leonardo24

西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

村松真理子 『謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」』

2014-02-27 12:34:35 | 書籍(その他)

(画像をクリックするとアマゾンへ)

村松真理子
謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」
角川書店
2013

先日ダン・ブラウンの最新作『インフェルノ』を読んだ。
感想は2月21日のブログ記事に綴っている。

ダン・ブラウンの同小説は、ダンテの大作『神曲』に着想を得て書かれた。
中世イタリア文学の傑作にして、世界文学の最高峰。

今回このブログで扱うのは、ダンテの『神曲』を扱った入門書である。
この新書は『インフェルノ』(の日本語訳)発売に合わせ、昨年の暮れに出版された。

著者は村松真理子氏。
同書の〈おわりに〉によると、氏はダン・ブラウン作品の翻訳を長らく手掛けておられる越前敏弥氏と大学の同級生であるという。

さて、内容について。

ざっと読んだ感想をいわせてもらうと、イントロダクションとしては申し分ないように思う。
適宜ドレやブレイクらの挿絵も交えつつ、親切な解説書になっている。

しかし反面それはいってみれば諸刃の剣で、読者に〈もやもや〉とした読後感を残すだけにもなりうる。
〈導入〉レベルとしてはともかく、そこから一歩踏み込んだ書き方にはなっていないため、歯ごたえがないといえばないのである。

とはいえ、本書を読んで、これまで抱いていたダンテについてのイメージが膨らんだことは事実である。
以前までのダンテのイメージというのは、『新生』や『神曲』を書いた〈中世の偉大なる詩人〉であり、かつ〈政治にも深く関与した〉といった程度であった。

しかし54-55頁で解説されているダンテの〈文学論(テクスト分析論)〉や、236頁以降で言及されている〈言語学者〉としての彼の側面の紹介は興味深く、これまでは比較的〈平面的〉だったダンテのイメージがより〈立体的〉なものとなった。
前者の〈文学論〉は主に『饗宴』において展開されているものであり、後者の〈言語分析〉に関しては『俗語論』にみられる記述を基に解説がなされていた。

本全体の感想はこれくらいにして、美術の話に移ろう。

ダンテの『神曲』とそれを表象した美術作品については、前掲のブログ記事でも触れた。
今回は、前回取り扱わなかった作品を中心にみてゆきたい。

そもそも、ダンテ以降の時代、彼岸を描く画像表現に関して、イタリアの中世末以降の宗教画においても『神曲』の影響を無視することはできない」(71頁)と述べたうえで、筆者は様々な美術作品を挙げてゆく。

・ミケランジェロ 《最後の審判

・アングル 《パオロとフランチェスカを発見するジャンチョット

・ボッティチェリ 《ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語》 【連作:左上(I)、右上(II)、左下(III)、右下(IV)】


最初のミケランジェロの有名な祭壇画に関しては言わずもがな。
右下に描かれている渡し守カロンについては、ダン・ブラウンの小説のなかでも触れられていたかと思う。

アングルの絵画に関しては、以前のブログでも触れた『神曲』「地獄篇」(第五歌)で詠まれているパオロとフランチェスカの悲哀の物語を描いたものである。

二人の幸福感とその背後に迫る緊張感。
舞台上のような印象を抱かせる一作である。

最後のボッティチェリの連作については少し説明が必要だろう。
この四作は、ダンテと同じ中世イタリアを代表する文学者ボッカチオの大作『デカメロン』(第五日第八話)の記述を基にして描かれた。

『神曲』(Divina Commedia)という題名は、もともとはComedìaというシンプルなものであった。
その頭に"Divina"をつけ、今に至るタイトルを定着させたのが、他ならぬボッカチオであった。

ダンテを敬愛していたボッカチオ。
『デカメロン』の〈ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語〉(第五日第八話)には「地獄篇」(第十三歌)をはじめとする「ダンテ的地獄の情景」(74頁)が巧みに散りばめられている。

