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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

Workshop: Pre-Raphaelitism, Aestheticism and Japan (II)

2014-01-26 17:28:44 | 企画(講演会)
[続き]


(画像はこちらより)

Workshop: Pre-Raphaelitism, Aestheticism and Japan
(ワークショップ「ラファエル前派主義と唯美主義」)
筑波大学東京キャンパス文京校舎 2014年1月25日

1. Alison Smith (Lead Curator, British Art to 1900, Tate Britain)
―― Pre-Raphaelite Technique
2. Ayako Ono (Associate Professor, Shinshu University)
―― Whistler, Japonisme and Japan
3. Kazuyoshi Oishi (Associate Professor, The University of Tokyo)
―― Romanticism, Pre-Raphaelites, and Japan
4. Yasuo Kawabata (Professor, Japan Women’s University)
―― Ruskin, Morris and Japan in the 1930s
5. Tim Barringer (Paul Mellon Professor, Department of the History of Art, Yale University)
―― Politics and the Pre-Raphaelites
6. Jason Rosenfeld (Distinguished Chair and Professor of Art History, Marymount Manhattan College)
―― Pre–Raphaelites in Pop-Culture

[関連美術展]
・「ラファエル前派展」(2014年1月25日~4月6日、森アーツセンターギャラリー )
・「ザ・ビューティフル(唯美主義)展」(2014年1月30日~5月6日、三菱一号館美術館)
・「ホイッスラー展」(2014年9月13日~11月16日、京都国立近代美術館/2014年12月6日~2015年3月1日、横浜美術館)

――――――――――――――――――

昨日は前半の三名の発表に関してその内容をまとめた(→ 1月25日の記事)。
今日は後半の三名に関して。

まずはYasuo Kawabata氏。
Wikipediaの著者ページのリンクを貼り付けておいたが、モリスやラスキンの著作をはじめとして、ラファエル前派の活動に関わった人物の著作を多数翻訳されている方である。
近訳には岩波文庫から昨年の夏に刊行されたモリスの『ユートピアだより』がある。

今回のワークショップ(注:タイトルは"Pre-Raphaelitism, Aestheticism and Japan")で発表された六名のなかで、最も"Japan"すなわち、日本における19世紀英国美術の「受容」の側面に重点を置いた発表であった。

発表のなかで主に言及されていたのは次の二名。
御木本隆三氏と大槻憲二氏である。

御木本氏はラスキン文庫の立ち上げに携わったことで有名だ。
私も(特に会員というわけではないが)ラスキン文庫主催の講演会には何度か行ったことがある。

一方で大槻氏は精神分析学者である。
モリスに関する著作や訳書も出しておられる。

二人とPRBの周辺人物との交流について紹介されていた。
ちなみに発表タイトル("Ruskin, Morris and Japan in the 1930s")にある「1930年代」というのは、1834年に生まれたモリスの生誕100周年にあたる時期に、日本でモリス受容が盛んになったことと関連がある。

続いて五番目に発表されたのは、Tim Barringer氏。
タイトルは"Politics and the Pre-Raphaelites"。

氏も発表冒頭で述べていたが、頭韻(alliteration)が踏まれている両語(Politics/Pre-Raphaelites)は、通常、なかなか結びつくものではない。
マルクスの影響を受けて社会主義へと傾倒していったモリスは措くとしても、他のラファエル前派の画家たちは、特別何らかの政治性をむき出しにした作品を遺しているわけではない。

しかし歴史を振り返れば、ラファエル前派兄弟団が結成された1848年は、英国でいわゆる「チャーティスト運動」が最後の高揚をみせた年でもある。
氏の発表によると、(少なくとも)初期のPRBはこうした運動に共鳴し、実際に数名が、いま貼り付けたページのトップの絵画で描かれているような集会に参加していたという。

PRBの面々を駆り立てたのは、特別な政治的志向の問題というよりは、アカデミズムに代表されるいわゆる「エスタブリッシュメント」への反抗の思いが強いのだろう。

また、氏は発表のなかで様々な絵画作品に触れていたが、なかでも中心的に取り上げられていたものが、フォード・マドックス・ブラウンの描いた"Work"である。
画家自体は日本で決して一般的に有名とはいえないが、彼の作品のうちで最も完成度の高いもののひとつがこの"Work"である。

