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幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「ジュディ ガーランド」ディヴィッド・シップマン著 袴塚紀子著 ”愛に生きた人”

2020-05-31 01:01:01 | 本の紹介
・1922年6月10日~1969年6月22日(47歳没)

・1939年「オズの魔法使」

・1941年に最初の結婚、中絶。計5人と結婚、子ども3人

・2歳でショーに出たエピソードから最後までのジュディ・ガーランドの一生を、535頁の1ページが上下の29文字×24行×2段=1392文字で書かれています。

・2歳の時、姉二人とガムシスターズとして参加。フランシスの名前で。その後ジュディと。
ガムシスターズからガーランド・シスターズに。

・体形がスターに相応しくない(太り体質)とのことで、13歳頃から覚醒剤アンフェタミンを飲まされた。
アンフェタミンには副作用として食欲減退があったので。

・ジュディは甘いものが大好きだったので体形維持にかなり苦労した。

・当時、ダイエット薬にアンフェタミンが含まれていることを知っている者はほとんどいなかった。

・ジュディが飲んだ薬は食欲を減退させたが、ハイな状態での活動を増進させ、そのために、眠っているべき時間に目が冴えているのだった。それで睡眠薬を与えられる。そして目覚め、午前7時にメーキャップ部に着いた時には夢うつつで反応も鈍く、また別な薬を与えられる、というありさまだった。

・MGMは「オズの魔法便」の映画化権をゴールドウィンから買ってドロシー役にジュディ・ガーランドを選んだと発表された。

・中絶、レスビアンも体験し、20歳で精神の治療を受けた。

・映画「若草の頃」出演 ミネリ監督

・ミネリ監督と再婚。ガーランドが結婚したかったもう一つの理由は、自分が必要とされたかったということが。
本人もしばしば言っていたことだが、彼女は金がなくても生きられたが愛がなくては生きられなかった。

・ミネリとの間に生まれたのが、ライザ・ミネリ(映画「キャバレー」)

・自殺未遂体験

・映画「スタア誕生」
 素晴らしい演技だったが映画会社ワーナーがガーランドのアカデミー賞受賞のためのPR活動をしなかったために、主演女優賞が取れなかった。

・お金がなくなり、女優としての仕事が減り、歌に活路を見いだした。
 お金のためにも多くのショーにも出た。

・カーネギー・ホールでのコンサートは「ショービジネス最高の一夜」と称され、収録したライブ・アルバムはグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞。ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する(ウイキペディアより)

・それまでの薬とアルコールにより急性肝炎に。
肝臓が普通の4倍にもなっていて、医師は彼女の余命は5年とみた(1959年)。

・ニューヨークタイムズでヴィンセント・キャンピー
「彼女の死に関する最大のショックは、その死がいささかもショックでなかったということだ。
「どうして彼女はそんなに生き永らえたかと訝(いぶか)られるばかりであった」

・ニューヨークのキャンベル葬儀場で二万一千人いzy9おうのひとびとが蓋を外した柩の傍らに列をなして次々と進み出たとき、彼女の最後のアンコール出演になった。ジェームズ・メイスンが弔辞を述べ、その中でライザ・ミネリの言葉をこのように引用した。
「人生に対する愛ことが母にあらゆる苦難を乗り越えさせてきたのです。彼女には中庸は全く不向きで、退屈なものでした。彼女は最高にエキサイトすることを望みました。彼女がハッピーな時は、単にハッピーだったのではなく、有頂天だったのです。そして彼女が悲しいときは人一倍悲しかったのです」。

感想
映画「ジュディ 虹の彼方に」が上映されました。
「オズの魔法使」の可憐な姿しか知りませんでしたが、すごい人でした。
そして素晴らしい演技と歌唱力を備えた人でした。
「オズの魔法使」のドロシーだけの人ではありませんでした。

小さいときにやせ薬として飲まされた薬の影響でずーっと苦しめられた人生でした。
その中で素晴らしい花を咲かせましたが、晩年は多くの人が彼女の薬による奇行(時間を守らない、ドタキャンなど)が増え去っていきました。

ジュディ・ガーランドさんの人生そのものが、スタアだったと思いました。
そして最後まで愛に生きた人だと思いました。
彼女は永遠に多くの人の記憶に残り続けるでしょう。

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