幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「生きる力 森田正馬の15の提言」帚木蓬生著 ”生きることが楽になる”

2017-09-20 08:48:08 | 本の紹介
1)一瞬一生
 重荷があるなら、今の一瞬一瞬に命をかけ、重荷のひとつひとつを解きほぐしていけばいい。今の目の前の一瞬に、一生をかける。森田療法の真骨頂は、ここにあります。「前を謀(はか)らず、後を慮(おもんばか)らず」

2)見つめる
 よい文章を書く力は、どこから出てくるのか、それは、「見つめる」習慣から生まれます。「見つめる」行為が、頭脳を澄みきらせ、言葉に磨きをかけるのです。見つめよ、逃げるな、です。逃げず、緊張しながら、スピーチをすればいいのです。頭が真白になったり、声が上ずったり、声がふるえたり、顔が赤くなったりするかもしれません。それはそれで、そんな自分を見つめればいいのです。あれこれと考える必要は一切ありません。

3)休息は仕事の転換にあり
 細切れな仕事を毛嫌いせずに続けていると、時間の遣い方が上手になります。
 米国の有名な企業家の格言
  物を頼むときは、忙しい人に頼め。
  忙しい人には時間があるが、暇な人には時間がない。
 悩んでいる脳でいくら考えても、名案は浮かびません。森田が諭したように「迷いのうちの是非は、是非ともに非なり」で、悩んでいる頭で絞り出した結論が正しいはずがありません。歪んだ結論、見せかけの名案が浮かぶにすぎません。「身を常に忙しくする。休息は仕事の転換にあり」は、古代中国の教養書「大学」にいう「小人閑居して不善を為す。至らざる所なし」と見事に照応しています。まさに「休息は仕事の転換にあり」なのです。

4)外相整えば内相(心の内/心理状態)おのずから熟す
 胸の内に悲しみの種があっても、対外的にはいつも笑顔を絶やさず、普通の生活を全うしていくのと。悲しみを顔に出し、人に愚痴を言ったり、または反対に人の接触を断つのと、どちらが、悲しみの種を鎮めるのに効果があるでしょうか。外相まで悲しくしていて、いつの日か内相が自ずと悲しくなくなるなど、考えられません。逆に、外相を明るく振る舞い続けておれば、内なる相もいつの間にか明るさを帯びてくるのが道理ではないでしょうか。

5)いいわけ
 80歳の三味線のお師匠さんの言葉
 上手になるのは、もともと才能と素質がある人ですか、それともよく稽古をする人ですか?
 「素直な子です」
素直の反対はいいわけなのです。いいわけは、進歩の芽をことごとく食いつぶします。
 いいわけの3つの形
 ・「私がやったのではありません」で、その代表例が嘘です。
 ・「たいしたことではない」と事態を過小化する方法
 ・「それはそうですが、でも・・・」と前段階で自分の非を多少なりとも認めたうえで、「でもしかし」が常に強調されます。
「そうせざるをえなかった」、「魔がさしたのです」、「ついついほかのことを考えていたので」、「無我夢中でつい」が頻用されます。
 「いいわけ」のない「純な心」なのです。

6)目的本位
 森田正馬は、感情に基づき生き方を徹底的に排除しました。
 感情は、三つの特徴をもっています。
1)かげろうのように移ろいやすい。
2)何か行動すれば、感情は薄れるという事実です。
3)感情を繰り返し反復し、刺激していると強化されます。
 倉田百三は、気分が乗らない日が多く、原稿が書けないと悩みを訴えたのです。
 正馬の回答は、「気分などはどうでもよい。気分とは無関係に、ともかくも筆をとって、原稿用紙に向かいなさい」でした。「目的本位」はそうした心の動きはひとまず棚上げして、とにもかくにも出勤して、朝礼での発言をやり遂げる生き方です。「目的本位」で目の前の小さなやるべき事柄に手を出す。行動は、気分の解毒剤、絶望の防波堤なのです。

