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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

新田次郎 『つぶやき岩の秘密』

2014-06-22 22:11:27 | 書籍(その他)

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新田次郎
つぶやき岩の秘密
新潮社
2012

"The bold adventurer succeeds the best."
---Ovid

冒険、謎、暗号・・・。
皇太子も愛読するという「物語の神様」の手になる唯一の少年小説(参考)。

1972年に上梓されたこの物語は、日本の高度経済成長期の最終年にあたる1973年の夏に「NHK少年ドラマシリーズ」で映像化もされた(参考DVD)。


『つぶやき岩の秘密』は、もともと著者が自身の孫のために書いた作品である。
それが、本書解説で作家の中島京子氏が評する「戦後児童文学史の中に確かな地位を与えられるべき名作」にまでなった(223頁)。

同様の成立過程で誕生した有名な児童文学は他にも多くある。
ルイス・キャロルは大学の学寮長の娘アリス・リデルのために『不思議の国のアリス』を書き、A・A・ミルンは息子クリストファー・ロビンのために『クマのプーさん』を書き、スティーブンソンは継子ロイド・オズボーンのために『宝島』を書いた。

動と静の緊張感、子どもと大人の過渡期、信頼と疑念・・・。
ちょうど「つぶやき岩」に打ち付ける波のごとき、さまざまな「ゆらぎ」こそが、この物語の魅力である。

さて、「岩」と美術について。

〈岩の絵画〉といわれてまず思いつくのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ《岩窟の聖母》。


上に貼ったのはルーヴル美術館に所蔵されているもの。
画家は同主題の絵画を(おそらく後に)もう一枚描いており、そちらはロンドンのナショナル・ギャラリーに収められている。

彼が聖母マリアを岩屋のなかに置いて描いた理由はよくわからない。
少なくとも、古くから西洋には聖母子像があまたあれど、同様の場面設定で描かれた絵画を私は他に知らない。

おそらく、空間的閉鎖性が聖母の純潔を象徴的に暗示しているのだろうが、決定的なことは言えない。
画家は無宗教だったともいわれており、それがまた解釈をややこしくさせている気もする。

あるいはティツィアーノの《シーシュポス》。


このギリシア神話の逸話をもとにして、カミュはのちに『シーシュポスの神話』のなかで「不条理」の哲学を表明した。

またモローの《プロメテウス》。


ゼウスの怒りを買ったこの神は、コーカサスの岩山に磔にされた。

こうしてみてみると(といってもサンプルはわずかであるが)、キリスト教の文脈においてはともかく、ギリシア神話においては、「岩」というのは、あまりいいイメージと結びつけられることは少なかったのだろうか。
一方、時代が下って英国ロマン派の時代では、岩屋や洞穴が、神秘的な霊感の源泉といった積極的な価値をもつものとして捉えられていることが少なくないようにも思う。

岩とその不思議な象徴性―。
「さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」考えてみよう。

エドヴァルド・ムンク 「太陽」

2014-06-21 23:45:24 | 番組(美の巨人たち)

2014年6月21日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
エドヴァルド・ムンク 「太陽」

"How sweet the morning air is! See how that one little cloud floats like a pink feather from some gigantic flamingo. Now the red rim of the sun pushes itself over the London cloud-bank. It shines on a good many folk, but on none, I dare bet, who are on a stranger errand than you and I. How small we feel with our petty ambitions and strivings in the presence of the great elemental forces of Nature!"
---Sherlock Holmes (Conan Doyle, The Sign of the Four, Ch.7)

What a devotional appreciation of Nature queerly made by the famous "high-functioning sociopath" (though this phrase, now well-known through the latest BBC adaptation, never appears in the original works by Conan Doyle)!
It's almost like Wordsworth, the great "worshipper of nature".

How can the man who showed no interest in nature at all suddenly express such a feeling?
(He said in the previous novel, A Study in Scarlet, that "[w]hat the deuce is the solar system to me? You say that we go round the sun. If we went round the moon it would not make a pennyworth of difference to me or to my work".)


Benedict Cumberbatch as "new" Sherlock Holmes

I won't go deeply into this matter about the sudden "poetic" attitude of the famous detective who always prefers straightway, in other words, simple and clear logic to poetic decoration (He once snapped Watson, saying "[c]ut out the poetry" in 'The Adventure of the Retired Colourman').

Yet just like this case of Holmes, there was an artist who suddenly painted the sun with surprisingly bright and vivid colours, although most of his other (earlier) works were filled with notes of anxiety, depression, and melancholy.
It is none other than Munch, the painter famous for 'The Scream'.