全百話からなるこの「枠物語」のなかでも、とりわけ印象深い物語(〈ナスタージョ・デッリ・オネスティの物語〉)を絵画化したのが、ボッティチェリなのである。

ダン・ブラウンの小説も含め、これほどまでに数多くの(美術)作品を生んだ『神曲』。
文学や美術のみならず、オペラや戯曲など様々なジャンルにおいて、ダンテの息吹が受け継がれれている。

時代を超えた影響関係こそ、〈古典〉の証に他ならない。

繰り返しになるが、今回紹介した新書は、あくまで〈イントロダクション〉としてはいい。
しかし中世イタリア文学の巨人が書き上げた「中世ゴシックの大伽藍に喩えられる壮大なことばの構築物」(52頁)の頂上からの眺めは、最終的には自らで確認する必要がある。

さながら「ダンテがウェルギリウスに誘われて旅をし、最後には一人でベアトリーチェのもとに導かれたように」(249頁)。

『ウォーターハウス―夢幻絵画館』

2014-02-25 21:54:24 | 書籍(美術書)

(画像をクリックするとアマゾンへ)

ウォーターハウス―夢幻絵画館
川端康雄(監修・著)、加藤明子(著)
東京美術
2014

荒川裕子氏は、現在六本木で開かれている「ラファエル前派展」の図版のなかで、欧米と日本における〈ラファエル前派受容〉をめぐる歴史について概説しておられる。
(氏に関しては以前にもこのブログでご紹介させていただいた。)

荒川氏がそのなかで述べておられるように、日本における〈ラファエル前派受容〉は、「圧倒的に文学(英文学)主導で」あった(p.34)。

事実、荒川氏も例に挙げておられる通り、『宿命の女―愛と美のイメジャリー』の著者松浦暢氏しかり、ジャン・マーシュ氏の著作『ラファエル前派画集―女』と『ラファエル前派の女たち』をそれぞれ訳された河村錠一郎氏と蛭川久康氏しかり、『ヴィクトリア朝の宝部屋』(ピーター・コンラッド著)の編集者高山宏氏や訳者加藤光也氏しかり、みな(英)文学畑の方たちである。

他にも、『ラファエル前派の世界』の著者である齋藤貴子氏や『ラファエル前派の画家たち』(スティーヴン・アダムズ著)の訳者高宮利行氏も、英文学をご専門とされている。

荒川氏も指摘しておられるが、輸入学問と翻訳文化に支えられた明治期以降(例えば漱石)であればともかく、比較的最近に至ってもなお文学者がラファエル前派研究をリードしているというのは興味深い。

今回紹介する『ウォーターハウス―夢幻絵画館』の著者にして監修者の川端康雄氏もまた英文学者であられる。
このブログでも以前にご紹介したように、川端氏はモリスやラスキンなど、ラファエル前派に関わる人物の訳書を多く手掛けておられる。

(英)文学者主導〉のラファエル前派研究が今日もなお隆盛であることを顕著に示しているといえよう。

さて、本の中身へと移ろう。

本書はラファエル前派〈第三世代〉の画家とも呼ばれるウォーターハウスの絵画作品を集めたものである。

ウォーターハウスは古典神話や文学作品を数多く手がけたことで知られる。
この画集では、彼が絵画化した古今の文学に関する背景知識が作品ごとに紹介されている。
理解の助けとなる、簡潔かつ的確な解説となっている。

ローマで生まれたウォーターハウス。
一家で両親の故郷イギリスへと戻ったのは、彼が5歳のときだった。

海を渡ってなお、ウォーターハウスにとって、地中海世界は特別な地域でありつづけた。
少年時代からすでに示していた地中海地域への関心は、その後の彼の画業の下地を形成することになる。

画家の絵画作品の多くがギリシア・ローマ(神話)を題材としているのは、こうした彼のバックグラウンドと大きく関わっている。

神話と並び、画家がしばしば取り上げたのが文学作品であった。

シェイクスピア、シェリー、キーツ、テニスン。

ラファエル前派で「オフィーリア」というと、すぐさまミレイの絵画が思い浮かぶことだろう。(→参考
しかしウォーターハウスもまた、シェイクスピア作品のこの有名なヒロインを三度にわたって絵画化している。

