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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

胸騒ぎの風景 ヴァロットン×角田光代

2014-07-27 10:55:51 | 番組(日曜美術館)

2014年7月27日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
胸騒ぎの風景 ヴァロットン×角田光代
[出演]角田光代氏(作家)、高橋明也氏(三菱一号館美術館 館長)
[VTR出演]滝本誠氏(映画評論家)、伴田良輔氏(写真家)

'Tis pleasant through the loopholes of retreat
To peep at such a world; to see the stir
Of the great Babel and not feel the crowd;
To hear the roar she sends through all her gates
At a safe distance, where the dying sound
Falls a soft murmur on the uninjured ear.
Thus sitting and surveying thus at ease
The globe and its concerns, I seem advanced
To some secure and more than mortal height,
That liberates and exempts me from them all.
(William Cowper, The Task [Book IV])

ロマン派の先駆けに位置する18世紀英国の自然詩人クーパーの穏やかな〈のぞき見〉とはおよそ異なり、19世紀末から20世紀初頭にかけて作品を制作した画家ヴァロットンの眼差しは、まさしく〈裏側の視線〉と呼ばれるにふさわしい不穏な緊張感をカンヴァスに張りつめている。


展覧会のポスターにも用いられている《ボール》もそうだ。
一見、何気ない穏やかな日常の一コマ。

しかし画面の左側から迫りくる影は、全体の半分を占め、いまにもその〈魔の手〉があどけない少女に襲い掛かろうとしているかのよう。
ワーズワースのThe Prelude(1805)のなかの有名な「ボート盗み」(Book I, 372-427)の一節を思い起こさせる。
まさに、"a dim and undetermined sense / Of unknown modes of being"(419-20)である。

長らく埋もれていた画家ヴァロットンの再評価の機運が高まったのは、昨年(2013年)フランス(パリ)のグラン・パレで開かれた回顧展でのこと。
この展覧会が日本に巡回して、現在(2014年6月14日~9月23日)三菱一号館美術館で「ヴァロットン展 ―冷たい炎の画家」が開かれている。

当初はナビ派の画家として作品制作に打ち込んでいたが、やがてそれこそ「のぞき見」の視線のように「距離」を置いて(distantiation)、独自の画風を模索していったヴァロットン。
日本の浮世絵からインスピレーションを受けて木版画制作に没頭したかと思えば、〈形態の美〉に取りつかれたかのように裸婦像を多く描いてもいる。


《赤い絨毯に横たわる裸婦》


《トルコ風呂》

さながらレンピッカのような形態志向で描かれた、大理石的な美の諸相である。


レンピッカ《緑の服の女》

澁澤龍彦が『裸婦の中の裸婦』 (河出文庫、2007年)でクラナハやブロンツィーノ、バルテュスらとともにヴァロットンの裸婦にも一章を割いているのはまさしく慧眼と言えよう。
(ちなみに同書は今回の番組のなかで紹介されたのだが、番組中はまだamazonに在庫があったものの、番組が終わったころには在庫切れになっていた。)

ヴァロットン。
裏側の視線と形態と裸婦と。


《夕食、ランプの光》

色彩はうたう ラウル・デュフィ

2014-07-13 11:12:45 | 番組(日曜美術館)

2014年7月13日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
色彩はうたう ラウル・デュフィ
[出演]日比野克彦氏(アーティスト)
[VTR出演]茂木健一郎氏(脳科学者)、ソフィ・クレプス氏(パリ市立近代美術館 主任学芸員)

色は本物の画家の唯一の手段だ。
真の画家は絵具だけで対象を作ろうとする。
対象とは場所、大きさ、形、固有の性質をもったなにかで、そのすべてが、目に見えるもののうちでこれほどはかないものはない、と思えるものによって表現されるのだ。
   ―――アラン 『芸術の体系』 (光文社古典新訳文庫、長谷川宏訳、350頁)

