乳がんの手術。「この道より、我を生かす道は無し。我はこの道を行く」をモットーに。
大仏様が怖い。突然立ち上がるのではないかと思う。怒られるとすごく怖いが、怒っても愛情があふれている方。
体調はすこぶるよくて、着々と太っている。1年2か月の闘病を経て復活。
16歳の時、家族の反対を押し切って女子プロへ。引退後はタレント。夫の佐々木健介さんと一緒にTVにも。何があっても負けない強さをサワコさんに語る。
去年の11月終わりに復活した。同じ病気の人にできることは元気な様子を見せることが私にできること。闘病中に治った方が乳房再建した人が見せてくれた。それが元気になった。
1曲目は、女子プロの主題歌になった曲で、プロレスラーになりたい自分と重なった曲。 遠藤京子さんの「輝きたいの」
女子プロレスになりたい人が多かった。狭き門だった。埼玉の女3姉妹の次女だった。オテンバするすぎる子ども時代。どろ団子作って投げていた。男の子からやられたら中に石を入れて返してやるくらいだった。
ひいおじいさんとひいおばあさん、おじいさんとおばあさんがいた。ひいおばあさんがプロレス好きだった。プロレスのTVを見ていた。プロレスに対するイメージイマイチよくはなかった。友だちにプロレスが好きな同級生がいて仲良くなった。プロレスを見に行った。当時14歳。ソフトボールやっていた。そしたら、プロの人からプロレスラーになったらと言われた。そしてTV見たら、新人デビュー戦をやっていた。「これは大したことない。私でもできる」と思った。高校を中退して入門した。3,500人中10人募集の狭き門だった。おじいさんが大反対した。おじいさんから殴られるぐらい反対された。入ったら雑用。トイレ掃除は当たり前。睡眠時間も十分でなかった。寮でこき使われた。「夢があるとすごいです」。夢のためなら頑張れた。
どんどん鍛えられて強くなった。デンジャレスクイーンに。プロになって15年経過していた。20代前半。どんどん悪党になった。青は悪党。赤は善玉。青に行きたいと思ったが「赤に行け」と言われた。目が足れ目なので悪役の顔でないと。プロレス興行で「メキシコに行け」と言われた。メキシコに行くのは、日本で人気がなくなった人が行っていた。自分がそういわれてしまった。向こうに行ったら大悪党になった。日本人だけで悪党になった。それが嬉しかった。石を投げられたりした。ファンの声援が変わってきた。
夫健介はどこも良くなかった。つまんなかった。毎日毎日電話がかかってきた。「もしもし」。それ以降は沈黙。そして「北斗晶は本名ですか?」。本名であるわけない。また沈黙。そしたら「おいくつですか」と。沈黙が続くのでこちらか「いくつですか?」と尋ねたら、「いくつに見えますか」と。お前が年齢聞いてきて、なんと面倒くさいやつなんだと。電話がかかるのが深夜0時。そのうち、電話を待っている自分を感じるようになった。結婚相手には「素直で優しくて無口で私の言うことを聞く人」だった。ぴったりだなと思った。
全摘と言われた時、「全摘とは?乳首は?」と尋ねたら全部取ると。夫が「全部取ってください。命が優先ですから」と言ってくれた。
闘病中、イライラした。食器洗ってもまた食洗器を使っている。乾燥だけ使えばよいのに。味がわからなくて夫に尋ねたら「たぶん大丈夫」「たぶん大丈夫とは?」いらいらする。いつも通りの日常こそ元気の源。カートを押していた方が助かるのに、カートを押そうとしてくれて、言い争ったりと、それがよかった。家庭では髪の毛がないまま暮らしていた。笑いに適うものはなかった。
2曲目、「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」。中学生の時。いつかニューヨークに行って聞きたいと思った。それが去年チャンスができた。長男がアメリカの大学に行くので家族で行った。マディソンスクエアガーデンでプレーしたかった。バスケットの試合があるとのことで、チケット5万円もした。並んでいる時自分の夢を子どもに話した。しかし、直前でチケットが売り切れた。「ママの夢が叶わなかった」。入れなかった。息子が何度も励ましてくれた。「また来いということだよ」と。
やれるときにやれることはやることかな。また、いつか行ってやると思っている。
感想;
メキシコ行きは会社で言えば”左遷”。
しかし、それが転機となり、悪役レスラーとして人気が出ました。
乳がんという突然の病。
その病と闘い、病を体験したからこその人生を生きる。
人の人生は比較することは無意味です。
人それぞれ、人生からの問いかけは異なります。
その問いかけにどう応えて生きていくかなのでしょう。
