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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄 (II)

2015-02-27 09:24:39 | 美術展

ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄
[仏題:Musée du Louvre. Peinture de genre. Scènes de la vie quotidienne
国立新美術館
2015年2月21日~6月1日

以前に投稿したルーヴル展の感想の続き。
気になった作品についてのコメント。

● ピーテル・ブリューゲル1世 《物乞いたち》 【26】


画面中央の5人の人物の着ている服装から、それぞれが、王や司教、農民らをあらわすものと捉える「解説」。
それはそれで面白い。

ただ、ルーヴル美術館の公式HPの解説にもあるように、「この作品に対する解釈は数々の仮定を引き起こして」いるが、「実際のところ、これらの納得のいく仮定のどれもが未だに証明されていない」のが現状である。

ブリューゲルの作品というのは、いっけん、諷刺的な読みを促すようでありながら、同時に、そうした一面的な読みを「かわす」ものが多いように思う。
なかなか、断定的なことが言えない画家なのだ。

なにを言っても、画面右奥の物乞いの女性のように、するするっと逃げていく感じがある。
しかし、そこが、この画家の魅力でもある。

● ニコラ・レニエ 《女占い師》 【34】


あきらかなカラヴァッジェスキ(カラヴァッジョ派)。
画面の左から2人目、こちらを向いているのはおそらく画家本人だろう。

この「占い師」という主題、バロックの時代には比較的、人気があったようだ。
カラヴァッジョも描いているし(参考)、ラ・トゥールも描いている(参考)。
おそらく、明暗の入り混じる主題が、バロック的な感性とよく調合したのだと思われる。

● ヨハネス・フェルメール 《天文学者》 【38】


今回の展覧会の目玉のひとつ。
よく来たもんだ。
(ちなみに、数年前には《地理学者》が来た。)

《地理学者》とは異なり、《天文学者》の顔は、完全に「あちら側」を向いている
「こちら側」にはまったく意識が向いていない。

地球儀に触れるその指先。

一瞬の緊張感。

息をのんで、知の探究に没頭している。

会場で配布されていた名探偵コナンによる「ジュニアガイド」では、「モデルが少しぼんやり描かれている」ことが指摘されている。
おそらく、画家が使っていた(とされる)カメラ・オブスクーラと何か関係があるのだろう。

● ルーベンス 《満月、鳥刺しのいる夜の風景》 【55】

(展覧会に来ていたのは、たしか、これだったと思う。なにせ行ってから少し日が経っているので、記憶がややあいまい)。

最初にみたとき、「ターナー・・・?」と勘違いした。
漱石だったら「ターナーの画にありそうですね」と言いそうな木が生えているが、これはじつはルーベンスの作品。

で、ここからはまだあまり調べられていないのだが、どうやら、ルーベンスとターナーというのは、(むろん、生きた時代こそ違えど、)少し関わりがあるらしい。
昨年にブリュッセルで行われたルーベンス展では、当初ルーベンスを非難していたターナーが、しだいに"Rubenist"になっていったことが検証されたようだ(参考)。

なかなか面白い。

● ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《鏡の前の女》 【63】


解説が面白かった。

当時、詩や彫刻、絵画などの芸術活動のなかで、どの分野がもっとも優れているのかという論争があったらしい。
(そういえばダ・ヴィンチも手記のなかで絵画と彫刻の違いについて書いていたな・・・。もっとも、彼のばあいはミケランジェロが頭にあったのだろうが。)

彫刻と比べ、絵画は、基本的には、「一方向」からの眺めしか描けない(異時同図という手法はあるが)。
その固定観念を打ち破る意識で描かれたのが、ティツィアーノのこの作品、という見解。
―鏡を使えば、問題は解決するではないか!