氏の指摘によると、中央左の背筋の良い男性像(労働者)は、有名な彫刻作品"Apollo Belvedere"の優美さを受けたものであるという。
この作品には他にもホガースの《ビール街》(cf. "Beer Street and Gin Lane")へのオマージュがみられ、細部まで凝った、大変興味深い作品となっている。

モリスほど極端ではないにせよ、ひとことでいうならば〈労働賛美〉ということだろう。
こうした政治性に関しては、氏自身による著作Reading the Pre-Raphaelitesに詳しく書かれているという。
また機会があれば読んでみたい。

では最後の発表者に移りたい。
ラファエル前派と現代の「大衆文化」との関連を紹介されていたJason Rosenfeld氏である。

確かに「ラファエル前派兄弟団」の実質的な活動は数年で終わった。
しかし彼らの精神は、今でもなお息づいている。

氏は現代の様々なメディア表象におけるPRB的要素(とりわけその強烈な女性像との関連)を挙げておられた。
例えば、ディズニー映画"Brave"(2012)における印象的な女性像、またKirsten Dunst主演のハリウッド映画"Melancholia"(2011)におけるミレイの《オフィーリア》へのオマージュ。

PRBの面々が"Stunner"といって讃えた彼らのミューズたちは、今でも我々を「打ち負かす」。

このように、発表者各六名は実に多面的にPRBをはじめとする19世紀英国美術の諸相を捉えたのだった。

ここからは講演全体を通しての雑感を述べる。

・ラファエル前派にしても唯美主義にしても、共通していたのは、インスピレーションを「ピュア」なところに求めたということではなかったか。
PRBにとってはアカデミズムの手垢に染まる前の「純粋な」絵画様式であり、唯美主義の二大源流「古代ギリシア」と「日本」に関しては、いずれも(少なくとも)当時の大陸の人々にとって、「聖性」さえももちうるほどに自分たちとは異なる文脈で完成された、新鮮でかつ色あせぬ美であった。

・ラファエル前派展のキャッチコピーに「それは懐古か、反逆か?」というのがある。
個人的には「反逆」的側面が強いのだろうなとは感じていたが、一方で「懐古」的側面も否定しきれずにいた。

しかし今回各発表を聞いていて、やはり「反逆」の方が大きいのだろうなとの確信が強くなった。
発表者のひとりが最後の質疑応答のときにモリスの『ユートピアだより』を引き合いに出して言っていたが、PRBの活動は単なる"looking-back"ではない。

モリスの著書にあらわれているように、彼らが志向したのはむしろ、〈未来〉の方である。
保守的なアカデミズムに〈未来〉はないとも感じたのであろう。

彼らは保守的な画壇の体制を〈変えてゆく〉ことに意義を感じていたのである。

最後の雑感に関してはまったくとりとめのないものになってしまったが、ワークショップ全体としては、極めて刺激的で、有益なものだったように思う。

各関連展覧会の盛り上がりを祈念したい。

Workshop: Pre-Raphaelitism, Aestheticism and Japan (I)

2014-01-25 19:35:12 | 企画(講演会)

(画像はこちらより)

Workshop: Pre-Raphaelitism, Aestheticism and Japan
(ワークショップ「ラファエル前派主義と唯美主義」)
筑波大学東京キャンパス文京校舎 2014年1月25日

1. Alison Smith (Lead Curator, British Art to 1900, Tate Britain)
―― Pre-Raphaelite Technique
2. Ayako Ono (Associate Professor, Shinshu University)
―― Whistler, Japonisme and Japan
3. Kazuyoshi Oishi (Associate Professor, The University of Tokyo)
―― Romanticism, Pre-Raphaelites, and Japan
4. Yasuo Kawabata (Professor, Japan Women’s University)
―― Ruskin, Morris and Japan in the 1930s
5. Tim Barringer (Paul Mellon Professor, Department of the History of Art, Yale University)
―― Politics and the Pre-Raphaelites
6. Jason Rosenfeld (Distinguished Chair and Professor of Art History, Marymount Manhattan College)
―― Pre–Raphaelites in Pop-Culture

[関連美術展]
・「ラファエル前派展」(2014年1月25日~4月6日、森アーツセンターギャラリー )
・「ザ・ビューティフル(唯美主義)展」(2014年1月30日~5月6日、三菱一号館美術館)
・「ホイッスラー展」(2014年9月13日~11月16日、京都国立近代美術館/2014年12月6日~2015年3月1日、横浜美術館)

