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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ 「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」

2014-02-01 22:35:54 | 番組(美の巨人たち)


2014年2月1日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ 「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」

現在、渋谷のBunkamuraでは「シャヴァンヌ展―水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」が開かれている。
日本では初の本格的な回顧展である。

今でこそシャヴァンヌの名は(少なくとも日本では)決して広く認知されているわけではない。
しかし、本国フランスではなお国民的画家のひとりとして知られている。
加えて生前のシャヴァンヌは、同時代の多数の画家に影響を与えた人物として画壇の頂点に立っていた。

日本でもかつて明治から大正にかけて、「白樺」をはじめとする雑誌において紹介されていた。
だが、今ではもう、「忘れ去られた画家」といってよい。
番組内でも紹介されていたように、(日本において)シャヴァンヌが忘れ去られてしまったことには大きく二つの理由が考えられる。

ひとつは、画壇の趨勢である。
シャヴァンヌが主に活躍した19世紀後半というのは、フランスでは印象派が勢いを増していった時代であった。

結局はスーラやゴーギャンら(新/後期)印象派の画家に影響を与えることとなるシャヴァンヌではあったが、新たに台頭してきた「アクの強い」個性的な面々の陰に隠れてしまったのだろうか。
落ち着いた色合いを持ち味としたシャヴァンヌは、しだいに忘れ去られてしまった。

もうひとつは、シャヴァンヌの絵画制作の様式である。
シャヴァンヌを有名たらしめた作品の多くは、彼の「壁画」であった。
壁画は日本に持ってくることはできない。

話は変わるが、個人的意見として、日本で最も質の高い美術館は、徳島にある大塚国際美術館だと思っている。[→ Wikipedia該当ページ]

はっきりいって、「本物」の作品はひとつもない。
全て、レプリカだ。

しかし先ほど触れた、「日本には物理的に持ってこられない」壁画が数多く再現されている。
たとえば、ミケランジェロが天井画と祭壇画を描いたことで有名なシスティーナ礼拝堂や、ジョットのフレスコ画で知られるスクロヴェーニ礼拝堂など、空間的に「圧倒」させられる展示が多数ある。

加えて、レプリカのため経年劣化することもなく、写真撮影も自由だ。

この美術館の特徴のひとつは、とにかく作品の数が多いこと。
私も数年前に一度訪れたが、あまりの作品量の多さに完全に疲れ切ってしまった。

とはいえ「現物」をみようとなると欧米の国々を何か国も廻らなくてはならない(それはそれでもちろん趣のあることだが)作品が一堂に会していることを考えると、訪れた人にとって、非常に稀有な体験となることは間違いない。

閑話休題。

シャヴァンヌの作品は、先の記事で紹介した「モネ展」にも一点出展されている。(→ 《貧しき漁夫》(1881))

同作品にみられる「静謐さ」は、今回の放送で特集された《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》におけるそれとも通じるものである。

この「静謐さ」が、スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》に影響を与えているのだ。

ちなみに以前、このブログでスーラの同作品といわゆる「エルギン・マーブルズ」の関連性について触れた。(→ 2013年12月1日の記事
言うならば、スーラは、(区別するとなると)詩的霊感としてはエルギン・マーブルズの「静けさ」にインスピレーションを受け、技術的にはシャヴァンヌの「静謐さ」を受け継いだということになるだろうか。

他の画家への影響に関していえば、シャヴァンヌのアルカディア的牧歌性と洗練された装飾性は、それぞれ、ゴーギャンの「楽園」探究を促し、またマティスの無駄のない画面構成に受け継がれている。

自身はジョットから非常に影響を受けたというシャヴァンヌの壁画は、なにやら「霧がかった」ような淡い色合いに特徴がある。

こうした絵画技法に関して、番組内での解説を簡単にまとめると、以下のようになる。

壁画は、建築の一部である。
ゆえに、建築に溶け込む必要がある。
そうなると、壁画は決して目立ってはいけない。
建物の風合いにあわせた、やさしい色遣いで仕上げよう。

以前の記事でも少し触れたが、シャヴァンヌの壁画の特質もまた、「必然性」から生じる(逆説的な)「装飾性」そして「美」ということであろう。

また、番組内では「幸福感」という言葉を使っていたが、たしかにこの絵は、特に背景知識がなくとも、少なからず「癒される」。
観るだけで感じられる「幸福感」こそ、この絵の「新しさ」ということであった。

