leonardo24

西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術』

2014-02-08 18:42:01 | 書籍(美術書)

(画像をクリックするとアマゾンへ)

ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?―ギリシャ・ローマの神話と美術
高階秀爾
小学館
2014

神戸には「北野異人館街」と呼ばれる観光スポットがある。
明治期以降に建てられた洋風の建築が立ち並び、伝統的建造物群保存地区にも指定されている。

イタリア館やオランダ館など、様々な国の「異人館」が現存している。
なかでも英国館は、日本で初めてシャーロック・ホームズの部屋を再現したことで知られ、観光客の人気を博している。

私も数年前に訪れたが、天候が良かったこともあり、非常に美しい景観を堪能させてもらった。

異人館が立ち並ぶ街並みには、各国の輸入商品をそろえているグッズショップもある。
時間があった私は、ギリシア直輸入の品物を揃えている店に入った。

そこで購入したのが、トップの画像にも映っているミロのヴィーナスのレプリカであった。
土台部分を合わせ、大きさにして約20cm弱に縮小されたミニチュア版の彫刻である。

料金は確か3000円ほどしたのではなかったか。
懐かしい思い出である。

「ミロのヴィーナス」と聞いて思い出すことがもうひとつある。
以前に大学で、ギリシア美術史の専門家でおられる中村るい氏(訳書に『古代地中海世界の歴史』や『ギリシャ美術史―芸術と経験』がある)の講義を受けていたときのこと。

中村氏は(私の記憶が確かならば)次のように仰った。

「ミロのヴィーナスは、決して傑作ではない。」

曰く、ミロのヴィーナスが注目に値するのは、決してその完成度の高さに由来するものではなく、(言ってみれば)〈資料〉として〈貴重〉だからである。

現存する古代彫刻のほとんどはいわゆる「ローマン・コピー」である。
その一方で、ミロのヴィーナスはヘレニズム時代に作られたと推定され、いわゆる「グリーク・オリジナル」(Greek Original)に分類される貴重な彫刻である。

あたかも日本における(西洋)美術史研究の泰斗である高階秀爾氏の著作(『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?』)の主題を根本から否定するような発言である。
しかし、今回取り上げる著作における高階氏の論をたどってみると、実際には両者の考えの〈根っこ〉は同じなのではないかと感じた。

ちなみに書籍のタイトルには「ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?」とあるが、本(10章に分かれている)のなかで同彫刻を扱っているものは最初の一章だけである。
それはともかくとして、33-34頁にわたって書かれてある高階氏の論旨は以下のものである。

ミロのヴィーナスは、それ自体が「傑作」であるがゆえに「傑作」と呼ばれるにふさわしい、というのは本質を突いているとはいえない。
後世の芸術家は、ミロのヴィーナスを「造形表現の基本」として捉え、「傑作」であるかどうかのひとつの「基準」をミロのヴィーナスに求めた。

ミロのヴィーナスは、「その後のヨーロッパ美術を生み出す源泉となってきた」という歴史をもつ。
そして、その「歴史」が、ミロのヴィーナスを「傑作」にした、とみるのが妥当である。

ミロのヴィーナスそれ自体が「傑作」というわけではない、という点において、中村・高階両氏の見解は一致をみているといってよいだろう。

英国ロマン派の詩人たちの目を引き付けたのは古代ギリシア彫刻の〈断片性〉であった。
それに倣うわけではないが、以下に本の感想を〈断片的に〉書いていこうと思う。

・(p.40) ヴェロッキオの《キリストの洗礼》とボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》の構図的相関関係、興味深かった。

・(p.70) 農耕の神クロノスと時の神クロノスの歴史的混同。
名前だけでなく本質的な象徴性においても融合がみられるのはおもしろい。

・(p.72) クラナハの描いた《黄金の時代》。
画面左で輪になって踊る六人の姿は、マティスの《ダンス》を連想させる。

・(p.101) とりわけ「パリスの審判」を主題とした絵画にみられる人体描写の「決まりごと」、おもしろかった。
ルネサンス以降になると、必ずといってよいほど、三人の美女はそれぞれ異なる姿勢を取っている。
三つのアングルから「美」を描き出すということが、古代ギリシアにおける理想的な「美」の追究に通じるのである。