この文脈を念頭においてふたたび絵をみてみると、なんとも女性の表情がふてぶてしく見えてくる。
奥の男が女性の後ろ姿を見せびらかしているのは、もしかしたら、当時の彫刻家に対してなのかもしれない。

余談だが、こうした論争は17世紀(もっといえば18世紀のレッシング[『ラオコーン』])の時代にもあり、彫刻は物語の「流れ」をあらわせないという批判に対して、ベルニーニが立ち上がった。
彼の制作した《アポロンとダフネ》は、観る方向によって「物語」が変わってゆくという斬新なものであった。

こうして、それぞれの分野がしのぎを削ることで、芸術としての完成度も高まっていったのですなぁ。

―――――

全体的に、会場内の解説がよかったように思う。
基本は踏まえたうえで、多少、突っ込むところもある感じ。

「風俗画」というとあまりパッとイメージしにくい来場客も多いかもしれないが、フェルメールしかり、ムリーリョ(《物乞いの少年(蚤をとる少年)》)しかり、グルーズ(《割れた水瓶》)しかり、有名どころもたくさん来ていたので、ひとりひとり、いろんな楽しみ方ができるのではないだろうか。

ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄 (I)

2015-02-24 09:00:42 | 美術展

ルーヴル美術館展 日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄
[仏題:Musée du Louvre. Peinture de genre. Scènes de la vie quotidienne
国立新美術館
2015年2月21日~6月1日

16世紀のイタリアで提唱されるようになった絵画芸術の主題におけるヒエラルキーという概念は、1648年にフランスにアカデミーが設立されたことにより、確固たるものとなった。

画家の高い教養と技術を要求される「歴史画」がその頂点に置かれ(このあたりは西洋文学の歴史において長らく「叙事詩」こそが王道とされてきたことと似ているか)、当初は王侯貴族のみが主要な顧客層であった「肖像画」が、つぎに位置づけられる。
そして、以下、「風景画」、(「動物画」、)「静物画」と続く。

かんたんにいってしまえば、「人」を描くのが上位にきて、「もの」を描くのが下にくる。

さて、今回の展覧会の主眼、「風俗画」はどこに位置するか。
そもそも、日常の人々の生活を描く「風俗画」がひとつのカテゴリーとして認識されるようになったのはかなり遅く、18世紀後半から19世紀前半にかけてのことだといわれる。

「風俗画」は英語で"genre painting"というが、18世紀後半にフランスからイギリスに流入してきた"genre"という語に、"depicting scenes of ordinary life"という意味が付与されたのは19世紀なかばごろだという(参考)。
この"genre"という語、「歴史画」や「風景画」、「静物画」も、それぞれひとつの「ジャンル」といえば「ジャンル」なので、なかなか意味がつかみにくい。

"genre"の語源を辿ると、今日では社会的な文脈における性(差)を意味する"gender"に行きつくが、"gender"の本質的な意味とは、"kind, sort, class"である(参考)。
つまり、「分ける」意識、そして究極的には「個(別の対象)」に寄りそう意識、それこそが風俗画の扱う主題と考えてよいのではないだろうか(普遍的(universal)なものよりは、個別的(particular; ordinary)なものに向かう?)。
それが、"genre"の感覚、ニュアンスと、ひとまず考えておこう。

ともかく、以上をまとめると、西洋の伝統的な絵画のヒエラルキーは、こういう感じになる。
風俗画には、しばしば「人」が描かれるが、それでも、「歴史画」や「肖像画」からみれば、やや「格下」のものとして位置づけられる(参考)。

1 歴史画(物語画) history painting (narrative painting)
2 肖像画 portraiture
3 風俗画 genre painting
4 風景画 landscape
 (動物画 animal painting)
5 静物画 still life

さて、「ジャンル」の話はこの程度にしておいて、今回の展覧会の内容に入っていこう。
構成は以下のようになっている。

「ヒエラルキー」の概念が存在しなかった古代ギリシアの時代にみられた、日常的な生活の光景を写し取った壺絵や彩色墓碑からはじまり、以後は、いわゆる「風俗画」に分類される絵画作品の諸相をみてゆくというもの。

プロローグ I 「すでに、古代において・・・」風俗画の起源
プロローグ II 絵画のジャンル
第1章 「労働と日々」―商人、働く人々、農民
第2章 日常生活の寓意―風俗描写を超えて
第3章 雅なる情景―日常生活における恋愛遊戯
第4章 日常生活における自然―田園的・牧歌的風景と風俗的情景
第5章 室内の女性―日常生活における女性
第6章 アトリエの芸術家

