この書は、1836年天保7年、江戸神田雛町の名主斎藤家の祖父から子、孫3代により、30有余年の年月をかけ完成した。原書は全7巻20冊からなり、江戸府内のみならず日野、船橋、横浜、大宮まで名所、寺社、生業、風物などをきめ細かく、史実を振り返りながら表している。この地域に住んでいれば、必ず近くの寺や神社の説明がこの書にあるだろう。事実、大宮の氷川神社や東光寺は小生の実家のそばで、当然だが周りの景色がいまと違いそのコントラストは非常に感慨深い。
この書が発刊されると、一大ブームを引き起こしたそうだ。長谷川雪旦による挿絵が人の表情や動きを生き生きと表し、町の風情や田園風景などを上空から広々としたタッチで描いている。特に第1巻は江戸を中心にしているので手にとって見るといいだろう。江戸っ子の表情が大変生き生きとしていて、その気風のよさがうかがえる。
・ 江戸八つ見橋-江戸は川の多い町だった。鍛冶橋、呉服橋、常盤橋、日本橋など8つの橋がいっぺんに見える。
・ 魚市-日本橋界隈は魚河岸となっていて、橋の上には人人人、川には舟の賑わい、挿絵からはまぐろ、アンコウ、カレイ、鯛、すずきなど、さまざまな魚が見える。
・ 呉服町、三井呉服店の圧倒されるにぎわい
日本橋の記述-万治元年(1658年)造立。旭日東海に出づるを親しく見るゆえにしか号するといへり。この地は江戸の中央にして、諸方への行程もこのところより定めしむ。橋上の往来は貴となく賎となく、絡繹として間断なし。また橋下を漕ぎつたう魚船の出入り、旦より暮れに至るまで、嗷嗷として囂(かまびす)し。
・ 佃島の白魚網漁-白魚に価あるこそ恨みなれ 芭蕉
・ 当時の風物-品川の汐干、目黒の飴、品川・大森の浅草海苔
・ 挿絵によく出るもの-和舟、茅葺屋根、かまどの煙、茶屋、馬
内藤新宿の記述-甲州街道の官駅なり。日本橋より高井戸までの行程、およそ4里あまりにして、人馬ともに労す。よって元禄の頃この地の土人官府に訴へて、新たに駅舎を取り立つる。ゆえに新宿の名あり。
深大寺そばの記述-当寺の名産とす。それを産する地、裏門の前少しく高き畑にして、わづかに八反一畝ほどのよし。都下に称して桂品となす。しかれども、真とするものははなはだ少なし。いま近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども桂ならず。
新訂『江戸名所図会』斎藤幸雄・幸孝・幸成著(ちくま学芸文庫)
この書が発刊されると、一大ブームを引き起こしたそうだ。長谷川雪旦による挿絵が人の表情や動きを生き生きと表し、町の風情や田園風景などを上空から広々としたタッチで描いている。特に第1巻は江戸を中心にしているので手にとって見るといいだろう。江戸っ子の表情が大変生き生きとしていて、その気風のよさがうかがえる。
・ 江戸八つ見橋-江戸は川の多い町だった。鍛冶橋、呉服橋、常盤橋、日本橋など8つの橋がいっぺんに見える。
・ 魚市-日本橋界隈は魚河岸となっていて、橋の上には人人人、川には舟の賑わい、挿絵からはまぐろ、アンコウ、カレイ、鯛、すずきなど、さまざまな魚が見える。
・ 呉服町、三井呉服店の圧倒されるにぎわい
日本橋の記述-万治元年(1658年)造立。旭日東海に出づるを親しく見るゆえにしか号するといへり。この地は江戸の中央にして、諸方への行程もこのところより定めしむ。橋上の往来は貴となく賎となく、絡繹として間断なし。また橋下を漕ぎつたう魚船の出入り、旦より暮れに至るまで、嗷嗷として囂(かまびす)し。
・ 佃島の白魚網漁-白魚に価あるこそ恨みなれ 芭蕉
・ 当時の風物-品川の汐干、目黒の飴、品川・大森の浅草海苔
・ 挿絵によく出るもの-和舟、茅葺屋根、かまどの煙、茶屋、馬
内藤新宿の記述-甲州街道の官駅なり。日本橋より高井戸までの行程、およそ4里あまりにして、人馬ともに労す。よって元禄の頃この地の土人官府に訴へて、新たに駅舎を取り立つる。ゆえに新宿の名あり。
深大寺そばの記述-当寺の名産とす。それを産する地、裏門の前少しく高き畑にして、わづかに八反一畝ほどのよし。都下に称して桂品となす。しかれども、真とするものははなはだ少なし。いま近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども桂ならず。
新訂『江戸名所図会』斎藤幸雄・幸孝・幸成著(ちくま学芸文庫)