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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

世紀末 祈りの理想郷 ~ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ~

2014-02-09 11:46:43 | 番組(日曜美術館)


2014年2月9日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
世紀末 祈りの理想郷 ~ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ~
[出演] 島田雅彦氏(作家)
[VTR出演] 原田マハ氏(小説家)、姜尚中氏(政治学者)、エメ・プライス氏(美術史家)

以前に「美の巨人たち」(テレビ東京)でシャヴァンヌが特集されたとき、その放送回をみた感想をこのブログに綴った。(→2014年2月1日の記事
今回は今朝NHK(Eテレ)で放送された同画家の特集回について。

シャヴァンヌがいまでは(少なくとも日本では)「忘れ去られた画家」であることは前掲のブログ記事で触れた。
その事実と関係があってかどうかは知らないが、少し探したところでは、なかなか参考文献が見当たらない。

ゴンブリッチの名著『美術の物語』(ファイドン、2011)でも言及はみられない。
昨日のブログ記事でも触れた高階秀爾氏監修の決定版『西洋美術史』(美術出版社、2002)で、図像が一点(《眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ》、p.148)と記述が数行(p.149)あるくらいである。

また番組内でも紹介されていたが、原田マハ氏の小説『楽園のカンヴァス』でも物語の導入部分でシャヴァンヌ作品への言及がある。(→ 《幻想》[大原美術館(岡山)蔵])

もう一点付け加えるならば、イタリアの現代作家タブッキの最近の訳書『夢のなかの夢』では、カバー表紙にシャヴァンヌの《》の一部があしらわれている。
タブッキの作品の感想については、また時間のあるときに書こうかと思う。

タブッキの『夢のなかの夢』を訳者の和田忠彦氏は「批評的断片」(p.144)と捉えているが、(昨日のブログ記事同様)断片的に放送回の感想を書いていこうと思う。

・姜尚中氏のシャヴァンヌ評:〈孤独の影〉というよりは、〈薄明の静けさ〉。
的を射ていると思う。

・〈癒し〉の効果。
普仏戦争敗北を受けて描かれた一連の作品群。
言われてみれば、〈ヒーリング・ミュージック〉のような優しい調べが聞こえてくる気がする。

・ゴッホが共鳴したシャヴァンヌ作品の精神性。
内面を見つめ、掘り下げる〉という姿勢に惹かれたと推測される。

・先ほどの原田氏への言及のところで触れたシャヴァンヌの《幻想》。
この作品にみられるような〈青がかった〉色調が、ピカソの「青の時代」に少なからぬ影響を与えた。

・普仏戦争からの復興を目指して、という〈ピュア〉なところから制作に打ち込んでいった。

・蜃気楼のようだ。

・写実は〈ああ似ている〉で終わろうとも、抽象は想像力をかきたてる。

・シャヴァンヌは独学者であった。
レオナルドの例を挙げるまでもなく、独学こそが道を切り開くというのはひとつの真理である。

・伝統から革新へという道筋。

・シャヴァンヌ作品における〈秩序と配置〉。
シャヴァンヌに影響を受けたスーラが、同じくインスピレーション源としたいわゆる「エルギン・マーブルズ」の本質は、同二点にあった。

・〈静謐さと永遠性〉。
まさにキーツが「ギリシア古甕のオード」で謳い上げた主題に通じる。

Heard melodies are sweet, but those unheard
Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;
Not to the sensual ear, but, more endear'd,
Pipe to the spirit ditties of no tone:
('Ode on a Grecian Urn', ll.11-14)

聞こえる調べは甘美だが、聞こえぬ調べ
なお甘美である。故に優しき笛の音よ、その調べを響かせ続けよ。
感覚としての耳ではなく、精神のうちに
いとしい旋律なき調べを届けるのだ。

