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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

ヤン・ファン・エイク 「ファン・デル・パーレの聖母子」

2014-02-15 22:40:04 | 番組(美の巨人たち)


2014年2月15日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ヤン・ファン・エイク 「ファン・デル・パーレの聖母子」

「神の手」と呼ばれたファン・エイクの筆さばき。
円熟の域に達した彼の〈手〉が生みだした傑作《ファン・デル・パーレの聖母子》は、「絵画のバイブル」とも称えられた。

美術史家ゴンブリッチは画家をこう評している。

彼[ファン・エイク]の自然観察の執拗さと、細部に関する知識の正確さは群を抜いている
                          (『美術の物語』p.177)

ラファエル前派兄弟団の画家たちが霊感源を求めた〈ラファエロ以前〉の絵画のなかには、当然、ファン・エイクをはじめとする初期フランドルの画家たちも含まれる。
ゴンブリッチも書いているように、兄弟団の面々が嫌悪したのは、「ラファエロとその後継者たち」が「自然を『理想化する』こと、真実を犠牲にしてでも美を追求することを称揚した」ことであった(『美術の物語』p.389)。

対象を理想化せず、自然に忠実な描写を行ったファン・エイクらは、ラファエル前派の画家たちにとってまさに手本とすべき先達であった。

15世紀のフランドル地域では、毛織物産業が発達し、国際貿易も盛んになった。
経済の発展は市民の台頭を促し、結果として文化を支える基盤が厚くなる。

一般に、いわゆる〈芸術〉と、実利的な商業主義とは、なかなか相容れないようにも思える。
19世紀後半から世紀末にかけての「唯美主義」のスローガン〈芸術のための芸術〉(Art for Art's Sake)が、その典型である。

しかしフランドルの例をはじめとして、商業の潤いが文化発展のための基盤を用意する、という現象が広くみられることは否定できない。
商業都市フィレンツェで最初に花開いたルネサンスはもちろんのこと、17世紀オランダ黄金期の絵画しかり、産業革命以降にようやく〈国民画家〉と呼べる画家が誕生した英国しかり。

今回の放送で興味深かったのは、画面右の聖ゲオルギウスの盾に関する分析である。

これは余談だが、ロバート・ダウニー・Jr主演の映画「シャーロック・ホームズ」(2009)では、ホームズとワトスンがシェイクスピアの『ヘンリー五世』の一節を暗誦する場面がある(39分ごろ~)。

The game's afoot:
Follow your spirit; and, upon this charge,
Cry 'God for Harry [King Henry the Fifth], England and Saint George!'
             (Act III, Scene I)

さあ、獲物が飛び出した、
はやる心についていけ、突撃しながら叫ぶのだ、
「神よ、ハリー[ヘンリー五世]に味方したまえ、守護聖人セント・ジョージよ、イギリスを守りたまえ!」
             (小田島雄志訳)

ちなみに、"The game is afoot"という言葉は、現在BBCで第三シリーズまで制作された人気ドラマ「シャーロック」でもよく出てくる。
もちろん原作(「アベ農園」の冒頭)でも、ホームズがその言葉を口にしている。

"Come, Watson, come!" he [Holmes] cried. "The game is afoot. Not a word! Into your clothes and come!"
             ("The Adventure of the Abbey Grange")

「ワトスン君、おきたおきた!面白いことになってきたんだ。なんにもいわずに服を着て、ついて来たまえ」
             (延原謙訳 [『帰還』に収録])

閑話休題。

ファン・エイクの描いた盾には、画家自身の自画像と思われる人物が映っている。(下図【部分】参照)



番組内での説明によると、オランダ語で〈画家〉は、語源的に、〈盾を飾るもの〉を意味するらしい。

少し調べてみたところ、オランダ語では、〈画家〉は"kunstschilder"というようだ。

オランダ語はまったくわからないが、おそらく後半の"schilder"が"shield"(盾)の意味なのだろう。
となると、"kunst"は、"paint"あるいは"decorate"といったところだろうか。