筑波大学の山口惠里子氏が中心となって企画された今回のワークショップ。
ラファエル前派展の会期初日でもある今日、六名のスピーカーがそれぞれ異なる視点から19世紀英国の芸術運動を捉えた。

最初の発表者Alison Smith氏は技法面からPRBの絵画を分析した。
ラファエル前派の画家たちが、保守的なアカデミズムに反発したのは、画題や構図においてだけではない。
それらに付随する絵画技法においても、レノルズを筆頭とする当時の画壇と真っ向から対立した。

ラファエル前派の画家たちは、当時の画壇の保守的な空気のみならず、その絵画技法にも「息苦しさ」を覚えた。
暗褐色をよく用いたアカデミズムの絵画は、よく言えば「荘重」であり、PRBからすれば「重苦しい」ものであった。

PRBの画家が、いわゆる「ラファエロ以前の画家たち」の絵画に求めたもののひとつは、「宝石のような透明さと清澄さ」("jewel-like transparency and clarity" ["Early doctrines"の項(Wikipedia)を参照])であった。
いま貼り付けた頁でも言及されているように、とりわけミレイやハントは、まだ乾ききっていない白地に薄くのばした顔料を塗り、「宝石のような」輝きを求めた。

「光」の追及という点では印象派と似ている。
しかし「純粋さ」を「獲得する」というPRBの行為は、ゴンブリッチの言うように「自己矛盾の試み」(『美術の物語』390頁)であり、決して大きく花開くことはなかった。

少なくとも後世への影響という点でいえば、同じアバンギャルドな運動でも、軍配は印象派に上がることを認めざるを得ない。

二番目の発表者はAyako Ono氏であった。
今年の秋から日本で展覧会が開かれるホイッスラーについて、日本との関連からお話をされていた。

最初のSmith氏がPRBを中心に扱ったのに対し、こちらの発表は、いわゆる「唯美主義」に分類される内容のものである。
「唯美主義」には大きく二つの系譜がみられる。

一方は霊感源を古代ギリシアに求め、他方は日本に求めた。
しかし両者は特別対立していたというわけでもなく、それは展覧会の広告に引用されているホイッスラーの次の言葉からも明らかである。

「美の物語は、パルテノンの大理石が刻まれ、北斎が、扇の富士山の麓に鳥の刺繍をした時にすでに完成している」(ホイッスラー『10時の講演』)。

ホイッスラーというとミスター・ビーンの映画のイメージくらいしか沸かないが、時間があれば、美術展に行ってみたい。

三番目の発表者はKazuyoshi Oishi氏。
文学が専門の氏の発表では、キーツや漱石をはじめとした多くの文学者の作品が取り上げられた。

そうした作品において表象されているものと、PRBの芸術運動との接点を探ってゆくという試みである。

言及されていた詩人や作家(の作品)を挙げておこう。

キーツの「レイミア」や「つれなき美女」、蒲原有明の「人魚の海」といったファムファタール的要素をもった作品。
また「人魚の海」の解説ではコールリッジの「老水夫の唄」についても言及されていた。

加えてイギリス文学でいえばワイルドの'The Harlot's House'、コールリッジの'Love'も引用されていた。

日本文学でいえば、漱石の『草枕』。
他にもラフカディオ・ハーンや日夏耿之介、上田敏、尾崎紅葉など枚挙にいとまがない。

文学、絵画、様々な作品が取り上げられていたが、キーツからPRB、そしてデカダンスに至るまでの芸術運動の本質の一つを"melancholic beauty"にみたという点において論旨は一貫していた。
この三つを一括りにしたのは、これらがほぼ同時期に日本に入ってきたため、少なくとも当時の日本人にとってはそれぞれなかなか区別しがたいものでもあったという背景も絡んでいる。

"melancholy"を、決して病的なものではなく、魅力的なものとして捉える。
その態度が芸術作品を生み、日本でも広く受容された。

...長くなってしまった。
ここまでの前半の三名をパートIとして、後半の三名に関してはまた改めて書くことにしよう。

永遠の異邦人 ~藤田嗣治・知られざる実像~

2014-01-19 10:18:39 | 番組(日曜美術館)


2014年1月19日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
永遠の異邦人 ~藤田嗣治・知られざる実像~

