2014.7.18
長年に渡って親しんできた「ブログ人」のブログ公開サービスが、11月頃停止になります。それに伴い、いくつかの姉妹ブログを私のブログの中に集約しました。
今まで通り愛読して頂けたら嬉しいです。
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♪ 春高楼の花の宴 めぐる 盃 かげさして ♪
作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎 編曲:山田耕作
「荒城の月」のモデルには、三つの城が浮かびます。
作詞の土井晩翠は、青葉城の城下町、宮城県仙台市に生まれています。その「青葉城」説と、晩翠が修学旅行で訪れ、荒涼たる城址に深く感銘を受けたといわれる、会津の「鶴ヶ城」説が有ります。
作曲の滝廉太郎は、郷里の大分県・竹田市にある、「岡城址」のイメージを重ねたといわれています。
「荒城の月」は、世界に通用する数少ない日本の歌曲ですが、それは大正10年(1921年)に、イギリスへ演奏旅行に出たテナー歌手・藤原義江の功績によるところが大きいといわれています。
ロンドンでは、当時、日本大使館の一等書記官だった吉田茂(のちの首相)の計らいで、文化人やマスコミを招いてパーティーが開かれ、その席上で披露したこの歌が圧倒的な評価を得ました。
(参考:NHK日本のうたふるさとのうた100曲)
4月13日、童謡コーラス指導員の先生による「ハートフルコンサート」が開かれました。
そのコンサートで、小貫先生が、「荒城の月」について耳新しいお話しをされました。
以前に、ギリシャ正教の賛美歌の中に、「荒城の月」とそっくりなメロディの曲が有ると話題になり、「盗作?」と疑われました。
しかし、調べて見ると、日本で布教をしていたギリシャ正教の宣教師が、「日本に素晴らしい曲がある」と故国に紹介したのが、ギリシャ正教の賛美歌になったということでした。
童謡コーラス指導の先生による、手作りコンサート「ハートフルコンサート」に行きました。
会場が近いので、主人も一緒でした。
100名以上のファンの皆様が来場していました。
司会者から、「今日の黒一点の参加者」として、主人が紹介されました。
今回のコンサートは、小貫岩夫先生の初めてのソロコンサートでした。
コンサートは「オペラ歌曲」から始まり、「荒城の月」・「あわて床屋」・「朧月夜」などが、迫力のあるテノールで歌い上げられました。
小貫先生から、「荒城の月」は盗作…?と、耳新しい話題が紹介されました。
その顛末は、姉妹サイト「歌の誕生秘話・エピソード」に記載します。
(姉妹サイト・「芳子おばあちゃんの日記」より転載)
詩人サトウハチロー(1903~73)の未発表の詩に曲をつけた新しい童謡が完成しました。
タイトルは、「五月人形の行進」。「足並みそろえて元気よく 五月人形がくり出した」のフレーズに続いて、「金太郎」や「桃太郎」などが登場します。
サトウハチローと親交の深かった作曲家・服部良一さんの孫・服部隆之さんが手がけました。
発表につながったきっかけは、「吉浜人形」(愛知県高浜市)の神谷毅社長が「男の子の節句に歌がないのは寂しい」と、ハチローの次男でサトウハチロー記念館館長の佐藤四郎さんに話しをもちかけた事でした。
ハチローのスケッチブックを探したところ、鉛筆書きの未発表の詩がみつかりました。
最初に、岩手県内の約90の私立幼稚園にプレゼントしたところ、「テンポのよい曲調で、詩も懐かしさがある」と好評でした。
人形メーカーとサトウハチロー記念館(岩手県北上市)が、五月の端午の節句に向け、CDと楽譜を、全国の幼稚園と保育園に贈ることになりました。
桃の節供に歌われる「うれしいひなまつり」は、サトウハチローの代表作です。
(参考:2010.4.5 読売新聞)
日本童謡協会の理事を務める伊藤幹翁さんは、童謡の作曲を行う傍ら、女声合唱団の育成にも力を入れています。
東京・杉並を拠点に活動する女声合唱団「エルフェ」は、結成してから33年経ち、現在の団員は35名程です。
コンサートは5年ごとに開いています。レパートリーは、童謡・叙情歌など、心の糧になるような歌が中心です。