はっきりしたことは言えないが、どうやらオランダ語の"kunst"には"art"の意味があるらしい(名詞だが)。(→参照

これ以上は、オランダ語に詳しい方に聞いてみないと分からない。

ファン・エイク。
「神の手」の緻密さは、〈ラファエロ以前〉にして、〈ラファエロ以後〉をも超越しているかのようだ。

テート美術館の至宝 ラファエル前派展―英国ヴィクトリア朝絵画の夢

2014-02-14 21:32:37 | 美術展


テート美術館の至宝 ラファエル前派展―英国ヴィクトリア朝絵画の夢
[英題:Pre-Raphaelites: Victorian Avant-Garde]
(森アーツセンターギャラリー、2014年1月25日~4月6日)
〔※以下、【】内は本展覧会「出品目録」に掲載されている通し番号を指す〕

昨日、展覧会を訪れた。

もう、言葉は要らない気がする。

英国美術の精髄。
「国宝」クラスの絵画の集結。

これだけの作品群を気前よく貸し出してくれたテート美術館に感謝するばかりである。(Wikipedia)

ロセッティ
    《見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)》(1849-50)【20】
    《ベアタ・ベアトリクス》(1864-70)【64】
    《プロセルピナ》(1874)【68】
ミレイ
    《オフィーリア》(1851-52)【6】
ハント
    《良心の目覚め》(1853-54)【41】。

まさに歴史を「切り開いてきた」画家たち。
上に挙げた傑作の数々は、その革新的な運動の息づかいをいまになお伝えている。

以下では、本展覧会で個人的に印象に残った画家とその作品を何点か挙げていきたい。

フォード・マドックス・ブラウン

本展覧会では、《ペテロの足を洗うキリスト》(1852-56)【21】をはじめとして、八点の作品が展示されている。
1月26日のブログ記事では、ブラウンの傑作のひとつといってよい《労働》(1852-63)について触れた。

風景画は除くとしても、大半の彼の絵画の特徴は、非常に多くの人物が描きこまれていることである。
《ペテロの足を洗うキリスト》しかり、《労働》しかり、《エドワード三世の宮廷に参内したチョーサー》(1850-68)【3】しかり。


[左:《ペテロの足を洗うキリスト》/中央:《労働》/右:《エドワード三世の宮廷に参内したチョーサー》]

《ペテロの足を洗うキリスト》に関しては、主題的に〈最後の晩餐〉へと続く場面にあたる。
〈最後の晩餐〉は、レオナルドの有名な壁画を挙げるまでもなく、個々の多様な人物表現に魅力があり、またそれゆえ画家の力量が問われる主題でもある。

フランスのカレーに生まれ、ベルギーで美術教育を受け、パリで画家修業をし、ローマでナザレ派の画家に教えを受けたブラウン。
ヨーロッパの各地を転々として技能を磨いてゆくなかで、多くの人に出会い、人物を捉える眼も鍛えられていったのであろうか。

ウィリアム・ダイス

ダイスの代表作《ペグウェル・ベイ、ケント州―1858年10月5日の思い出》(1858-60)【36】。
医者の父に影響を受け、科学への興味を深めていった画家は、敬虔なキリスト教徒でもあった。

本作の前景に描かれているのはダイスの家族である。
しかしこの作品は、決して「単なる」肖像画ではなく、また「ただの」風景画でもない。

図録の112頁にもあるように、「ダイスのより大きなテーマは、時間の経過についての深い思考であ」った。

悠久の時が流れる浜辺。
上空には彗星も描かれている。

本作の壮大な世界観にみとれていると、どうしても連想してしまうのが、フェルメールの傑作《デルフト眺望》である。
有名な話だが、2月4日のブログ記事でも軽く触れたように、20世紀を代表する小説家プルーストも『失われた時を求めて』のなかで、フェルメールのこの作品に言及している。