現代は「グローバル化」の時代といわれる。

もともとはネットや経済の世界で使われる用語だったと思われるが、言葉が人口に膾炙してくるや、近ごろでは教育の現場にまで足を踏み入れてくるようになった。

都合のいい言葉だ。
逆にいえば、これほど実体のない言葉はない。

政府やマスコミが「グローバル化」と喧しく叫ぶとき、いつも疑問を抱く。
いったいどこを目指しているのか、と。

先日このブログで藤原正彦氏に言及した。
(→ 2014年1月14日の記事

藤原氏の近著『管見妄語 グローバル化の憂鬱』の紹介文にもあるように、「『グローバル化』とは、米英の英語帝国拡大主義に他ならない」のである。

小学校から英語を教えようとする動きがある。
恐ろしいことに、流れはどうやら本格化している。

マスコミの「英語」の取り上げ方をみていていつも思うのは、なにやら英語を「ファッション感覚」で身につけようとしているのではないかということだ。

教育が時代の波に対応していくことは必須だ。
技術力の向上(たとえば電子黒板)とともに、教育現場が必要に応じて様変わりするのはもちろん大事なことだ。

ただ、英語は別だ。
小学校、あるいは幼稚園のころから英語を学ばせようとする学習方針の家庭は、それはそれで尊重しなくてはならない。

しかしなぜ、国の統制が入るのか。
米英の「亡霊」に勝手に怯え、ただ踊らされているだけのようにしか思えない。

どうして「必修科目」で教える必要があるのか。
もちろん、時代を担ういわゆる「エリート」には、母語以外の言語でも「戦える」力を備えておくことが必須であろう。
しかしどうして、わざわざ義務教育のカリキュラムという貴重な時間を割いて、英語に捧げる必要があるのか。

英語ができればそれはそれで越したことはない。
しかし小学校で教えるべき内容として、「優先順位」というのをよく考慮する必要がある。

英語は決して先頭には来ない。
明らかに「ファッション感覚」でやっているようにしか思えない。

言語学の専門的な見地からいえば、第二言語習得においては「臨界期仮説」というのが科学的に認められている。
すなわち、子供はある一定の年齢を過ぎると母語以外の言語の習得が、少なくともいわゆる「ネイティブ」レベルにまでは達しえないとされる考え方だ。

これは科学的に根拠があることだ。
だから先ほども言ったように、「そういう」方針の家庭は、それはそれで尊重すべきである。

しかし国が上から強制する意味もメリットもまったくわからない。

「枕」が長くなったが、いまの日本人が目指すべき、真の「国際人」のあり方を示したひとりが、藤田嗣治ではなかったか。

今回の番組タイトル「永遠の異邦人」というのはまさに言い得て妙である。

藤田は「世界人」を目指した。
あくまで日本人として、世界を渡り歩く。

番組内で紹介されていた内容によると、この思想は、藤田が『腕(ブラ)一本』という文書のなかで示しているものだそうだ。
講談社文芸文庫にその文書を収録したものがあるようなので、時間があるときに読んでみたい。
(→ 『腕一本・巴里の横顔』)

日本人として、日本人たる「礎」なしに世界へ出ていっても笑われるだけだ。
いわゆる英語ができてもその中身は"airhead"というやつだ。

ついでになるが、先ほども触れた番組タイトルの「永遠の異邦人」というのは複数の含みがある。

パリへ出向いた藤田は、当時のフランス人のなかにあって、「異邦人」であった。
日本人として、強く、生きようとした。

もう一つ、彼がフランスで名声を得てから日本に帰国した際、藤田は日本の画壇から冷たい視線を浴びた。
〈日本趣味かなにか知らないが、単に面白がられていただけ〉と馬鹿にされた。

故郷の日本に帰ってきても、彼は「異邦人」扱いされたのだ。
しかしこれは、のちに彼の作品に「プラス」に作用することになる。

「異邦人」たる藤田の目は、とりもなおさず「アウトサイダー」として物事を見つめるようになった。
一見何気なく過ぎてゆく日常が、藤田の目を通すと輝きを増した。

そのひとつの頂点が、このページのトップに貼り付けた《秋田の行事》である。
巨大な作品だ。

サイズもそうだが、藤田が西洋と日本で培った、古今東西の画風や精神、そしてそれをみずからの内で吸収して昇華させた、その結晶が、質的な「大きさ」となってあらわれている。

真の「国際人」、ここにあり。

エドガー・ドガ「マネとマネ夫人像」

2014-01-18 22:40:05 | 番組(美の巨人たち)


2014年1月18日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
エドガー・ドガ「マネとマネ夫人像」