画家はまた、キーツの詩に取材した「レイミア」とテニスンの作品に着想を得た「シャロットの姫」を、それぞれ二度にわたって絵画化している。

「オフィーリア」にせよ、「レイミア」にせよ、「シャロットの姫」にせよ、ときにファム・ファタール的要素を漂わせる女性を描写したこれら〈文学テクスト〉は、ウォーターハウスを含むラファエル前派の画家たちにとって、一種の〈客観的相関物〉であったともいえるのではないだろうか。

〈客観的相関物〉という言葉が妥当かどうかに関してはもう少し議論と検証が必要だろう。
だがともかく、ウォーターハウスが数多くの文学テクストを絵画化してきたことは事実である。
そのなかで、ともすれば意外に思われるかもしれないが、聖書に取材した作品は一作だけである。

それが、この《受胎告知》である。[下図参照]


ルネサンス期、いやそれ以前より、キリストの磔刑図と並んでしばしば描かれてきたのが、この〈受胎告知〉という主題だろう。

西洋絵画史上あまりに多くの画家が挑んできたこの画題。
ウォーターハウスの〈独自性〉なるものはどこにみられるのだろうか。

もっとも分かりやすいところでいえば、その〈演劇〉のような画面構成だろう。

初期ルネサンスのフラ・アンジェリコや盛期ルネサンスのレオナルドの扱った同主題の作品と比べても、その〈アングル〉は独特である。[下図参照]


[左:フラ・アンジェリコ(作品)/右:レオナルド(作品)]

ウォーターハウス作品を論ずるにあたって、本書36頁から37頁にかけて書かれているように、〈演劇性〉というのは重要な視点である。
もっといえば、「19世紀のヨーロッパ文化において、劇的演劇的というのはとても重要」であった(村松真理子『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』p.70)。

本書に関してはまた、120-21頁で書かれている宮崎駿氏とウォーターハウスとの接点に関するコラムが興味深かった。
両者の作品における、積極的な意味での〈通俗性〉に着眼した解説である。

tak氏もブログで書かれているように、ウォーターハウスに関する日本語で書かれた書籍はほんの数えるほどである。

78-79頁でも書かれているが、このラファエル前派〈第三世代〉に関する本格的な回顧展は、欧米でも近年ようやく始まったばかりである。
今後のウォーターハウス研究の進展に期待がかかる。

決して安い本ではないが、一冊家において置きたくなる、そんな一冊であることは間違いない。
質・量ともに充実した一冊である。

ダン・ブラウン 『インフェルノ』(上・下)

2014-02-21 18:34:22 | 書籍(その他)

(画像をクリックするとそれぞれアマゾンへ)

ダン・ブラウン
インフェルノ』(上・下)
越前敏弥訳
角川書店
2013

中世イタリア文学史に燦然とその名を刻む詩人ダンテ。
言わずと知れた彼の代表作『神曲』(Divine Comedy [もともとのタイトルはComedìa]) は、「地獄篇」('Inferno')、「煉獄篇」('Purgatorio')、「天国篇」('Paradiso')の三部から構成されている。

『インフェルノ』(ダン・ブラウン)下巻の〈訳者あとがき〉でも書かれているように、なかでも「圧倒的な人気を博し、数えきれないほどの著作や絵画や音楽や映画に影響を与えてきたのは、第一部の〈地獄篇(インフェルノ)〉」であった(324頁)。

Amazonで検索をかけてみると、PlayStation 3のゲームまであるらしい。(→参考

視覚芸術でいえば、ドレの有名な版画は言うまでもなく、ブレイクやロセッティ(《ダンテの夢》や《ベアタ・ベアトリクス》)、ダリの遺した作品も印象深い。(→参考

ドラクロワの描いた《ダンテの小舟》もまた、一度見たら忘れられない作品である。
フランスにおけるロマン主義絵画の幕開けを告げる本作は、ルーブル美術館に所蔵されている。(下図参照)


上野の国立西洋美術館前には、「近代彫刻の父」ロダンの大作《地獄の門》が置かれている。
本作は、『神曲』の「地獄篇」(第三歌や第五歌、第三十三歌など)の記述を基にして制作されたものである。(→Wikipedia ["The Gates of Hell"])

