幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「止まった時計」松本麗華著 "オウム麻原彰晃の三女ということで、社会からも拒絶される中で生き、それでも父を信じたい子ども心”

2023-02-07 01:44:00 | 本の紹介
・父が逮捕されると、お父さんっ子だったわたしはその喪失感に耐えられず、自分でも気づかぬうちに現実から乖離していき、わたしの中の時間を止めてしまいました。そして、ずっと父が帰ってくるのを待っていたのです。
 私が現実から目を背けているあいだに、「三女・アーチャリー」のイメージは拡大し続けました。また、教団内でも「アーチャリー正大師」という別人格が作り上げられました。

・幾度も失いそうになった生きる気力を支えたのは、いつか父と再会できるだろうという思いでした。父から聞きたいことがたくさんありました。個人的なことだけでなく、事件当時何があったのか、なぜ事件が起きたのか、そのすべての真実を-。
 ところが、ようやく再会したとき、父はすでにわたしの手の届かぬ遠いところにいました。父の精神は完全に崩壊していたのです。

・わたしは、この本をノンフィクションとして書きました。・・・
客観的な資料を元に記憶を整理していく過程は、あるがままの自分にたどり着くための旅でした。自分自身、今まで虚像を実像の切り分けができていなかったのです。また、わたしには「逃れられない過去」があるのだとも教えてくれました。

・母は後年、自著『転換人生』の中で、「許容量をはるかに超える精神的葛藤に敗れた二十代に至って、心身の異常が目立ち始めました。神経症にかかってしまったのです」と告白しています。その後はタイ人・外出恐怖症を併発し、強迫神経症もひどくなっていきました。これには、1982年に薬事法違反で父が逮捕sれたことや、父が宗教にのめり込んで家に帰って来なかったことも関係していたようです。

・オウムの修行の最終的な目標は、この現実世界を超えた真実に到達することで、サマナたちはその目標に到達しようと激しい修行をしていました。現実世界を超えるには、この世界の価値を超越し、観念を壊す必要があります。よく、オウムは時を経るに従い「狂気」を帯びていった、という言い方がされましたが、社会の価値に重きを置かないという意味ではm、最初からオウムは「狂気」の教えだったと言えます。
 それでも、初めのうち「狂気」の割合は小さく、社会性もありました。そのばらんすがバッシングや終末思想によりだんだんと崩れていき、社会性がなくなっていったのだと、わたしは考えています。

・オウムの教えの要は、究極的には煩悩からの解放・悟りです。
 父は自分が達成した「解脱」が、当初は弟子の誰もが達成できるものだと信じていましたが、実際に指導してみると、思い通りの結果を出す者がおらず、だんだんあきらめていったのではないかという印象が、現在のわたしにはあります。
 解脱者がどんどん多くなって世界宗教となり、救済ができると真剣に考えていたのに、弟子の修行が思ったように進まず、人間はなかなか救われないという認識に変わっていったのではないかと。

・「内なる声」は、今から振り返ると統合失調症などの精神疾患によるものと見ることができるのではないか、とも思います。父は明らかに幻覚、幻聴があり、1993年ごろからは、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると本気で言っているように見えました。車に空気清浄機をつけ、ホテルに着けば、大真面目に目張りを指示しました。近くをヘリコプターが通れば、毒ガスだと言っていつも車に急いで乗り込んで退避するようになりました。

・あるとき、井上さんが父にしていた話は、「もうすぐ強制捜査が入るのは確実だ」という内容でした。井上さんはいろいろな情報網を持っており、警察関係者・自衛隊関係者からの話によると、抵抗した場合は皆殺しの指示がでているつということを話していました。
 この話のあと、父から強制捜査の時は「絶対抵抗するな。抵抗したら射殺されるから」と言われました。

・事件後しばらくして、村井さんの刺殺は、父を有罪にするための動きと関係しているのではないと考えるようになりました。父が関わったとされる事件のほとんどは、村井さんから実行犯の人に話が伝わっています。つまり村井さんしか、本当に父が関わっているかどうかを知る人はいません。村井さんに「事件はすべて自分が首謀した。自分が尊師の指示と偽って実行犯を騙した」と言わせないために、彼は殺されたのかもしれないと思っています。村井さんはそれほどに大きな存在でした。

・事件直後はすべてに心を閉したわたしですが、あれから二十年近くが経ちました。現在わたしは、こう考えています。
「尊師によく思われたい。尊師に褒められたい-」
これが、これらの大きな事件の構図において重要なキーワードだ、ということです。・・・
もちろん、父にも責任があります。・・・自信とサマナの関係の変容に対処しないまま、規模拡大を指向したことは、父の責任だったと思います。