現在地上波で放送されている数少ない美術番組のひとつが「美の巨人たち」である。
BSはいざ知らず、地上波の番組でもっぱら「美術」を扱っているものとなると、思い浮かぶのは「日曜美術館」(Eテレ)、「美の壺」(〃)そして「美の巨人たち」(テレビ東京)くらいである。

このうち「美の壺」に関しては、実際に放送をみたことがないのでなんともいえないが、番組HPをみる限り、扱われているのはいわゆる"fine arts"というより、ウィリアム・モリスのいうところの"lesser arts"に近いのだろう。

念のために断わっておくが、むろんモリスはこの"lesser"という単語を否定的な意味で用いていない。
小野二郎氏が『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』のなかで述べているように、「モリスが小芸術(レッサー・アーツ)というのは、いわゆる装飾芸術、彫刻や絵画といった大芸術に対してそう呼ぶもので、『日常生活の身のまわりのものを美しくする』芸術の総体をいう」(163頁)。

中世に憧れを抱いたモリスにとっての「美」とは、素朴(シンプル)で美しく、かつ有用なものであった。
こうした「美」で生活を満たそうとする思想が、マルクスに影響を受けた彼の社会主義運動と結びついていく。

話が脱線した。
ともかく、"fine arts"を扱っている地上波の番組は「日曜美術館」と「美の巨人たち」くらいといってよい。
(放送大学の提供しているプログラムに関しては、構成された「番組」というよりは、一種の「講義」に近いのでここでは省く)

先ほど、今週の「美の巨人たち」の放送をみていた。

「美の巨人たち」には、ほとんど毎回といっていいだろうが、「絵画警察」なる組織の人物が登場する。
このページの下部でまとめられているように、番組内で取り上げられる作品によって、それぞれの国の「警察」が「事件」にあたる。

コミカルな彼らの「事件捜査」は、美術になじみのない視聴者であっても取っつきやすくなるような視点を提供してくれる。
(シャーロック・ホームズであれば、レストレード警部に対して彼が冷ややかな態度をとるのと同様に、ともすればこの「愉快な人たち」をまともに相手にしないかもしれない)

いつもは「事件」といっても名ばかりのものだが、今回の放送は違う。
まさに「事件」が起こった。

このページのトップに貼り付けた、現在日本の北九州市立美術館に収蔵されているドガの《マネとマネ夫人像》。
ドガが友人のマネに送ったこの絵を、マネは切り裂いた。

ちょうど妻の顔のところで切られている。
はたして真相は・・・。

いきさつを知らずにこの絵をみたら、現代的な解釈もできるかもしれない。
ちょうどモディリアーニがあえて目を描き入れなかったことで作品に一種の「聖性」を付与したように、マネもなんらかの芸術的効果を狙って切断したのではないかと。

実際、番組のなかで「絵画警察」の一人は個人的な見解を示し、「アヴァンギャルドな行動ですね」と述べていた。
こんなことを言っているからホームズに笑われる。

真相をいえば、この絵が描かれた当時、マネは妻以外の女性に恋心を抱いており、複雑な状況にあった。
その女性こそ、ほかならぬベルト・モリゾである。

恋多きマネ。
夫婦の倦怠の様を、ドガはその透徹した目で捉え、二人の「心の中」までも描き出した。

マネにとって、これは具合の悪いことであった。
怒りにくるい、絵を切断した。

しかし同時に、恐ろしいまでのドガの才能に感嘆した。
彼の絵には人物の感情が透けてみえる。
ドガは、モデルの心の奥底までを描きだしていたのだ。

「青春の傷跡」。
番組の終わりにそういった言葉が使われていた。

今回の「事件」に限らず、マネとドガはしばしばケンカし、そのたびに和解してきた。
これも、二人の友人が「ライバル」としても互いに認め合っていた証拠である。

実際、二人はこの「事件」ののち、一度ならず同じ主題を同じような時期にカンヴァスに描き、微笑ましい「対決」を繰り返してきた。
「マネとマネ夫人像」と入れて検索するといろいろなページが出てくるが、ざっとみているとマネが怒りに満ちてカンヴァスを切り裂いたという悲劇的な事件のように思われるが、物語はまだ終わっていなかった。
二人はこれをひとつの期に、互いをさらに認め合い、友情を深めていった。

今回扱われた「事件」は、舞台にもなったそうだが、番組をみていて本当にミステリードラマをみているような気分だった。

なんらかのミステリー小説になってもおかしくない。
複数の人物が絡み合い、最後に意外な人物が関わってくるというのもミステリーに向いている。
(切り裂かれた絵画にカンヴァスをあてがい、おまけに"Degas"と右下にサインを入れたとされるのは画商だった!)