・島田雅彦氏はシャヴァンヌ作品を「化石」と評した。
化石は一度埋もれる。
そして発見後、価値がいや増す。

・日本の震災の話も出たが、壊滅的な状況に陥ったとき、人が求める道はしばしば原点回帰であったりする。
シャヴァンヌの場合は、それが「祈り」(受け入れること)として作品に表象された。
言ってみれば、「壁画」も「祈り」も、それぞれ芸術と生活の〈原点〉に他ならない。

・《貧しき漁夫》。
同時代の印象派(例えばルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》)の華やかさとは好対照である。

まだシャヴァンヌ展を訪れていないこともあって全体像が見えておらず、ゆえにとりとめのないまとめになった。

最後になるが、芸術新潮2014年2月号(この号自体の感想はまた後日になろうか)ではシャヴァンヌの特集記事が数ページにわたって掲載されている。

そのなかでも語られているように、シャヴァンヌの作品には「物語的な背景はない」(p.109)。
またシャヴァンヌの絵は、よく言われるように、画面構成としての〈奥行き〉がない。

こうした二軸によって表象される〈平面性〉はどこに向かうか。

物語(絵画)のうちではない。
観る者の〈内面〉である。

『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術』

2014-02-08 18:42:01 | 書籍(美術書)

(画像をクリックするとアマゾンへ)

ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術
高階秀爾
小学館
2014

神戸には「北野異人館街」と呼ばれる観光スポットがある。
明治期以降に建てられた洋風の建築が立ち並び、伝統的建造物群保存地区にも指定されている。

イタリア館やオランダ館など、様々な国の「異人館」が現存している。
なかでも英国館は、日本で初めてシャーロック・ホームズの部屋を再現したことで知られ、観光客の人気を博している。

私も数年前に訪れたが、天候が良かったこともあり、非常に美しい景観を堪能させてもらった。

異人館が立ち並ぶ街並みには、各国の輸入商品をそろえているグッズショップもある。
時間があった私は、ギリシア直輸入の品物を揃えている店に入った。

そこで購入したのが、トップの画像にも映っているミロのヴィーナスのレプリカであった。
土台部分を合わせ、大きさにして約20cm弱に縮小されたミニチュア版の彫刻である。

料金は確か3000円ほどしたのではなかったか。
懐かしい思い出である。

「ミロのヴィーナス」と聞いて思い出すことがもうひとつある。
以前に大学で、ギリシア美術史の専門家でおられる中村るい氏(訳書に『古代地中海世界の歴史』や『ギリシャ美術史―芸術と経験』がある)の講義を受けていたときのこと。

中村氏は(私の記憶が確かならば)次のように仰った。

「ミロのヴィーナスは、決して傑作ではない。」

曰く、ミロのヴィーナスが注目に値するのは、決してその完成度の高さに由来するものではなく、(言ってみれば)〈資料〉として〈貴重〉だからである。

現存する古代彫刻のほとんどはいわゆる「ローマン・コピー」である。
その一方で、ミロのヴィーナスはヘレニズム時代に作られたと推定され、いわゆる「グリーク・オリジナル」(Greek Original)に分類される貴重な彫刻である。

あたかも日本における(西洋)美術史研究の泰斗である高階秀爾氏の著作(『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?』)の主題を根本から否定するような発言である。
しかし、今回取り上げる著作における高階氏の論をたどってみると、実際には両者の考えの〈根っこ〉は同じなのではないかと感じた。

ちなみに書籍のタイトルには「ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?」とあるが、本(10章に分かれている)のなかで同彫刻を扱っているものは最初の一章だけである。
それはともかくとして、33-34頁にわたって書かれてある高階氏の論旨は以下のものである。

ミロのヴィーナスは、それ自体が「傑作」であるがゆえに「傑作」と呼ばれるにふさわしい、というのは本質を突いているとはいえない。
後世の芸術家は、ミロのヴィーナスを「造形表現の基本」として捉え、「傑作」であるかどうかのひとつの「基準」をミロのヴィーナスに求めた。

ミロのヴィーナスは、「その後のヨーロッパ美術を生み出す源泉となってきた」という歴史をもつ。
そして、その「歴史」が、ミロのヴィーナスを「傑作」にした、とみるのが妥当である。

