・柳田邦男氏
私が人間の生と死という重大な問題について教えられることになる西川喜作先生を知ったのは、先生からの手紙によってだった。昭和54年10月のことである。・・・
転移による再入院となると、先生は大きなショックを受けているに違いない-私は、そう思いつつ読み進めるうちに、なぜ先生が私に手紙を書いてくださったのかを理解することができた。
先生は、入院した日に、私の『ガン 50人の勇気』を読まれ、その感想を私に次のように伝えてくださったのである。
『たとえ世界が明日終りであっても、私はリンゴの樹を植える』というゲオルギウの文章に、ガンが宿ってガンとわかった時以来、私の気持ちに似通ったものがあり、深く胸をうたれました。
国立がんセンター研究所長の杉村先生の『死とは、その人の人生が短期間にintegrate(インテグレート、集積)されて出てくるものではないか』という言葉は、私の心をこれ程強く打ち、励まし、力づけつつあるものはありません。・・・
残された私の時間、人生の経験をintegrateしながら、最善をつくしたいと決心しています。・・・
西川先生は、病床に独り臥しているよりは、車椅子を使ってでも、患者さんの治療に尽くす道を選んだ。・・・
私はいまにして思うのだが、西川先生が最後の三か月をかけて書き遺した本書は、先生が構想を抱いていた『死の医学』の“序章”の位置づけをもつものではなかろうか。それは“序章”であっても、西川先生自身の生と死が命がけのペンの運びによって刻まれているがゆえに、生きること死ぬことについて、あるいは現代の医学について、重要な問いかけを表明している。しかも、根底にいつも、精神科医として自らの心の動きまでをも見つめる冷静な眼がある。
西川先生は、母校千葉大学医学部の講義の中で、若い頃読んだフランクルの『夜と霧』を病を得てから再読した感想を述べていた。先生は、何十万何百万というユダヤ人が、ナチス・ドイツによって次々にガス室に送られていたあの強制収容所において、明日をも知れぬ極限状況に置かれながら、なお希望と愛の火を消さないでいる情景を描いている部分を取り上げ、「その情景の意味を自らがガンになってほんとうにわかるようになった」と、述懐していた。
若い頃には、大量虐殺の記録という面のみから、何気なく読み過ごしていた部分に、実は人間の生と死に関して重要な示唆が含まれていたのに気付いたというのである。おそらく先生は、死に直面しつつも、希望と愛の火を消さないで一日一日を生きていた人々の姿に、激しく心を動かされ、自らも遺された日々の中から「希望」という字を消すまいと決意したに違いない。その「希望」とは、一日一日を精一杯、密度濃く生きるのだという内実を作ったものであった。
・「まだ死ぬと決まったわけではないさ。もし前立腺ガンならあと二、三年は生きられる。それに手術で全部摘出できれば、死なないですむかもわからないよ」
私の言葉にも、妻は泣き続けるだけだった。
・私がナイトクリニックを始めたのはアメリカ留学から帰ってからすぐの唱和40年のことである。武蔵野病院でのそれに続いて市内にも開設したのだった。
・完全治癒を目的とする全摘出が難しいという意味ではないのか。とすれば私の場合すでに(前立腺)ガン摘出の“時”を失してしまったということにほかならない医師たる自分が自らのガンの発見をここまで遅延させてしまったとは。私は自信の愚かさを恥じた。それと同時に目の前が暗くなった。
・本当に除嚢手術を受けなければならないのか。受けなければ生命は保証されないのか。いやだ。ガンであることは認めよう。だが、手術はなんとしても辛いことだった。
果たして除嚢後の自分がどうなるのか。男であり続けられるのか。私にはまったく見当もつかない。
・思いきって丸山ワクチンを使ってみることにする。
・骨盤のレントゲン写真だった。
「ここと、ここ。やっぱり出ていると思えるのです・・・」
石川医長の言葉は最後まで続かず途切れてしまった。いや、私の耳にだけきこえてこなかったのかもしれない。