そうすれば、その人の生きる道が輝くのでしょう。
大仏様が怖い。突然立ち上がるのではないかと思う。怒られるとすごく怖いが、怒っても愛情があふれている方。
体調はすこぶるよくて、着々と太っている。1年2か月の闘病を経て復活。
16歳の時、家族の反対を押し切って女子プロへ。引退後はタレント。夫の佐々木健介さんと一緒にTVにも。何があっても負けない強さをサワコさんに語る。
去年の11月終わりに復活した。同じ病気の人にできることは元気な様子を見せることが私にできること。闘病中に治った方が乳房再建した人が見せてくれた。それが元気になった。
1曲目は、女子プロの主題歌になった曲で、プロレスラーになりたい自分と重なった曲。 遠藤京子さんの「輝きたいの」
女子プロレスになりたい人が多かった。狭き門だった。埼玉の女3姉妹の次女だった。オテンバするすぎる子ども時代。どろ団子作って投げていた。男の子からやられたら中に石を入れて返してやるくらいだった。
ひいおじいさんとひいおばあさん、おじいさんとおばあさんがいた。ひいおばあさんがプロレス好きだった。プロレスのTVを見ていた。プロレスに対するイメージイマイチよくはなかった。友だちにプロレスが好きな同級生がいて仲良くなった。プロレスを見に行った。当時14歳。ソフトボールやっていた。そしたら、プロの人からプロレスラーになったらと言われた。そしてTV見たら、新人デビュー戦をやっていた。「これは大したことない。私でもできる」と思った。高校を中退して入門した。3,500人中10人募集の狭き門だった。おじいさんが大反対した。おじいさんから殴られるぐらい反対された。入ったら雑用。トイレ掃除は当たり前。睡眠時間も十分でなかった。寮でこき使われた。「夢があるとすごいです」。夢のためなら頑張れた。
どんどん鍛えられて強くなった。デンジャレスクイーンに。プロになって15年経過していた。20代前半。どんどん悪党になった。青は悪党。赤は善玉。青に行きたいと思ったが「赤に行け」と言われた。目が足れ目なので悪役の顔でないと。プロレス興行で「メキシコに行け」と言われた。メキシコに行くのは、日本で人気がなくなった人が行っていた。自分がそういわれてしまった。向こうに行ったら大悪党になった。日本人だけで悪党になった。それが嬉しかった。石を投げられたりした。ファンの声援が変わってきた。
夫健介はどこも良くなかった。つまんなかった。毎日毎日電話がかかってきた。「もしもし」。それ以降は沈黙。そして「北斗晶は本名ですか?」。本名であるわけない。また沈黙。そしたら「おいくつですか」と。沈黙が続くのでこちらか「いくつですか?」と尋ねたら、「いくつに見えますか」と。お前が年齢聞いてきて、なんと面倒くさいやつなんだと。電話がかかるのが深夜0時。そのうち、電話を待っている自分を感じるようになった。結婚相手には「素直で優しくて無口で私の言うことを聞く人」だった。ぴったりだなと思った。
全摘と言われた時、「全摘とは?乳首は?」と尋ねたら全部取ると。夫が「全部取ってください。命が優先ですから」と言ってくれた。
闘病中、イライラした。食器洗ってもまた食洗器を使っている。乾燥だけ使えばよいのに。味がわからなくて夫に尋ねたら「たぶん大丈夫」「たぶん大丈夫とは?」いらいらする。いつも通りの日常こそ元気の源。カートを押していた方が助かるのに、カートを押そうとしてくれて、言い争ったりと、それがよかった。家庭では髪の毛がないまま暮らしていた。笑いに適うものはなかった。
2曲目、「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」。中学生の時。いつかニューヨークに行って聞きたいと思った。それが去年チャンスができた。長男がアメリカの大学に行くので家族で行った。マディソンスクエアガーデンでプレーしたかった。バスケットの試合があるとのことで、チケット5万円もした。並んでいる時自分の夢を子どもに話した。しかし、直前でチケットが売り切れた。「ママの夢が叶わなかった」。入れなかった。息子が何度も励ましてくれた。「また来いということだよ」と。
やれるときにやれることはやることかな。また、いつか行ってやると思っている。
感想;
メキシコ行きは会社で言えば”左遷”。
しかし、それが転機となり、悪役レスラーとして人気が出ました。
乳がんという突然の病。
その病と闘い、病を体験したからこその人生を生きる。
人の人生は比較することは無意味です。
人それぞれ、人生からの問いかけは異なります。
その問いかけにどう応えて生きていくかなのでしょう。
そうすれば、その人の生きる道が輝くのでしょう。