20世紀フランスの「色彩の魔術師」、デュフィ。
豊かで妙なる色の調べを奏でた画家は、同じく「色彩の魔術師」と謳われたマティスに強く感化されたひとりであった。
二人はともに、野獣主義(フォーヴィスム)の画家に数えられる。

フランスの港町ル・アーヴルに生まれたデュフィは、こんな言葉をのこしている。

絵画は海洋性気候からしか生まれない」。

「海洋性気候」という言葉の真意ははかりかねる。
海が作品制作の霊感源であったとも考えられるし、波の揺らめきを色彩の移ろいになぞらえているのかもしれない。
しかし少なくとも、実際、デュフィは青い色をよく用いた。


馬に乗ったケスラー一家


モーツァルトに捧ぐ

さて、トップに貼った作品(《ヴァイオリンのある静物:バッハへのオマージュ》)は一方で赤が目立つ。
これはあくまで推測の域を出ないが、マティスのある傑作が画家の脳裏にあったのではないだろうか。


赤い部屋

このマティスの作品には面白い話があって、もともとカンヴァスはすべて青色で埋め尽くされていた。
それを、のちに画家が赤色で塗りつぶした。

実際、端のところにはまだ少し青色の絵の具がみえている。
またタイトルも《赤い部屋》ではなく《青い部屋》だった。

以前に何かのテレビ番組で特集されていたように思うが、このマティスの絵画を使ってある実験が行われた。
この作品をいままで一度も見たことのない被験者を集めて、2グループに分ける。
一方には背景が青色のかつてのバージョンをみせ、もう一方には現在の赤いバージョンをみせる。
そして被験者の脳波を測定したところ、《青い部屋》よりも《赤い部屋》の方が圧倒的に「癒し」の効果がみられたという。

デュフィもまた、マティスの「癒し」を享受した一人だったのではないだろうか。
カンヴァスの大部分を占める赤色は、力強くも穏やかだ。

共感的(sympathetic)な色彩感覚をもった画家の作品をみて、鑑賞者は結びつく色同士の交わりに安らぎを感じる。

冒頭に引用したアランは、同書のなかでまたこう述べている。

一枚の絵が完成するには、絵が色の結びつきだけでまず人を惹きつけなくてはいけない。(・・・)さらにいえば、最初の感情が形をなし、多少とも色と結びつくすべての思考を、その形のうちに保持し、色という豊かな土台の上に共同の感情の宇宙を展開しなければいけない」(354頁)。

アランの言う「共同の感情の宇宙」が展開された作品こそ、デュフィの最高傑作といわれるこの作品だろう。


電気の精

この巨大な作品の全体は、こちらのサイトで確認できる。

ラウル・デュフィ、色彩のハーモニー。

バルテュス 5つのアトリエ

2014-05-25 11:16:31 | 番組(日曜美術館)

2014年5月25日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
バルテュス 5つのアトリエ
[出演]節子クロソフスカ・ド・ドーラさん(バルテュス夫人)

旅をするように各地のアトリエを転々と移動し、作品制作に打ち込んだバルテュス
パリで二ヵ所、その後はフランス・シャシー、ローマのヴィラ・メディチ、そして終の棲家となったスイスアルプスのロシニエール

ヴィラ・メディチやロシニエールへの移住については、アカデミーへの招聘や健康上の理由などいろいろあったそうだが、結果的に移り先で新鮮なインスピレーションを得て創作に打ち込んだことは確かである。

「自分の絵を理解したことはない。作品には意味がなくてはいけないのか」というバルテュス。
そもそもがこうした立場を表明している画家だけあって、作品自体に関する説明は決して多くのこされていない。
それが、後世の我々の作品をみる眼を混乱させている部分も少なからずあるのだろう。

また、バルテュスの「ステレオタイプ」にもなっているのが「ロリータ・コンプレックス」なのではないかという点。
たしかにバルテュスは「少女を天使のように描く」といった言葉をのこしている。
しかし単純に「ロリータ・コンプレックス」のひとことで片づけられる画家ではなかろう。

