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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

齊藤貴子 『肖像画で読み解くイギリス史』

2014-09-27 21:41:44 | 書籍(美術書)

肖像画で読み解くイギリス史
齊藤貴子
PHP研究所
2014

「肖像画の国」イギリス。
19世紀半ばに開館したナショナル・ポートレート・ギャラリー(ロンドン)は、肖像画のみを扱う美術館としては世界最古のものであり、その作品の質と量は他の追随を許さない。

西洋美術の歴史を紐解けば、イギリスは長らくイタリアやフランスら大陸諸国の後塵を拝していたが、肖像画の伝統だけは古くから綿々と受け継がれてきた。

イギリスの歴史を同国における肖像画の歴史と縒り合わせて解説した新書が、今回の一冊『肖像画で読み解くイギリス史』である。
著者は『諷刺画で読む十八世紀イギリス―ホガースとその時代』や『ラファエル前派の世界』等の美術書を含む多くの著作で知られる齊藤貴子氏。

   

英国美術に関する近著でいえば、君塚直隆氏の『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』やライト裕子氏の『英国王7人が名画に秘めた物語―ロイヤル・コレクション500年の歴史』などがある。

   

この二冊では王室と美術との関わりに主眼が置かれているのに対し、齊藤氏の著作ではより幅広くイギリス史全般が扱われている。
とはいえ、ルネサンス期以前の肖像画に描かれているのは実質的に王室の人々くらいである。
したがって、肖像画の歴史という観点からイギリス史を眺める限り、中世のあたりまでに関していえば、ほとんど王室史にならざるをえない。

さて、アングロ・サクソンの時代から現代のキャサリン妃までを扱っている本書を読んでいて一番興味深かったのは、20世紀以降の肖像画かもしれない。
それこそフランシス・ベーコンの肖像画のようなカテゴリーそれ自体を歪めかねないものを前にして、そうした作品をどのようにしてイギリス史の流れに組み込んでいくのかという手法に興味があった。


Francis Bacon 'Three Figures and Portrait'

キーワードは「断片」である。

「ベーコンの描いた、人間ともその他の動物ともつかない、生命ある存在が関節のあたりで切断され分解されたかのようなバラバラの身体は、いわば肖像画の究極形だ。存在の記録としては、もうここがひとつの限界だ。天井である。誰の目から見ても、ベーコンが20世紀に描いたもの以上の劇的な変化は、肖像画の世界に今後望めそうもない」(242-43頁)。

そして、「今までもずっとそうだったのだから、これからも日常の色鮮やかな断片であり続けることに、ほかのどこの国でもない、イギリスの肖像画の未来がある」(247頁)。

賛否両論あったキャサリン妃の肖像画に関して、日常性の欠如、言い換えれば「日常の色鮮やかな断片」性の希薄さを理由に「イギリスらしくない」(254頁)と否定的な見解を示しているのもなるほど一理あるような気がする。


Paul Emsley 'Portrait of Catherine, Duchess of Cambridge'

イギリスの肖像画。
日常性と断片の結晶。

澁澤龍彦、巖谷國士 『裸婦の中の裸婦』

2014-09-14 17:45:10 | 書籍(美術書)

裸婦の中の裸婦
澁澤龍彦、巖谷國士
河出書房新社
2007

「調査してみよう。だがぼくはいま事件を抱えているので、直接動けない。なので、取り敢えず相棒のジョン-ドクター・ワトソン-が下調べをすることになる。頼んだぞ、ジョン」
「えっ。なんで僕が。それに何をどう調べたら・・・・・・」
「何、簡単なことだ。君に『全裸連盟』に潜入してもらいたいのさ」
彼はそう言うと、目にも留まらぬ速さでウィンクをした。
―――北原尚彦 「ジョン、全裸連盟へ行く

コナン・ドイルのホームズ物語には「ありのままの真実」("naked truth"; 延原訳では「赤裸の真実」)という表現が二度用いられているが、解き明かされた真実の寓意像を〈裸体〉として描く表現形式は古来より西洋美術の歴史においてみられるものであった。


