「モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」
[英題:Monet, an Eye for Landscapes: Innovation in 19th Century French Landscape Paintings]
(国立西洋美術館 2013年12月7日~2014年3月9日)
オスカー・ワイルドはその対話形式の評論「嘘の衰退」("The Decay of Lying" [→全文])において、「芸術が人生を模倣する以上に、人生は芸術を模倣する」(Life imitates Art far more than Art imitates Life)と述べた。
アリストテレス以来の模倣論の真逆を行くこの有名な命題(参考 "Life imitating art")に引き続き、ワイルドは次のようにも書いている。
「ゆえに、当然の帰結として、外界の自然もまた芸術を模倣する」(It follows, as a corollary from this, that external Nature also imitates Art)。
芸術が自然を模倣するというのはイメージしやすい。
絵画でいえば、外界の事象をどれだけ忠実にカンヴァス上に再現できるか、ということである。
それに対して、自然が芸術を模倣するというのは、一見「ありえない」ようにも思える。
だが、ひとつの例として、ターナーを考えてみよう。
ターナーは美術史上、初めて「空気」を描いた画家と呼ばれる。
たしかにレオナルドをはじめとするルネサンス期の画家も、いわゆる「空気遠近法」を用いた。
しかしその場合の「空気」とは、あくまで「手段」である。
ターナーのように、「空気」それ自体を「主題」として描いているわけではない。
ターナーの描いた、畏怖の念を喚起させるほどの自然の脅威(→「崇高(サブライム)」)は、観る人に新たな審美観をもたらした。
人々の「自然」を捉える眼が、それまでとは一変したのである。
今日、上野の国立西洋美術館で開催されているモネ展を訪れた。
この展覧会を貫く重要なテーマのひとつが、「自然」と「芸術」との相関関係であったことは論を俟たない。
展覧会のタイトル(「モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」)からも窺われるように、本展で重点的に扱われているのは、決して忠実にカンヴァス上に再現された「自然」ではない。
むしろ、(展覧会の広告の言葉を借りれば)画家の〈内なるヴィジョン〉を通して輝きを増し、新たな様相を呈した「自然」である。
余談になるが〈内なるヴィジョン [眼] 〉と聞くと思い起こされるのが、イギリス・ロマン派の詩人ワーズワースの有名な詩の一節である。
For oft, when on my couch I lie
In vacant or in pensive mood,
They [daffodils] flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude
("Daffodils" 19-22 [全文])
In vacant or in pensive mood,
They [daffodils] flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude
("Daffodils" 19-22 [全文])
物思いにふけったうつろな心で
ぼんやりと長椅子に身を横たえていると、しばしば
あの[スイセンの]光景が、内なる眼に映りこむ。
これぞ、寂しきにありて(こそ)得られる至福に他ならない。
ぼんやりと長椅子に身を横たえていると、しばしば
あの[スイセンの]光景が、内なる眼に映りこむ。
これぞ、寂しきにありて(こそ)得られる至福に他ならない。
フランス革命に失望したワーズワースが、やがて心の内に「楽園」を作り上げようとしたように、モネもまた、(少なくとも初期の作品と比べて)非常に深い精神性を湛えた作品を生み出してゆく。
そのひとつの極致が、連作《睡蓮》であろう。
これは、(誰の目にも明らかなように)たんなる「写実」ではない。
画家は、単純に池の水とそこに浮かぶ睡蓮を描こうとしたわけではない。
空模様が水面に映る。
そして、(あたかも共感[synesthesia]するかのように)水面に映った自身の姿に導かれ、空模様までもが変容している。
これぞ、画家の〈眼〉である。
展覧会場では、モネの旧友クレマンソー("Personal life"の項目参照)の次の言葉が紹介されていた。
「先駆者モネの眼はわれわれの眼を導き進歩させ、この世界をより深く知覚させてくれる」
自然が芸術を模倣した瞬間であった。
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