・(p.121) これ以前の箇所でも取り上げられていたのだが、「掠奪」や「凌辱」という主題に関して。
こうした主題は、どうしても「動的」になる。
まさにバロック絵画の面目躍如というべきか本領発揮というべきか、画題と画風が非常に「マッチ」していると感じた。

・(p.180-82) 「ピグマリオンとガラテア」の主題について。
両者の「力関係」(とでもいおうか)のバランスのヴァリエーションが、時代ごとに明らかに変わっているというのは興味深かった。
しだいに「ファム・ファタール」的要素が増していく様がよくわかった。

・(p.187) プッサンの《フローラの王国》。
「花」に関連したギリシア神話の登場人物が一堂に会した群像図。
おもしろい。
同時に付与されている白黒画像による説明もわかりやすい。

全体を通して感じたのは、読みやすさ、わかりやすさに優れているのは言うまでもないとして、とにかく高階氏のサンプル絵画の選択のセンスが秀逸である。

宣伝では「入門書」と謳われているが、ただ「わかりやすい解説書」というだけではなくて、その一歩先に広がる世界も垣間見せる書き方をしている。

新書にしては値が張るが、内容としては申し分ない良質の一冊である。

ザ・ビューティフル―英国の唯美主義 1860-1900

2014-02-08 16:10:11 | 美術展


ザ・ビューティフル―英国の唯美主義 1860-1900
[英題:Art for Art's Sake: The Aesthetic Movement 1860-1900]
(三菱一号館美術館、2014年1月30日~5月6日)

オスカー・ワイルドは「すべての芸術はきわめて役に立たないものである」(All art is quite useless)との一節で、彼の唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』の序文を締めくくった。

耽美主義の旗手であるワイルドのこの有名な言葉からもわかるように、19世紀初頭のフランスに端を発し、世紀後半から世紀末にかけて英国でも隆盛した美意識のもとでは、芸術はそれ自体のために生み出されるのが望ましいとされた。

こうした信条を端的に示すスローガンが、今回の展覧会名の一部にも含まれている"Art for Art's Sake"(芸術のための芸術)であった。

これは余談だが、ワイルドの同時代人であるコナン・ドイルを一躍有名にした彼の代表作「シャーロック・ホームズ」シリーズのなかで、ホームズは何度か"Art for Art's Sake"という言葉を口にしている。

私が確認した限りでは(ホームズへの言及も含め)三か所で記述がみられたので、以下に引用する。
[日本語訳と頁数に関しては、新潮文庫版(延原謙訳)に従う。]

芸術のために芸術を愛する者にとっては」シャーロック・ホームズは(...)いった。「細かなとるにたらぬもののなかにこそ、強い満足を汲みとる場合がしばしばあるものだ」。
["To the man who loves art for its own sake," remarked Sherlock Holmes, (...) "it is frequently in its least important and lowliest manifestations that the keenest pleasure is to be derived".]
―――「椈屋敷」(『冒険』p.342、'The Adventure of the Copper Beeches')

[ワトスン]「どういうわけでこんな事件に深入りするのだい?解決してみたって得るところなんかないじゃないか?」
[ホームズ]「ないだろうかね?仕事のための仕事さ。君だって誰かを診療するときは、料金のことなんか考えずに、必死に病気と取っくむだろう?」
[(*Watson) "Why should you go further in it? What have you to gain from it?"
(*Holmes) "What, indeed? It is art for art’s sake, Watson. I suppose when you doctored you found yourself studying cases without thought of a fee?"]
―――「赤い輪」(『最後の挨拶』p.109、'The Adventure of the Red Circle')