出展作品の総数は83点。

では、気になった作品について、かんたんにコメントをのこしておこう。
(以下、【】内の数字は、作品リストに記載されている通し番号を指す。)

● シャルル・ル・ブラン 《キリストのエルサレム入城》 【8】


バロック期の画家ではあるが、この作品に関しては、ルネサンス期のラファエロの作品(たとえば《キリストの変容》)における人物造形や配色を思わせる。

● リュバン・ボージャン 《チェス盤のある静物》 【11】

ひとつひとつの事物が人間の五感を表していると解釈されている。
パンとワインがキリストを連想させる「聖」なるものであるのに対し、楽器やトランプは、享楽、いわば「俗」なるものとして表象されているという読みは興味ぶかい。

解説いわく、この「小宇宙」が、観る者を「瞑想」に誘う。
静物画で、これほどの読みを可能にさせるものはあまりお目にかかれない。
貴重な一作だと思う。

● クエンティン・マセイス 《両替商とその妻》 【13】

これまで何度も書いてきたことだが、北方の画家というのはほんとうに細かい。
よくみればみるほど、いろいろな発見がある。
あぁ、こんなところにも人がいたのか、と。

解説が興味ぶかかった。
当時のアントワープは金融業が盛んで、利潤追求に走る者も多かったそうだが、その一方で、キリスト教では「貪欲」が罪とされている。

揺れる心。

どうやら、両替商がもっている「秤」は、たんにお金のみを計量しているわけではなさそうだ。
聖書を手にしている妻の視線も、なんとも、ものいいたげである。
―ほんとうに、これでいいのかしら、あなた・・・。

● ジャン・シメオン・シャルダン 《買い物帰りの召使い》 【20】

数年前の「シャルダン展-静寂の巨匠」にもきていた一品。
どういうわけか、この絵をみるといつも、ホガースを思い起こしてしまう。
(彼の描いた召使い画のインパクトによるものか?)

・・・長くなってしまったので、気になった他の作品については、また日を改めて書くことにする。

新印象派-光と色のドラマ

2015-02-12 21:38:24 | 美術展

新印象派-光と色のドラマ
[英題:Neo-Impressionism, from Light to Color
東京都美術館
2015年1月24日~3月29日

昨日、行ってきた。

構成は以下のとおり。
筆触分割とよばれる絵画技法を創始した印象派から、それを押し進めて点描画法を完成させた新印象派、そして、この「光と色のドラマ」から生まれた20世紀初頭の前衛芸術、という流れ。

プロローグ 1880年代の印象派
第1章 1886年:新印象派の誕生
第2章 科学との出合い-色彩理論と点描技法
第3章 1887年-1891年:新印象派の広がり
第4章 1892年-1894年:地中海との出合い-新たな展開
第5章 1895年-1905年:色彩の解放
エピローグ フォーヴィスムの誕生へ

歴史的にいって、最後の印象派展となった第八回印象派展(1886年)は、(「ダウントン・アビー」的にタイトルをつけるならば、)まさしく「嵐の予感」とでもいうべきものだった。

この展覧会にはじめて作品を出展した画家のなかにいたのが、スーラとシニャック。
二人の新参者が出品したのは、当時の最先端の色彩理論を絵画に応用した斬新な作品で、それまでの、たとえばモネやルノワールら、いわゆる「正統的」な印象派の感性とは、まるで相容れないものだった。

喧々諤々の議論。

―こんなものを印象派絵画として認めるわけにはいかない!

とりわけ声を大にして反対したのが、ウジェーヌ・マネ(「印象派の父」と呼ばれるマネの弟)であった。

いっぽう、スーラとシニャックの絵画を積極的に受け容れる態度を示したのが、カミーユ・ピサロ
第一回から第八回までの印象派展すべてに作品を出展している、唯一の画家である。

いっけん、「ザ・印象派」的な存在の画家が、どこの馬の骨かわからないような新参の画家に関心を寄せたのは、意外なことのようにも思える。
しかし、ピサロにとって、従来の意味での「印象派」の運動は、もはや行き詰まりをみせていた。