「絵画警察」が、いい仕事をした。

BM(美術の杜) vol.33

2014-01-14 10:46:11 | 雑誌

(画像をクリックするとアマゾンへ)

BM(美術の杜) vol.33
美術の杜出版
2014

藤原正彦氏の文章が好きだ。

数学者にして、『国家の品格』の著者。
本質を的確にとらえる目と情緒あふれる言葉遣い、そしてユーモア。

山本夏彦氏をして「時代遅れの日本男児」と呼ばしめた男。
軽薄で上っ面なことばかり言ってる人よりよっぽどいい。

昨日、藤原氏の『管見妄語 大いなる暗愚』(新潮文庫、2012)を読んでいた。
氏が2009年から2010年にかけて「週刊新潮」に寄せた連載コラムを集めたものだ。

時事的な話題も多く扱っている。
往々にしてこうした時事評論は即時性がものをいい、ときが経つとその意義とインパクトは薄まってしまうものだ。

しかし執筆から数年たった今でも、藤原氏の時事評論はなお新鮮さを失っていない。

ひとつには、藤原氏の目が、時代の潮流とともに移り変わる浅薄な対象ではなく、いつの時代にも通じる、「歴史に学ぼうとしない」(38頁)人間の「愚かさ」の本質を捉えているからであろう。
そしてもうひとつ挙げられるのは、数年たっても、日本の政治・社会問題が、うわべだけの「改善」や「改革」に終始していることの証左でもあろう。

ともあれ、氏の『管見妄語 大いなる暗愚』、そのユーモアあふれる語り口、大いに楽しませてもらった。
この本のなかで、興味を引いた文章のひとつに、「立ち読み文化とチャタレイ夫人」(114-16頁)と題されたコラムがある。

氏曰く、「日本には世界に誇る立ち読み文化があった」(114頁)。

冒頭には、あくまで数十年前の逸話ではあるが、アメリカ人女性が日本の書店で体験したカルチャーショックについて書かれていた。
立ち読み客で本屋が一杯になるというのは、日本ではかなり以前から日常的といってよい光景だが、欧米では、少なくとも当時は、稀有なことだったという。

さすがに今では書店の主がハタキをもって長居する客を払うといった光景はみられなくなったが、立ち読み文化の伝統は、電子書籍が台頭してきた今日にあって、なお受け継がれている。

さて、私も先日、見出しにある一冊の雑誌を書店で立ち読みしていた。
アマゾンで「ラファエル前派」と入れて検索したところヒットしたが、今まで手に取ったことのない雑誌だったので、買うにしても内容を確認してからにしたいと思ったからだ。
(値段が決して安くはないということもある)

このブログでは昨日、「アートマインド」という雑誌のラファエル前派展に関する特集記事について書いた。
(→ 2014年1月13日の記事

昨日は雑誌記事の内容に関して、多少批判めいたことも書いたが、「BM(美術の杜) vol.33」の記事は、あくまでイントロダクションのレベルにとどまるものではあるが、よく視点の行き届いた、良質の記事だったように思う。

記事の著者は長谷川栄氏。
リンクも貼り付けておいたが、いくつもの美術館の館長を務められた、輝かしい経歴をお持ちの方である。

記事は三つの章にまたがる。
第一章ではラファエル前派展と唯美主義展に関して、両者の展示内容の概要、関連性について触れられていた。

第二章ではラファエル前派展、第三章では唯美主義展に関して、ヴィジュアル・イメージを用いつつ、それぞれ目玉となる出展作品を挙げて簡潔な解説を寄せておられた。

記事の内容自体は、先ほども言ったように、良質だった。

しかしこの三章は、トータルで16頁(30-45頁)。
雑誌の総ページ数は、439頁にも及ぶ。

持っただけでかなりズッシリと感じられる。
加えて、ラファエル前派展と唯美主義展をあわせた計16頁以外は、はっきりいってラファエル前派とも唯美主義とも全く何の関係もない。

そして価格は2000円。
記事が良質であることは認めるが、少なくともラファエル前派展あるいは唯美主義展にのみ関心がある読者にとっては、決して相応の値段とは言えない。

昨日同様、買うことはなかった。