・私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私には何故、この素晴らしさを感じ取れなかったのか。
・だが出勤せず家に閉じ籠っているのは辛い。出勤して患者を診療し、書物や書類に接している方が私には楽しかった。単なる気晴らしということではなく、患者に接すると、勇気が湧いてくるのだった。
・除嚢手術の傷はとりたてていうほどのことはなかった。だが乳房が大きくなり、下腹部の脂肪沈着が目立ってきた。ひげも伸びなくなっていた。どれもが女性ホルモンの影響だった。
・父(植木職人)は将来大学に進む気があるのなら学費だけは出してやろうと言ってくれた。ただし条件付きだった。財産は分け与えないこと、浪人はしないこと、そして国立大学にかぎること、が条件だった。
・戦争が終わっても陸軍に召集され、中国大陸に渡っていた兄、喜太郎の消息は不明のままだった。敗戦後一年を過ぎて兄の元上官だったという人物から兄が昭和19年5月にフィリピンのルソン島で戦病死したことが伝えられた。父はがっくりきてそれがもとでうつ病状態になり、以後寝たり起きたりの身になってしまった。
父は私の結婚を待たず、昭和32年1月亡くなった。胃がんだった。
・市立総合病院に招かれる。看護研究会の看護学生の求めで講演した。与えられた演題は『精神科医よりみた看護のあり方-死にゆく患者の看護』という大そうなもの。
「ご事情を存じ上げながらこうしたテーマでお話しして下さいとお願いするのは心が痛みます」とS総婦長は死にゆく患者の看護について講演してほしいと言った。そしてこう続けた。「でもこのテーマでお話ししていただくのは西川先生が最適だと思うのです」
・私は死についてこうも考えている。人は尊厳のうちに適切な死を選ぶ権利がある。自殺する権利とか安楽死する権利があるということと違う。人はそれぞれ自らの人生の終りにあたってはそれにふさわしい死に場所で、望ましい死を望む権利があるということである。
人間とは勝手なものだ。元気な時には死に関して振り返りもしなかった。それがいまの私は「死」に関する本をむさぼり読んでいる。そして講演までしているのだ。なんとも皮肉なことだ。
・医師にしろ看護婦にしろ、患者を治してやるのではなく、生物としての治療過程と死の過程をよく見きわめ、病を乗り越え、病いを友とする気持ちを患者に持たせることができるように努力し協力し合っていかなければならない。
以上のようなことを喋った。市立総合病院での講演がきっかけとなり次から次と講演依頼が舞い込んでくるようになっている。私の話が役に立つならと、できるだけ応じることにしていた。
・人間の二大本能の性欲も食欲もなくなり、この二年間余りを生きて来た。そして左目を喪ってしまったいま、いつ残った右目も失うかもわからない。・・・
私は、いま少しも死を恐れていない。死と対座する自分の心にやすらぎさえ持ち始めている。死を見つめる己が心をいとしいと思う。何故にこうも死を恐れなくなったのだろうか。
多くの欲望を失い、発病前までは人一倍生への要求に満ち満ちていた私が、ここまで辿りつく道は長かった。とはいえ、再び死の不安に怯え、死への恐怖におののく日が来ないとも限らない。
だが今は、日々の残されたこの時間の貴重さが以前に増して理解できるようになっている。
昭和55年10月19日、国立千葉病院にて死去(昭和5年、東京に生まれ)
感想;
死の恐れがある病気になって真剣に死と向き合うのかもしれません。
私も38歳で胃がんになり胃を2/3切除しました。
この時少しづつ思いを強くしたのは、「時間は限られている。したいことを今しないと将来できる保証はない」と「周りの目を気にするより、自分の心の目を優先したい」でした。
それまで行っていた目の不自由な人への朗読ボランティアだけでなく、日本語ボランティアや遊びのボランティアなどにも手を広げていきました。
また苦手だということで避けていたことや新しいことを学ぶようにしました。
苦手(カラオケなど)
新しいこと(泥鰌掬い、腹話術、易占占いなど)
病気になったから、病気になったからこそ、見えてきた世界があります。