Backer, 'Venus and Cupid, Allegory of the Truth'


Bernini, 'Truth Unveiled by Time'

西洋絵画史の本流のひとつである裸体画の伝統。
それに影響を受けた近代日本の洋画。

世の東西の裸婦を扱った作品を選り抜いた澁澤龍彦と巖谷國士の手になる共著『裸婦の中の裸婦』では、裸婦像の饗宴が対話形式で催されている。

澁澤の最後の美術エッセイにあたる本書の目次は以下の通りである。

幼虫としての女―バルチュス スカーフを持つ裸婦
エレガントな女―ルーカス・クラナッハ ウェヌスとアモル
臈たけた女―ブロンツィーノ 愛と時のアレゴリー
水浴する女―フェリックス・ヴァロットン 女と海
うしろ向きの女―ベラスケス 鏡を見るウェヌス
痩せっぽちの女―百武兼行 裸婦
ロココの女―ワットー パリスの審判
デカダンな女―ヘルムート・ニュートン 裸婦
両性具有の女―眠るヘルマフロディトス
夢のなかの女―デルヴォー 民衆の声 [(※)巖谷著]
美少年としての女―四谷シモン 少女の人形 [(※)同]
さまざまな女たち―アングル トルコ風呂 [(※)同]

巖谷の文庫版解説には次のようにある。

架空の対話者たちは、旧来の美術史にとらわれず、しかもそのポイントをはずすこともなく、ときには現代人の心理分析、文明批評などをまじえつつ、気ままに、気楽に作品を鑑賞している。遊び半分でいながらたいていは何か本質的なことにとどいているような精妙な語り口に、晩年の澁澤龍彦の円熟ぶりが見えるといってもいいだろう。

正鵠を射たこの指摘は、私自身の読後感とまさしく重なるものであった。

先述したように、本書に収められている12篇のエッセイのうちで澁澤が筆を執ったのは最初の9篇であり、残りの3篇は巖谷によって書かれている。
しかし、読んでいる最中には全体としての統一性が失われたり分断されたりしているような印象を受けることは全くなかった。

個人的にはデルヴォーを扱った一篇が印象的だった。
ひとつひとつの指摘に頷くばかりであった。

全体としてはこの魅力的な饗宴を十分に堪能させてもらったのだが、少し気になったのは澁澤の担当したワットーの章の一節。
「ワットー自身はその短い生涯のあいだ、ついぞ快楽主義的な生活には縁がなかったのに、その描き出す理想の世界は、いつ果てるともない快楽の世界そのものだった」とある。

果たしてそうだろうか。
別の論者はこのように述べている。

黄昏の空のごとく、人生の幸せも観劇の歓びもあまりに短く儚く、溶けるようにフェイドアウトしてゆく。そして心には哀愁の残香が沈潜する。曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀愁こそが、ヴァトーの魅力の核なのだ。(中野京子 『はじめてのルーヴル』)

カンヴァス上の華やぎを画家の憂愁と異質のものと捉えるのではなく、ロココ時代における快楽への耽溺の本質的な情趣をその醸し出す哀愁にみてとることで、ワットーをロココの象徴的画家とみなす後者の見解に私はより共感を覚える。

ともかく、1990年に単行本として世に出されたこのエッセイ集が、いまなお色褪せずに新鮮さを保っているのは特筆すべきであろう。

裸婦。

高階秀爾 『ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はなぜ傑作か?-聖書の物語と美術』

2014-08-17 21:35:07 | 書籍(美術書)

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はなぜ傑作か?-聖書の物語と美術
高階秀爾
小学館
2014

本書は今年はじめに刊行された『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?-ギリシャ・ローマの神話と美術』の姉妹編にあたる(同書のレビュー記事はこちら)。
ヘレニズム(ギリシア・ローマ)とヘブライズム(キリスト教)は西洋文明の基盤をなす二大源流にあたり、これら二冊ではそれぞれの一級河川から誕生した選りすぐりの絵画作品が紹介されている。

