leonardo24

西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

幻惑のフェルメール・ミステリー ~光を操る画家の真実~

2013-12-31 19:56:40 | 番組(その他)

http://www.bs-asahi.co.jp/binomeikyu/back_033.html

2013年12月31日(再)放送
世界の名画 ~美の迷宮への旅~ (BS朝日)
2時間スペシャル 幻惑のフェルメール・ミステリー ~光を操る画家の真実~

大晦日。
BS朝日で再放送されたフェルメールの特集をみる。

2時間のなかで、画家の足跡を多面的に捉えるという試み。

「光」をひとつのキーワードにして、レオナルドやカラバッジョ、ラ・トゥール、ベラスケス、レンブラントとの比較を行う。
そのなかで明らかとなったフェルメールの「光」の特質を、カメラ・オブスクーラとの関わりから探ってゆく。

昨日、岩井希久子氏による書籍を当ブログで紹介させていただいた。
同著のなかで岩井氏は何度かフェルメールに言及している。

一番印象的だったのは、中野京子氏もブログに綴っておられる、《真珠の耳飾りの少女》の唇の修復について。
(http://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006/e/108c5016d49d951fb712d3ab029c6a18)

岩井氏曰く、この修復には違和感を覚える。
フェルメールの色遣いの本質は、例えばカラバッジョのような明暗くっきりのキアロスクーロにあるのではなく、むしろ、黄昏時のような、ぼやけた味わいにこそある。

一番わかりやすいのは《デルフト眺望》だろう。
しかしその他のフェルメール作品においても、同様のことがいえる。

フェルメールは「光」を表現するにあたり、白い「点」を用いた。
番組内で語られていたことによると、これはフェルメールの特質といってよい。

「光」を白い「点」として描く手法の由来をたどれば、彼が使用した先述のカメラ・オブスクーラに行き着く。

ピントのぼけた画像をみると、その「光」は、あたかも白い「点」のようにみえる。
この観察を、フェルメールは絵画に活かした。

先日このブログで紹介したフェルメールの「抽象絵画」的特質についてもそうだが、この画家は、図らずして時代を先取りしているところが少なからずある。
(http://blog.goo.ne.jp/efwhiu53/e/35f34e1e32dc46f6bf7caa83eceedd1b)

またこの番組で興味深かったのは、フェルメール絵画の歴史とは切っても切り離せない、盗難の数々である。
一番興味をそそられのは、ハン・ファン・メーヘレンという「贋作」画家の話である。

彼を扱った書籍があるということなので、ぜひ読んでみたい。
(→『私はフェルメール 20世紀最大の贋作事件』)

あと、あくまで個人的な印象だが、どことなく、レオナルドとフェルメールには似通っているところがあるように感じた。
スフマートのレオナルドと、「ピンボケ」のフェルメール。

奇しくも《真珠の耳飾りの少女》は「北方のモナ・リザ」とも呼ばれる。

また二人とも寡作の画家だ。
二人は、どこまで画業を「本業」と捉えていたかという意識においても、ひょっとしたら似通っているのかもしれない。

『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事』

2013-12-30 14:02:04 | 書籍(美術書)


『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事』
美術出版社
2013

「修復家が絵に触るということは、危険と紙一重。
間違った修復で絵の風合いを損ねたり、作家の思いが伝わらなくなってはいけない」
(187頁)

2012年夏、ある女性がスペインの教会にあるキリストの絵を「修復」したことで話題となった。
(http://en.wikipedia.org/wiki/Ecce_Homo_(El%C3%ADas_Garc%C3%ADa_Mart%C3%ADnez))

非難の声が多く飛び交い、結果的に世界中の注目を集めた。
ネット上では、「宗教風刺」といった現代的な視点から、修復後の作品を好意的に解釈する動きもあった。

修復後の作品をどう捉えるかということはさておき、その女性のとった行動は、少なくとも「修復」とは呼べない。

岩井氏が『モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事』のなかで述べているように、修復家がまずすべきことは、色を塗ることでは決してない。
「補彩」は、優先順位としてはかなり後ろの行程である。

修復家の仕事は、大半がクリーニングといってさしつかえない。
まず、ホコリやゴミをとることが必要なのである。
こうしてきれいにするだけで、色あせた作品の大半は見違えたように本来の色合いを取り戻す(もっとも、極めて骨の折れる作業ではあるが)。