《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》では、様々な芸術の女神が擬人化されている。

「メタ絵画」なる用語があるのかどうかわからないが、もしあるとすれば、《諸芸術とミューズたちの集う聖なる森》は、諸芸術の女神の擬人化がなされているのみならず、壁画それ自体が、「幸福の女神」と呼べるのではないだろうか。

シャヴァンヌ展、近いうちに行こうと思う。

モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新

2014-02-01 17:26:54 | 美術展


モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新
[英題:Monet, an Eye for Landscapes: Innovation in 19th Century French Landscape Paintings]
(国立西洋美術館 2013年12月7日~2014年3月9日)

オスカー・ワイルドはその対話形式の評論「嘘の衰退」("The Decay of Lying" [→全文])において、「芸術が人生を模倣する以上に、人生は芸術を模倣する」(Life imitates Art far more than Art imitates Life)と述べた。

アリストテレス以来の模倣論の真逆を行くこの有名な命題(参考 "Life imitating art")に引き続き、ワイルドは次のようにも書いている。

「ゆえに、当然の帰結として、外界の自然もまた芸術を模倣する」(It follows, as a corollary from this, that external Nature also imitates Art)。

芸術が自然を模倣するというのはイメージしやすい。
絵画でいえば、外界の事象をどれだけ忠実にカンヴァス上に再現できるか、ということである。

それに対して、自然が芸術を模倣するというのは、一見「ありえない」ようにも思える。

だが、ひとつの例として、ターナーを考えてみよう。
ターナーは美術史上、初めて「空気」を描いた画家と呼ばれる。

たしかにレオナルドをはじめとするルネサンス期の画家も、いわゆる「空気遠近法」を用いた。
しかしその場合の「空気」とは、あくまで「手段」である。
ターナーのように、「空気」それ自体を「主題」として描いているわけではない。

ターナーの描いた、畏怖の念を喚起させるほどの自然の脅威(→「崇高(サブライム)」)は、観る人に新たな審美観をもたらした。
人々の「自然」を捉える眼が、それまでとは一変したのである。

今日、上野の国立西洋美術館で開催されているモネ展を訪れた。
この展覧会を貫く重要なテーマのひとつが、「自然」と「芸術」との相関関係であったことは論を俟たない。

展覧会のタイトル(「モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」)からも窺われるように、本展で重点的に扱われているのは、決して忠実にカンヴァス上に再現された「自然」ではない。
むしろ、(展覧会の広告の言葉を借りれば)画家の〈内なるヴィジョン〉を通して輝きを増し、新たな様相を呈した「自然」である。

余談になるが〈内なるヴィジョン [眼] 〉と聞くと思い起こされるのが、イギリス・ロマン派の詩人ワーズワースの有名な詩の一節である。

For oft, when on my couch I lie
In vacant or in pensive mood,
They [daffodils] flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude
         ("Daffodils" 19-22 [全文])

物思いにふけったうつろな心で
ぼんやりと長椅子に身を横たえていると、しばしば
あの[スイセンの]光景が、内なる眼に映りこむ。
これぞ、寂しきにありて(こそ)得られる至福に他ならない。


フランス革命に失望したワーズワースが、やがて心の内に「楽園」を作り上げようとしたように、モネもまた、(少なくとも初期の作品と比べて)非常に深い精神性を湛えた作品を生み出してゆく。

そのひとつの極致が、連作《睡蓮》であろう。

これは、(誰の目にも明らかなように)たんなる「写実」ではない。
画家は、単純に池の水とそこに浮かぶ睡蓮を描こうとしたわけではない。

空模様が水面に映る。
そして、(あたかも共感[synesthesia]するかのように)水面に映った自身の姿に導かれ、空模様までもが変容している。

これぞ、画家の〈眼〉である。

展覧会場では、モネの旧友クレマンソー("Personal life"の項目参照)の次の言葉が紹介されていた。

「先駆者モネの眼はわれわれの眼を導き進歩させ、この世界をより深く知覚させてくれる」

自然が芸術を模倣した瞬間であった。