一応、並べておこう。


(左:《デルフト眺望》、右:《ペグウェル・ベイ、ケント州―1858年10月5日の思い出》)

ダイスの描いた壮大な世界観は、フェルメールのそれに勝るとも劣らない。
個人的には、今回の展覧会で一番印象に残った作品かもしれない。

ロバート・ブレイスウェイト・マーティノウ

我が家で過ごす最後の日》(1862)【45】。

まるで、ホガースの風俗画をみているようだ。
社会を風刺するユーモラスな眼差しと、「謎解き」(図版134頁)の要素。

ちなみにマーティノウは、「ホガース・クラブ」の会計係だったという。
思い起こせば、ホガースもまた、「十八世紀におけるアンチ・アカデミズムの代名詞的存在であった」。(『諷刺画で読む十八世紀イギリス―ホガースとその時代』271頁)

ホガースの代表作のひとつに連作《当世風の結婚》がある。
六枚から成る本連作の第二図と、今回のマーティノウの作品を比較してみよう。


[左:《当世風の結婚》第二図【部分】/右:《我が家で過ごす最後の日》【部分】]

二人の男性の姿勢と表情がどこか似ている気がするのは、果たして偶然だろうか。

感想としてはこんなところか。

今回言及した三名(ブラウン、ダイス、マーティノウ)は、(少なくとも)日本において、それほど知名度が高いとはいえない。
しかしその作品群は、少なからず興味深いものである。

他に印象に残ったものとしては、ロセッティの《ダンテの愛》(1828-82)【53】やバーン=ジョーンズの《夕暮れの静けさ》(1833-98)【71】といったところであろうか。

前者の作品(ロセッティ)に関していえば、もはやその世界観は、ラファエル前派も唯美主義も超えている。
モローやクリムトらが描き出した象徴主義の域である。

後者のバーン=ジョーンズの作品を一度見た人なら、誰でもレオナルドの《モナ・リザ》を連想するのではないだろうか。


[左:《モナ・リザ》/右:《夕暮れの静けさ》]

図録(188頁)でも両者の関連性を示唆している。

印象としては、レオナルドの「スフマート」以上に、バーン=ジョーンズの描いた画面は〈もや〉がかかっているようにみえる。
ファム・ファタール的な独特の魅力も備えているように思う。

それは懐古か、反逆か?

これは本展のキャッチコピーである。
ラファエル前派の運動がそのどちら寄りなのかという問題については、以前にもこのブログで触れた。

展覧会を観終えたいま、改めて書こう。

ラファエル前派の面々は、確かに〈ラファエロ以前〉に霊感源を求めた。
しかし彼らが何より望んだのは、〈変化〉だった。

保守的な画壇の体制を、内部から変えてゆくこと。

それは〈懐古〉などという生易しいものではない。
むしろ、きわめてエネルギッシュな運動であったはずだ。

だからこそ、「兄弟団」としての実質的な運動が数年で終わってしまったのであろう。

美と情熱。

ときに陳腐にも聞こえる言葉だが、彼らほど生き生きとその観念を体現していた連中はいないのではないか。

ラファエル前派が結成されるに至ったひとつの起源は、キーツの書簡(1818年12月31日)の一節に求められるという。

詩人は、ラファエロ以前の時代に制作された版画をみて、「完成品よりずっと素晴らしい」(even finer to me than more accomplish'd works)と称えた。
若き兄弟団の面々は、こぞって共鳴した。

続けて詩人が言った言葉は、ラファエル前派の作品、ひいては運動それ自体についてもあてはまるだろう。

「そこには、想像力を掻き立たせる豊かな余地があったのだ」(as there was left so much room for Imagination)。

*兎の象徴性*

2014-02-14 12:55:53 | 番外編


Daniel Tammet氏は"Different ways of knowing"と題されたTEDトークのなかで、英国ロマン派の詩人キーツの「聖アグネス祭前夜」の一節を引用している。