本書『ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はなぜ傑作か?-聖書の物語と美術』で扱われている主題は次の七つ(意図してかどうか、天地創造の日数)。

1 「天地創造」(ミケランジェロ)
2 「アダムとエヴァ」(マザッチョ)
3 「水浴のスザンナ」(ティントレット)
4 「バテシバの不倫」(レンブラント)
5 「『雅歌』とサロメの踊り」(モロー)
6 「受胎告知」(フラ・アンジェリコ)
7 「最後の晩餐」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

名前を挙げた画家の作品以外にも、それぞれの主題に関わる名画を幅広く寄せ集めて配置しているあたりは、毎度のごとく見事である。

レンブラントの《バテシバの水浴》と古代ローマの石棺の浮彫(《花嫁の化粧》)との関連性はとくに興味深かった。

詳しくは本書70頁に書かれているが、レンブラントはたんに聖書のエピソードからのみ着想を得て絵画を描いたのではなく、古代ローマの石棺からも図像を「盗用」したことにより、作品解釈に奥行きを与えている。


Rembrandt 'Bathsheba at Her Bath' (1654)


(本書71頁)

ただ気になったのは、55-56頁で解説されている別のレンブラント絵画。
作品のキャプションおよび説明文には、絵画のタイトルが《ペルシャザルの祝宴》と表記されている。

しかし欽定英訳聖書(King James Bible)をみても新共同訳聖書をみても、作品の題材のもととなった「ダニエル書」には「ベルシャザル」(Belshazzar)とある。
おそらく誤植ではないかと思われるのだが、どうなのだろうか。


Rembrandt 'Belshazzar's Feast' (c.1635-38)

ともかくも、全体としては丁寧でやさしい解説書だったように思う。

"There's one thing," said I as we walked down to the station. "If the husband's name was James, and the other was Henry, what was this talk about David?"

"That one word, my dear Watson, should have told me the whole story had I been the ideal reasoner which you are so fond of depicting. It was evidently a term of reproach."

"Of reproach?''

"Yes; David strayed a little occasionally, you know, and on one occasion in the same direction as Sergeant James Barclay. You remember the small affair of Uriah and Bathsheba? My Biblical knowledge is a trifle rusty, I fear, but you will find the story in the first or second of Samuel."

---Conan Doyle, 'The Adventure of the Crooked Man'

中野京子 『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』

2014-08-03 19:25:34 | 書籍(美術書)

名画で読み解く ロマノフ家 12の物語
中野京子
光文社
2014
[以下、括弧内の数字は本書のページ番号を指す]

ロシア絵画が西洋美術史の枠組みのなかで論じられることはきわめて限定的だ。

そもそも西洋史家のなかには「ロシアをヨーロッパとカウントしない」(225)者も少なくなく、加えて「文学も音楽も絵画も政治を主題とするロシア」(191)のお国柄を踏まえれば、伝統的な西洋美術と接続させて論じることが難しいというのも無理からぬことのように思う。

1054年に東西教会が分裂して以降、ギリシアやロシアら東方正教会(ギリシア正教会)の文化圏ではイコン画の伝統が着々と発展していった。
ギリシアで生まれたエル・グレコも若き日にイコン画を制作している。


エル・グレコ 《生神女就寝祭

こうして西方教会の文化圏とは趣を異にする文化遺産を積み上げていったロシアでは、結果的にその独自路線が裏目に出たとでもいおうか、先進的な西洋諸国の美術作品の完成度に大きく立ち遅れていることへの危機感がしだいに募りはじめる。

やがてこうした危機意識に促されたピョートル大帝は、西欧諸国の視察を行い、数多くの美術品を収集することに力を注いだ。
そして、のちの啓蒙専制君主エカチェリーナ二世は西洋名画の購入に資金をどんどんとつぎ込み、こうしてロシアの地に集められた傑作群の数々が、「今や世界三大美術館の一つに数えられる」(109)エルミタージュ美術館のコレクションの基礎を築くこととなる。