ミロのヴィーナスそれ自体が「傑作」というわけではない、という点において、中村・高階両氏の見解は一致をみているといってよいだろう。

英国ロマン派の詩人たちの目を引き付けたのは古代ギリシア彫刻の〈断片性〉であった。
それに倣うわけではないが、以下に本の感想を〈断片的に〉書いていこうと思う。

・(p.40) ヴェロッキオの《キリストの洗礼》とボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》の構図的相関関係、興味深かった。

・(p.70) 農耕の神クロノスと時の神クロノスの歴史的混同。
名前だけでなく本質的な象徴性においても融合がみられるのはおもしろい。

・(p.72) クラナハの描いた《黄金の時代》。
画面左で輪になって踊る六人の姿は、マティスの《ダンス》を連想させる。

・(p.101) とりわけ「パリスの審判」を主題とした絵画にみられる人体描写の「決まりごと」、おもしろかった。
ルネサンス以降になると、必ずといってよいほど、三人の美女はそれぞれ異なる姿勢を取っている。
三つのアングルから「美」を描き出すということが、古代ギリシアにおける理想的な「美」の追究に通じるのである。

・(p.121) これ以前の箇所でも取り上げられていたのだが、「掠奪」や「凌辱」という主題に関して。
こうした主題は、どうしても「動的」になる。
まさにバロック絵画の面目躍如というべきか本領発揮というべきか、画題と画風が非常に「マッチ」していると感じた。

・(p.180-82) 「ピグマリオンとガラテア」の主題について。
両者の「力関係」(とでもいおうか)のバランスのヴァリエーションが、時代ごとに明らかに変わっているというのは興味深かった。
しだいに「ファム・ファタール」的要素が増していく様がよくわかった。

・(p.187) プッサンの《フローラの王国》。
「花」に関連したギリシア神話の登場人物が一堂に会した群像図。
おもしろい。
同時に付与されている白黒画像による説明もわかりやすい。

全体を通して感じたのは、読みやすさ、わかりやすさに優れているのは言うまでもないとして、とにかく高階氏のサンプル絵画の選択のセンスが秀逸である。

宣伝では「入門書」と謳われているが、ただ「わかりやすい解説書」というだけではなくて、その一歩先に広がる世界も垣間見せる書き方をしている。

新書にしては値が張るが、内容としては申し分ない良質の一冊である。

ザ・ビューティフル―英国の唯美主義 1860-1900

2014-02-08 16:10:11 | 美術展


ザ・ビューティフル―英国の唯美主義 1860-1900
[英題:Art for Art's Sake: The Aesthetic Movement 1860-1900]
(三菱一号館美術館、2014年1月30日~5月6日)

オスカー・ワイルドは「すべての芸術はきわめて役に立たないものである」(All art is quite useless)との一節で、彼の唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』の序文を締めくくった。

耽美主義の旗手であるワイルドのこの有名な言葉からもわかるように、19世紀初頭のフランスに端を発し、世紀後半から世紀末にかけて英国でも隆盛した美意識のもとでは、芸術はそれ自体のために生み出されるのが望ましいとされた。

こうした信条を端的に示すスローガンが、今回の展覧会名の一部にも含まれている"Art for Art's Sake"(芸術のための芸術)であった。

これは余談だが、ワイルドの同時代人であるコナン・ドイルを一躍有名にした彼の代表作「シャーロック・ホームズ」シリーズのなかで、ホームズは何度か"Art for Art's Sake"という言葉を口にしている。

私が確認した限りでは(ホームズへの言及も含め)三か所で記述がみられたので、以下に引用する。
[日本語訳と頁数に関しては、新潮文庫版(延原謙訳)に従う。]

芸術のために芸術を愛する者にとっては」シャーロック・ホームズは(...)いった。「細かなとるにたらぬもののなかにこそ、強い満足を汲みとる場合がしばしばあるものだ」。
["To the man who loves art for its own sake," remarked Sherlock Holmes, (...) "it is frequently in its least important and lowliest manifestations that the keenest pleasure is to be derived".]
―――「椈屋敷」(『冒険』p.342、'The Adventure of the Copper Beeches')

