主人が会社勤めの頃、大変お世話になった方のお見舞いに、主人と二人で伺いました。
その後、奥様より11月4日に逝去されたとの報を頂きました。
11月7日、通夜に主人と共にお参りさせて頂きました。
主人が会社勤めの頃、大変お世話になった方のお見舞いに、主人と二人で伺いました。
その後、奥様より11月4日に逝去されたとの報を頂きました。
11月7日、通夜に主人と共にお参りさせて頂きました。
地域の小学校で、登校時や下校時の安全見守りを17年間続けて、「おじパト」として親しまれてきた方が逝去されました。
新宿区の徳行者表彰の日に欠席されたことが、ご本人の異変に対する、早期の対応につながりました。
高齢化社会になると様々な事情が生まれるもので、この度の葬儀は、PTA・OBや地域の皆さんが中心になって、執り行われました。
葬儀は、地域の会館を使用したり、中心メンバーの方の紹介で仏具が揃い、僧侶も決まるなど、身近で手作りながら心のこもった葬儀になりました。
PTA・OBなどの皆さんの、故人に対する追悼と感謝への熱意が実り、小学生・中学生・高校生も含め、新宿区長、地域の方々など、大変多くの皆様が参列する葬儀になりました。
葬儀の行い方や、心の込め方は様々ですが、素朴で葬送の原点を見るような印象深いお弔いになりました。
(主人のFBより転載)
2015年2月22日 「にんげんだもの」と「古印最中」と従兄弟の思い出。
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NHKTVで、書家の相田みつおさんを紹介する番組がありました。
その中で、足利銘菓「古印最中」の包装紙をデザインした逸話も紹介されていました。
「古印最中」は、隅々までギッシリと餡子が詰まった最中です。
この最中は、従兄弟の清さんから折にふれて贈って頂いた品でした。
清さんは、親戚の中心として頼り甲斐のある方でした。
私より一回り上の年長者で「従兄弟」というより「伯父」的な存在でした。
清さんは、まさに東日本大震災のその日、午前中に自転車で転倒し重傷を負いました。
事故からおよそ半年後に惜しまれながら逝去されました。
相田みつおさんと古印最中の事を知り、改めて清さんを偲ぶことができました。
春の彼岸には、親戚の皆さん共々、お墓参りをさせて頂きます。
2013年9月1日 猛暑の中、清さんの「三回忌法要」。
私と主人共々、出席させて頂きました。
都心でも35.7℃の猛暑日でしたが、出席予定の皆様も皆、無事に法要に出席されました。
故人のご長男は遠く四国からの出席でしたが、あちらは雨とのことでした。
2012年8月19日 清さんの一周忌と、奥様の二十三回忌法要。
...
2011年10月30日 主人の従兄の清さんの、四十九日法要が営まれました。
去る9月に逝去された、清さんの「四十九日」の法要が、小金井の「多摩霊園」で営まれました。
親戚、縁者の皆様が集い、個人を偲びご冥福をお祈りしました。
2011年9月 日 清さん逝く~享年78歳。
3月11日、又従兄弟の清さんは折しも、「東日本大震災」発災の日の午前中に自転車で転倒し重症を負い緊急入院をしました。
9月16日、懸命な治療と看護の末、薬石効無く亡くなりました。
9月18日、通夜には、主人・私・息子がお参りさせて頂きました。
2011年3月11日 主人は、上越・長岡へ…その後、巨大地震が…
強い揺れの地震に見舞われたとき、私は地下の仕事場に1人でいました。
中々収まらない揺れに、ビックリしました。
幸い、私や、同居の息子達の所では、何の被害もありませんでした。
しばらくして、TVで、東北地方を中心に甚大な被害が出ているとの報道を見て、とっても驚きました。
その時、主人は、知人の奥様のお通夜に出席の為、上越・長岡に向かっていましたので、どうなったかとても心配でした。
電話がつながらず、連絡が取れたのは、夜8時過ぎでした。