伊藤幹翁さんの父は作曲家でギタリストでもあり、音楽に親しみやすい環境にありました。中学からピアノを習い、大学卒業後、読売交響楽団に入り、楽団の運営にも携わりました。
自らの作曲活動の中で、世界でもこれ程多くの童謡が作曲されている国は他に無い事を知りました。やがて、中田喜直やサトウハチローの「童謡を大切にしたい」という考えに共感し、次の世代に受け継ぐ平成の童謡も必要として、童謡の作曲を多く手がけるようになりました。
2001年には、兵庫県・龍野市で開催された、市制施行50周年記念の「第17回・三木露風賞」では、作曲した童謡「ほたるのふるさと」が特別賞を受賞しました。
(参考:208.7.2 NHK・ラジオ深夜便 心の時代 「童謡の心を歌い継ぐ」より)
新聞で、「家庭画報」(2008年8月号)の広告の目次に「日本の名歌懐かし」と出ているのを見つけました。早速購入したところ、歌詞と歌に因んだ美しい写真が載っていました。
お盆の頃になると、お寺さんから送られてくる冊子に、「かなりや」の歌が紹介されていました。
「唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか いえ いえ それはなりませぬ …」から始まる歌詞を通して、心の闇や、再び歩み出す力を見つけようと呼びかけています。
2日早朝のNHK・ラジオ深夜便で、「童謡の心を歌い継ぐ」と題して、日本童謡協会・理事で作曲家の伊藤幹翁さんが出演されていました。
♪ 十五夜お月さん 御機嫌さん 婆やは お暇 とりました … ♪
「家族の事情で父母が少しの間別れて暮らすことになり、父と私と妹が水戸の駅前の宿屋で母と別れました。母は栃木県の実家に帰って行ったのです。その時は明るい月夜の晩でした。私は父の着物の袖をしっかり握りしめて、母の後ろ姿を見送ったものです。(略)その時の心境を歌ったものだと思います」と、野口雨情(作詞)の長男・雅夫は、「十五夜お月さん」の歌の背景をこう説明しています。
このもの悲しい内容の歌を、本居長世(作曲)は、美しいメロディーでしっとりと表現しています。本居は古来のわらべ歌をうまくとりいれて、日本的な曲を作るのを得意とした作曲家です。この歌の歌い出しも、わらべうた「うさぎ」の「うさぎうさぎ何見てはねる 十五夜お月さま 見てはねる」の「十五夜お月さま」の部分のメロディーを生かしています。
この歌は大正9年(1920年)に発表後まもなく、「新日本大演奏会」で披露されました。10歳になる本居の娘・みどりがステージに立って歌うと、観衆の拍手が鳴りやまなかったといいます。
それ以来、本居は、みどり・貴美子・若葉の3人の娘をともなって演奏旅行を重ね、日本各地を回っては自作の歌の普及に努めました。まだラジオも余りない時代のことです。そんな彼らの活動によって、この歌は全国に広まって行きました。
(参考 別冊・太陽 子どもの昭和史:平凡社 NHK日本のうたふるさとのうた:講談社)
♪ 唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか いえ いえ それはなりませぬ ♪
「かなりや」は、1918(大正7)年、児童雑誌「赤い鳥」の11月号に、西條八十の詩が掲載されました。翌年5月号に、成田爲三の作曲が発表されると、大評判になりました。
西條八十の詩は、少年時代にクリスマスの夜の教会で体験したことをもとに書かれました。夜の会堂内に華やかに灯された電灯の中に、ただ一個、ポツンと消えたのを見ました。西條少年には、沢山の鳥たちが揃って楽しげにさえずっている中に、ただ一羽だけさえずることを忘れた鳥のような印象を起こさせて、哀れに思えたのでした。
この童謡を書き進めるうちに、西條は、「わたしはいつか自分自身がその『唄を忘れたかなりや』であるような感じがしみじみとしてきた」と自叙伝に著しています。当時、突然の家の没落で、自らの文学への情熱を抑えて、母や弟妹たちの面倒を見るために、あくせく働かなければならない、正に『唄を忘れたかなりや』だったのでした。
(参考:NHK・日本のうたふるさとのうた 講談社)
