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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

*大隈講堂はゴシック建築か*

2014-05-31 21:03:22 | 番外編

“The smallest point may be the most essential.”
―Sherlock Holmes

「都の西北」早稲田大学のシンボルともいえる大隈講堂。
この記念講堂が完成したのは1927年。
大学の創立者にして初代総長の大隈重信の逝去から5年後のことだった。

学内の学生向け週刊広報紙(WASEDA WEEKLY)の特集記事によれば、当時総長だった高田早苗は建設に際して二つの注文を寄せたという。
ひとつは「ゴシック様式であること」、もうひとつは「演劇に使えること」であった。

後者についてはともかく、前者についてはややひっかかる。
大隈講堂は、本当に「ゴシック建築」なのだろうか。

たしかにウィキペディアには「チューダー・ゴシック様式」とある。

しかし、出典がわからない。
ざっとネット検索をかけたところでは、大隈講堂が「チューダー・ゴシック様式」であると明言しているのはこのウィキペディアページ以外ほぼ皆無といっていい。

この点についてひとつ考えられるとすれば、おそらくウェストミンスター寺院との関連であろう。
大隈講堂の鐘の音は、この由緒ある英国の寺院のそれにならっている。(→参考
そしてこのウェストミンスター寺院は、すべてではないにせよ、大部分はチューダー王朝期のゴシック様式で作られているのだ。(参考:"Tudor architecture")


ウェストミンスター寺院

とはいえ、まだすっきりしない。
大隈講堂には、いわゆる「純粋な」ゴシック建築の〈クオリア〉が欠けているような気がしてならない。

それこそ、19世紀英国の美術批評家ラスキンが、「純粋な」ゴシック様式の荘厳な美を手放しで称賛した一方で、彼にとっては「亜流」に過ぎない「ゴシック・リヴァイバル」の建造物については手厳しかったように。
ゴシックの本質」の章が挿入されている著書『ヴェネツィアの石』でも知られる彼は、たとえばこうした「復興期」の建築の代表例ウェストミンスター宮殿の様式をみて激しく嫌悪したという。


ウェストミンスター宮殿

さて、大隈講堂の建設に大きく携わったひとりが、早稲田大学建築科を創設した人物でもある佐藤功一であった。
ここに、彼の手掛けた建築のひとつ「岩手県公会堂」の建築様式について書かれた一本の論文がある。(参考:「岩手県公会堂の建築様式に関する研究」)

この論文のなかでは、大隈講堂を含む複数の「佐藤建築」についても言及されている。
論者は、佐藤功一の建築の多くが「ネオ・ゴシック」と評されていることをふまえたうえで、この岩手の公会堂が、「ネオ・ゴシックを下敷きとした表現主義の建築」であると述べている(60頁)。
ちなみに「ネオ・ゴシック」という用語については、「ゴシック・リヴァイバル」とほとんど同義といっていいだろう。

岩手県公会堂については実物を見たことがないので何とも言えないが、少なくとも、佐藤の建築の多くが「ネオ・ゴシック」と呼ばれ、それゆえ「純粋な」ゴシック建築とは一線を画していることだけは確実に言えると思われる。
「表現主義」うんぬんについては何とも言い難いが、よくよく考えてみれば、そもそも、「グリーク・リヴァイバル」にせよ「ゴシック・リヴァイバル」にせよ、復興期の建築の特質のひとつはその「折衷主義」ではなかったか。

西洋建築様式史』(美術出版社)には次のようにある。

「[19]世紀の後半は諸様式のリヴァイバル(復興)の時代となった。復興様式はさらにそれぞれの国の伝統と混ざり合い、ひとつの建物に複数の様式が折衷されることもあったが、建築の格付けのための重要な表現媒体として生き続けた」(142頁)。

それゆえ、「表現主義」の要素があるかどうかはともかく、「純粋な」ゴシック建築に様々な様式を混ぜ合わせるという「折衷主義」の気風が、復興期の建築、ひいては佐藤の建築の精髄であったことは間違いないだろう。

文化遺産に関するこちらのHPでは、「ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品」として、大隈講堂が紹介されている。
また、早稲田大学のHPでも、この記念講堂は「入り口の尖頭アーチや鐘楼デザインなど建物全体はゴシック様式を基調とし、大隈庭園側の半円アーチが連続した回廊にはロマネスクのエッセンスを加えるなど、2つの様式を巧みに折衷した日本近代建築の名作」であると評されている。


大隈講堂(回廊)