・わたしは、えん罪が晴れて父が戻ってくるに違いないとも思っていましたし、不思議な力を使って出てきてもおかしくない。とも思っていました。

・小学校を卒業していなければ中学校に行けないということさえ知らなかったわたしは、<ああ、自分は何も知らないんだな、本当に無知で無力な存在なんだ>と痛感し、学校に行って学びたい、社会を知りたいという思いがさらに強まったのです。

・編入の学年を決めるためのテストをその場で受けることになりました。このころわたwしの小学校低学年の学力だったので、テストはとても難しく感じました。

・わたしが編入する学年は小学校五年であること、編入までに学校以外の施設で一か月間ほど、学校生活に関するオリエンテーションを行い、そこでの観察の結果は地域の人たちに報告することを告げられた
 わたしは、同じ年の子たちと一緒に学校生活を送りたいという希望を強く持っていたので、三学年も下の子のクラスに入ることになると聞いてがっかりしました。小学生五年生と中学二年生では、心も体も、違っています。それに、わたしのオリエンデーションでの生活状況が地域の人たちに公開されることに、<わたしは、モルモットなの?>と戸惑いを覚えました。
 結局、教育委員会と話し合った結果、自宅学習をすることになりました。学籍を作っておけば中学三年の年齢の秋に中学校卒業程度認定試験を受けることができ、その試験を受け手合格し、高校を受験すれば同じ年齢の人と高校生活を送れると思ったからです。このころから私は、翌年の試験に向けて、勉強を始めました。

・何が真実なのか、何が真理なのかわからない。一生懸命にやった結果も、うまくいかないことばかり。自分ではどうにもならない。このままでは気が変になってしまいそう。いや、もうなっているのかもしれない。
 このような価値のないわたしを早くなんとかしなきゃ。わたしが生きているからいけない。わたしが生きているのがいけない。そんな情動が、衛藤が、身体の中を駆け巡る。・・・
朦朧としながら、風邪薬の箱を開ける。もうこのままゆっくり眠るように死寝たらいい。一箱、二箱・・・五箱・・・。食べるように、飲む。吐いてはだめだ。そのまま意識がなくなった。
-死ななかった。
意識が戻ってしまった。
目が覚めたときは号泣した。なぜ死なせてくれなかったのかと。誰に対するわけでもない怒りが、絶望が押し寄せ板。薬の影響で腰が抜けたようになり、わたしは動けなかった。
その後、また意識がなくなった。意識が戻ると苦しくて悶えた。自分の身体が自分の身体ではない-。・・・
わたしは生と死の間をさまよい続けました。生きる道はどうしても見つからない。「今日は生きて、生きていたことを後悔したらどうしよう」そんなことばかり考えていました。父が逮捕されてから、生きていて良かったと思えた日はありませんでした。

・先行きについての方向性を見うなっていたある日、最後に願書を出した日出高等学校の通信制課程から合格通知が来、そのまま入学することができました。わたしと香山さんと川田さんと、飛び上がるほど喜び合いました。

・2003年3月、19歳んときに武蔵野大学(当時武蔵野女子大学)に合格しましたが、入学式の二日前、突然入学が拒否されました。この武蔵野大学の入学拒否で、わたしはどうしたらいいかわからず、茫然自失しました。それまでもわたしは社会で生きようとあがき、もがきましたが、もう社会の中で生きていくことは不可能ではないかと、絶望にうちひしがれました。

・2004年2月、和光大学、文教大学などいくつのかの大学に合格しました。わたしは去年のような入学拒否にあわないためにも、人づてに、何人もの教授がわたしを受け入れると話していたと効いた和光大学と、わたしが学びたい学部がある文教大の両方の入学手続きをしました。
香山さんに金銭面で負担をかけてしまうと思うと申し訳なかったのですが、香山さんも両方手続きするべきだと進めてくれたので、その言葉に甘えました。

感想
松本麗華さんは和光大学、文教大学も拒否され、裁判で勝訴し、文教大学入学卒業して今コンサルティングを学ばれているそうです。

麻原彰晃は幻聴と幻覚がひどくなり、何が事実か分からなくなり、それを周りも否定できずに問題を起こしたように感じました。

子どもを学校に通わせないのは百歩譲っても、子どもにきちんと教育を施していないのは親として子どもの将来を考えていなかったのでしょう。

オウムは大きな問題を起こしましたが、ここまで子どもの学校での受け入れを社会的に拒否するのは問題ではないかと思いました。
確かに不安はあるとは思いますが。
多くのオウムの犠牲者がいますが、子どもも犠牲者のように思いました。

そしてどんなことがあっても生きていかないといけないし、生きていける社会であった欲しいと思いました。

おかしな宗教団体であっても、人は騙されやすいことなのでしょう。
そしておかしな宗教を信じて、自分が犠牲になるだけでなく、人を犠牲にしていくのが人でもあるようです。
まさにそれが旧統一教会で再現しているように思いました。

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