「野兎は寒さに震え、凍て付く草地を進みゆく」
"The hare limp'd trembling through the frozen grass"
                    ('The Eve of St Agnes' 3)

詩人はなぜ"rabbit"ではなく"hare"を用いたのか。
共感覚」をもつとされるTammet氏の分析は興味深い。

言われてみれば確かに、"hare"という単語は、耳で聞く限り、無意識に同音異義語"hair"を連想させる。
主体の脆弱性がいや増し、モノトーンな情景描写に緊張感を与えているという指摘は一聴に値する。

繊細な言語感覚をもつ詩人キーツが遺した印象深い〈兎〉の描写。

西洋絵画の歴史において、この動物には伝統的に様々な象徴性が付与されてきた。
ちなみにこのページのトップに貼り付けた画像は、ドイツ・ルネサンスを代表する(銅版)画家デューラーの手による"Young Hare"である。

岡田温司氏監修の『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』では、94頁から96頁にわたって、〈兎〉の伝統的な象徴性について解説されている。

まとめてしまえば、〈兎〉の象徴性は主に次の三つに大別される。

1. 多産、豊穣、好色(色欲)

・〈兎〉の繁殖力の強さに由来するもの。
・子孫繁栄の願いを込めて、祝婚用の絵画に描かれることも。
・美と愛の女神ヴィーナスの持物(アトリビュート)のひとつとされる。
・〈七つの大罪〉のひとつに数えられる〈淫欲〉とも結びつく。(参考:ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』p.56)

2. ダイアナの狩猟

・月と狩猟の女神ダイアナの持物(アトリビュート)のひとつが〈射止められた兎〉である。
・フランス・ロココを代表する画家ブーシェの《ダイアナの水浴》の画面右下には〈射止められた兎〉が描かれている。(下図参照)




3. 人間の臆病さ

・(とりわけ)中世において、〈兎〉に追われる騎士の図像は、人間の小心や臆病さの象徴であった。
・ゴシック期の教会のレリーフやステンド・グラスでは、〈剛毅〉の図像の対比として描かれることが多かったという。

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以下では、最初に挙げた「多産、豊穣、好色(色欲)」の象徴としての〈兎〉について、例を挙げながらみてゆきたい。

聖母マリアの足元に白いウサギが描かれていることがある。
これは、〈兎〉の象徴する「色欲」に、マリアの「純潔」が打ち勝つことを示している。

まず、ヴェネツィア派の代表格ティツィアーノの《兎の聖母マリア》をみてみよう。(下図参照)



次に挙げるのは、初期フランドルの画家ヤン・ファン・エイクの《宰相ロランの聖母》である。
よくみてみると、中央左の柱の下で、〈兎〉が押しつぶされている。(下図[部分]参照)



「色欲」を示す〈兎〉の例としては、以下の三点がわかりやすい。

・ルネサンス期の画家ピエロ・ディ・コジモの《マルス、ヴィーナス、キューピッド



・同じくルネサンス期の画家ピントゥリッキオによる《スザンナと長老たち



・ティツィアーノの《聖愛と俗愛



以前にこのブログでも取り上げた高階秀爾氏の『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術』では、51頁から54頁にかけて、ティツィアーノの本作について解説されている。

二人のヴィーナス。
画面向かって左の着衣の女性が「俗愛」、右側の裸体の女性が「聖愛」を示す。

「俗愛」の背後には〈兎〉がみえる。
一方で「聖愛」の背後では、〈兎〉が猟犬に追い立てられている。

先ほど触れた、「色欲」を打ち負かす「純潔」を表す聖母マリアのヴァリエーションのひとつといってよいだろう。
もっとも、本作ではマリアではなくヴィーナスになっているが。

〈兎〉の象徴性について、少し気になったのでまとめておいた次第である。

なお、〈兎〉の象徴性の歴史については、宮下規久朗氏の『モチーフで読む美術史』(34~37頁)やWikipedia の"Rabbits and hares in art"の項目でも解説されている。