「私[隠居絵具屋]のような取るにたりない男で、しかも財産をすっかりなくしたばかりのところへ、シャーロック・ホームズさんのような有名なかたが、見むきもしてくださらないのは当然とは思っていましたがな(...)」。
そこで僕[ワトスン]は、資力のことなど問題じゃないのだといって聞かすと、[隠居絵具屋曰く、]「それはそうでしょう、あのかた[ホームズ]のは芸術のための芸術ですからな」。
[“I hardly expected," he (*the colourman) said, "that so humble an individual as myself, especially after my heavy financial loss, could obtain the complete attention of so famous a man as Mr. Sherlock Holmes."
I (*Watson) assured him that the financial question did not arise."No, of course, it is art for art’s sake with him (*Holmes)," said he (*the colourman)(...).]
―――「隠居絵具屋」(『叡智』p.248、'The Adventure of the Retired Colourman')

上の三つの引用をみてわかるように、ホームズは"Art for Art's Sake"という言葉を自らの職業(探偵)に当てはめて用いている。
実利よりもむしろ、事件それ自体を自らの〈報酬〉とするという態度である。

また19世紀末英国の芸術運動の一翼を担った人物といえば、ウィリアム・モリスの名も思い浮かぶ。
彼は、〈素朴(シンプル)〉で〈美しく〉かつ〈有益〉なもので生活を満たそうとした。

有益性を志向するという意味において、モリスの美意識は一見、ワイルドらの美意識(つまり、徹底的に実利からは距離を置くもの)とは相容れないようにも思える。
しかし『ユートピアだより』の記述にも窺われるように、モリスは商業主義を厳しく非難し、私有財産のない社会を理想とした。
ゆえに、両者は決して思想的に遠くない。

枕が長くなったが、昨日プライベート・ユートピア展と合わせて、唯美主義展もみてきた。
前者の感想に関しては昨日のブログ記事でまとめた。

展覧会場でも説明書きがあったが、唯美主義をテーマとした展覧会は、(少なくとも)日本では初めてのことだという。
断片的なものはこれまでもあったと思われるが、まとまったものとしては前例がないということだ。
したがって、展覧会を開くということそれ自体が、意義のあることだと思う。

内容としても、非常に目配せの行き届いた良質の構成だったように思う。
〈唯美主義〉の運動を網羅的に示すとなると、絵画作品だけでは不十分だ。
身近な工芸品("House Beautiful"や"Book Beautiful"という言葉もある)の展示も含めて、はじめて全体像が浮かび上がる。

唯美主義のシンボルのひとつが〈孔雀〉であることは以前に聞いて知っていた。
しかし展覧会場入ってすぐの説明書きをみると、加えてもう二つ挙げられるという。

力強い男性的な美を象徴するものとしての〈ひまわり〉。
思索的で女性的な美の象徴としての〈百合〉。

実際、各作品をみても〈孔雀〉と〈ひまわり〉と〈百合〉のイメージにあふれているのが目についた。
しかしやはりというべきか、〈孔雀〉のイメージが最も印象深く目に映った。

印象に残った作品(【】内は通し番号)としては、クリスティーナ・ロセッティの詩「ゴブリン・マーケット」に寄せた兄ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの挿絵(【20】)や、ジュリア・マーガレット・キャメロンの「《エルギン・マーブルズ》風に」(【43】)、シメオン・ソロモンの《月と眠り》(【130】)といったところか。

「ゴブリン・マーケット」に関しては、実際に書籍の形となったものをみることができたという喜び。

キャメロンの作品については、唯美主義の二大源流(ギリシアと日本)の存在をまざまざと実感した。

シメオン・ソロモンの絵画に関しては、原題をみても"Moon and Sleep"となっており特別言及はされていないが、(おそらく)明らかにダイアナとエンディミオンのヴァリエーションのひとつだろう。

雑感としてはこんなところか。

ちなみに今回、初めて美術展で「図版」を買った。
"Book Beautiful"の標語に恥じない、美しい装丁だった。
(図版のなかで川端康雄氏が「果たしてモリスは唯美主義者だったのか」という問いを立てて論じておられるのは、先ほど私がモリスについて触れた問題とも重なり、非常に興味深い。)

充実した内容の展覧会だったように思う。