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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

「レンブラントの夜警」 (2007)

2014-02-16 10:51:22 | 映画

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レンブラントの夜警
(原題:"Nightwatching")
監督 ピーター・グリーナウェイ
出演 マーティン・フリーマン、エヴァ・バーシッスル
2007
(IMDb)

Two households, both alike in dignity,
In fair Verona, where we lay our scene
           (Romeo and Juliet, Prologue)

「いずれ劣らぬ二つの名家/花の都ヴェローナに」
         (松岡和子訳『ロミオとジュリエット』)

ではじまるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。
こうした「前口上」(prologue)が〈導入〉の役割を果たし、観客は舞台に引き込まれてゆく。

「前口上」の役割はもうひとつある。
それは、物語の〈虚構性〉を強調することである。

戯曲は、目には見えない〈額縁〉によって観客と舞台とが隔てられている。
ちょうど、絵画が〈額縁〉によって切り取られ、作品として成立しているように。

「これからお見せします物語は...」という言葉は、その象徴だ。

ただ、〈虚構性〉といっても、意図的に〈嘘〉を語るというのではない。
むしろ逆だ。

〈虚構性〉を示唆することで、逆説的に〈真実〉が照らし出される。

『お気に召すまま』の有名な一説を引用してみよう。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
            (As You Like It, Act II Scene VII)

この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
            (小田島雄志訳『お気に召すまま』)

シェイクスピアは、〈現実〉に人間が生きている世界を〈舞台〉と呼ぶ。
つまり、〈人間世界〉=〈舞台〉(=〈虚構〉)という等式が成り立つ。

この等式を踏まえるならば、実際に〈舞台〉で演じられていることは〈人間世界〉そのものということになる。

シェイクスピアの巧みな前口上により、観客は〈現実〉と〈虚構〉の狭間を泳ぐ。

こうした〈現実〉と〈虚構〉の意図的逆転は、何もシェイクスピアばかりが提示しているわけではない。
シュルレアリスムの旗手マグリットの《これはパイプではない》も、その延長線上にあるものだろう。

枕が長くなったが、昨日観たピーター・グリーナウェイ監督の映画「レンブラントの夜警」の鍵となる概念も、〈演劇〉であった。

映画全体が、「独白」(monologue)の部分も含め、舞台仕立てになっていた。

映画のなかで「演劇のような絵画」と評されたレンブラントの《夜警》。
〈真実〉を描くべきか葛藤する画家と〈真実〉を暴かれることを怯える市警団。

レンブラントを苦しめることになったのは、画家が「演劇」のような〈虚構〉の世界を描いたからではない。
「演劇」のような〈現実〉を描いてしまったからである。

シェイクスピアはまたこう書いている。

I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage, where every man must play a part,
And mine a sad one.
          (The Merchant of Venice, Act I Scene I)

世間は世間、それだけのものだろう、グラシアーノー、
つまり舞台だ、人はだれでも一役演じなければならぬ、
そしておれの役はふさぎの虫ってわけだ。
            (小田島雄志訳『ヴェニスの商人』)

画家レンブラントの〈役〉もまた"sad one"だったのかもしれない。

映画自体の感想としては、実験的というべきか意欲作というべきか、いわゆる「万人受け」するたぐいの映画ではなかったように思う。
とはいえ、観るところがないかというとまったくそんなことはない。

今回レンブラントを演じたのは、BBCのドラマ「シャーロック」におけるジョン・ワトスン役で有名なマーティン・フリーマン。
熱っぽさと空虚さの入り混じった彼の演技は、目を見張るものがある。

この映画は、学生時代から美術を勉強してこられた監督による、いってみればレンブラントの「名誉回復」。
単純に画家の人生を追ったものではなく、ひとつの「解釈」が提示された形になる。

レンブラント・ライティング」という言葉もあるが、画家の〈不遇〉な晩年に、まさに一条の〈光〉を差し込む、そんな映画だったように思う。