以前にこのブログでバルテュス展のレビューを書いたときに、バルテュスの少女画は、西洋絵画の伝統的な裸婦像をバルテュス的に変奏したものではないかと言った。
ホルマン・ハントの《良心の目覚め》の「前段階」が描かれているかのようなバルテュスの少女画は、それゆえ、「静けさ」のなかに「覚醒」への胎動を予感させる「不安定さ」に魅力がある。


ホルマン・ハント 《良心の目覚め》

そもそも、「ロリータ・コンプレックス」どうこうという話が始まった一因は、ナボコフの『ロリータ』(の初版?)にバルテュスの少女画が使われたこと。
この「事件」に、バルテュスは憤慨したという。

「私が理想とするのは、宗教的なモチーフを使わずに宗教画を描くことだ」。
神聖で、危なげで、そして、美しく。

バルテュスの少女画を生み出した、5つのアトリエという巡礼の旅。

ポップアートの奇才 ウォーホルを"読む"

2014-04-06 10:05:17 | 番組(日曜美術館)

ウォーホル 《マリリン・モンロー》 (1967年、アンディ・ウォーホル美術館)

2014年4月6日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
ポップアートの奇才 ウォーホルを"読む"
[出演] 秋元康氏(作詞家・放送作家)
[VTR出演] 佐藤可士和氏(アートディレクター)、布施英利氏(美術批評家)、エリック・シャイナー氏(アンディ・ウォーホル美術館館長)

アンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、ぼくの絵と映画、そしてぼくの表面を見るだけでいい。
そこにぼくがいる。
裏には何もない

ウォーホルの作品は、概して、表面的にはわかりやすい主題を扱っている。
しかし一歩踏み込むと、鑑賞者の多くは一瞬思考停止に陥る。

それから作品について思考をめぐらせようとした時点で、ウォーホルの〈勝ち〉である。
結局は、〈表面〉に戻ってくるのだから。

オスカー・ワイルドは小説『ドリアン・グレイの肖像』の序文で次のように書いている。

「すべての芸術は、すなわち表層と象徴でなりたっている。
危険を冒さなければ表層の下に踏み込むことはできない。
危険を冒さなければ象徴を読み取ることはできない」
(仁木めぐみ訳[光文社古典新訳文庫]、9頁)

ウォーホルの作品を観るにあたっても、「表層の下に踏み込むこと」は「危険」なのである。

20世紀初頭にデュシャンが発表した《》は、19世紀以前の美術界における「オリジナリティー」の概念を根本から覆すものであった。


デュシャン 《泉》 (1917年、オリジナル作品は現存せず)

ある種デュシャンが方向づけた20世紀の美術界において、ポップ・アートの巨匠と謳われるウォーホルもまた次のような言葉をのこしている。

「なぜオリジナルである必要があるのだろうか?」

〈オリジナルでない〉という点で〈オリジナル〉であった、稀有のアーティストである。

世紀末 祈りの理想郷 ~ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ~

2014-02-09 11:46:43 | 番組(日曜美術館)


2014年2月9日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
世紀末 祈りの理想郷 ~ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ~
[出演] 島田雅彦氏(作家)
[VTR出演] 原田マハ氏(小説家)、姜尚中氏(政治学者)、エメ・プライス氏(美術史家)

以前に「美の巨人たち」(テレビ東京)でシャヴァンヌが特集されたとき、その放送回をみた感想をこのブログに綴った。(→2014年2月1日の記事
今回は今朝NHK(Eテレ)で放送された同画家の特集回について。

シャヴァンヌがいまでは(少なくとも日本では)「忘れ去られた画家」であることは前掲のブログ記事で触れた。
その事実と関係があってかどうかは知らないが、少し探したところでは、なかなか参考文献が見当たらない。

ゴンブリッチの名著『美術の物語』(ファイドン、2011)でも言及はみられない。
昨日のブログ記事でも触れた高階秀爾氏監修の決定版『西洋美術史』(美術出版社、2002)で、図像が一点(《眠るパリの街を見おろす聖ジュヌヴィエーヴ》、p.148)と記述が数行(p.149)あるくらいである。