したがって、結論としては、大隈講堂は「純粋な」ゴシック建築ではない。
その基盤にみられるのは、あくまで「ネオ・ゴシック」的な折衷主義の理念である。

ロマネスク、ゴシック、そしてあるいは表現主義。
そうした多様な様式の結晶として、大隈講堂は都の西北に息づいている。

バルテュス 5つのアトリエ

2014-05-25 11:16:31 | 番組(日曜美術館)

2014年5月25日放送 日曜美術館(NHK Eテレ)
バルテュス 5つのアトリエ
[出演]節子クロソフスカ・ド・ドーラさん(バルテュス夫人)

旅をするように各地のアトリエを転々と移動し、作品制作に打ち込んだバルテュス
パリで二ヵ所、その後はフランス・シャシー、ローマのヴィラ・メディチ、そして終の棲家となったスイスアルプスのロシニエール

ヴィラ・メディチやロシニエールへの移住については、アカデミーへの招聘や健康上の理由などいろいろあったそうだが、結果的に移り先で新鮮なインスピレーションを得て創作に打ち込んだことは確かである。

「自分の絵を理解したことはない。作品には意味がなくてはいけないのか」というバルテュス。
そもそもがこうした立場を表明している画家だけあって、作品自体に関する説明は決して多くのこされていない。
それが、後世の我々の作品をみる眼を混乱させている部分も少なからずあるのだろう。

また、バルテュスの「ステレオタイプ」にもなっているのが「ロリータ・コンプレックス」なのではないかという点。
たしかにバルテュスは「少女を天使のように描く」といった言葉をのこしている。
しかし単純に「ロリータ・コンプレックス」のひとことで片づけられる画家ではなかろう。

以前にこのブログでバルテュス展のレビューを書いたときに、バルテュスの少女画は、西洋絵画の伝統的な裸婦像をバルテュス的に変奏したものではないかと言った。
ホルマン・ハントの《良心の目覚め》の「前段階」が描かれているかのようなバルテュスの少女画は、それゆえ、「静けさ」のなかに「覚醒」への胎動を予感させる「不安定さ」に魅力がある。


ホルマン・ハント 《良心の目覚め》

そもそも、「ロリータ・コンプレックス」どうこうという話が始まった一因は、ナボコフの『ロリータ』(の初版?)にバルテュスの少女画が使われたこと。
この「事件」に、バルテュスは憤慨したという。

「私が理想とするのは、宗教的なモチーフを使わずに宗教画を描くことだ」。
神聖で、危なげで、そして、美しく。

バルテュスの少女画を生み出した、5つのアトリエという巡礼の旅。

劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~ 後編

2014-05-24 23:36:43 | 番組(美の巨人たち)

2014年5月24日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
スペシャル後編60分 放送700回記念
劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~

先週に引き続いてのイタリア最盛期の美術めぐり。
前回の焦点は主にラファエロだったが、今回はミケランジェロとベルニーニ
盛期ルネサンスからマニエリスム、そしてバロックへと移行してゆく各時期を代表する芸術家たちの特集だ。

まずはミケランジェロ。
ヴァチカンでミケランジェロといったらもちろんシスティーナ礼拝堂だ。


システィーナ礼拝堂内部

「システィーナ礼拝堂を見ずしては、およそ一人の人間が何をなし得るかということをはっきりと覚ることは出来ない」とゲーテが讃えたことは有名だが、この天井画制作の裏にはある「陰謀」があった。

当時ヴァチカンの芸術建築を一手に仕切っていたのは建築家のブラマンテ
ときの教皇ユリウス二世の命でサン・ピエトロ大聖堂を作ることになった彼であったが、その脳裏には当時急速に力を伸ばしていたミケランジェロの影が色濃くあった。

教皇がこの年下の彫刻家に心移りするのを恐れたブラマンテは、「彫刻家」のミケランジェロに天井画制作を命じるよう教皇に進言した。
ミケランジェロの天井画制作は必ずや失敗に終わると予測したブラマンテであったが、若い芽を摘むどころか、この作品が美術史上まれにみる大偉業として後世讃えられることになるのだから分からないものだ。


システィーナ礼拝堂天井画

また、天井画制作途中の出来をみたブラマンテはミケランジェロの技量に目をみはり、またもや、教皇が心移りしないよう今度はラファエロを呼んで絵画制作をさせたのだが、これがかの《アテネの学堂》を含む「署名の間」の作品群を生むことになる。
なんとも皮肉なことだ。