きっと病気にならなかったらその世界を見るのはもっと後か、あるいは見ずに終わっていたかもしれません。
どちらが幸せかは比較はできません。
片方しか経験できないのですから。
ただ、今これからの自分の人生をよりよくしていくかが問われているのだと思います。
悔やんで怨んで生きるか、受入てできることを考えて一つひとつ行っていくか。
ロゴセラピーでは「自分から人生の意味を問うのではなく、人生が自分に意味を問いかけて来る」と考えます。
まさに私には胃がん/胃の2/3切除だったのでしょう。
それで亡くなっていてもおかしくありません。
幸い生かされていると言うことに意味を見出して生きることなのでしょう。
西川喜作先生は亡くなられましたが、まさにご自分のことを多くの方々に伝えることで多くの医療関係者の心に大切なことを伝えられ、それは多くの人の心に灯火を与えられたと思います。
最後にこの本を執筆され、この本を通して死後も多くの人に大切なことを教え続けておられるのだと思います。
まさに西川先生は人生からの問いかけにYESと応えて最後の日まで努めて来られたのでしょう。
今生きていることの有難さ。
生きていることは当たり前なことではなく大きな感謝だと思って今を生きていくかが大きいのだと思います。
そのことをつい忘れてしまいます。
この本でそれを思い出しました。
胃がんになってからお酒とコーヒーを止めています。
飲まないことはその時それを思い出させてくれることにもなっています。
人生でできる体験は限られています。
書物などから疑似体験をし、生かすことができるかどうかが大きいのでしょう。
-ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)
この本は読もうと思い、つい後回しになっていました。
返却期限切れる前に延長したり、一度図書館に返却しまた借りることをしてずーっと積読状態になっていました。
ところがその延長をうっかり忘れてしまい、返却期限を過ぎてしまったため、優先順位を先にしました。
期限がないとなかなかできないです。涙
私が人間の生と死という重大な問題について教えられることになる西川喜作先生を知ったのは、先生からの手紙によってだった。昭和54年10月のことである。・・・
転移による再入院となると、先生は大きなショックを受けているに違いない-私は、そう思いつつ読み進めるうちに、なぜ先生が私に手紙を書いてくださったのかを理解することができた。
先生は、入院した日に、私の『ガン 50人の勇気』を読まれ、その感想を私に次のように伝えてくださったのである。
『たとえ世界が明日終りであっても、私はリンゴの樹を植える』というゲオルギウの文章に、ガンが宿ってガンとわかった時以来、私の気持ちに似通ったものがあり、深く胸をうたれました。
国立がんセンター研究所長の杉村先生の『死とは、その人の人生が短期間にintegrate(インテグレート、集積)されて出てくるものではないか』という言葉は、私の心をこれ程強く打ち、励まし、力づけつつあるものはありません。・・・
残された私の時間、人生の経験をintegrateしながら、最善をつくしたいと決心しています。・・・
西川先生は、病床に独り臥しているよりは、車椅子を使ってでも、患者さんの治療に尽くす道を選んだ。・・・
私はいまにして思うのだが、西川先生が最後の三か月をかけて書き遺した本書は、先生が構想を抱いていた『死の医学』の“序章”の位置づけをもつものではなかろうか。それは“序章”であっても、西川先生自身の生と死が命がけのペンの運びによって刻まれているがゆえに、生きること死ぬことについて、あるいは現代の医学について、重要な問いかけを表明している。しかも、根底にいつも、精神科医として自らの心の動きまでをも見つめる冷静な眼がある。
西川先生は、母校千葉大学医学部の講義の中で、若い頃読んだフランクルの『夜と霧』を病を得てから再読した感想を述べていた。先生は、何十万何百万というユダヤ人が、ナチス・ドイツによって次々にガス室に送られていたあの強制収容所において、明日をも知れぬ極限状況に置かれながら、なお希望と愛の火を消さないでいる情景を描いている部分を取り上げ、「その情景の意味を自らがガンになってほんとうにわかるようになった」と、述懐していた。