以前、ラジオで永六輔さんが、「ある病院の先生が介護問題などの講演会で、『唄を忘れたかなりや』を唄い、患者さんに優しい気持ちで接しようと提言しています」と話していました。
ある調査によると、この歌が母親に一番よく歌われている子守歌だったといわれています。22日早朝、東京・豊島区のマンションのゴミ置き場に生後間もない女の赤ちゃんが置き去りにされていた。ゴミ袋の中で泣き声を上げていた赤ちゃんに清掃員の男性が気付かなかったらと思うと…。この女児の不憫(ふびん)を思う。〈揺籃のうた〉を口ずさむ。この子はきっと。母の歌う子守唄の一つも聞かないまま、ここに置かれたのだろうと想像する。「子守唄は生命の賛歌。その子守唄が歌われなくなってきていることが、生命を粗末にする人間が増えてきたことにつながっていないか」―藤原書店刊の〈子守唄よ、甦れ〉に共感したことを思う。子守唄の有用、大切さを教えてくれる本だった。赤ちゃんの安らかな眠り、天真の笑顔は子守唄が育む。子守唄は子育てのいろはだが、昔のようには歌われなくなってきた。三世代の同居も少ない。それにしてもゴミ置き場とは。不憫どころではない。
(参考:2007.5.23 読売新聞「よみうり寸評」)
「揺籃のうた 」は、「小学女生」という雑誌の大正10年8月号に発表されました。作詞は北原白秋、作曲は草川 信です。
(参考:宗次郎・こころのうた 日本音楽教育センター)
幼稚園を運営している Tさんは、園の劇の発表会で「かなりや」の歌を使うことになり、歌を通じた思いを寄せられています。
この歌は、鳴かなくなった、つまり価値のなくなったカナリヤをどうしようか、と歌っています。私はこれまで、ただ「かわいそうなカナリヤのうた」と思っていたのですが、改めて歌詞を読んでいくうちに、大正時代半ばに作られた歌なのに「今日の、私たちの心の闇を歌っている」と、大きな衝撃を受けたのです。
戦後、日本は経済的に驚異的な発展を遂げましたが、その流れの中で私たちの生活感覚が大きく変化してきました。古くなったり、役に立たなくなったもの、おもいどおりにならないものは捨てるというようになりました。
(参考:平成20年 夏 お盆号・223「仏教の生活」)
(投稿~続く)
♪ 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る … ♪
「茶摘み」は、1912年(明治45年・大正元年)、文部省の「尋常小学校唱歌」(三)に収められ、小学三年の子供たちに教えられました。作詞者・作曲者は不明です。
この茶摘みの風景を描いた、安 泰(やす たい)は、雑誌「コドモノクニ」に登場し、いわさきちひろやその他の童画家と共に、昭和の半ば過ぎまで活躍しました。
「茶摘み」の歌は、民謡の旋律が一部に取り入れられ、子供たちがお互いの手のひらを打ちあわせて遊ぶ、手合わせ歌としても知られています。
「八十八夜」とは、立春から88日目の日のことで、太陽暦では5月1日か2日にあたり、茶を摘むには最適の日とされています。
(参考 別冊・太陽 子どもの昭和史:平凡社 NHK日本のうたふるさとのうた:講談社)
♪ さくら さくら 弥生の空は 見渡すかぎり 霞か雲か匂いぞ出ずる ~ ♪
「さくら」は明治21年(1888年)、東京音楽学校著作の「箏曲集」(そうきょくしゅう)にお琴の入門曲として発表されました。作詞は不詳、原曲は近代箏曲とされています。短いながらも整然とした形式美をもち、明るく歌いやすい曲だったため、すぐに人々の心を捉えました。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の第一幕結婚式の場にも使われ、海外でもよく知られる日本の代表曲の一つになりました。
大正12年(1923年)には、琴の名手・宮城道雄がこの曲をもとに、邦楽器による日本で最初の変奏曲となった「さくら変奏曲」を創作しました。
参 考:NHK日本のうたふるさとのうた(講談社)
ぬりえ:うたうぬりえ帖・中 あきやまみみこ著(風塵社)
♪ ほたるの光 窓の雪 書よむ月日 重ねつつ … ♪