[ワトスン]「どういうわけでこんな事件に深入りするのだい?解決してみたって得るところなんかないじゃないか?」
[ホームズ]「ないだろうかね?仕事のための仕事さ。君だって誰かを診療するときは、料金のことなんか考えずに、必死に病気と取っくむだろう?」
[(*Watson) "Why should you go further in it? What have you to gain from it?"
(*Holmes) "What, indeed? It is art for art’s sake, Watson. I suppose when you doctored you found yourself studying cases without thought of a fee?"]
―――「赤い輪」(『最後の挨拶』p.109、'The Adventure of the Red Circle')

「私[隠居絵具屋]のような取るにたりない男で、しかも財産をすっかりなくしたばかりのところへ、シャーロック・ホームズさんのような有名なかたが、見むきもしてくださらないのは当然とは思っていましたがな(...)」。
そこで僕[ワトスン]は、資力のことなど問題じゃないのだといって聞かすと、[隠居絵具屋曰く、]「それはそうでしょう、あのかた[ホームズ]のは芸術のための芸術ですからな」。
[“I hardly expected," he (*the colourman) said, "that so humble an individual as myself, especially after my heavy financial loss, could obtain the complete attention of so famous a man as Mr. Sherlock Holmes."
I (*Watson) assured him that the financial question did not arise."No, of course, it is art for art’s sake with him (*Holmes)," said he (*the colourman)(...).]
―――「隠居絵具屋」(『叡智』p.248、'The Adventure of the Retired Colourman')

上の三つの引用をみてわかるように、ホームズは"Art for Art's Sake"という言葉を自らの職業(探偵)に当てはめて用いている。
実利よりもむしろ、事件それ自体を自らの〈報酬〉とするという態度である。

また19世紀末英国の芸術運動の一翼を担った人物といえば、ウィリアム・モリスの名も思い浮かぶ。
彼は、〈素朴(シンプル)〉で〈美しく〉かつ〈有益〉なもので生活を満たそうとした。

有益性を志向するという意味において、モリスの美意識は一見、ワイルドらの美意識(つまり、徹底的に実利からは距離を置くもの)とは相容れないようにも思える。
しかし『ユートピアだより』の記述にも窺われるように、モリスは商業主義を厳しく非難し、私有財産のない社会を理想とした。
ゆえに、両者は決して思想的に遠くない。

枕が長くなったが、昨日プライベート・ユートピア展と合わせて、唯美主義展もみてきた。
前者の感想に関しては昨日のブログ記事でまとめた。

展覧会場でも説明書きがあったが、唯美主義をテーマとした展覧会は、(少なくとも)日本では初めてのことだという。
断片的なものはこれまでもあったと思われるが、まとまったものとしては前例がないということだ。
したがって、展覧会を開くということそれ自体が、意義のあることだと思う。

内容としても、非常に目配せの行き届いた良質の構成だったように思う。
〈唯美主義〉の運動を網羅的に示すとなると、絵画作品だけでは不十分だ。
身近な工芸品("House Beautiful"や"Book Beautiful"という言葉もある)の展示も含めて、はじめて全体像が浮かび上がる。

唯美主義のシンボルのひとつが〈孔雀〉であることは以前に聞いて知っていた。
しかし展覧会場入ってすぐの説明書きをみると、加えてもう二つ挙げられるという。

力強い男性的な美を象徴するものとしての〈ひまわり〉。
思索的で女性的な美の象徴としての〈百合〉。

実際、各作品をみても〈孔雀〉と〈ひまわり〉と〈百合〉のイメージにあふれているのが目についた。
しかしやはりというべきか、〈孔雀〉のイメージが最も印象深く目に映った。