そして、彼は、それまでの「ロマン主義的印象主義」("Romantic Impressionism")から脱却し、スーラたちの「科学的印象主義」("Scientific Impressionism")の方へと舵を切ることを決意する(参考)。

こうして生まれたのが、フェリックス・フェネオンが命名した、「新印象派」(Neo-Impressionism)なのであった。

さて、印象派と新印象派の違いとは何か。

はっきり違うのは、制作にかかる時間。

モネやルノワールらは、戸外でさささっと描いてしまったが、新印象派の点描画というのは、なんとも時間のかかる技法である。
スーラの代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は、完成まで二年もかかったという。

(点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点・・・。)


こうした技法の差は、いかなる画風の違いを生むのか。

ここで、モネの《印象・日の出》をみてみよう。
画家の関心は、あきらかに、「移ろいゆく時間と景色」にある。

いっぽう、新印象派はどうか。
こちらは、以前にもブログで取り上げたシニャックの《髪を結う女》である。



スーラの《グランド・ジャット島》もそうだが、「時の移ろい」に関心があった印象派の画家たちと比べて、新印象派の画家たちの意識は、むしろ、「時間の静止」、あるいは「はっと息をのむ一瞬の永遠化」にあったといえるのではないか。
新印象派の絵画は、ひかくてき、時の「記念碑」的な性格の濃い作品が多いように思う。

スーラの場合、彼の脳裏にあったのは、古代ギリシアの大理石群「エルギン・マーブル」であろう。

By 1830 the Elgin Marbles replaced the Apollo Belvedere as the foremost exemplar for students in the academies, and they remained a paragon into the twentieth century, with artists such as Edgar Degas, Georges Seurat, Auguste Rodin, and Pablo Picasso copying their plaster versions. (Oxford Encyclopedia of Ancient Greece and Rome, 1: 204 [参考])

断片的な形象に永遠の時をとどめたこの群像は、じっさい、《グランド・ジャット島》の制作に影響を与えたといわれている。
スーラ自身、こんな言葉をのこしている。

The Panathenaeans of Phidias formed a procession. I want to make modern people, in their essential traits, move about as they do on those friezes, and place them on canvases organized by harmonies of color.(参考

新印象派と古代ギリシアをつなぐ絆。
たいへん興味ぶかい。

―――――

少しばかり、他の展示作品にも言及しておこう。

面白かったのは、ルイ・アイエの《夜の仮設遊園地》(画像が見当たらない)。

いままでは近くて遠いように感じていた、新印象派と後期印象派の関係。
その接点を、ここにみた気がする。

科学的な色彩理論を踏まえながらも、ゴッホのような、画家が内に秘める炎のようなものが、顔をのぞかせていた。

あとはアンリ=エドモン・クロス

印象派にせよ新印象派にせよ、共通しているのは、いわゆる古典的な物語画から一定の距離を置いているということなのだろうが、クロスにかんしては、少し変わった印象を受けた。

彼の絵には、少なからず、物語性がある。
古典に通じているのがよく分かる。

そこが、物語性なき新印象派の枠組みのなかにあって、きわめて特徴的で、個人的に興味もひかれた。

[追記]

・スーラとシニャックがじっさいに使っていたパレットの展示(通し番号25・26)は興味ぶかかった。
ほんとうに(白を除いては)色を混ぜずに使っていたのがよく分かった。

山下清の貼り絵(ちぎり絵)は、広い意味での「点描」といってよいのだろうか。
うーん・・・。

・展覧会のタイトルだが、日本語の副題はともかく、英語の副題については、いまいちピンと来なかった。
光から色彩へ、ということなのだろうが、あまり判然としない。
はたして、きっぱりと分けられるものなのだろうか。
(20世紀のフォーヴィスムや抽象画までを含めて考えれば、分からないこともないか・・・。)