クリーニングを終えたのち、「剥落」している部分には、必要に応じてなんらかの補彩を行う。
ただしこのときも、例えば油彩画であれば、決して油絵具で修復してはならない。
原則として、修復(補彩)にはあとで除去可能なものを使用する。

話は変わるが、2011年暮れから2012年春にかけて、渋谷のBunkamuraで「フェルメールからのラブレター展」が開かれた。
日本初公開となる《手紙を読む青衣の女》が話題となった。

本展の宣伝は、他の展覧会のそれとはいささか異なっていた。
人気作品が来る、ということもそうだが、「修復」によって、作品が描かれた当時の輝きを取り戻したことも同じくらい強調されていた。
修復された絵画のことを前面に押し出す展覧会はいままでみたことがなかったので、今でも印象に残っている。

本書を読んで、そのとき修復を担当されたのが岩井氏であることを知った。

絵画の修復というと、例えばレオナルドの《最後の晩餐》のように、明らかな剥落が目立つものばかりを想起しがちだが、実際は違う。
いかなる作品でも、経年劣化は免れえず、ゆえに定期的な修復が必要となる。

本書は、作品の「修復」に関する意識の低い日本の美術館の現状を憂え、改善の第一歩を踏み出そうという先駆的な動きである。
美術業界で働こうと考えている人にとっては必読といってよいだろう。

中野京子氏がブログで感想を綴っているように、本書で述べられている日本の美術館の問題点はきわめて深刻なものである。
(http://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006/e/108c5016d49d951fb712d3ab029c6a18)
これは、国レベルでの対策が必要な問題であり、岩井氏は「草の根」レベルで活動を続けておられる。

現在、岩井氏は修復の現場を間近でみられる施設を日本に作ろうと奮闘されている。
完成したら、ぜひ私も見学してみたい。
(→「日本に修復センターをつくる会」facebookページ)

また岩井氏の修復の様子は、NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介された。
(http://www.nhk.or.jp/professional/2010/1122/)
修復家としてのみならず、母としての岩井氏の生き様も描かれており、その二つが深いところで交わっているという点が興味深かった。

日本の美術館の将来を見据えた、意義深い一冊であった。

『中野京子と読み解く 名画の謎 陰謀の歴史篇』

2013-12-25 15:27:02 | 書籍(美術書)


『中野京子と読み解く 名画の謎 陰謀の歴史篇』
文藝春秋
2013

著者中野京子氏による「名画の謎」シリーズ第三弾。
ギリシア神話、聖書に引き続き、今回は「歴史」をテーマとして、様々な絵画が取り上げられている。

本書の大分を占めるのは、「文藝春秋」で今も連載されている「中野京子の『名画が語る西洋史』」の内容に加筆されたものである。

ブリューゲルの時代から、ラファエロやクラナハといったルネサンス期の画家、マニエリスムのエル・グレコ、17世紀のフェルメール、またダヴィッドやジェロームといったアカデミーの画家、そしてロマン派のターナーやゴヤ、果ては20世紀の風刺画家ジョージ・グロスまでを扱っている。

絵画ばかりではない。
デューラーやホガースの手による有名な版画作品も取り上げられている。

西洋史にとりわけ造詣の深い著者だけあって、「名画の謎」シリーズの前二作と比べても、さらに筆が冴えているように感じた。

どの章も興味深く、益するところ多いのみならず、読み物としても充実していた。
第一章で言及されているシェイクスピアの『リチャード三世』の話しかり、ラオコーン群像を巡る白熱した論争の歴史を扱っている第五章しかり。

なかでも個人的に印象に残ったのが、第九章で扱われているデューラーの「メレンコリア I」であった。

「メレンコリア」の後にある「I」は、個人的には大した意味を持たないものとばかり思っていた。
憂鬱を主題としたデューラーの作品のうちで最初のもの、といった程度の含みしかないのだろうと。