惜別の情と励ましのことばからなるこの歌は、明治14年(1881年)の「小学唱歌集(初編)」に、「蛍」とという曲名で発表されました。以来、日本では卒業式に格好の歌として定着してきました。又、年の終わりや船の出帆時には、ほぼ世界中の国で聞くことができます。しかし、メロディーは同じでも、詩の内容はだいぶ違うようです。
「蛍の光」の原曲は、スコットランドの古い民謡に、18世紀の詩人ロバート・バーンズが詩をつけて発表した「久しい昔」です。その詩は、久しぶりに出会った幼なじみが、共に遊んだ少年の日々に思いを馳せつつ、酒杯をあげるという内容です。再会しても、またすぐに別れなければならない哀愁を含むという解釈から、別れの歌のイメージに結びついたようです。
日本語の歌詞は、当時の教育思想に基づいて独自に作られたもので、歌い出しの「ほたるの光 窓の雪」は、江戸時代から武士教育などで用いられていた中国の故事に由来しています。中国の4世紀の晉(しん)の学者・車胤(しゃいん)が「貧しくて灯油が買えないため、蛍を集めてその光で勉学に励んだことから、「一生懸命勉強する事の比喩」とされました。
少し分かりにくい歌詞の意味は…。
「…すぎの戸…」は、「杉」と「過ぎ」の掛けことば。
「…かたみに…」は、「お互いに」。
「ちよろず」を漢字にあてると「千万」、「さきく」は「幸く」。
「…筑紫(つくし)のきわみ みちのおく…」は、「九州の果て、東北のはて」の意味。
「…八州…」とは「日本の国」を意味します。
参考 : 「日本のうたふるさとのうた」 講談社
♪ あおげば とうとし わが師の恩 教えの庭にも はや いくとせ … ♪
「あおげば尊し」は明治17年(1884年)の「小学唱歌集(三)」で掲載されました。歌詞・曲とも作者は不詳です。原曲はスコットランド民謡らしいとか、賛美歌だとかいわれましたが根拠は無いようです。曲調は、当時としてはめずらしい西洋風な長音階の優美なメロディーです。
歌詞・曲とも作者は不詳とされていますが、別説には、大槻三好著の「石原和三郎と明治唱歌抄に、「明治16年7月15日回議書類」が引用されていて、「大槻文彦、里見義、加部巌夫の合議によって制作された」ことになっています。
「蛍の光」とあわせて、卒業式には欠かせない歌としてうたいつがれてきました。しかし、この歌は生徒の道徳心を養い育てることを目的としたものであったため、戦後の一時期、恩義・忠節につながる表現が多いということから、歌うことに抵抗を示す傾向がみられました。
当時と今では、教師・生徒の関係も大きく変わり、歌詞の内容自体が卒業式にふさわしいとはいえなくなりました。現在では、感傷的な雰囲気にひたり、儀式を効果的に演出するために、その存在が認められているようです。
「あおげば尊し」の歌詞には、思い違いをしたまま覚えてしまっている例も多いようです。例えば…。
「…いと疾(と)し…」は、「いと年」・「いとしい」・「いとおしい」と解釈されたりしていますが、「いと」は「早い」、「とし」は「疾」であり「疾風」の意味が有ります。つまり、「疾風のように早い」という意味になります。
「…やよ わするな…」・「…やよ はげめよ…」の、「やよ」は、感動詞で、続く言葉をより強調しています。
「…今こそ わかれめ…」の「め」は、文語で使う係り結びで係助詞の「こそ」を受けた言葉ですが、これを、「分かれ目」と理解されているようです。「め」は
.02.02
桜、咲きました。
書道展で、佳作に入選しました。でも、地域のイベント「北三まつり」に行くので、表彰式は欠席しました。
でも、おばあちゃん達が代わりに行ってくれました。その表彰式はここから見られます。
(おじいちゃん代筆)
今年の「書き初め」で書道に興味を持ちました。大久保の書道用品「キョー和」の近くの「墨香書道会」の教室に、4月から通い始めました。「会報6月号」に、「毛筆学生・新規九級、硬筆学生・新規九級」として初めて掲載されました。
昨日初めて、近くに有る「シチズンテニススクール」へ行き、硬式テニスを体験しました。パパと瑞季も行きましたが、瑞季はすぐに眠ってしまいました。
今日は、朝から雨だったけれど「親子スポーツ」に行き、大縄跳びやビーチボールバレーを楽しみました。
(おじいちゃん代筆)
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