ホイッスラー展

2014-12-28 19:47:12 | 美術展

ホイッスラー展
[英題:James McNeill Whistler: Retrospective
横浜美術館
2014年12月6日~2015年3月1日

ラファエル前派兄弟団の結成が1848年。

クールベのレアリスム(写実主義)宣言が1855年。

第一回印象派展が1874年。

19世紀半ばから終わりにかけてのヨーロッパの美術界で胎動していたのは、ほかならぬ、20世紀における「イズム」の乱立であった。

この意味において、「激動」の時代を生きた画家、それがホイッスラー(1834-1903)であった。

アメリカで生まれた彼は、まさに「流浪の画家」とでも呼ぼうか、各地を転々とする。

父親の仕事の関係でロシアに移住したかと思うと、英国の学校に一時期かよい、アメリカに帰国。
ふたたび英国に旅立ち、しばし滞在したあと、今度はパリに移る。

以降、彼はロンドンとパリとを何度も往復する。
展覧会場の解説にあった言葉を借りれば、彼は、まさしく"cross-channel"(「英仏海峡を往来する」の意)の画家であった。
[くわえて、彼は一時期、バルパライソ(チリ)や、ヴェネツィア(イタリア)でも、制作活動に打ち込んでいた。]

こうした「根無し草」のような生活は、はたして、彼にプラスに働くこととなる。

当初、クールベのレアリスムにやや傾倒していたホイッスラーは、英国でラファエル前派の芸術家たち(とくにロセッティ)との交友を結び、フランスでは印象派の画家たちとの親交を深めた(モネの紹介で、マラルメにも出会っている)。

こうした貴重な邂逅の数々を通して、彼のうちには、さまざまなパースペクティヴが蓄積されてゆく。
同時に、美術界における、たしかな気運の変化の兆しをも、敏感に感じ取ってゆく。

―もはや、世紀前半の英国で人気を博した、道徳(教訓)的な主題は時代遅れだ―

ラファエル前派の活動が実質的に数年で終わったのち、世紀の後半から世紀末にかけての英国では、ある美意識が隆盛をみせた。
それが、世紀初頭のフランスに端を発する、「唯美主義」の流れであった。

ホイッスラーは、英国におけるこの「運動」の旗手として活躍した。


Symphony in White no 2: The Little White Girl

唯美主義には、大きく二つの源流がある。
ひとつはギリシア、もうひとつは日本(ジャポニスム)である。

ホイッスラーは、(どちらかというと)後者。
(前者の代表格には、レイトンムーアがいる。)

いずれの流れにしても、イギリス本国の美術界に「流入」するとなると、そこでは何かしらの形で「合流」がなされることとなる。
(復興期の美学理論が、しばしば「折衷主義」的な性格を有するのは、多分にこのため。)

とりわけ、大陸諸国でさまざまな「美の現場」をみてきたホイッスラーの作品には、多くの流派からの影響が指摘される。
それでも、彼は、いわゆる「影響の不安」(anxiety of influence)に屈することはなかった。

彼は、しばしば、自分の作品のタイトルに音楽用語をつけた。
(例:「ノクターン」「シンフォニー」「アレンジメント」など。)

なかでも、彼が好んで作品名に用いた「音楽用語」のひとつに、「ハーモニー」(harmony)がある。
言うまでもなく、彼の意識にあったのは、展覧会場の解説にもあるように、「絵画の物語性よりも色の調和を重んじ、ヴィクトリア朝期の典型であった教訓的な絵画との決別を試みる」ことであった。
そこにはまた、絵画と音楽との理想的な「調和」を図ろうという思いもあったことであろう。

しかし、さまざまな「画派」が乱立しはじめる時期という、当時の時代背景を考えると、この「ハーモニー」という語には、別の含みもあるように思えてくる。
それこそ、「影響の不安」に押しつぶされることなく、自らの「調和的な」世界観を作ろうという意図のようなものが。


The Princess from the Land of Porcelain hanging over the fireplace in the Peacock Room

* * * * * * * * * *

さて、本展が開かれている横浜美術館の「美術情報センター」では、「同時代資料にみるホイッスラー像―『パンチ』を中心に―」と題された、この展覧会に関連する資料の展示がなされている(会期:2014年12月6日~ 2015年3月25日)。

当時刊行されていた諷刺雑誌『パンチ』に掲載された、ホイッスラーの作品に対する皮肉たっぷりのコメントや、20世紀初頭に公刊された、ホイッスラーの伝記などがみられる。

なかでも面白かったのが、次に引用する『パンチ』の記事。
画家がしばしば作品名に音楽用語を用いたことを皮肉っている(→本文[左上])。



RECIPROCITY.

