孤独のうちに背負って来た十字架を受けとめ、その人の心をそのあるがままの姿において感じとめる姿勢です。

彼(サマリヤ人)は、自分の用事よりも、掟にふれはしないかという恐れよりも、まずそこに倒れている一人の人間の苦悩と絶望感とを己に映すことができる人だったのです。
イエスにとって、隣人を愛するということは、その人の隣人となるということにほかなりませんでした。

子供が生々とした充実感を味わうことのできるのは、子供が保護されているというゆるぎない信頼感を持っているからであって、恵まれた子供は、自分が信じている大人から決して見棄てられないと思うからこそ、安心して遊び、また己にたのむところを得ることができるのだというのです。そして、信頼とは、前もって他者の誠実さを先取りすることであるがゆえに一つの賭けであって、まさにそのように自分の目を閉じることによって初めて明らかになる他者の側面というものが人生にはあるのだといっています。

“神はあなたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい”(ペテロ第一書5章7節)

“祈り”とは、人間が本来あるべき姿に立ちなろうとする心の姿勢であり、生命-場の働きかけを自分の心に聴きとり、それに任せきろうとする心の在り方にほかなりません。

安心があたえられるか、迷いがあたえられるかさえ、私たちは神に委ねてしまうべきものだと思います。

“念仏を信ずるであろう人は、たとい釈尊御一生の教えをよくよく学んでいようとも、一文不知の愚鈍んの身になりきって、尼入道のごとき無智のともがらとひとつになり、智者のふるまいをすてて、ただ一向に念仏するがよい”
(法然上人の“一枚起請文”のなかの一節、一部筆者)

念仏の行者の心がまえについてのおたずねであるが、南無阿弥陀仏ともうすほかには、あらためていうべき心がまえもなく、また、このほかに示すべき安心もないのである。・・・。ただ、愚かなる者の心にたちかえって、念仏されるがよいのである。南無阿弥陀仏。(時相の創始者 一遍上人 一部筆者)

“生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである”(ガラテヤ書2章20節)

イエスに従う者は、パリサイ派のように法の弁護者であるちょりも前に、まず人の哀しみを己の上に感じとる悲愛(アガペー)の心を持たねばならない。

感想
ウィキペディアより
1950年東京大学文学部哲学科卒業と同時に渡仏し、カルメル会修道院に入会。リヨン大学、リール大学で哲学、神学を学ぶ。1960年、東京教区の司祭となる。1986年から、日本人の心情でイエスの教えをとらえようとする「風の家」を主宰。

これまで、いろいろな教会に通いました。
犬養道子著「旧約聖書」「新約聖書」(この本はとてもよかったです)
三浦綾子さんの本はほとんど読みました。
キリスト教関係の本もいろいろ読みました。
学生時代、カソリックだった友だちから、遠藤周作著「沈黙」と「旧約聖書」を贈って貰いました。
でも、クリスチャンになっていません。
なのに、相変わらずキリスト教には関心を持っています。

そして今、井上神父のことを友だちに教えて貰いました。
井上神父のようなキリスト教の捉え方の方は初めてでした。
仏教の慈悲、キリスト教の悲愛(アガペー)。
これまでのキリスト教が身近になったように感じました。
井上神父をもっと知りたくなりました。
人との出逢い、本との出逢い、言葉との出逢い、それは生きている楽しみの一つなんだと思います。
井上神父の本を図書館で何冊か借りました。
楽しみです。

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