7)無所住心
 ゆったりと揺るがせて、どこか一点に集中させないようにするのです。
 一点に注意を集中させず、眼もどこかを見つめるのではなく、万遍なく、相手の総体に注意を払う、です。周囲のすべてのありさまに注意を払いつつも、心は何かひとつに固着せず、自由自在に変転します。
 「ハラハラドキドキ」しながら、目の前の事柄に手を出す。いうなれば、絶えず戦々兢々としている。周囲の万象に気がつき、しかも一点に意識は集中しない。心は水の流れるがごとく、自由自在に流転、かつ適応する。これが「無所住心」です。「無所住心」は、柔らかい自分をつくる妙薬といえます。

8)即
 「即」も文字は、人がひざまずいて食卓に即(つ)いているさまを表しています。今まさに食しようという状態です。ここから、(ただちに)という意味が生じました。
 自分の気持ちが、ある固定観念にとらわれたときには、「即」をつけて考えなおしましょう。ぐっと気が楽になります。心が広々、晴々してきて、新たな地平線が見えてきます。
生きていく人の姿を、幸か不幸かで概念分けしたとたん、本来の生の輝きが失われてしまいます。幸、不幸の二分法から、意識と行動を解き放してくれる言葉が、まさしく「即」なのです。森田正馬は、この「即」を頻用しました。浅い知恵でニセの二分法に惑わされている人の心に活を入れたのです。

9)なりきる
 森田正馬が事あるごとに説いた「なりきる」とは、あとさきも考えず、その場と一体化する状態を意味します。
 恐れや怯え、恥ずかしさなど、源になっているのは、記憶と欲望と理解です。
 記憶があると、自分の状態を過去と比較します。以前にステージで大失敗した体験を思い出して、今度こそは失敗は許されないと考え、ますます緊張します。
 欲望も敵です。自分よりも前に歌った人がなかなかの出来だった場合など、それよりはうまく歌おうと思いがちです。これがますます心をこわばらせます。
 理解すら敵になります。緊張しない方法をさまざまに工夫して、深呼吸したり、下腹に力を入れたり、脈をはかってみたり、客席を見ないようにしたり、暗がりで足踏みしたりします。その結果、上がらない努力のほうに神経が行ってしまい、一層緊張するはめになります。
 英国の精神科医ウィルフレッド・R・ビオン
  「治療者が自戒しなければならないのが、『記憶』『欲望』『理解』」
 舞台は恐い、足もふるえる、声もひきつる、それはそれでいいのです。恐くて、ふるえて、ひきつったままで舞台袖に立つより仕方ないのです。これが、「なりきる」です。
 弱い人間になればいいのです。弱くなりきればよいのです。弱い人間が、弱さを見せてどこが悪いのか。こう思うと、心も伸び伸びとして活発な働きをします。喜びさえも感じるようになります。
 正岡子規「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」
 「なりきる」のは、世界に自由にはばたくときの、通行手形なのです。

10)自然服従
 マザー・テレサはコルカタのスラムの貧しさのなかに神の意図を見出し、そこに服従する道を選んだのです。
 心配事は心配事として、その環境を受け入れて生きていくうちに、事態にも変化が生じてきます。雨天と同じで、心配事とて永遠に続きません。嫌な仕事がまわってきたのを自然だととらえて、服従したほうが、事は円滑に進みます。嫌な仕事も、夏が暑いのと同様で、受け入れるしかないと覚悟し、この服従のなかで、さまざまな工夫をするのです。
 服従は、奴隷のように屈服するのではありません。環境と境遇をひとまずは受け入れ、そのなかでもてる限りの力を集中し、創意工夫をする。一足飛びに環境と境遇を毛嫌いして、逃げ出すのではなく、これが当座の自分の天地だと心決めして、全力で生きていくのが正馬の言う「自然服従」です。

11)生の欲望
 他人よりも優れたい、より良く生きたいという生の欲望こそは、誰にでも備わっている天与の贈物です。どんな境遇にあっても、これを手放さないかぎり、七転び八起きで、へこたれずにすみます。たとえ「生の欲望」と、自分の置かれた現実との距離が大きかろうと、その差には圧倒されず、こつこつと距離を縮めていけばよいのです。
 何かにつけ、早く手を出す。その際には、何かを思い込む過程など、素通りしてもいいのです。手で考え、足で思うのは、決して陶芸家に限られた心理でなく、万人が実行すべき知恵です。
 確信など、ないのが当然です。自信や確信のないまま、前に進めばいいのです。