若い頃には、大量虐殺の記録という面のみから、何気なく読み過ごしていた部分に、実は人間の生と死に関して重要な示唆が含まれていたのに気付いたというのである。おそらく先生は、死に直面しつつも、希望と愛の火を消さないで一日一日を生きていた人々の姿に、激しく心を動かされ、自らも遺された日々の中から「希望」という字を消すまいと決意したに違いない。その「希望」とは、一日一日を精一杯、密度濃く生きるのだという内実を作ったものであった。
・「まだ死ぬと決まったわけではないさ。もし前立腺ガンならあと二、三年は生きられる。それに手術で全部摘出できれば、死なないですむかもわからないよ」
私の言葉にも、妻は泣き続けるだけだった。
・私がナイトクリニックを始めたのはアメリカ留学から帰ってからすぐの唱和40年のことである。武蔵野病院でのそれに続いて市内にも開設したのだった。
・完全治癒を目的とする全摘出が難しいという意味ではないのか。とすれば私の場合すでに(前立腺)ガン摘出の“時”を失してしまったということにほかならない医師たる自分が自らのガンの発見をここまで遅延させてしまったとは。私は自信の愚かさを恥じた。それと同時に目の前が暗くなった。
・本当に除嚢手術を受けなければならないのか。受けなければ生命は保証されないのか。いやだ。ガンであることは認めよう。だが、手術はなんとしても辛いことだった。
果たして除嚢後の自分がどうなるのか。男であり続けられるのか。私にはまったく見当もつかない。
・思いきって丸山ワクチンを使ってみることにする。
・骨盤のレントゲン写真だった。
「ここと、ここ。やっぱり出ていると思えるのです・・・」
石川医長の言葉は最後まで続かず途切れてしまった。いや、私の耳にだけきこえてこなかったのかもしれない。
・私はいま、生きることの素晴らしさを感謝している。いままで私には何故、この素晴らしさを感じ取れなかったのか。
・だが出勤せず家に閉じ籠っているのは辛い。出勤して患者を診療し、書物や書類に接している方が私には楽しかった。単なる気晴らしということではなく、患者に接すると、勇気が湧いてくるのだった。
・除嚢手術の傷はとりたてていうほどのことはなかった。だが乳房が大きくなり、下腹部の脂肪沈着が目立ってきた。ひげも伸びなくなっていた。どれもが女性ホルモンの影響だった。
・父(植木職人)は将来大学に進む気があるのなら学費だけは出してやろうと言ってくれた。ただし条件付きだった。財産は分け与えないこと、浪人はしないこと、そして国立大学にかぎること、が条件だった。
・戦争が終わっても陸軍に召集され、中国大陸に渡っていた兄、喜太郎の消息は不明のままだった。敗戦後一年を過ぎて兄の元上官だったという人物から兄が昭和19年5月にフィリピンのルソン島で戦病死したことが伝えられた。父はがっくりきてそれがもとでうつ病状態になり、以後寝たり起きたりの身になってしまった。
父は私の結婚を待たず、昭和32年1月亡くなった。胃がんだった。
・市立総合病院に招かれる。看護研究会の看護学生の求めで講演した。与えられた演題は『精神科医よりみた看護のあり方-死にゆく患者の看護』という大そうなもの。
「ご事情を存じ上げながらこうしたテーマでお話しして下さいとお願いするのは心が痛みます」とS総婦長は死にゆく患者の看護について講演してほしいと言った。そしてこう続けた。「でもこのテーマでお話ししていただくのは西川先生が最適だと思うのです」
・私は死についてこうも考えている。人は尊厳のうちに適切な死を選ぶ権利がある。自殺する権利とか安楽死する権利があるということと違う。人はそれぞれ自らの人生の終りにあたってはそれにふさわしい死に場所で、望ましい死を望む権利があるということである。