ちなみに、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の祭壇画《最後の審判》を描いたのは、天井画が完成した30年後のことであった。
老齢の芸術家が生み出したこの大作には、のちのバロック的ダイナミズムを先取りしているかのような躍動感がみられる。


《最後の審判》

さて、サン・ピエトロ大聖堂に話を移すと、この建築を任されていたブラマンテは志半ばで亡くなってしまい、彼のあとヴァチカンの建築事業を受け持ったラファエロも早世してしまう。
その後、しばらく大聖堂建築の計画は中断することとなった。

ついに建築計画が再興し、その責任を任されたのが、なんと当時71歳のミケランジェロであった。
因縁の「仇敵」ブラマンテが最初に着手した建築計画をこの老芸術家が受け持つことになるとは、歴史の皮肉を感じずにはいられない。

これが芸術家としての最後の事業となったミケランジェロは、いまやヴァチカンのシンボルともいえる「クーポラ」(丸天井)の完成をみずにこの世を去った。


サン・ピエトロ大聖堂

これ以降、イタリア美術はいわゆる「バロック」の時代に入ってゆくわけだが、この時代の寵児にして、現在ものこるローマ建築の大半を受け持った天才芸術家こそ、ベルニーニであった。

番組内では彼の偉業の数々の紹介とともに、ライバルと謳われた建築家ボッロミーニの作品も扱われていた。

ボッロミーニに関しては今回初めてその名を聞いたので、今後また機会のあるときに調べてみたい。

「芸術の都」から「劇場都市」へ。
ルネサンスからバロックにかけて西洋の美術をリードしてきたイタリアではあったが、18世紀に入ると、その覇権はフランスに移る。

しかしなお、巨匠たちの作り上げた花園は色あせることなく、イタリアの地に芳香を放ちつづけている。

三島由紀夫 『午後の曳航』

2014-05-18 22:02:11 | 書籍(その他)

(画像をクリックするとアマゾンへ)

午後の曳航
三島由紀夫
新潮社
1968年(改版)

美しくも冷たい、まさしく夏の盛りを過ぎた冬の海のような物語。
「夏」と「冬」の二部からなるこのストーリーは、日英米合作で映画化(1976年)され、またオペラ(1990年)にもなった。

ウィキペディアには司馬遼太郎氏をはじめとする評者のコメントがまとめられているが、そのなかで興味深かったのはドイツ文学者松本道介氏の次の指摘。

曰く、タイトルの『午後の曳航』(ローマ字読み:Gogo no Eiko)は詩的な響きを有しており、「独語訳英語訳の題名を見るにつけても『午後の曳航』という日本語を味わうことの出来る有難さを感じる」。

この評を読んで思い出したのが島崎藤村の詩の一節(参考:「千曲川旅情の歌」)。

小諸なる古城のほとり・・・

このフレーズをローマ字表記にすると以下のようになる。

Komoro naru Kojo no Hotori...

『午後の曳航』(Gogo no Eiko)同様、"o"を繰り返す効果によって、なんともいえないわびしさが増幅される。

また英国ロマン派の詩人コールリッジの有名な詩「老水夫の唄」の次の一節にも同様の詩的効果が認められる。

「ひとり ひとり ただひとり 大海原に ただひとり」
("Alone, alone, all, all alone, / Alone on a wide wide sea!", 232-33)

『午後の曳航』。
淡き夕べの水面に消える、航跡と青春。

さて、美術の話。
以前に映画「舟を編む」を扱ったときに絵画に描かれた船の例を何点か紹介した。
今回は海洋画の歴史について。

Wikipediaによれば、〈海洋画〉には厳密には二種類(maritime art / marine art)あり、前者は航海に携わる人間が描かれている必要があるが、後者は人間が描かれていなくともよい。

海洋画の歴史は古く、それこそ古代ギリシアやエジプトの時代から描かれてきたが、最初の〈隆盛〉が認められるのは中世・ルネサンスを経たのちのいわゆる「オランダ黄金期」の絵画である(参考:"Dutch Golden Age painting")。

17世紀のオランダは活発な国際貿易により目覚ましい経済発展を遂げ、それが豊かな文化を育成する土壌を形成した。
こうした時代背景を考えると、海洋貿易で空前の繁栄がもたらされた国家において海洋画が隆盛したのもむべなるかなといったところである。

そして次に海洋画の〈隆盛〉がみられるのはロマン派の時代である。
崇高(sublime)」の概念の広まりと相まって、この時代には人々の自然観(もちろん海も含まれる)が大いに揺さぶられた。

ロマン派期における時代のうねりがそのまま海洋画に投影されていると考えていいのだろう。
また船の描かれていない海洋画、すなわち先ほどの分類でいうところの"marine art"が初めて広く描かれた時代でもあった。

一点だけ作品を扱っておこう。
ターナーの《奴隷船》である。


ターナーはこの作品に自作の詩を付した。

Aloft all hands, strike the top-masts and belay;
Yon angry setting sun and fierce-edged clouds
Declare the Typhon's coming.
Before it sweeps your decks, throw overboard
The dead and dying―ne'er heed their chains
Hope, Hope, fallacious Hope!
Where is thy market now?

