・精密に認識した部分の心理をもう一度全体とのつながりのなかで検証する眼をもっていたら、どれほど多くの悲劇を避けることができたのであろう。これも分業社会がかかえこんだ難問だといってよい。
・アダム・スミスは、分業は経済社会をゆたかにすると言ったが、内田義彦は、分業が人間社会をゆたかにするためには何が必要かを問う。物にあふれかえった社会であっても、生き生きとした人間関係がなかったら、所詮それは貧しい社会ではなかろうか。
・お医者さんがカンカンになって怒っているんです。「胃のレントゲン検査をやるので、今朝はご飯を食って来てはいかん。と言ったのに、パンを食って来たという奴がいて・・・。非常識にもほどがある」と言って、カンカンになって怒っている。その時はぼくもたしかに「非常識だ」と思って笑ったんです。ところが、あとでその患者さんと知り合いになったら、その患者さんもまたカンカンになって怒っていて、それにもまたわけがあることがわかった。
その患者さんは、小さな会社の社長さんで、パン食なんか大キライで、いつもご飯ばかり食べていたんだそうですが、先生が「明日は絶対にご飯を食って来てはいけない」というものだから、死ぬ思いで(笑)パンを食ってやって来た。ところが先生は意地悪で診てくれない、とこっちもカンカンになって怒っているんです。
・日常語で用が達せるかぎり、何も専門語を使う必要は全然ないのです。日常語だけではあいまいになって来るから、そこで<止むをえず>専門語を使う。
・巨人軍がどうしたというような下らんこともまた、普通の人の関心事の-大きな-一部であって、そういう思考と行動をしているさまざまな人々によって、社会は成り立ち、動いているわけでしょう。だからそこにこそ実は現実がある。
・いろいろな概念や概念装置がなければこの眼でモノは見えないし、へたに学問に凝ると、概念装置に溺れることがある。つまり、概念装置に目を奪われてしまって、日常見聞きする現実を学問的に認識することを忘れる。
・僧正と三人の隠者の話
https://shodoshimatest.hatenablog.com/entry/30385959
・方法は、知識を獲得しまた使うためにある。そのための方法であり、方法論であるはずだ。方法論が学問の最初にあるのは、それがないと学問がうまく進まぬからである。
1) 方法との出会いというか、学問の方法を知ることが自分の問題として自覚されてくる局面であり、
2) 学問的方法をどう生かすかという局面である、
・二つの眼で見る
同時代の曇った眼と、現代人の澄んだ眼の統一
後代からみた、よく見える眼と、同時代人のよく見えなかった眼の二つの眼で見なければ、アダム・スミスの人間像を描くことは出来ない。
・Forschungフォルシュング
森鴎外「日本語にはフォルシェングに相当する言葉がない。それは日本にフォルシュングの精神がないからだ。研究などというぼんやりした言葉は訳に立たない」
・アダム・スミスのインクワイアリーinquiry
「尋ねる」という「研究」以前のごく日常的な面、「研究」をこえて哲学に近づく面、インクワイアリーという言葉に含まれるこの両方が「研究」という言葉からはみ出します。
・初心を貫くことの困難については、十分承知と、覚悟をきめておいて欲しい。
感想;
生きることは学ぶこと。
学ぶことも生きることなのでしょう。
学ぶには学ぶ姿勢と方法があるようです。
経済学や芸術などの幅広い学びも人生に必要なようです。
・アダム・スミスは、分業は経済社会をゆたかにすると言ったが、内田義彦は、分業が人間社会をゆたかにするためには何が必要かを問う。物にあふれかえった社会であっても、生き生きとした人間関係がなかったら、所詮それは貧しい社会ではなかろうか。
・お医者さんがカンカンになって怒っているんです。「胃のレントゲン検査をやるので、今朝はご飯を食って来てはいかん。と言ったのに、パンを食って来たという奴がいて・・・。非常識にもほどがある」と言って、カンカンになって怒っている。その時はぼくもたしかに「非常識だ」と思って笑ったんです。ところが、あとでその患者さんと知り合いになったら、その患者さんもまたカンカンになって怒っていて、それにもまたわけがあることがわかった。
その患者さんは、小さな会社の社長さんで、パン食なんか大キライで、いつもご飯ばかり食べていたんだそうですが、先生が「明日は絶対にご飯を食って来てはいけない」というものだから、死ぬ思いで(笑)パンを食ってやって来た。ところが先生は意地悪で診てくれない、とこっちもカンカンになって怒っているんです。
・日常語で用が達せるかぎり、何も専門語を使う必要は全然ないのです。日常語だけではあいまいになって来るから、そこで<止むをえず>専門語を使う。
・巨人軍がどうしたというような下らんこともまた、普通の人の関心事の-大きな-一部であって、そういう思考と行動をしているさまざまな人々によって、社会は成り立ち、動いているわけでしょう。だからそこにこそ実は現実がある。
・いろいろな概念や概念装置がなければこの眼でモノは見えないし、へたに学問に凝ると、概念装置に溺れることがある。つまり、概念装置に目を奪われてしまって、日常見聞きする現実を学問的に認識することを忘れる。
・僧正と三人の隠者の話
https://shodoshimatest.hatenablog.com/entry/30385959
・方法は、知識を獲得しまた使うためにある。そのための方法であり、方法論であるはずだ。方法論が学問の最初にあるのは、それがないと学問がうまく進まぬからである。
1) 方法との出会いというか、学問の方法を知ることが自分の問題として自覚されてくる局面であり、
2) 学問的方法をどう生かすかという局面である、
・二つの眼で見る
同時代の曇った眼と、現代人の澄んだ眼の統一
後代からみた、よく見える眼と、同時代人のよく見えなかった眼の二つの眼で見なければ、アダム・スミスの人間像を描くことは出来ない。
・Forschungフォルシュング
森鴎外「日本語にはフォルシェングに相当する言葉がない。それは日本にフォルシュングの精神がないからだ。研究などというぼんやりした言葉は訳に立たない」
・アダム・スミスのインクワイアリーinquiry
「尋ねる」という「研究」以前のごく日常的な面、「研究」をこえて哲学に近づく面、インクワイアリーという言葉に含まれるこの両方が「研究」という言葉からはみ出します。
・初心を貫くことの困難については、十分承知と、覚悟をきめておいて欲しい。
感想;
生きることは学ぶこと。
学ぶことも生きることなのでしょう。
学ぶには学ぶ姿勢と方法があるようです。
経済学や芸術などの幅広い学びも人生に必要なようです。
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