人間とは勝手なものだ。元気な時には死に関して振り返りもしなかった。それがいまの私は「死」に関する本をむさぼり読んでいる。そして講演までしているのだ。なんとも皮肉なことだ。
・医師にしろ看護婦にしろ、患者を治してやるのではなく、生物としての治療過程と死の過程をよく見きわめ、病を乗り越え、病いを友とする気持ちを患者に持たせることができるように努力し協力し合っていかなければならない。
以上のようなことを喋った。市立総合病院での講演がきっかけとなり次から次と講演依頼が舞い込んでくるようになっている。私の話が役に立つならと、できるだけ応じることにしていた。
・人間の二大本能の性欲も食欲もなくなり、この二年間余りを生きて来た。そして左目を喪ってしまったいま、いつ残った右目も失うかもわからない。・・・
私は、いま少しも死を恐れていない。死と対座する自分の心にやすらぎさえ持ち始めている。死を見つめる己が心をいとしいと思う。何故にこうも死を恐れなくなったのだろうか。
多くの欲望を失い、発病前までは人一倍生への要求に満ち満ちていた私が、ここまで辿りつく道は長かった。とはいえ、再び死の不安に怯え、死への恐怖におののく日が来ないとも限らない。
だが今は、日々の残されたこの時間の貴重さが以前に増して理解できるようになっている。
昭和55年10月19日、国立千葉病院にて死去(昭和5年、東京に生まれ)
感想;
死の恐れがある病気になって真剣に死と向き合うのかもしれません。
私も38歳で胃がんになり胃を2/3切除しました。
この時少しづつ思いを強くしたのは、「時間は限られている。したいことを今しないと将来できる保証はない」と「周りの目を気にするより、自分の心の目を優先したい」でした。
それまで行っていた目の不自由な人への朗読ボランティアだけでなく、日本語ボランティアや遊びのボランティアなどにも手を広げていきました。
また苦手だということで避けていたことや新しいことを学ぶようにしました。
苦手(カラオケなど)
新しいこと(泥鰌掬い、腹話術、易占占いなど)
病気になったから、病気になったからこそ、見えてきた世界があります。
きっと病気にならなかったらその世界を見るのはもっと後か、あるいは見ずに終わっていたかもしれません。
どちらが幸せかは比較はできません。
片方しか経験できないのですから。
ただ、今これからの自分の人生をよりよくしていくかが問われているのだと思います。
悔やんで怨んで生きるか、受入てできることを考えて一つひとつ行っていくか。
ロゴセラピーでは「自分から人生の意味を問うのではなく、人生が自分に意味を問いかけて来る」と考えます。
まさに私には胃がん/胃の2/3切除だったのでしょう。
それで亡くなっていてもおかしくありません。
幸い生かされていると言うことに意味を見出して生きることなのでしょう。
西川喜作先生は亡くなられましたが、まさにご自分のことを多くの方々に伝えることで多くの医療関係者の心に大切なことを伝えられ、それは多くの人の心に灯火を与えられたと思います。
最後にこの本を執筆され、この本を通して死後も多くの人に大切なことを教え続けておられるのだと思います。
まさに西川先生は人生からの問いかけにYESと応えて最後の日まで努めて来られたのでしょう。
今生きていることの有難さ。
生きていることは当たり前なことではなく大きな感謝だと思って今を生きていくかが大きいのだと思います。
そのことをつい忘れてしまいます。
この本でそれを思い出しました。
胃がんになってからお酒とコーヒーを止めています。
飲まないことはその時それを思い出させてくれることにもなっています。
人生でできる体験は限られています。
書物などから疑似体験をし、生かすことができるかどうかが大きいのでしょう。
-ロゴセラピー(ヴィクトール・フランクル「夜と霧」)
この本は読もうと思い、つい後回しになっていました。
返却期限切れる前に延長したり、一度図書館に返却しまた借りることをしてずーっと積読状態になっていました。
ところがその延長をうっかり忘れてしまい、返却期限を過ぎてしまったため、優先順位を先にしました。
期限がないとなかなかできないです。涙