そして、《地獄の門》の彫刻の一部が抜き出され、結果的に独立した作品となったものが、かの有名な《考える人》である。(下図参照)
「考える人」とは、今でこそ〈哲学〉あるいは〈思索〉の象徴とみなされることが多い。

しかしその由来は、ダンテその人に他ならない。
ちなみにこの彫刻も、西洋美術館前にある。(→参考


[左:《地獄の門》/右:《考える人》]

また英国ロマン派の詩人キーツも、ダンテの「地獄篇」を読んで多大なる影響を受けたひとりである。
ちなみに、『インフェルノ』(上)の229頁では、ダンテのデスマスクとの関連で、キーツにも言及されている。

「地獄篇」(第五歌)におけるパオロとフランチェスカの悲哀の物語 [参考:"Francesca da Rimini" (Wikipedia)] に心を打たれた詩人は、一作のソネットを書き遺している。

'As Hermes Once Took to his Feathers Light'

As Hermes once took to his feathers light,
  When lulled Argus, baffled, swoon'd and slept,
So on a Delphic reed, my idle spright
  So play'd, so charm'd, so conquer'd, so bereft
The dragon-world of all its hundred eyes;          5
  And, seeing it asleep, so fled away―
Not to pure Ida with its snow-cold skies,
  Nor unto Tempe, where Jove griev'd a day;
But to that second circle of sad hell,
  Where in the gust, the whirlwind, and the flaw    10
Of rain and hail-stones, lovers need not tell
  Their sorrows. Pale were the sweet lips I saw,
Pale were the lips I kiss'd
, and fair the form
I floated with, about that melancholy storm.

記録上、この詩が最初に書かれたのは、1819年4月16日の書簡のなかでのことである。
もともとの草稿のタイトルでは、'A dream, after reading Dante's Episode of Paolo and Francesca'となっていたということだ。

ラファエル前派兄弟団の中心人物ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティもキーツのこの絶唱を激賞している。
父親がダンテ研究者である彼はこう書き遺している。

チャップマン訳のホメロスを読んで」を除けば、これほど素晴らしいソネットはない
"By far the finest of [Keats's] sonnets... besides that on Chapman's Homer"
     (1880年2月11日の書簡) [参考:Miriam Allott (ed.), The Poems of John Keats, p.498]

さて、ダン・ブラウンの最新刊『インフェルノ』について。

書店で売られている本の帯には、「これまでのダン・ブラウンの小説で一番面白い!」という荒俣宏氏の絶賛のコメントが踊り、著作の公式HPにも「賞賛の声」が並んでいる。

しかし、Wikipediaの該当ページを読む限り、本作の評価は必ずしも好意的なものばかりではない。
Amazonのレヴューをみても、賛否両論あるようだ(これまでのダン・ブラウン作品と比べて〈浅い〉という指摘も散見される)。

個人的な感想としては、結末の〈締り〉のなさに、やや後味の悪さを覚えた。
しかし、まさに"gripping"な、〈読ませる〉作品であったことは間違いない。

おそらく映画を意識した筆の運びになっているのだろう。
前作『ロスト・シンボル』に先駆け、来年にも映画化が予定されているようだ。

あと、本筋とは直接的に関わりはないのだが、物語のなかである人物が、主人公のラングドン教授に「シメワザ」なる柔術をかけて教授の動きを封じ込めるという一幕があった(下巻、146頁)。
シャーロック・ホームズの「最後の事件」における有名な「バリツ」もそうだが、どうしてこうも日本の〈ジュウジュツ〉というものは、何か特殊な力を発揮すると思われがちなのであろうか。

ともかく、一応「美術関連」のブログなので、美術の話もしておこう。

『インフェルノ』において、物語の重要なカギを握るのが、以下の二作品である。

・ボッティチェリ 《地獄の見取り図


ドメニコ・ディ・ミケリーノダンテの神曲


物語では、犯人が《地獄の見取り図》のなかに暗号を隠し、ラングドン教授が脳漿を絞って解読する。
後者の絵画に関しては、「煉獄篇」(第九歌)の記述にある〈七つのP〉が、解読の鍵となる。