主人の話によると…
3月11日、午後1時46分、上越・長岡に到着。バスで知人宅に向かい、2時40頃、到着。
間もなく、2時46分、地震発生。長岡では、余り大きな揺れは感じず。
葬儀に出席の皆さんがTVで、刻々報じられる深刻な被災状況に見入る。
5時頃、長岡市内の通夜式場に移動。
6時30分からの通夜に出席。
新幹線がストップ、長岡駅のステーションホテルに泊。
12日、早朝、上越に震度5強の地震。ホテルのエレベーターがストップ。
新幹線動かず、本日の母校「西戸山中学校・閉校式」出席を断念。
告別式に出席。
新幹線の再開を待つ。
新幹線が再開後、最初の列車が長岡に到着したのは、午後5時頃。
長岡で乗車後、自宅に着いたのは、夜10時30分頃。
以上が、地震後のドキュメントでした。
主人は、初めての土地で、新幹線の開通を一人で何時間もじっと待つ間に、次々に入る「大震災」の報道に思いを寄せていたそうです。
その時の思いが、主人が「東日本大震災 記録・教訓・復興」を立ち上げるきっかけになりました。
実は、もう一つの心配事が発生していました。いつも、主人の親戚が寄り合ってお墓参りをしていますが、その中心の方が、11日午前、自転車で転倒し、頭部を強打して、緊急手術を受けたとの知らせが入っていました。 明日、主人と二人で御見舞いに伺うことにしました。
〔余談〕 その後、間もなくの3月末、何と主人自身が自転車で転倒。メガネ飛ばすほど左顔面を打ち、手首と胸を痛めました。当日午前中は、掛かり付け医の健康診断で、「私の自慢は、自転車で急な坂道を平気な顔をして漕ぎ上がることです」と自慢していたそうです。過信か?、焼きが回ったのかしら…?。
告別式は、主人と参列させて頂きました。
落合斎場で、最期のお見送りをさせて頂きました。
故人は、多方面に活躍された方なので、新宿区・民生など行政関係、学校、近隣町会、地域など、大変多くの方々がお見えになっていました。
告別式の夜、「滝桜」の中継がありました。
告別式の時、葬儀委員長が弔辞の中で、「散る桜、残る桜も、散る桜」の句を手向けられました。
東日本大震災の復興を願う内容に思いを重ね、感慨深く「滝桜」を鑑賞しました。
「滝桜」は、七本の幹が絡み合い、根を100㍍にまで伸ばしているそうです。
桜の花は散っても、幹が残り、根がいっぱい張っています。
主人は、その根の一本になれるかしら…。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
永年、町会役員の重責を果たされる一方で、民生委員、子どもを守る会々長など地域に係わる役職も数々務めて来られました。
その功績により顕彰も受けられました。
平成14年3月 「東京都知事賞」受章。
平成22年12月 社会福祉功労者厚生労働大臣表彰として、
「厚生労働大臣功労章」受章。
私事では、この方のお店が、平成18年12月に新装開店する際、初日からお店のお手伝いをさせて頂いた事が有り、貴重な経験となりました。
主人には、町会祭典部の活動などで色々と指導を頂きました。
特に主人は、何かしら気持ちのゆるみを感じると、この方を訪ねていました。
「話しを聞いていると気持ちが緊張してピッとする」と云っていました。
ある時、緊張のあまり話しを聞いている途中で、思わず「はいはい」と返事をしてしまい、「君、返事は1回でいいんだよ」とたしなめられたそうです。
町会にとっても、地域にとっても余りに大きな急逝でした。
今晩、NHKの番組で、陸前高田・高田松原7万本の松の中で、あの大津波の中からたった1本残った、「一本松」の話しが取り上げられていました。
枯れても残る「一本松」が、これからの世を見守り励ましているようです。
急逝された方の思いが重なっているようでした。
平成25年10月30日 主人と、知人の方と二人で墓参をさせて頂きました。