As I have said, most works painted by Munch are filled with melancholic atmosphere.


'The Scream'


'Madonna'


'Puberty'


'Melancholy'

Then, the question is what caused the painter to suddenly use such a vivid colour which never filled his canvas before.
The work in question is the one at the top of this page ('The Sun').

Munch spent about 7 years to complete this painting, now hung in the Hall of Oslo University, the space where the awards ceremony of the Nobel Peace Prize took place from 1947 to 1989.

According to the explanation made in the today's programme, on one occasion, a dispute arose between Munch and his lover.
The woman then was madly to kill herself with a gun, which Munch tried to stop.

It was when the tragedy befell.
The gun went off accidentally and one of his fingers was shot.

After this incident, the painter suffered from a nervous breakdown, medically saying, neurasthenia.

The treatment period of the sickness is, essentially saying, the process to find a way to overcome his woe and fear.
Therefore, it may be, in a sense, the natural consequence that the painter sought for something full of hope and that what symbolically embodies the notion was nothing but the sun.

'The Sun' of Munch.
The light of "morn" painted by the artist of the "night".

CREA(クレア) 2014年7月号

2014-06-08 18:09:17 | 雑誌

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CREA(クレア) 2014年7月号
(特集:「アート、足りてる? 人生にアートを! No Art, No Life 知る、観る、そして買う!」)
文藝春秋
2014

六本木の森美術館には折に触れてよく行くのだが、以前、入口の表記をみて一瞬驚いたことがあった。
「・・・モリアーティー美術館!?」

ホームズ物語にかぶれすぎといわれそうだが、"MORI ART MUSEUM"を"MORIARTY MUSEUM"に空目したのだ(モリアーティー教授はホームズの宿敵)。

そういわれると、"MORIARTY"にみえてこないだろうか(みえてこないか)。


森美術館(入口)


モリアーティー教授(シドニー・パジェットの挿絵)

閑話休題。
女性向け月刊誌CREA(クレア)のアート特集が昨日(6月7日)発売された。

そこまで突っ込んだ内容ではないが、中野京子氏や原田マハ氏、橋本麻里氏ら著名な方々が多く寄稿されている。

62-63頁の見開きで解説されている、四つの作品だけで日本と西洋の美術史をそれぞれ概観するという(やや乱暴な)まとめは、しかし、なかなか興味深かった。
少なからず、本質をついている。

西洋美術に関していえば、扱われていたのは次の四つの作品。

1.プラクシテレスクニドスのアフロディーテ



2.ラファエロ《アテネの学堂


3.ダヴィッド《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式


4.デュシャン《


それぞれ、古代ギリシア(ローマ)、ルネサンス、新古典主義、20世紀(ダダ)を代表する傑作群である。

個人的には3のダヴィッドと4のデュシャンの間に、印象派の作品をひとつ入れておいてほしかった。
印象派は、西洋美術史上で最大のパラダイム・シフトといって過言ではない。


さしあたり、モネの《印象・日の出》かルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》といったところか。

あと、興味深かったのは105頁の原田マハ氏の寄稿文。
モネの使っていたパレットには、それこそ抽象画のように絵の具の色彩が配置されていた。
なんとも原田氏らしい細やかな視点である。

もう一点気になったのだが、123頁に、今年の秋から東京都美術館(上野)で開催される「ウフィツィ美術館展」の紹介記事があった。


その解説文のなかで、「日本初のウフィツィ美術館展」といった言い方がされていたが、本当なのか。
2010年には東郷青児美術館(新宿)で「ウフィツィ美術館―自画像コレクション」が開かれている。


細かいことだが、どうなのだろうか。
しかし(ホームズの話で始まり、ホームズの言葉で締めるのもなんだが)ホームズは言う。

"It has long been an axiom of mine that the little things are infinitely the most important."
(Conan Doyle 'A Case of Identity')

さぁ、「人生にアートを」。

中野孝次 『ブリューゲルへの旅』

2014-06-07 22:19:18 | 書籍(美術書)

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ブリューゲルへの旅
中野孝次
文藝春秋
2004
(表紙カバー:ブリューゲル雪中の狩人》[部分])

「たしかに当時は、田舎者を笑いものにする風潮があったけれど、だからといって、シェイクスピアやブリューゲルが紳士気取りで田舎者を取り上げたとは思えない。ただ農村の暮らしは、ヒリアードの肖像画にあるような紳士たちの生活スタイルとはちがって、わざとらしい作法にとらわれたり、体裁を気にしたりすることもないので、人間性があらわになるというだけだ。だから、劇作家や画家は、人間の愚かさを暴き出そうとするときは、たいてい庶民の暮らしを題材にしたのだ」
―――ゴンブリッチ 『美術の物語』 (188頁)