ターナーも激しい奴隷制反対論者であった。
英国の奴隷貿易廃止の歴史については、映画「アメイジング・グレイス」でも扱われている。


船―。
黄昏の海と哀愁の航跡。

劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~ 前編

2014-05-17 23:25:16 | 番組(美の巨人たち)

2014年5月17日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
スペシャル前編30分 放送700回記念
劇的空間!ローマ・ヴァチカン ~天才たちが鎬を削った美の饗宴~

ヴァチカン宮殿にある「ラファエロの間」の一区画「署名の間」。
ローマ教皇ユリウス二世が書庫として使用したこの部屋には、ラファエロの手掛けた作品が四点のこされている。


聖体の論議


枢要徳


パルナッソス山

そして、


アテネの学堂

今回の放送で焦点が当てられたのは、この《アテネの学堂》に描かれているひとりの女性について。

絵をよくみてみよう。


画面の右に描かれた、こちらを向いている男性は、画家の自画像であるといわれる。


そして、そのまま目を左にずらしてゆくと、同じようにこちらを向いたひとりの女性が描かれていることに気づく。


この女性、いったい誰なのか。

その謎を解く手がかりとなるかもしれない一枚の絵が、こちらである。


ラ・フォルマリーナ

生涯独身だったラファエロ。
実は一度枢機卿の姪と婚約したのだが、彼女が夭折したため結婚には至らなかった。

彼女の死後、叔父の枢機卿はラファエロに他の女性との結婚を禁じた。
この枢機卿、ラファエロやその工房の画家たちのパトロンでもあったため、彼らにとっては非常に影響力の大きい存在であったのだ。

しかし「聖母子」の画家ラファエロにつねに霊感を与えてきたのが幾多の色恋沙汰であったことはほぼ明白な事実であって、それゆえ画家が枢機卿の言いつけを忠実にまもっていたかどうかは怪しい。

実際、この絵《ラ・フォルマリーナ》に描かれた女性は、ラファエロと結婚していたという説もあるほどだ。
画家の前でこれだけくつろいだ姿勢をとっているからには、相当に親しい関係であったことは間違いないだろう。

ちなみに「ラ・フォルマリーナ」とは「粉屋」、すなわち「パン屋」の意。
つまりはパン屋の娘だ。

結婚の一番の根拠となりうるのは、この女性の左手の薬指に、もともとルビーの指輪が描かれていたこと。
当時、婚約指輪にはエメラルド、結婚指輪にはルビーが一般的だったという。

しかしこんな(スキャンダラスな)絵が枢機卿の目に留まったら大変だということで、ラファエロの死後、彼の工房の画家たちは指輪を消したのだと、ある美術史家は言う。

決定的な根拠とまではいえないが、十分に考えられる説であろう。

そして、表立っては結ばれることのない二人の関係性が、《アテネの学堂》における二人の距離に反映されているとも考えられるのだ。
(もっとも、この説は《アテネの学堂》に描かれた女性が《ラ・フォルマリーナ》のモデルと同一人物であるという前提に立ったものではあるが。)

番組内での解説によると、《ラ・フォルマリーナ》のモデルの女性はラファエロの死後修道院に入り、そのときの記録には「未亡人」とあったということである。

ちなみに、《ラ・フォルマリーナ》と同一のモデルが描かれているとされる作品がこちら。


ラ・ヴェラータ》 [ヴェールを纏った女性の意]

モデルの女性の断定については専門家諸氏に任せるとして、《モナ・リザ》の影響がこの絵に色濃くみられることだけは確実にいえるだろう。

最後に、ラファエロの墓碑銘を引用しておこう。

ラファエロここに眠る。彼が生きていたとき、母なる自然は彼に征服されることを恐れ、彼が死んだとき、母なる自然は自分も死ぬのではないかと恐れた
(ゴンブリッチ 『美術の物語』 245頁より)