エリクセンエカチェリーナ二世


エルミタージュ美術館 (ロシア)

西洋美術史の文脈のなかで言及されるロシア関連の事項となると、こんなところだろうか。

ピョートル大帝やエカチェリーナ二世がとりわけ危機感を抱いていた「文化的後進国」ロシアの現状は、19世紀に急転する。
まさに、「まるで長い眠りからふいに目覚めたように、凍土を押し上げて芸術がいっせいに花開く」(161)のがこの時代。

文学でいえばツルゲーネフやドストエフスキー、トルストイ、音楽ではチャイコフスキー、そして絵画では「ロシア屈指の画家」(156)レーピンが活躍し、こうした〈巨大河川〉が一気に「ヨーロッパへ逆流しだす」(161)。

このような文化的発展の背後に存在したロマノフ王朝の陰惨な歴史を紐解いていくのが、本書『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』である。

怖い絵」シリーズで有名な著者の中野京子氏は、もともと美術畑の人というよりは、ドイツ文学や西洋史を専門とされている方である。
このブログでも何度か中野氏の著作を取り上げてきたが、やはり歴史に関する確かな知識と理解に裏づけられた名画の解説は唸らされるものがある。

中野氏の視点と語り口は、本書においても名画とその背後の歴史の「怖さ」を増幅させる。

ロシアと絵画。
これまでスポットライトがあてられることは決して多くなかったが、掘り下げてみるとなかなか興味深い。
中野氏自身もブログでこう述べている。

「ロシア絵画はあまり知られていませんが、それは長いソ連時代があったせいです。レーピンをはじめ、すばらしい画家が実はたくさんいるんですよ。これを機会に興味をもってもらえますよう!」

最後に、レーピンの名画を三点載せておこう。


イワン雷帝と息子イワン


皇女ソフィア


ヴォルガの舟曳き

ロマノフ王朝。
その恐ろしさ。

"There is a mystery about this which stimulates the imagination; where there is no imagination there is no horror."
---Sherlock Holmes (Conan Doyle, A Study in Scarlet, Ch.5)

中野孝次 『ブリューゲルへの旅』

2014-06-07 22:19:18 | 書籍(美術書)

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ブリューゲルへの旅
中野孝次
文藝春秋
2004
(表紙カバー:ブリューゲル雪中の狩人》[部分])

「たしかに当時は、田舎者を笑いものにする風潮があったけれど、だからといって、シェイクスピアやブリューゲルが紳士気取りで田舎者を取り上げたとは思えない。ただ農村の暮らしは、ヒリアードの肖像画にあるような紳士たちの生活スタイルとはちがって、わざとらしい作法にとらわれたり、体裁を気にしたりすることもないので、人間性があらわになるというだけだ。だから、劇作家や画家は、人間の愚かさを暴き出そうとするときは、たいてい庶民の暮らしを題材にしたのだ」
―――ゴンブリッチ 『美術の物語』 (188頁)

昨年末に発売された雑誌「kotoba」の2014年冬号で、美術館についての特集が組まれた。(→参考
美術批評家のみならず、漫画家や建築家、絵画修復家ら様々な分野で活躍する執筆者たちが、それぞれ、美術館をめぐって論を展開した。


また、特集のなかでは、各論者おすすめの美術書も紹介されていた。
木村泰司氏はヴァザーリの『芸術家列伝』、茂木健一郎氏はモームの『月と六ペンス』を挙げていた。
いずれも、美術史上、また文学史上で無二の輝きを放つ古典として名高い。

   

さて、私がこのブログで何度か言及させていただいている中野京子氏と、フェルメール論をはじめとする著書で知られる朽木ゆり子氏の御二方は、同じ作品をおすすめの美術書として挙げていた。
それが、今回の『ブリューゲルへの旅』である。

