芳子おばあちゃんの日記 ~家族の出来事~

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(2007年 3月3日) 「うれしいひなまつり」の歌は、レクイエムだった…?

2016年03月03日 | 音楽 歌の誕生秘話

  あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花 …  
   昭和10年(1935年)に、作詞・サトウハチロー、作曲・河村光陽により作られました。光陽は、しとやかで優しいメロディをつけ、光陽の長女・順子が最初に歌い、ポリドールレコードから発表されました。歌は瞬く間に広まり、ひな祭りの童謡の定番となりました。サトウハチロー、河村光陽の二人にとって、共に出世作となりました。
 作曲家の河村光陽は、日本の音階を底流とした作曲法で多くの名曲を誕生させ、「河村童謡」の名で知られています。
  作詞家のサトウハチローは、最初の夫人と離婚して間もない頃、実母と別れて暮らす3人の子どもたちへの心づくしから、大変立派なひな人形を子どもたちに贈りました。娘たちは嬉しくて、一日中おひな様のそばで過ごしました。サトウハチローが「うれしいひなまつり」を作詞したのは、このひな人形を買った前後のようです。
  また、サトウハチローには、4歳年上の大好きな姉がいました。嫁ぎ先も決まっていましたが、胸を患ってお嫁に行かずに18歳で亡くなりました。色の白いお姉さんだったそうです。サトウハチローは、幼児期は不活発でした。腰の大ヤケドのせいで満足に歩けず、家の中で遊ぶことが多かったようです。成長してからは、中学時代から酒を飲み、野球に熱中し、さらには不良になったことも有りましたが、姉からはピアノの手ほどきを受け、詩的なものの見方などの面でも大きな影響を受けました。
 こんな背景を知っているサトウハチローの次男・佐藤四郎氏は、子供の頃この歌を聞いて、「随分悲しい曲なのに、何でうれしいんだろう」と不思議に感じました。やがて、「ひとつのレクイエムなんだなあ」と思うようになりました。その姉のことに触れない父を、四郎氏は「ものすごく涙腺の弱い人だから、この曲が悲しくてやりきれなかったのかも知れない」と思っていました。
   
参考:「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞社文化部)、「NHK・日本のうたふるさとのうた」(講談社)
 
 私には、この歌に因んで、こんな思い出が有ります。…以前に、私の姪が小学校4年生の時、病気で亡くなった悲しい出来事がありました。その姪を偲ぶ法事の時、私の夫が「うれしいひなまつり」を歌った時、会席の方が思いもかけず涙を流したのです。辛い闘病の経過に思いを馳せたり、可愛かった姪を偲びましたが、当時は、作詞者の悲しい思い出の一面があるこの曲の生い立ちのことは知りませんでした。
    
 この記事は、2007年に投稿した記事を、再編集して再投稿しました。

 「ひな祭り」のいわれ等に付いては、こちらの姉妹ブログ「季節の風物覚え書き」にも記載されています。



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