しかし実際には、この「I」は重要な意味をもつ。

本書の137頁で述べられているように、当時、憂鬱には三つの「段階」があるとされた。
すなわちデューラーの版画で描かれているのは、その「第一段階」なのである。

142頁には次のようにある。

「憂鬱には三段階あり、最終の第三段階へ達すれば『天使的叡智が得られる』とされた」。

138頁から次の頁にかけては、メランコリーの歴史について述べられている。
おおまかにいって、メランコリーには、肯定的解釈と否定的解釈が伝統的に存在した。
天才の証とみるか、病気とみるか、ということである。

本書で言及されている「憂鬱三段階論」は、デューラーのメランコリー観が肯定的見地の伝統に属するものであることを示す有力な根拠となる。

またメランコリーの擬人化に関する説明について、一点疑問に思うところがあったので、著者のブログ(http://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006)のコメント欄に投稿させていただいた。
翌日すぐ、著者から返信を頂いた。

こちらにそのリンクを貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/hanatumi2006/e/b1a251372225583a531c843a4869b4b4#comment-list

一読の価値は十分にある一冊であった。

Desperate Romantics

2013-12-23 22:04:20 | ドラマ


Desperate Romantics
BBC
2009

年明け(2014年)に六本木の森アーツセンターギャラリーで「ラファエル前派展」が開かれる。
私がわりあい積極的に美術展に足を運ぶようになって数年たつが、これほど期待している展覧会はない。

イギリスという国は長らく画家不毛の地であった。

16世紀にはホルバイン、17世紀にはヴァン・ダイクがそれぞれヘンリー八世とチャールズ一世の宮廷画家として活躍した。
しかし、ホルバインはもともとドイツ人であり、ヴァン・ダイクもフランドルの生まれである。

本格的な英国人画家の誕生は18世紀まで待たなければならない。

「英国絵画の父」と呼ばれるホガース。
確かに彼は絵画も遺しているが、その名声は(少なくとも現代の我々の感覚からすると)多分に彼の銅版画によるものだ。

大陸と渡り合える最初の英国人画家となると、ターナーを措いて他にはいない。
同時代のコンスタブルも傑作を数点遺しているが、ターナーに比べれば、その名声はドメスティックなものにとどまる。

西洋絵画の通史において、個人レベルで欠かすことのできない唯一の英国人画家が、ターナーといってよいだろう。

一方、主義や画風といったもう少し広い区分において、西洋絵画史上、特筆すべき活躍をみせた英国発の画家集団もひとつしか思い当たらない。
それが、ラファエル前派である。

ロセッティ、ミレイ、ハント。
アカデミーの学生であった若干20歳の青年たちは、1848年に「ラファエル前派兄弟団」を立ち上げた。

彼らはラファエロ以前の絵画、すなわち自然に忠実な描き方を求め、保守的な画壇の体制に風穴を開けた。

そうした精力的な若者たちの生き様を追ったドラマが、BBC制作のDesperate Romanticsである。

Franny Moyleによる"Desperate Romantics: The Private Lives of The Pre-Raphaelites"を基にして作られたこのドラマの脚本には、少なからず脚色が加えられている。

もっとも顕著な例としては、一種の"composite character"として、Fred Waltersという実在しない人物を持ち出している点が挙げられる。

Moyleの原作には出てこない人物ということもあり、賛否はいろいろあるだろう。
しかし、彼を持ち出したことによって、ただでさえ人物関係が極めて入り組んだこの集団の映像化が、幾分すっきりしたことは確かであろう。

Desperate Romanticsで描かれているのは、ラファエル前派の主要画家三名と、彼らのミューズたる「スタナー」たちを中心とした、美と情熱に満ちた世界である。
それは、DVDの特典映像で、ProducerのBen Evansがこのドラマの本質を"arse for art's sake"あるいは"art for arse's sake"といみじくも述べていることからもわかる。

Wikipediaの該当ページをみる限り、このドラマの評価は必ずしも好意的なものばかりではない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Desperate_Romantics

確かにドキュメンタリー性を求めてこのドラマを観る人は、不満に感じるところがあるかもしれない。
しかし、幾分「ややこしい」人物関係の描写には極めて生き生きと迫ってくるものがあり、なにより青年たちのエネルギッシュな美の追求と狂乱の様は見事に描かれているように思う。

