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西洋美術関連ブログ 思索の断片
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テート美術館の至宝 ラファエル前派展―英国ヴィクトリア朝絵画の夢

2014-02-14 21:32:37 | 美術展


テート美術館の至宝 ラファエル前派展―英国ヴィクトリア朝絵画の夢
[英題:Pre-Raphaelites: Victorian Avant-Garde]
(森アーツセンターギャラリー、2014年1月25日~4月6日)
〔※以下、【】内は本展覧会「出品目録」に掲載されている通し番号を指す〕

昨日、展覧会を訪れた。

もう、言葉は要らない気がする。

英国美術の精髄。
「国宝」クラスの絵画の集結。

これだけの作品群を気前よく貸し出してくれたテート美術館に感謝するばかりである。(Wikipedia)

ロセッティ
    《見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)》(1849-50)【20】
    《ベアタ・ベアトリクス》(1864-70)【64】
    《プロセルピナ》(1874)【68】
ミレイ
    《オフィーリア》(1851-52)【6】
ハント
    《良心の目覚め》(1853-54)【41】。

まさに歴史を「切り開いてきた」画家たち。
上に挙げた傑作の数々は、その革新的な運動の息づかいをいまになお伝えている。

以下では、本展覧会で個人的に印象に残った画家とその作品を何点か挙げていきたい。

フォード・マドックス・ブラウン

本展覧会では、《ペテロの足を洗うキリスト》(1852-56)【21】をはじめとして、八点の作品が展示されている。
1月26日のブログ記事では、ブラウンの傑作のひとつといってよい《労働》(1852-63)について触れた。

風景画は除くとしても、大半の彼の絵画の特徴は、非常に多くの人物が描きこまれていることである。
《ペテロの足を洗うキリスト》しかり、《労働》しかり、《エドワード三世の宮廷に参内したチョーサー》(1850-68)【3】しかり。


[左:《ペテロの足を洗うキリスト》/中央:《労働》/右:《エドワード三世の宮廷に参内したチョーサー》]

《ペテロの足を洗うキリスト》に関しては、主題的に〈最後の晩餐〉へと続く場面にあたる。
〈最後の晩餐〉は、レオナルドの有名な壁画を挙げるまでもなく、個々の多様な人物表現に魅力があり、またそれゆえ画家の力量が問われる主題でもある。

フランスのカレーに生まれ、ベルギーで美術教育を受け、パリで画家修業をし、ローマでナザレ派の画家に教えを受けたブラウン。
ヨーロッパの各地を転々として技能を磨いてゆくなかで、多くの人に出会い、人物を捉える眼も鍛えられていったのであろうか。

ウィリアム・ダイス

ダイスの代表作《ペグウェル・ベイ、ケント州―1858年10月5日の思い出》(1858-60)【36】。
医者の父に影響を受け、科学への興味を深めていった画家は、敬虔なキリスト教徒でもあった。

本作の前景に描かれているのはダイスの家族である。
しかしこの作品は、決して「単なる」肖像画ではなく、また「ただの」風景画でもない。

図録の112頁にもあるように、「ダイスのより大きなテーマは、時間の経過についての深い思考であ」った。

悠久の時が流れる浜辺。
上空には彗星も描かれている。

本作の壮大な世界観にみとれていると、どうしても連想してしまうのが、フェルメールの傑作《デルフト眺望》である。
有名な話だが、2月4日のブログ記事でも軽く触れたように、20世紀を代表する小説家プルーストも『失われた時を求めて』のなかで、フェルメールのこの作品に言及している。

一応、並べておこう。


(左:《デルフト眺望》、右:《ペグウェル・ベイ、ケント州―1858年10月5日の思い出》)

ダイスの描いた壮大な世界観は、フェルメールのそれに勝るとも劣らない。
個人的には、今回の展覧会で一番印象に残った作品かもしれない。

ロバート・ブレイスウェイト・マーティノウ

我が家で過ごす最後の日》(1862)【45】。

まるで、ホガースの風俗画をみているようだ。
社会を風刺するユーモラスな眼差しと、「謎解き」(図版134頁)の要素。

ちなみにマーティノウは、「ホガース・クラブ」の会計係だったという。
思い起こせば、ホガースもまた、「十八世紀におけるアンチ・アカデミズムの代名詞的存在であった」。(『諷刺画で読む十八世紀イギリス―ホガースとその時代』271頁)

ホガースの代表作のひとつに連作《当世風の結婚》がある。
六枚から成る本連作の第二図と、今回のマーティノウの作品を比較してみよう。


[左:《当世風の結婚》第二図【部分】/右:《我が家で過ごす最後の日》【部分】]

二人の男性の姿勢と表情がどこか似ている気がするのは、果たして偶然だろうか。

感想としてはこんなところか。

今回言及した三名(ブラウン、ダイス、マーティノウ)は、(少なくとも)日本において、それほど知名度が高いとはいえない。
しかしその作品群は、少なからず興味深いものである。

他に印象に残ったものとしては、ロセッティの《ダンテの愛》(1828-82)【53】やバーン=ジョーンズの《夕暮れの静けさ》(1833-98)【71】といったところであろうか。

前者の作品(ロセッティ)に関していえば、もはやその世界観は、ラファエル前派も唯美主義も超えている。
モローやクリムトらが描き出した象徴主義の域である。

後者のバーン=ジョーンズの作品を一度見た人なら、誰でもレオナルドの《モナ・リザ》を連想するのではないだろうか。


[左:《モナ・リザ》/右:《夕暮れの静けさ》]

図録(188頁)でも両者の関連性を示唆している。

印象としては、レオナルドの「スフマート」以上に、バーン=ジョーンズの描いた画面は〈もや〉がかかっているようにみえる。
ファム・ファタール的な独特の魅力も備えているように思う。

それは懐古か、反逆か?