ダンテの『神曲』を扱った美術作品に関しては、河出文庫から出版されている『神曲 煉獄篇』(平川祐弘訳)に、「ダンテと美術」と題された、訳者のあとがきが掲載されている。
興味のある方は、参照されたい。

では、最後に...。

『インフェルノ』(上)の292頁で、登場人物のひとりが次のように言っている。

「わたしが信奉するのは真実よ」(...)「たとえそれがひどく受け入れがたいものであっても」

原文は確認していないが、この言葉を読む限り、シャーロック・ホームズのあの有名なセリフが思い起こされる。

"How often have I said to you that when you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth?"
                           (The Sign of the Four)
「すべての条件のうちから、不可能なものだけ切りすててゆけば、あとに残ったものが、たとえどんなに信じがたくても、事実でなくちゃならないと、あれほどたびたびいってあるじゃないか」
                        (『四つの署名』(延原謙訳、新潮文庫、p.64))

ホームズが「あれほどたびたび」というように、同趣旨の発言は原作中に何度かみられる。(→参考

『インフェルノ』の記述がドイルの探偵小説のそれを意識したものであるかどうかについては、〈ラングドン教授のみぞ知る〉といったところである。
しかし、ダン・ブラウンの最新作が、ホームズの〈冒険〉のごとき〈興奮〉と〈ミステリー〉に満ちていることは確かであると言っておこう。

The Pre-Raphaelite Legacy―British Art and Design from the Metropolitan's Collection

2014-02-18 22:07:17 | 番外編

(Burne-Jones 'The Love Song', 1868-77, Metropolitan Museum of Art)

The Pre-Raphaelite Legacy―British Art and Design from the Metropolitan's Collection

(Metropolitan Museum of Art, May 20―October 26, 2014)

"MET"の愛称で親しまれているメトロポリタン美術館(ニューヨーク)。
世界有数のコレクションを誇る同美術館と、ニューヨーク近代美術館(略称:"MOMA")は、同市を訪れる際には決して見逃せない。

現在、東京・六本木の森アーツセンターギャラリーで「ラファエル前派展」が開催されている。
同展覧会を訪れた感想については、2月14日のブログ記事に綴っている。

今回紹介する美術展は、同じくラファエル前派の作品を扱うものである。

とはいえ、テート美術館(イギリス)のコレクションから構成された、いま東京で開かれている「ラファエル前派展」がそのまま巡回するわけではない。
あくまで"MET"に収蔵されている作品が展示されることになっている。

こちらが、"MET"公式HPに掲載されている「ラファエル前派展」開催予定に関する告知記事である。

今年の5月から10月にかけて開かれる予定の同展覧会は、いま貼り付けたページでも書かれているように、ラファエル前派の運動「全体」を捉えようとするものではない。
現在六本木で開かれている展覧会とは異なり、いわゆるラファエル前派の〈第二世代〉に焦点を当てるものである。
つまり、バーン=ジョーンズやモリスが展示の中心となる。

先ほど貼り付けたページの記事を読んで、今回この美術展を紹介しようと思ったのには理由がある。
その記事の最初の二行がきわめて洗練されていたためである。

引用しておこう。

Young and impassioned, the Pre-Raphaelite Brotherhood sought to revitalize mid-nineteenth-century British painting with the sincerity and vivid intensity they admired in medieval and early Renaissance art.
Although the Brotherhood was short-lived, its influence was profound.


簡潔ながら端的に、ラファエル前派の運動の本質を捉えている。

たしかに、目新しい要素は何もないかもしれない。
しかし、一語たりとも無駄な語句はなく、言葉の選択もきわめて良質のものである。

私が辞書を作ったなら、「ラファエル前派」の定義は上のものと全く同じものを採用するだろう。
もっとも、Wikipediaの解説の最初の二行くらいは頭に要るだろうが。

["The Pre-Raphaelite Brotherhood (also known as the Pre-Raphaelites) was a group of English painters, poets, and critics, founded in 1848 by William Holman Hunt, John Everett Millais and Dante Gabriel Rossetti.
The three founders were joined by William Michael Rossetti, James Collinson, Frederic George Stephens and Thomas Woolner to form the seven-member 'brotherhood'."]