印象に残った作品(【】内は通し番号)としては、クリスティーナ・ロセッティの詩「ゴブリン・マーケット」に寄せた兄ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの挿絵(【20】)や、ジュリア・マーガレット・キャメロンの「《エルギン・マーブルズ》風に」(【43】)、シメオン・ソロモンの《月と眠り》(【130】)といったところか。

「ゴブリン・マーケット」に関しては、実際に書籍の形となったものをみることができたという喜び。

キャメロンの作品については、唯美主義の二大源流(ギリシアと日本)の存在をまざまざと実感した。

シメオン・ソロモンの絵画に関しては、原題をみても"Moon and Sleep"となっており特別言及はされていないが、(おそらく)明らかにダイアナとエンディミオンのヴァリエーションのひとつだろう。

雑感としてはこんなところか。

ちなみに今回、初めて美術展で「図版」を買った。
"Book Beautiful"の標語に恥じない、美しい装丁だった。
(図版のなかで川端康雄氏が「果たしてモリスは唯美主義者だったのか」という問いを立てて論じておられるのは、先ほど私がモリスについて触れた問題とも重なり、非常に興味深い。)

充実した内容の展覧会だったように思う。

プライベート・ユートピア ここだけの場所─British Council Collectionにみる英国美術の現在

2014-02-07 19:10:42 | 美術展


プライベート・ユートピア ここだけの場所─ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在
(※トップのタイトルは文字数制限の関係で一部を英語表記にしたことを断っておく。)
[英題:Private Utopia: Contemporary Art from the British Council Collection]
(東京ステーションギャラリー、2014年1月18日~3月9日)

宮島達男氏の近著『アーティストになれる人、なれない人』(マガジンハウス、2013)の表紙には、同書における対談者のひとりである茂木健一郎氏の次の言葉が載っている。

批評性を、それとは気づかせない形で忍び込ませるのがアート」。

ここでいう〈アート〉とは、とりわけ20世紀以降の現代アートのことをいうのだろう。

現代アートの出発点といっても過言ではないマルセル・デュシャンの《》は、いわゆる「コンセプチュアル・アート」といった枠組みのなかで一般に捉えられる。
この象徴的な〈事件〉からもわかるように、20世紀以降のアート界は、それ以前の"fine art"とそれ以外の"art"という、いわば「二次元」の芸術観を超克し、「三次元」の膨らみをもたらした。

英国に目を移せば、ターナー賞受賞作品をはじめとして、現代アート界には非常に活気がみられる。
有名な話だが、「生きる上で最も重要な素質はなにか」と問われたイギリス人は、しばしばこぞって「ユーモアのセンス」と答えるという。

〈ユーモア〉の本質とはなにか。
それは自己を客観的に捉える、いわゆる「メタ認知」の能力に他ならない。

対象を客観的に、すなわち〈第三者〉として捉える姿勢は、究極的に優れた〈批評性〉を生む。
英国の現代アート界が賑わっている理由の一端は、こうした彼らの「ユーモア」にあるのだろう。

少し話は変わるが、19世紀イギリスの文学者をみても、(ディケンズやテニスンらは措くとしても)ドイルやスティーブンソン、ワイルドらはみな、イングランド以外で生まれ、〈アウトサイダー〉として英国を眺めていた。
だからこそ、おそらく彼らは19世紀ヴィクトリア朝の繁栄の裏の社会問題を客観的に捉え、すぐれた作品を遺すことができたのだろう。

もっと歴史を振り返っても、いわゆる〈風刺文学〉の本質は、〈皮肉〉と〈批評〉を支える客観的な視線であった。
スウィフトしかり、エラスムスしかり。

ともかくも、本日訪れた、東京ステーションギャラリーで開催中の「プライベート・ユートピア ここだけの場所─ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在」展は、まさにいま、勢いづいている英国現代アート界の精華を結集させたものである。
先ほど言及した茂木氏も同展覧会を訪れ、所感を綴っておられる。(→参考

そもそも〈ユートピア〉とは、トマス・モアの著作を挙げるまでもなく、西洋文学の歴史に流れる重要な〈一流河川〉のひとつである。
Wikipediaの該当ページ(の"Etymology"の項目)にもあるように、"utopia"の頭の"u"には語源的に二つの含みがある。