興味のある方は参照されたい。

【森永】 名画も恋する 濃いリッチプリン

2014-02-11 21:40:51 | 番外編


この商品を紹介するために新たなカテゴリー(「番外編」)を追加した。

プリン。

恋と濃い。

モナ・リザ。

ググってみると他のヴァージョンもあるようだ。(→参考

確認したところでは、全三種類。

それぞれ画家と作品をまとめておくと・・・

1.プリン・・・レオナルド《モナ・リザ》(1503-06)

2.抹茶プリン・・・ダヴィッド《アルプスを越えるナポレオン》(1801)

3.杏仁豆腐・・・ルノワール《うちわを(捨てて杏仁豆腐を)もつ少女(1881)

アイスクリームをもつ自由の女神のヴァリエーションのようなものか。(→参考

プリン。

シャヴァンヌ展―水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界

2014-02-11 16:27:28 | 美術展


シャヴァンヌ展―水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界
[仏題:L'Arcadie au bord de l'eau―Le monde mythique de Puvis de Chavannes]
(Bunkamura ザ・ミュージアム、2014年1月2日~3月9日)

このブログではこれまで、「美の巨人たち」(テレビ東京)と「日曜美術館」(NHK Eテレ)で放送されたシャヴァンヌ特集に関して、それぞれ感想を綴ってきた。(→ 2月1日の記事同9日の記事

会期も折り返し地点を過ぎた今日、ようやく美術展を訪れることができた。
最近は美術展に行ってもポストカードを買うことは以前と比べてめっきり少なくなったのだが、今回は(なかなか日本語での資料が比較的少ない画家ということもあり)四枚購入した。

それぞれ、制作に着手した(とされる)順に並べてみよう。

1.《幻想》(1866)・・・大原美術館(岡山)蔵。原田マハ氏の小説『楽園のカンヴァス』冒頭でも言及されている。(リンク等詳細は2月9日のブログ記事へ)

展覧会場では本作品を評するにあたって「冷たい官能性」なる表現を用いていた。

キーツの珠玉オードのひとつ「ギリシア古甕のオード」の45行目にみられる表現「冷たい牧歌!」("Cold Pastoral!")に照らし合わせて考えてみると、まさに言い得て妙である。

2.《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》(1884-89)・・・本展覧会の目玉作品にして、シャヴァンヌ絵画の極致。

諸芸術の女神の擬人化。

シャヴァンヌ作品の画面構成におけるひとつの特徴は、〈水平方向〉と〈垂直方向〉の交差にある。

それらを仮に〈X軸〉と〈Y軸〉と呼ぼう。
本作品でいうと、〈Y軸〉はいいとして、女神たちの描写に関しては〈X軸〉が三本引ける。

つまり、こういうことである。



いくつかの素描に残る〈升目〉から判断しても、シャヴァンヌが画面構成に非常に気を配っていたことは確かだろう。
奥行きのない画面構成のなかで、この三つの〈X軸〉は、きわめて重層的な調べを奏でている。

また別の見方もできる。

中央やや右に集う五人の女神と一人の子ども。
彼女たちを中心として、スコットランドの国旗のように線が走っているともいえる。



たしかに、こうして画家が観る者の目を中心へと誘導しているという見方は可能だろう。

しかし展覧会場でも「偉大なる単純さ」(grand simplicity)という言葉が使われていたように、シャヴァンヌの画面構成は誘導的なものというよりはむしろ極力シンプルなものであったはずだ。

(参考までに...ドイツの美術史家ウィンケルマンの有名な言葉に「高貴なる素朴さと静謐なる偉大さ」(noble simplicity and quiet grandeur)というのがある)

個人的には、〈X軸〉三本の画面構成であると読み取りたい。

3.《古代の光景》(1885)・・・フランスのリヨンにある実際の壁画だと、《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》の左隣に設置されている。