昨年末に発売された雑誌「kotoba」の2014年冬号で、美術館についての特集が組まれた。(→参考
美術批評家のみならず、漫画家や建築家、絵画修復家ら様々な分野で活躍する執筆者たちが、それぞれ、美術館をめぐって論を展開した。


また、特集のなかでは、各論者おすすめの美術書も紹介されていた。
木村泰司氏はヴァザーリの『芸術家列伝』、茂木健一郎氏はモームの『月と六ペンス』を挙げていた。
いずれも、美術史上、また文学史上で無二の輝きを放つ古典として名高い。

   

さて、私がこのブログで何度か言及させていただいている中野京子氏と、フェルメール論をはじめとする著書で知られる朽木ゆり子氏の御二方は、同じ作品をおすすめの美術書として挙げていた。
それが、今回の『ブリューゲルへの旅』である。

両者のコメントを引用しておこう。

(中野京子氏)
ブリューゲル作品を通して熱く語られる、著者の懊悩、そして西洋文明への憧れと決別。今なお古びない絵画エッセイ。

(朽木ゆり子氏)
ブリューゲル"全点踏破"旅行記。私が原稿に行き詰ったときに読む本だ。絵に触発されて様々な思考が広がる様子が見事に描かれている。

二人の推薦の言葉に促され、私も読んでみた。

憂愁の旅路と趣ある語り口。
これぞ、何度でも繰り返して読みたくなるエッセイだ。
日本エッセイスト・クラブ賞」(1976年)を受賞したのも頷ける。

ブリューゲルのみつめる眼差しは、しばしば、どこか一歩引いたところから人々の営みや自然の有り様を眺めているところがある。
いってみれば、「静的」な絵が多い。
そして、その「静けさ」に、キーツのいうところのなお甘美なる「聞こえぬ調べ」を聴き取っているのが、中野孝次氏の語りなのである。

「写実」と「理想」の二項対立の概念もない、まさに原初の透徹した目で「ありのまま」の日常を描きとった画家の作品は、同時に、深い精神性をも湛えたものになっている。

「鈍重、無知、放埓、傲慢、怠惰、などの特徴、それから一種の不気味ささえも、ブリューゲルは見逃さなかった。にもかかわらず、彼の絵の世界は、それを包括する自然全体のなかで、人間と自然との宇宙的な調和に達していると感じられる。人間の現実をそのまま肯定している何かがあるのである。それはまさにふしぎな何か、あえていえば宗教的な救済の目とでも言うしかないが、わたしをひきつけてやまないのはそのところだ。これは単なる現実の研究だけからは生じ得ないものであろう。宇宙的空間のなかで彼自身をふくめて人間の生をそういうものとして限定し肯定させるに足る何かがあったのであろう」(91頁)

「『地上にあるのは一個のひとしい人生である。すべての人間は、一個のひとにすぎない。ひとりの自然な人間を見る者は、かれら人間全部をみる』。セバスチアン・フランクが言ったという言葉を、ブリューゲルは知っていたろうか。かれら一人ひとりの生命の絶対性の前に、理性がなんのかのと文句をつけたところで始まるまい。犬、人間、鶏、キリスト、狩人、農夫、岩塊、樹々、海、天体、すべてがそれ自身のなかに宿した生命にみちびかれて存続し、それぞれ単独者でいながら集って形成しているこの宇宙的生命のなかで、それをそのまま見ること、肯定すること、そのほかにどんな絵画の可能性があろうか」(98-99頁)

「見ているわたしを圧倒するような堅固な存在感でそこに描かれている醜い人びとを見れば見るほど、その一方でやはり考えずにいられない。ブリューゲルはどうも、かれらが社会の取りこぼし的存在だからかれらを描いたというだけではなさそうだな、と。彼には、ずっとあとにミレーが『落穂拾い』を描いたときのような、感傷的ヒューマニズムなぞぜんぜん見つけられない。ここに描かれた人物たちの途方もないふてぶてしさ、愚かさや醜さを意に介しない存在感を見ると、ブリューゲルは、かれらを社会の欠損、出来損ないなどと見ていたわけではなくて、これこそ十全な現実の人間像だと本気で信じていたとしか考えられないのではないか。中世と近代の中間に立つ巨匠の目には、人間とはこういうものとして存在し、それで充分不可欠なものだったのではないか。どうもそういう気がする、と」(133-34頁)