"topia"に関しては"topos"="place"(場所)ということで問題ないのだが、"u"には"no"の意味と"good"の意味の両義がある。
実際、モリスの『ユートピアだより』も原題は"News from Nowhere"であり、また"good"の意味に関しては"eugenics"(「優生学」)の語源が同根として挙げられる。

つまり、〈どこにもない場所〉という意味と〈理想的な場所〉の二つのニュアンスが重ね合わされているのだ。

伝統的なユートピア文学における"u"の解釈としては上記の内容で問題ないと思われる。
しかし本日展覧会に赴いて作品をみていたところ、現代アートの表象した〈ユートピア〉を理解するにあたっては、従来の解釈では〈不十分〉な気がしてきた。

今回の展覧会のテーマである現代(アート)における「ユートピア」は、ある意味で〈作品〉という〈虚構〉の世界の話なので、"no"のニュアンスに関しては問題ない。

しかし"good"の方に関しては、慎重に考える必要がある。
むろん、ユートピア文学の歴史を振り返っても、全部が全部〈理想郷〉であったわけではない。
〈暗黒郷〉(dystopia)や〈反ユートピア〉(anti-utopia)というジャンルもあるくらいだ。

とはいえ、ギャラリーに展示されていたほとんどの作品の表象する〈ユートピア〉は、おそらくそのどれでもない。
単なる"good"というよりは、含みとしては"good?"(「これって、本当に〈理想的〉ですか?」)により近い、アイロニカルな響きをもつ作品が少なからずあったように思う。

現代アートは、いわゆる既成概念に対し、ときに疑問を投げかけ、ときに揺るがし、またときに亀裂を生じさせる。
様々な(加えてしばしば予想もつかないような)アングルを提供するのが、現代アートなのである。

展覧会のタイトルに関しては"private"のニュアンスに関しても触れておく必要があるだろう。
主催者側の〈意図〉に関しては展覧会場でも広告でも言及されていたので、今回はそれとは少し違った視点から、この語を現代アートの文脈に当てはめてみたい。

おおざっぱにいえば、19世紀までの(とりわけ)〈体制側〉の芸術というのは、作品の〈見方〉をしばしば一義的ないしは限定的に〈強要〉するものであった。
主題があって、それを読み解いて、...というのが、ある意味〈基本的〉な芸術鑑賞スタイルだったからである。

それが現代に至っては、かなり個人、すなわち"private"に委ねられる部分が大きくなってきたということだろう。
ピカソのキュビスムの究極形態といってもいい。
〈どこからみてもいい、どう捉えてもいい〉ということである。

ここで一点だけ具体的な作品に触れておこう。
このページのトップの画像の右端、"I'M DEAD"と書かれた看板をもつ犬の作品である。

デイヴィッド・シュリグリー氏によるこの作品をみて、ある作品を連想した。
有名な〈これはパイプではない〉の言葉が書き添えられているマグリットの絵画である。(→ "The Treachery of Images")

意図的かどうかはともかく、マグリットの絵画による二次元表現が、犬の剥製という三次元に移し替えられた形と捉えても無理はないだろう。
具体的な形をもったものが、同内容のアイロニカルな言葉を発していることで、より皮肉性、批評性が増しているように思う。

最後になるが、2007年に放送された福山雅治氏主演のドラマ「ガリレオ」第一シリーズ第六話 [「夢想る」(ゆめみる)] において、福山氏演じる湯川学が次のように語るシーンがある。

アイザック・ニュートンが、リンゴが落ちた瞬間見つけたのは、重力だけではなく世界との繋がりだ。
ガリレオ・ガリレイは、ピサの斜塔から二つの球を落としたとき、友人に喜びの手紙を書いた。