紹介記事の紹介であった。

「レンブラントの夜警」 (2007)

2014-02-16 10:51:22 | 映画

(画像をクリックするとアマゾンへ)

レンブラントの夜警
(原題:"Nightwatching")
監督 ピーター・グリーナウェイ
出演 マーティン・フリーマン、エヴァ・バーシッスル
2007
(IMDb)

Two households, both alike in dignity,
In fair Verona, where we lay our scene
           (Romeo and Juliet, Prologue)

「いずれ劣らぬ二つの名家/花の都ヴェローナに」
         (松岡和子訳『ロミオとジュリエット』)

ではじまるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。
こうした「前口上」(prologue)が〈導入〉の役割を果たし、観客は舞台に引き込まれてゆく。

「前口上」の役割はもうひとつある。
それは、物語の〈虚構性〉を強調することである。

戯曲は、目には見えない〈額縁〉によって観客と舞台とが隔てられている。
ちょうど、絵画が〈額縁〉によって切り取られ、作品として成立しているように。

「これからお見せします物語は...」という言葉は、その象徴だ。

ただ、〈虚構性〉といっても、意図的に〈嘘〉を語るというのではない。
むしろ逆だ。

〈虚構性〉を示唆することで、逆説的に〈真実〉が照らし出される。

『お気に召すまま』の有名な一説を引用してみよう。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
            (As You Like It, Act II Scene VII)

この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
            (小田島雄志訳『お気に召すまま』)

シェイクスピアは、〈現実〉に人間が生きている世界を〈舞台〉と呼ぶ。
つまり、〈人間世界〉=〈舞台〉(=〈虚構〉)という等式が成り立つ。

この等式を踏まえるならば、実際に〈舞台〉で演じられていることは〈人間世界〉そのものということになる。

シェイクスピアの巧みな前口上により、観客は〈現実〉と〈虚構〉の狭間を泳ぐ。

こうした〈現実〉と〈虚構〉の意図的逆転は、何もシェイクスピアばかりが提示しているわけではない。
シュルレアリスムの旗手マグリットの《これはパイプではない》も、その延長線上にあるものだろう。

枕が長くなったが、昨日観たピーター・グリーナウェイ監督の映画「レンブラントの夜警」の鍵となる概念も、〈演劇〉であった。

映画全体が、「独白」(monologue)の部分も含め、舞台仕立てになっていた。

映画のなかで「演劇のような絵画」と評されたレンブラントの《夜警》。
〈真実〉を描くべきか葛藤する画家と〈真実〉を暴かれることを怯える市警団。

レンブラントを苦しめることになったのは、画家が「演劇」のような〈虚構〉の世界を描いたからではない。
「演劇」のような〈現実〉を描いてしまったからである。

シェイクスピアはまたこう書いている。

I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage, where every man must play a part,
And mine a sad one.
          (The Merchant of Venice, Act I Scene I)

世間は世間、それだけのものだろう、グラシアーノー、
つまり舞台だ、人はだれでも一役演じなければならぬ、
そしておれの役はふさぎの虫ってわけだ。
            (小田島雄志訳『ヴェニスの商人』)

画家レンブラントの〈役〉もまた"sad one"だったのかもしれない。

映画自体の感想としては、実験的というべきか意欲作というべきか、いわゆる「万人受け」するたぐいの映画ではなかったように思う。
とはいえ、観るところがないかというとまったくそんなことはない。

今回レンブラントを演じたのは、BBCのドラマ「シャーロック」におけるジョン・ワトスン役で有名なマーティン・フリーマン。
熱っぽさと空虚さの入り混じった彼の演技は、目を見張るものがある。

この映画は、学生時代から美術を勉強してこられた監督による、いってみればレンブラントの「名誉回復」。
単純に画家の人生を追ったものではなく、ひとつの「解釈」が提示された形になる。

レンブラント・ライティング」という言葉もあるが、画家の〈不遇〉な晩年に、まさに一条の〈光〉を差し込む、そんな映画だったように思う。