12)不安常住
 人生と不安は正馬は不安を毛嫌いもせず回避もしません。人は不安のうえに住んでいるのです。常住しているので、逃げるすべはありません。
 不安が異様にふくらみ、身動きできなくなる場合もあるでしょう。極限の不安の前で立ちすくみたくなるときだってあるでしょう。そのときは、不安と恐怖のなかに突入するしかありません。これが、正馬が「不安常住」とともに口すっぱく言い続けた「恐怖突入」です。
不安が訪れるたび、ビタミン豊富な食べ物が供されたと思って食べ、体力増強に努め、「恐怖突入」していきましょう。

13)事実唯真
 「ねばならない」は、気がつかないうちに人の思考のなかにはびこっています。自分のなかの「ねばならない」をひとつひとつ点検していくと、案外、それが根拠をもっていない事実に気づかされるはずです。
「事実唯真」のうえで毎日を過ごしていくと、無駄な動きをしなくてすみます。わざわざ時間をとって、何カ所もの病院通いをする必要もありません。
健康であらねばならないと、健康にとらわれ続けると、めまい、耳鳴り、頭重感はいよいよますばかりで、その人の毎日は、誰が見ても不健康そのものに成り下がってしまいます。

14)あるがまま
 森田療法の土台にある考えが、この「あるがまま」です。森田正馬はこの「あるがまま」を人生の根本に捉え、繰り返し説き続けました。大地や、そこに生きとし生けるものが「あるがまま」であるのに、人だけがなかなか「あるがまま」でおれないのはどうしてでしょう。
 他人からどう思われているか、人は誰でも気がかりです。しかしそればかり念頭に置いていると身動きがとれなくなります。よく思われようとして「はからい」のみに努力しているうちに、本当の自分自身がなくなっていきます。ここは、他人の眼など二の次にして、まずは「あるがまま」に振る舞っていくほうが、どれだけ楽かもしれません。そんな人のほうが日常生活で成果を上げ、他人の評価が高まるでしょう。「はからい」で小さく凝り固まるのではなく。「あるがまま」で伸び伸び行動できるからです。
 人生の途上では、何度も何度も行き詰まる瞬間が訪れます。ニッチもサッチもいかないときの、最良の解決策は、「あるがまま」です。

15)生きつくす
 生きるからこそ死ぬるのであって、生きなければ、死にもしません。こう考えれば、涅槃は「生きつくす」のと同じです。石にかじりついていくのが涅槃だというのです。
 もちろん、生きていく道は平坦ではありません。文字どおりの山あり谷ありです。天候だって晴天ばかりではありません。厳寒の雪の日もあれば、土砂降りの雨もあれば、向かい風に吹き飛ばされるようになる日だってあります。森田正馬「石に噛りついても、生きねばならぬ」と人に説きつつ、64年の人生を見事に生きつくしました。

感想
森田療法の実際の方法の本は読んだことがありました。
作業をすることを通して、精神的な病を治そうとの取り組みと理解しました。
作業をしていると、あれこれ考えることが減ります。
また、規則正しい生活を送ることで、身体のリズムも良くなっていくと理解していました。

この本は、森田療法の考え方がとてもよくわかる本でした。
この考え方は、精神的な病を持っていない人にもとても役立つ考えのように思いました。

前に、バリやフリー(共用品)の取り組みを障碍者と健常者が一緒に活動する団体に参加してました。
その時、弱視の方がスペインの視覚障碍者団体を訪問した報告されました。
人前で話は苦手とのことでした。
上がりながらも精一杯、交流の報告、感動したことを話されました。
それがとても、伝わって来て、心に沁み、感動しました。
上手い発表は、上手く発表することではなく、上がっていても精一杯伝えることなんだと思いました。
”なりきる/あるがまま”だったように思います。

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