科学者の日常は単調だ。
人と出会う機会も少ない。
しかし、退屈な実験の繰り返しのなかで、見つかる世界がある。

将来的にアートもまた、"private"をつきつめていったところに、世界や人々との交わりをもたらすものになるのかもしれない。

吉川一義(京都大学名誉教授) 「モネの連作とプルーストの文学」

2014-02-04 12:10:46 | 企画(講演会)


吉川一義(京都大学名誉教授)「モネの連作とプルーストの文学」
国立西洋美術館講堂 2014年2月1日


先日、上野の国立西洋美術館で開かれているモネ展に行ってきた。
展覧会の内容に関しては、感想を2月1日のブログ記事に綴っている。

同美術館では、展覧会の内容に合わせ、様々な関連企画を用意している。
講演会もそのひとつだ。

2013年12月7日には、同美術館館長の馬渕明子氏が「モネと日本」というテーマで講演をされた。
また年が明けた2014年1月18日には、ポーラ美術館学芸課長であられる岩崎余帆子氏による講演「ポーラ美術館の印象派とモネの絵画」も行われた。

私が先日同美術館を訪れた際には、京都大学名誉教授の吉川一義氏による講演会「モネの連作とプルーストの文学」が企画されていた。
やや日が経ってしまったが、同講演会の内容を振り返ってみたい。

現在、岩波文庫でプルーストの『失われた時を求めて』の邦訳を刊行しておられる同氏。
まさにmagnum opusというべき同長編の邦訳は、上に貼り付けたWikipediaの著者ページによると、「全14冊」を予定しているらしい。
現在のところ最新刊は、昨年11月に刊行された六冊目(『失われた時を求めて 6―ゲルマントのほうII』)である。

吉川氏は、プルーストをはじめとするフランス文学のみならず、美術にも造詣が深い。
amazonの著者ページをみても、文学と美術との関わりをテーマとした著作が目につく。


二番目の著作に関しては、講演でも言及されていた。
目次をみてもわかるように、いずれも興味深い内容である。

今回の講演会で初めて知ったのは、プルーストがラスキンの美学に非常に影響を受けていることだ。
実際、Wikipediaをみても、プルーストの手で仏訳されたラスキンの著書が二冊挙げられている。

もっとも、日本語版のWikipediaにもあるように、「プルースト自身は外国語(英語)がほとんどでき」なかったようである。

ともかくも、プルーストがラスキン美学に傾倒していたことは確かである。
関連書籍としては、真屋和子氏による『プルースト的絵画空間―ラスキンの美学の向こうに』(水声社、2011)があるようなので、読んでみたいと思う。

吉川氏の講演の要点を挙げるとすると、大きく二つにまとめられよう。

ひとつは、『失われた時を求めて』におけるモネの作品の影響は、あくまで(言うならば)"hidden painting"のレベルであるということだ。
これは何も決して否定的な意味ではない。

同作品では、ボッティチェリ[システィーナ礼拝堂の壁画「モーセの生涯」]やカルパッチョフェルメール[「デルフト眺望」]らが、〈名前を挙げて〉言及されている。
こうした画家たちに比べて、プルーストが、モネの絵画の本質的な部分をより深いところで捉えていたという証左でもあるのだ。

こうした"hidden painting"の要素はまた同時に、吉川氏が指摘するように、とりわけ晩年のモネの連作には、わかりやすい意味での「主題」がないこととも関連している。

もうひとつは、プルーストが(とりわけ)影響を受けたモネの絵画が〈連作〉であるという点だ。
これは、今回の講演会のタイトルとも関わってくる。

モネが連作絵画を制作することで追い求めたものは何か。
それは、時間とともに変化する繊細な色合いである。

同じ一つの光景であっても、描く時間帯によって雰囲気がまるで違ってくる。

一方、プルーストが作品のなかで求めたものは何か。
吉川氏の言葉を借りれば、それは「時間の可視化」である。

曰く、プルーストが追及したのは、「単なる〈個〉の探究だけではなく、人間と社会とを変貌させずにはおかない〈時間〉というものの存在」であった。

「モネの連作」と「プルーストの文学」を結ぶもの―
それは、〈時間〉だったのだ。