主要な登場人物を挙げると、ロセッティ、ミレイ、ハントはもちろん、エリザベス・シダル(リジー)やアニー・ミラー、ラスキン、エフィー、そして若き日のバーン=ジョーンズやモリス、ジェイン・バーデンまでが描かれる。

Fred Waltersはいわば、主要三人を除いたラファエル前派結成当時のメンバーと、クリスティーナ・ロセッティの要素とを統合させた存在といえる。

ディケンズも何度か登場する。
このドラマにおける彼の存在は、当時ラファエル前派が与えた社会的衝撃の大きさを物語っているだけではない。

ディケンズをもってしても、「アート」の世界においては、ラスキンにかなわない。
現代では想像も及ばないほど、当時のラスキンの影響力はそれほどに圧倒的だったのだ。

少し話は変わるが、英国では2014年5月に、"Effie"という映画が公開予定となっている。

エマ・トンプソンが脚本を務めたこの映画では、ダコタ・ファニングがラスキンの妻エフィーを演じる。

ミレイを含めた、ヴィクトリア朝の有名な恋愛スキャンダルが描き出される。

一日も早く、日本で公開されることを切に願う。

マネ「オランピア」

2013-12-21 22:29:20 | 番組(美の巨人たち)


2013年12月21日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
マネ「オランピア」

「近代絵画の父」と呼ばれるマネ。

同様の呼称はときに、セザンヌに対しても用いられる。
しかしセザンヌを含め、印象派の画家たちがこぞってマネに敬意を表しているように、後世に与えたマネの影響力は絶大なものであった。

同時代における影響関係を明白に示すひとつの例が、アンリ・ファンタン=ラトゥールによる絵画《バティニョールのアトリエ》である。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/latourf_batignolles.html

セザンヌの絵画も当然、革新的ではあったが、大きな括りでのいわゆる「古典絵画」と「近代絵画」の決定的な分岐点に位置しているのは、マネを措いて他にいない。

このブログでは以前から(訳あって?)折に触れて西洋絵画における「裸婦」の系譜に触れてきた。
当然、マネのオランピアもこの伝統に属するものである。

マネとのちの印象派画家とは、絵画の展示に関する態度において、ひとつの違いがみられる。
アカデミーの学生であったマネが、サロンで評価されることを求めたのに対し、モネやルノワールは、完全にサロンと距離を置いていた。

もちろん、その後の画業が示しているように、マネがいわゆる「古典絵画」に固執したわけではない。
ちょうど同時代のイギリスで、同じくアカデミーの学生であった「ラファエル前派」の画家たちが、保守的な画壇の体制を「内部」から破壊しにかかったように、マネもまた、「外」からではなく「内」からの変化を推し進めようとした。

しかしアカデミーの学生だったということもあり、マネは数多くの「古典絵画」に触れ、その模写を通じて絵画技法を習得していったことは紛れもない事実である。
実際、のちに「画期的」といわれるマネの傑作のいくつかには、「オリジナル」ともいうべき「古典」の影が窺われる。

《草上の昼食》でいえば、ティツィアーノ(あるいはジョルジョーネ)による《田園の合奏》、また今回の《オランピア》でいえば、同じくティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》からの影響が濃くみられることは、古くから指摘されている。

今回の放送で意外な驚きだったのは、このオランピア(娼婦)の背後の壁が、日本の屏風の裏を描いたものであるということが、日本の研究者によって最近分かったということであった。

マネを含めた印象派の画家たちが、日本の浮世絵から多大な影響を受けていることは有名である。
しかしマネは措くとしても、印象派の画家たちが主題としたものはしばしば神話画や宗教画、歴史画とはかけ離れたものであったために、案外アカデミックな研究がときに手薄になっているのではないかと感じられた。

またここでは事細かに述べることはしないが、今日の放送をみていて感じられたのは、マネの「巧みさ」であった。

もちろん西洋絵画の歴史では、様々な技巧を駆使したり、「謎」を(おそらく)意図的に散りばめたりといった手法を用いた画家は何人もいる。

しかしフーコーがマネを論じていることからも顕著であるように、マネの絵には、ときに哲学的解釈を許容する「深み」がある。

「賢い」画家マネ。
それは彼の絵画技法にのみいえるのではなく、当時の画壇の空気を一変させる、その契機を「読む」姿勢にも窺われるのであった。