また番組内でも紹介されていたが、原田マハ氏の小説『楽園のカンヴァス』でも物語の導入部分でシャヴァンヌ作品への言及がある。(→ 《幻想》[大原美術館(岡山)蔵])

もう一点付け加えるならば、イタリアの現代作家タブッキの最近の訳書『夢のなかの夢』では、カバー表紙にシャヴァンヌの《》の一部があしらわれている。
タブッキの作品の感想については、また時間のあるときに書こうかと思う。

タブッキの『夢のなかの夢』を訳者の和田忠彦氏は「批評的断片」(p.144)と捉えているが、(昨日のブログ記事同様)断片的に放送回の感想を書いていこうと思う。

・姜尚中氏のシャヴァンヌ評:〈孤独の影〉というよりは、〈薄明の静けさ〉。
的を射ていると思う。

・〈癒し〉の効果。
普仏戦争敗北を受けて描かれた一連の作品群。
言われてみれば、〈ヒーリング・ミュージック〉のような優しい調べが聞こえてくる気がする。

・ゴッホが共鳴したシャヴァンヌ作品の精神性。
内面を見つめ、掘り下げる〉という姿勢に惹かれたと推測される。

・先ほどの原田氏への言及のところで触れたシャヴァンヌの《幻想》。
この作品にみられるような〈青がかった〉色調が、ピカソの「青の時代」に少なからぬ影響を与えた。

・普仏戦争からの復興を目指して、という〈ピュア〉なところから制作に打ち込んでいった。

・蜃気楼のようだ。

・写実は〈ああ似ている〉で終わろうとも、抽象は想像力をかきたてる。

・シャヴァンヌは独学者であった。
レオナルドの例を挙げるまでもなく、独学こそが道を切り開くというのはひとつの真理である。

・伝統から革新へという道筋。

・シャヴァンヌ作品における〈秩序と配置〉。
シャヴァンヌに影響を受けたスーラが、同じくインスピレーション源としたいわゆる「エルギン・マーブルズ」の本質は、同二点にあった。

・〈静謐さと永遠性〉。
まさにキーツが「ギリシア古甕のオード」で謳い上げた主題に通じる。

Heard melodies are sweet, but those unheard
Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;
Not to the sensual ear, but, more endear'd,
Pipe to the spirit ditties of no tone:
('Ode on a Grecian Urn', ll.11-14)

聞こえる調べは甘美だが、聞こえぬ調べ
なお甘美である。故に優しき笛の音よ、その調べを響かせ続けよ。
感覚としての耳ではなく、精神のうちに
いとしい旋律なき調べを届けるのだ。

・島田雅彦氏はシャヴァンヌ作品を「化石」と評した。
化石は一度埋もれる。
そして発見後、価値がいや増す。

・日本の震災の話も出たが、壊滅的な状況に陥ったとき、人が求める道はしばしば原点回帰であったりする。
シャヴァンヌの場合は、それが「祈り」(受け入れること)として作品に表象された。
言ってみれば、「壁画」も「祈り」も、それぞれ芸術と生活の〈原点〉に他ならない。

・《貧しき漁夫》。
同時代の印象派(例えばルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》)の華やかさとは好対照である。

まだシャヴァンヌ展を訪れていないこともあって全体像が見えておらず、ゆえにとりとめのないまとめになった。

最後になるが、芸術新潮2014年2月号(この号自体の感想はまた後日になろうか)ではシャヴァンヌの特集記事が数ページにわたって掲載されている。

そのなかでも語られているように、シャヴァンヌの作品には「物語的な背景はない」(p.109)。
またシャヴァンヌの絵は、よく言われるように、画面構成としての〈奥行き〉がない。

こうした二軸によって表象される〈平面性〉はどこに向かうか。

物語(絵画)のうちではない。
観る者の〈内面〉である。