(The Arts are borrowing each other's vocabulary-PAINTING has its "Harmonies" and "Symphonies" : MUSIC is beginning to return the compliment.)

First Lovely Being (to clever Pianist, after performance). "O HOW CHARMING, HERR LA BÉMOISKI! THERE'S SUCH COLOUR IN YOUR FORTISSIMOES ! "

Second Lovely Being. "SUCH ROUNDNESS OF MODELLING IN YOUR PIANISSIMOES ! ! "

Third Lovely Being. "SUCH PERSPECTIVE IN YOUR CRESCENDOES ! ! ! "

Fourth Lovely Being. "SUCH CHIAROSCURO IN YOUR DIMINUENDOES ! ! ! ! "

Fifth Lovely Being. "SUCH ANATOMY IN YOUR LEGATOES ! ! ! ! ! " &c., &c., &c.

[Clever Pianist is bewildered, but not displeased.

キアロスクーロの件には思わず笑ってしまった。

最後に、ホイッスラーの著作からの一節を引用しておこう。

As music is the poetry of sound, so is painting the poetry of sight, and the subject-matter has nothing to do with harmony of sound or of colour. The great musicians knew this. Beethoven and the rest wrote music-simply music; symphony in this key, concerto or sonata in that. . . . Art should be independent of all claptrap-should stand alone, and appeal to the artistic sense of eye or ear, without confounding this with emotions entirely foreign to it, as devotion, pity, love, patriotism, and the like. All these have no kind of concern with it; and that is why I insist on calling my works 'arrangements' and 'harmonies.'

ウフィツィ美術館展-黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで-

2014-10-19 22:05:08 | 美術展

ウフィツィ美術館展-黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで-
[伊題:Arte a Firenze da Botticelli a Bronzino: verso una 'maniera moderna'
東京都美術館
2014年10月11日~12月14日

イタリア・フィレンツェ。
古くより花卉栽培の盛んであったこの地に、「ルネサンス」という大輪の花が咲いたのは15世紀から16世紀にかけてのこと。

フィレンツェ[伊Firenze、英Florence]の語源は、「花盛りの」(blooming)を意味するラテン語florentius
まさしく、「花の都」と呼ばれるにふさわしい。

1560年、画家にして建築家のヴァザーリ(彼の書いた『芸術家列伝』は、美術史研究における古典的名著)によって、初代トスカーナ大公のコジモ1世の政庁の建設が設計・着工された。
ウフィツィ(uffizi)とは、イタリア語で"offices"を意味する語。
それが、この庁舎の名の由来となった。

以降、メディチ家によって数々の美術品がこのウフィツィ宮に集められた。
そうして収集された作品群が、現在のウフィツィ美術館のコレクションの中核をなす。

さて、今回の「ウフィツィ美術館展-黄金のルネサンス ボッティチェリからブロンヅィーノまで-」。
副題に含まれている「マニエラ・モデルナ」(maniera moderna;新しい様式)が、ひとつのキーワードになっている。

しかし、なにやら聞きなれない語である。
ウィキペディアにも、現在のところではイタリア語以外のページは作成されていないようだ。

展覧会場での解説によれば、これはヴァザーリの言葉だという。
先述した『芸術家列伝』の第三部の序文には、「マニエラ・モデルナ」に相当する語句がみられる。
(なお、私の手元にある『芸術家列伝3-レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』(白水社、2011)では、その序文の訳出は割愛されている。)

「新しい様式」を意味する「マニエラ・モデルナ」。
ヴァザーリのみてとった「新しさ」とは何なのか。

きわめて簡単に言ってしまえば、こうである。
15世紀までは、大工房の主宰者(親方)の技術にならい、その技法を習得することが、弟子たちの目指す最終的な到達点であった。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチにはじまる(とヴァザーリはみなす)16世紀以降の工房においては、いかにして師の技芸を越え、それまでの様式観を打ち破るかという点に積極的な価値が置かれるようになった。