最後の引用におけるミレーとの比較は面白い。
たしかに、ブリューゲルの絵に感傷性は見受けられない。

あと、本書を読んで個人的に気になったのは20世紀の詩人W・H・オーデンの詩のひとつ「美術館」からの引用(134、177頁、→全文)。
この詩は、《イカルスの墜落》[なお、現在はブリューゲルの作ではないとの説が有力]をはじめとするブリューゲル作品にインスピレーションを受けて書かれている。


『ブリューゲルへの旅』―。

静かで、力強い、ブリューゲル賛歌。
「聞こえぬ調べ」の残響は、薄れゆくことを知らない。

エラスムス 『痴愚神礼讃』(ラテン語原典訳)

2014-06-01 22:45:04 | 書籍(その他)

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エラスムス
痴愚神礼讃』(ラテン語原典訳)
沓掛良彦 (訳)
中央公論新社
2014

"Two things are infinite:
the universe and human stupidity,
and I'm not sure about the universe."

―Albert Einstein

これぞ、古典。
人間の愚かさを諷刺したルネサンスを代表する人文主義者の筆致は、いまでもなお色褪せない。

本書の前半は時代を問わず普遍的にみられる人間の愚行を扱っており、後半、とくに最終部は、時代のうねりもあってか、かなりキリスト教色が濃くなっている。

一見するとカトリック批判のようだが、著者の宗教的立場はそう簡単に割り切れるものではない。

エラスムスはたしかにカトリック教会内部の体制を批判した。
しかし彼は決してプロテスタントにまわることはなかった。
あくまでカトリックの陣営のなかで、その体質改善を促したのである。

本書の〈解説〉には次のようにある。

行動の人として獅子吼(ししく)しつつ、鉄のこぶしを振るって一途に宗教改革へと驀進するルターに対し、その主張や信条には深く共感しながらも、あくまでカトリック体制内部での自発的な改革を望むエラスムスは、カトリック社会を打ち壊すその暴力的行動には賛同できなかったのである。エラスムスがひたすらに願ったのは、かつての純潔無垢な福音書の精神に立ち返り、硬直化し桎梏と化したカトリック体制から本来のキリスト教を救い出し、その再建を図ること(restitutio Christianismi)であって、カトリック教会を打ち倒すことではなかった。 (328-29頁)


ホルバイン 《エラスムス》 (1523、ルーブル)

368頁からなる本書は、その三分の一が「注」と「解説」にあてられている。
ギリシア・ローマの古典に造詣の深い訳者のなせるわざであると同時に、それだけエラスムスが古典に通じていたことの証左でもある。

また、この訳書にはヘンリー八世の宮廷画家としても知られるホルバインの手になる挿絵も数多く収録されている。
才知に長けたホルバインの筆が印象的である。

エラスムスのみならず、『ユートピア』の著者として名高いトマス・モアとも親交があったホルバイン。
モアへの献辞から始まる『痴愚神礼賛』は、そもそも、エラスムスがモアに捧げた著作でもあった。

 
左:《トマス・モア》、右:《エラスムス》 (いずれの肖像画もホルバインの作)

本書のカバーにはヒエロニムス・ボスの《愚者の船》が用いられている。


この絵画はブラントの著作『阿呆船』にインスピレーションを受けて描かれたといわれている。
〈阿呆船〉というアレゴリーは、そのもとをたどればプラトンに行き着く、西洋の伝統的な表象であった。(→参考

エラスムスがこの絵をみていたかどうかは分からないが、少なくともブラントの『阿呆船』は読んでいた可能性があると推定されている(本書解説337頁)。

そして、本書解説では、ボスの《愚者の船》に加えて、次の三点の絵画作品を紹介している。
最後にこれらを載せておこう。


ボス 《愚者の治療


ブリューゲル 《愚者の石の切除


ブリューゲル 《謝肉祭と四旬節の喧嘩

訳者曰く、『痴愚神礼賛』を読むにあたっては、こうした15・16世紀の北方ルネサンスの絵画を「脳裏に浮かべて読むとよりおもしろく、かつ当時の人間たちを支配していた精神的状況がわかるであろう。文芸と絵画というジャンルの相違はあっても、これらの作品には明らかに深く通い合うものがある」(344頁)。

愚者。

"Better a witty fool than a foolish wit."
―Shakespeare, Twelfth Night (Act 1, Scene 5)