会場の説明書きには、遠景に描かれている動物が、パルテノン神殿に彫られているそれを意識したものであるとあった。

その根拠が、右上で跪く男性。
彼は、パルテノン神殿建設に携わったフェイディアスであるとされる。

4.《羊飼いの歌》(1891)・・・上記《古代の光景》の画面右下に描かれている三人の人物群を抜きだした形の作品。

気になったのは、画面左上に小さく描かれている男性の姿。
どこかでみたことのある気がした。

なかなか思い出せず帰宅し、ググってみたところ、ヒットした。
レオナルドの工房の作とされる《バッカス》である。


(左:《羊飼いの歌》[部分]/右:《バッカス》[部分])

両者とも、腰に布を当て、杖(テュルソス)を左腕に抱え、上半身をやや左に傾けている。

おそらくレオナルド作品へのオマージュなのだろう。

ただ、シャヴァンヌ自身がレオナルドに関して何か語ったという記録については私は知らないので、あくまで推測の域を出ない。

それでも形態的類似性は確かに認められるといえよう。

購入した四枚のポストカードについてはこんなところか。

あとは展覧会全体を通しての感想を、(例によって)断片的に書いてゆく。

シャヴァンヌの理想郷のイメージ
多分にウェルギリウスの『牧歌』と『農耕詩』に由来するものである。
また『アエネイス』からの影響もみられる。

本展覧会名に関して[1]
まず「アルカディア」についてだが、展覧会を通してみて、やはりシャヴァンヌの描いたのは「ユートピア」というよりは「アルカディア」なのだろうと感じた。

後者の方が、静かで牧歌的性格が濃い。
また霊感源としてのギリシアのイメージも考えると、やはり「アルカディア」の方が、表現として適確なのだろうと感じた。

本展覧会名に関して[2]
水辺」のイメージに関しては、正直それほど印象に残らなかった。
しかしよくみると、確かに多くの作品に〈水〉が描かれている。

これは多くの画面の〈青さ〉にもつながることだと思うし、〈静けさ〉の要素にも関わってくると思う。

シャヴァンヌの〈静けさ〉とは、いわゆる〈無音〉ではない。
ちょうど、波の音のみが聞こえるために、いっそう〈静けさ〉を感じるように、ひそやかな調べが画面から聞こえてくるからこそ、〈静けさ〉を感じる。

その意味で、〈水〉あるいは〈海辺〉とシャヴァンヌ絵画がつながってくる。

また、もっと根源的なところを探れば、〈水〉自体が〈アルカディア〉に通ずる〈純粋さ〉のイメージを湛えたものであるということも十分あるだろう。

本展覧会名に関して[3]
タイトルに関しては、もう一点、「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ神話世界」という点に着目したい。

以前にこのブログで、モネの〈眼〉の話をした。(→ 2月1日の記事

モネの〈眼〉と同様、シャヴァンヌの〈眼〉もまた、単に対象を写し取るだけではない。
シャヴァンヌは確かに古典作品にインスピレーションを受けたが、決してその世界にとどまることはなかった。

シャヴァンヌは、古典を超えた、普遍的な世界観を求め、自らの〈眼〉を通して再構成された「アルカディア」を描いてみせた。

〈詩〉と〈絵画〉
シャヴァンヌの絵画をみていると、両者が「姉妹芸術」である、というのを身に染みて感じる。

先日触れた高階氏の著作の6頁にもあるが、参考までにまとめておくと...

シモニデス「詩は有声の絵(painting that speaks)、絵は無声の詩(silent poetry)」

ホラティウス詩は絵の如く」(Ut pictura poesis)

《休息》(通し番号11)
人体表現がミケランジェロあるいはルーベンスを思わせる。
簡素な人物表現がほとんどなシャヴァンヌにしては珍しい(実験的な?)作風。

晩年の作風
印象派のそれを思わせる。

―最後に―

忘れ去られた画家シャヴァンヌ。
19世紀末フランスにおける、ひょっとしたら「最大」の巨匠といっていいかもしれない。

この展覧会が「思い起こす」きっかけとなることを願う。