これは本展のキャッチコピーである。
ラファエル前派の運動がそのどちら寄りなのかという問題については、以前にもこのブログで触れた。

展覧会を観終えたいま、改めて書こう。

ラファエル前派の面々は、確かに〈ラファエロ以前〉に霊感源を求めた。
しかし彼らが何より望んだのは、〈変化〉だった。

保守的な画壇の体制を、内部から変えてゆくこと。

それは〈懐古〉などという生易しいものではない。
むしろ、きわめてエネルギッシュな運動であったはずだ。

だからこそ、「兄弟団」としての実質的な運動が数年で終わってしまったのであろう。

美と情熱。

ときに陳腐にも聞こえる言葉だが、彼らほど生き生きとその観念を体現していた連中はいないのではないか。

ラファエル前派が結成されるに至ったひとつの起源は、キーツの書簡(1818年12月31日)の一節に求められるという。

詩人は、ラファエロ以前の時代に制作された版画をみて、「完成品よりずっと素晴らしい」(even finer to me than more accomplish'd works)と称えた。
若き兄弟団の面々は、こぞって共鳴した。

続けて詩人が言った言葉は、ラファエル前派の作品、ひいては運動それ自体についてもあてはまるだろう。

「そこには、想像力を掻き立たせる豊かな余地があったのだ」(as there was left so much room for Imagination)。

*兎の象徴性*

2014-02-14 12:55:53 | 番外編


Daniel Tammet氏は"Different ways of knowing"と題されたTEDトークのなかで、英国ロマン派の詩人キーツの「聖アグネス祭前夜」の一節を引用している。

「野兎は寒さに震え、凍て付く草地を進みゆく」
"The hare limp'd trembling through the frozen grass"
                    ('The Eve of St Agnes' 3)

詩人はなぜ"rabbit"ではなく"hare"を用いたのか。
共感覚」をもつとされるTammet氏の分析は興味深い。

言われてみれば確かに、"hare"という単語は、耳で聞く限り、無意識に同音異義語"hair"を連想させる。
主体の脆弱性がいや増し、モノトーンな情景描写に緊張感を与えているという指摘は一聴に値する。

繊細な言語感覚をもつ詩人キーツが遺した印象深い〈兎〉の描写。

西洋絵画の歴史において、この動物には伝統的に様々な象徴性が付与されてきた。
ちなみにこのページのトップに貼り付けた画像は、ドイツ・ルネサンスを代表する(銅版)画家デューラーの手による"Young Hare"である。

岡田温司氏監修の『「聖書」と「神話」の象徴図鑑』では、94頁から96頁にわたって、〈兎〉の伝統的な象徴性について解説されている。

まとめてしまえば、〈兎〉の象徴性は主に次の三つに大別される。

1. 多産、豊穣、好色(色欲)

・〈兎〉の繁殖力の強さに由来するもの。
・子孫繁栄の願いを込めて、祝婚用の絵画に描かれることも。
・美と愛の女神ヴィーナスの持物(アトリビュート)のひとつとされる。
・〈七つの大罪〉のひとつに数えられる〈淫欲〉とも結びつく。(参考:ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』p.56)

2. ダイアナの狩猟

・月と狩猟の女神ダイアナの持物(アトリビュート)のひとつが〈射止められた兎〉である。
・フランス・ロココを代表する画家ブーシェの《ダイアナの水浴》の画面右下には〈射止められた兎〉が描かれている。(下図参照)




3. 人間の臆病さ

・(とりわけ)中世において、〈兎〉に追われる騎士の図像は、人間の小心や臆病さの象徴であった。
・ゴシック期の教会のレリーフやステンド・グラスでは、〈剛毅〉の図像の対比として描かれることが多かったという。

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以下では、最初に挙げた「多産、豊穣、好色(色欲)」の象徴としての〈兎〉について、例を挙げながらみてゆきたい。

聖母マリアの足元に白いウサギが描かれていることがある。
これは、〈兎〉の象徴する「色欲」に、マリアの「純潔」が打ち勝つことを示している。

まず、ヴェネツィア派の代表格ティツィアーノの《兎の聖母マリア》をみてみよう。(下図参照)



次に挙げるのは、初期フランドルの画家ヤン・ファン・エイクの《宰相ロランの聖母》である。
よくみてみると、中央左の柱の下で、〈兎〉が押しつぶされている。(下図[部分]参照)



「色欲」を示す〈兎〉の例としては、以下の三点がわかりやすい。

・ルネサンス期の画家ピエロ・ディ・コジモの《マルス、ヴィーナス、キューピッド



・同じくルネサンス期の画家ピントゥリッキオによる《スザンナと長老たち



・ティツィアーノの《聖愛と俗愛



以前にこのブログでも取り上げた高階秀爾氏の『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術』では、51頁から54頁にかけて、ティツィアーノの本作について解説されている。

二人のヴィーナス。
画面向かって左の着衣の女性が「俗愛」、右側の裸体の女性が「聖愛」を示す。

「俗愛」の背後には〈兎〉がみえる。
一方で「聖愛」の背後では、〈兎〉が猟犬に追い立てられている。

先ほど触れた、「色欲」を打ち負かす「純潔」を表す聖母マリアのヴァリエーションのひとつといってよいだろう。
もっとも、本作ではマリアではなくヴィーナスになっているが。

〈兎〉の象徴性について、少し気になったのでまとめておいた次第である。

なお、〈兎〉の象徴性の歴史については、宮下規久朗氏の『モチーフで読む美術史』(34~37頁)やWikipedia の"Rabbits and hares in art"の項目でも解説されている。

興味のある方は参照されたい。