両者のコメントを引用しておこう。

(中野京子氏)
ブリューゲル作品を通して熱く語られる、著者の懊悩、そして西洋文明への憧れと決別。今なお古びない絵画エッセイ。

(朽木ゆり子氏)
ブリューゲル"全点踏破"旅行記。私が原稿に行き詰ったときに読む本だ。絵に触発されて様々な思考が広がる様子が見事に描かれている。

二人の推薦の言葉に促され、私も読んでみた。

憂愁の旅路と趣ある語り口。
これぞ、何度でも繰り返して読みたくなるエッセイだ。
日本エッセイスト・クラブ賞」(1976年)を受賞したのも頷ける。

ブリューゲルのみつめる眼差しは、しばしば、どこか一歩引いたところから人々の営みや自然の有り様を眺めているところがある。
いってみれば、「静的」な絵が多い。
そして、その「静けさ」に、キーツのいうところのなお甘美なる「聞こえぬ調べ」を聴き取っているのが、中野孝次氏の語りなのである。

「写実」と「理想」の二項対立の概念もない、まさに原初の透徹した目で「ありのまま」の日常を描きとった画家の作品は、同時に、深い精神性をも湛えたものになっている。

「鈍重、無知、放埓、傲慢、怠惰、などの特徴、それから一種の不気味ささえも、ブリューゲルは見逃さなかった。にもかかわらず、彼の絵の世界は、それを包括する自然全体のなかで、人間と自然との宇宙的な調和に達していると感じられる。人間の現実をそのまま肯定している何かがあるのである。それはまさにふしぎな何か、あえていえば宗教的な救済の目とでも言うしかないが、わたしをひきつけてやまないのはそのところだ。これは単なる現実の研究だけからは生じ得ないものであろう。宇宙的空間のなかで彼自身をふくめて人間の生をそういうものとして限定し肯定させるに足る何かがあったのであろう」(91頁)

「『地上にあるのは一個のひとしい人生である。すべての人間は、一個のひとにすぎない。ひとりの自然な人間を見る者は、かれら人間全部をみる』。セバスチアン・フランクが言ったという言葉を、ブリューゲルは知っていたろうか。かれら一人ひとりの生命の絶対性の前に、理性がなんのかのと文句をつけたところで始まるまい。犬、人間、鶏、キリスト、狩人、農夫、岩塊、樹々、海、天体、すべてがそれ自身のなかに宿した生命にみちびかれて存続し、それぞれ単独者でいながら集って形成しているこの宇宙的生命のなかで、それをそのまま見ること、肯定すること、そのほかにどんな絵画の可能性があろうか」(98-99頁)

「見ているわたしを圧倒するような堅固な存在感でそこに描かれている醜い人びとを見れば見るほど、その一方でやはり考えずにいられない。ブリューゲルはどうも、かれらが社会の取りこぼし的存在だからかれらを描いたというだけではなさそうだな、と。彼には、ずっとあとにミレーが『落穂拾い』を描いたときのような、感傷的ヒューマニズムなぞぜんぜん見つけられない。ここに描かれた人物たちの途方もないふてぶてしさ、愚かさや醜さを意に介しない存在感を見ると、ブリューゲルは、かれらを社会の欠損、出来損ないなどと見ていたわけではなくて、これこそ十全な現実の人間像だと本気で信じていたとしか考えられないのではないか。中世と近代の中間に立つ巨匠の目には、人間とはこういうものとして存在し、それで充分不可欠なものだったのではないか。どうもそういう気がする、と」(133-34頁)

最後の引用におけるミレーとの比較は面白い。
たしかに、ブリューゲルの絵に感傷性は見受けられない。

あと、本書を読んで個人的に気になったのは20世紀の詩人W・H・オーデンの詩のひとつ「美術館」からの引用(134、177頁、→全文)。
この詩は、《イカルスの墜落》[なお、現在はブリューゲルの作ではないとの説が有力]をはじめとするブリューゲル作品にインスピレーションを受けて書かれている。


『ブリューゲルへの旅』―。

静かで、力強い、ブリューゲル賛歌。
「聞こえぬ調べ」の残響は、薄れゆくことを知らない。