goo blog サービス終了のお知らせ 

幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「マイ・ストーリー」ミシェル・オバマ著 ”教育が人を創り、自分の未来をよくしそして国もよくなる”

2020-06-16 09:54:54 | 本の紹介
ミッシェルはシカゴのサウス・サイド地区に生まれ育った。父は市の浄水場のボイラーの管理をしていた。裕福ではなかったが、両親の愛情を受け、教育を得る機会もあり、本人も努力をしてプリンストン大学、ハーバード大学ロースクールを出て、ミシガン州で弁護士の資格を取り、法律事務所に勤めた。
そこにハーバー大学のロースクールの学生だったオバマがインターンで訪れ、ミッシェルは彼の教育担当として出会った。オバマは大学卒業してボランティア団体で仕事を経験後にロースクールで学んでいた。

・「なんであなたって白人みたいなしゃべりかたをするの?」
 うちの両親は標準語を話す大切さを私たちに教え込み、単語の最後の“g”を省略したり、“isn’t”を”ain’t“と言ったりする黒人独特の話し方をしないように養育していた。

・賢い子どもたちを集めれば速いスピードで学習させられるというわけだ。その教育法は議論を呼び、あらゆる「ギフテッド教育」が本質的にそうであるように、民主的でないと批判を受けた。それでもこの傾向は全国に広まり、私もブリン・マーでの最後の三年間はその恩恵を受けた。

・「麻薬をなくせ! 希望をともせ!」
 「貧しいからといって夜に二時間テレビを消せない人などいないのです!」

・プリンストンにマイノリティ人種の学生はとても少なかったため、私たちはどこにいても目立ったのだろう。私はその弱みを上回る努力をするのが使命だと考え、周りのもっとも恵まれた学生たちに追いつき、なんとか追い越すために、できることはすべてやった。受験のときと同様、そのやる気の源に「今に見てなさい」という感情があったことは確かだ。

・バラクには興味をそそられた。それまでの恋人たちとまったく違うと感じたからだ。彼といるととても安心できたからだろう。バラクは惜しみなく愛情表現をする人だった。私をきれいだと言ってくれた。いつもいい気分にさせてくれた。

・彼は社会の大きな問題にこだわり、自分がそれをどうにかできるかもしれないという無茶な考えを抱いていた。

・母アン・ダナムは1960年、ハワイの大学に通っていた17歳のときにバラク・オバマというケニア人学生に恋をした。だが、二人の混沌とした結婚生活は短命だった。アンが結婚した相手にはナイロビにも妻がいたのだ。離婚後、アンはジャワ島出身の地質学者、ロロ・ソエトロと再婚してジャカルタに引っ越し、当時6歳だった息子のバラク・オバマも連れていった。
バラクの話によると、彼にとってインドネシアでの生活は楽しく、新しい父親とも仲良くやれたが、母親は学校教育について不安を抱いていた。1971年、アンは息子をオアフ島住む自分の両親に預け、そこの私立学校に通わせた。自由人の彼女は何年にもわたってハワイとインドネシアを行ったり来たりした。・・・。それでも、バラクは深い愛情を受けて育った。オアフで同居する祖父母は彼のことも異父妹のマヤも溺愛した。

・スザンヌ(高校時代の同級生で友だち)が病にかかって26歳で死んだことは、単に不公平という言葉では片づけられない。でも、それがどれほど残酷で醜い事実でも、事実であることには変わりない。スザンヌを残して病室を去る私の頭にあったのは、彼女がいなくなったのに私はまだここにいるという思いだった。

・父を亡くしたことで、いつまでもこの先の人生についてぼんやり考えている暇はないという焦りが強まった。父はわずか55歳で死んだ。スザンヌは26歳だった。そこから得られる教訓はシンプルだ。人生は短く、無駄にしてはいけない。・・・。自分は世界のためにもっと他のことができるはずだと思った。今こそ動くべきときだと。

・幸せについてくよくよ考えるのはお金を稼いでからよという母のアドバイスも常に頭にあった。

・大丈夫、とバラクは言った。君ならできるよ。一緒に乗り越えよう。

・カウンセラーは物腰が柔らかく区学歴の白人男性で、いつもカーキ色の服を着ていた。バラクと私の言い分を聞けば先生はすぐに私の訴えが正しいと認めてくれるだろうと予想していた。なぜなら、私の訴えは一つ残らずすべて完全に正しいと考えていたからだ。
このとき、私はカウンセリングというものについて重要なことを知った。どちらかの意見だけが正当化されることは決してなかったのだ。ウッドチャーチ先生はどちらにも味方しなかった。私たちの意見が食い違ったとき、決してどちらにも肩入れしなかった。その代わり、彼は親身になって忍耐強く私たちの話に耳を傾け、感情の迷路から抜け出させるために手を差し伸べ、互いへの攻撃を止めてくれた。私たちが弁護士的な考え方に陥るとそれをわからせ、ていねいな質問を投げかけて、なぜそのように感じるのかじっくり考えられるよう導いてくれた。何時間も話し合ううちに、もつれた糸は徐々にほどけていった。カウンセリング室を出るたび、バラクと私はお互いの絆が少し深まるのを感じた。

・一風変わった回り道をしてきた末に、彼はやがてこの瞬間を向明ける運命にあったのだろう(2004年民主党大会で基調演説)。

・バラクは17分の演説の中で、自分が何者なのか、ルーツはどこにあるのかを説明した。パットン将軍率いる陸軍に所属していた祖父のこと、戦時中には工場で働いていた祖母のこと、ケニアでヤギを世話しながら育った父親のこと、両親からあり余るほど注がれた愛情、裕福でもなく人脈もない家庭に生まれた息子に優れた教育がもたらしてくれるものを信じた両親の思いについて語った。熱心に、そして巧みに、自分はよそ者ではなくアメリカの歴史を体現するものなのだという印象を放った。私たち国民は普遍的な慈愛によって結びついており、みんなで社会全体をよくするほかないのだと訴えた。希望をもって悲観主義に打ち勝とうと呼びかけた。希望を語り、提示し、宝かに歌いあげた。

・「大人になってからの人生で初めて、私は真にこの国を誇りに思います」
この発言がどう都合よく曲解され報じられているかは、ニュースを見るまでもなく明らかだった・「彼女には愛国心がない。いつだってアメリカを憎んできたのだ。それが彼女の本当の姿だ。他はすべて見せかけにすぎない」というわけだ。

・私にとって、何かになるということは、どこかにたどりつくことでも、目標を達成することでもない。それは前進する行為であり、進化の手段であり、よりよい自分になろうと歩み続けることだ。その旅に終わりはない。

・これまでの人生で学んだものがあるとすれば、それは自分の言葉で語ることの力だ。私は真実を語り、不遇な人々の現実に光を当てるべく全力を尽くしてきた。

感想
教育がいかに重要かというのを改めて思いました。
そして米国ではそれがとても重要だということです。

学ぶ機会が得られたなら、それを生かすための努力をしていくことが自分の未来を明るいものにしていくのでしょう。
その希望を抱いて、どれだけ大切な時間を学びに費やすことが出来るか。

ファーストレディとしてやるべきことが多くあること。
また、一挙手一挙動が批判の対象になっているようです。
それをどう対処していくかが問われていました。

嘘でごまかそうとしたり、利権で自分たちが利益を得ることを考えている政治のトップとは本質的に違うのを感じました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。