それが、ヴァザーリのみてとった「新しさ」であった。
そして、彼にとり、レオナルドは、その「新しい様式」(maniera moderna)の極致にあたる「美しい様式」(bella maniera)にまで達していた画家として認識されていた。

こうしたヴァザーリの意識を形成した要因には、当時の政治情勢も絡んでくることであろう。

メディチ家に黄金期をもたらしたロレンツォ・デ・メディチが1492年に亡くなったあと、フィレンツェでは、ドミニコ会修道士のサヴォナローラが急速に社会的な影響力を増していった。

しかし、サヴォナローラの唱えた厳格な教義は、彼が1498年に処刑されたことにより、弱火になってゆく。
代わりに政治の座についたソデリーニは、サヴォナローラとは対照的に、寛容で穏健な姿勢を前面に打ち出した。

ソデリーニのもたらした開放的な世界観が、工房における旧来の価値観にも新たな息吹を吹き込むものであった可能性は十分に考えられる。

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そろそろ、作品の振り返りに入ろう。
いくつかの気になった作品について、簡単にコメントをのこしておきたい。

Botticelli, 'Madonna and Child with an Angel'

遠目にはフィリッポ・リッピの作に思えたが、実際にはボッティチェリが描いていると知り、少し驚いた。
実際、かつてはリッピの作とみなされていた時期もあったという。

リッピはボッティチェリの師。
師から弟子への影響力は、予想以上に濃いものがある。
(参考までに、リッピの描いたよく似た構図の作品を一点。'Madonna and Child')

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Botticelli, 'Pallas and the Centaur'

本展の目玉作品のひとつ。
画家がパトロンのひとりの結婚祝いに送ったものとされる。

獰猛なケンタウロスを押さえつけるパラス(アテナ;ローマ神話ではミネルウァ)の姿に、情欲に打ち勝つ貞節といった意味を読み取るアレゴリカルな解釈は、作品の受け取り手の「結婚」という背景を考えると、それなりに説得力があるように思う。
なかなか面白い。

ちなみに、『西洋美術解読事典』(河出書房新社、2014)には次の記述がみられる。
「ルネサンスの人文主義者にとって、ケンタウロスは人間の半ば獣である下位の本姓の形象化で、ミネルウァに象徴される高位の英知と対置されることもあった」(123頁)。

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Botticelli, 'Madonna and Child with the Young St John the Baptist'

印象的な聖母の姿勢。
これを、クリムトの絵画と比較するのは・・・・・・やや無理があるか。



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Botticelli, 'The Adoration of Magi'

人がごった返している。
初期ルネサンスの画家のなかでも、ボッティチェリはとくにサヴォナローラの説教に傾倒していた。
この混沌とした画面に、そうした宗教的熱情をみてとることは、決して突飛な解釈だとは思わない。

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Bronzino, 'Portrait of Pope Leo X'

ブロンヅィーノのこの絵をみた瞬間、別の画家の描いたある絵画が思い起こされた。
ラファエロの手になる《レオ10世の肖像》である。


展覧会場での解説はとくになかったが、ブロンヅィーノの脳裏にはおそらくこの絵画があったのではないか。
(もしかしたら図版等、他の媒体には解説が載っていたのかもしれない。)

ブロンヅィーノがこの絵を描いたと推定されている1555-65年ころ、レオ10世(1475-1521)はすでに他界していた。
画家がこの教皇の肖像画を描くとなれば、先達の作品を参考にするより他に手段はなかったと思われる。

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Bronzino [design and carton], 'Spring (La Primavera)'

ひしめく人物群が空間内を踊るように遊泳する描写は、画家ブロンヅィーノの代表作《愛のアレゴリー》を思い起こさせる。

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[Attributed to] Vasari, 'The Adoration of the Shepherds'

西洋絵画史の時代区分でいえば、ルネサンスもマニエリスムをも越えた先にあるバロック的な光と闇の世界を、ヴァザーリが16世紀半ばに描き出しているのは驚きだ。

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他にも、ポントルモの《聖母子》やフランチェスコ・デル・ブリナの《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》など、マリエリスム的傾向のみられる作品が興味深かった。

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ウフィツィ美術館。
花の都に咲く精華。