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『ユング自伝2-思い出・夢・思想-』C.G.ユング著(みすず書房)を読んで

2009-12-28 10:42:59 | 書評
「ユング自伝1」に続いてその2を読んだが、かなり難しい。表現の仕方とともに、その思想の形成過程が、難解かつ魍魎なのだ。たとえば、こういう表現だ。

無意識の内容との対決
内的体験についての歴史的な予示の事実を見出す-錬金術との出会い
分析心理学が錬金術に符合する。錬金術師の経験は、私の経験である。これは、重大な発見であった。すなわち、私の無意識の心理学の歴史上の相対物にめぐり合った。・・・錬金術の私の仕事はゲーテとの内的関連のしるしとみなしている。

ユング自伝の中では、夢の中の話が、大変重要な意味を持つ。夢は無意識の中で形成されるものであり、ユングの心理分析では非常に大きな位置を占めるからだ。そのため、さも現実のように書かれるので、現実と夢の境がなくなっていく。また表現が厳密というか独特な学術的表現のため、わかりにくいのだ。そのため、ユング心理学を学ぶのは、念読的な面がある。

いくつか印象に残った箇所を残しておく。(カッコ内は私の補足)


研究
・ 大工の子、イエスが福音を授け、この世の救い主となった事実を、単なる偶然とみなすのは由々しい誤解である。彼はその時代の無意識ではあるが一般的な期待を、余りにも完全に表現し代表しうるという無比の天賦の才を持っていたに違いない。

塔-(30年以上にわたって自宅の塔を増築、つくり続ける)
・ 1955年の妻の死後、私は自分自身にならねばならぬという、内的義務を感じた。ボーリンゲンの家の造形を借りていうと、二つの塔の間にうずくまっている、非常に低い中央部分が、私自身なのだということに、突然気づいたのである。

幻像
・ (死への旅立ちの中で)1500キロメートルの高さから見る地球の眺めは、私が今までに見た光景の中で、もっとも美しいものであった。
・ 病気によって明らかになったことがあった。それを公式に表現すると、事物を在るがままに肯定することである。つまり、主観によって逆らうことなく、あるものを無条件に「イエス」といえることである。実在するものの諸条件を私が見たままに、私がそれを理解したように受け入れる。
・ 人が個性化過程を歩むときには、つまり自分自身の命を生きるときには、人は付加的に誤りをおかさなければならない。命というものは、この誤謬の付加なしには完全にならないだろう。われわれには、失敗に陥らず、致命的危険に遭わないという保証は、一瞬たりともない。
・ 病後にはじめて、私は自分の運命を肯定することがいかに大切かわかった。このようにして私は、どんなに不可解なことが起こっても、それを拒むことのない自我を鍛えた。つまりそれは、真実に耐える自我であって、それは世界や運命と比べても遜色がない。かくして、敗北をも勝利と体験する。
・ 私はまた、人は自分自身の中に生じた考えを、価値判断の彼岸で、真実存在するものとして受け入れねばならないと、はっきり悟った。

死後の生命
・ 不幸にも、現代では人間の神話的な側面はあっさりと片付けられてしまっている。人間はもはや神話を創り出そうとしない。その結果、多くのことを人間は失っている。理解を超えた事柄についても話し合うことは大切であり、健康にもよいことだ。それは、暖炉の側でパイプをふかしながら、幽霊のお話を語り合うようなものである。
・ 人間のなすべき仕事は、無意識から上に押し上げられてきた内容を意識化することである。人はその無意識を固執するべきでもなく、自分という存在の要素と同一視することにとどまっているべきでもない。それは、意識をとどまることなく創造していくという人間の使命を避けることになる。われわれの知る限りにおいては、人間存在の唯一の目的は、単なる存在の闇に光をともすことである。

追想
・ 人々が私を指して博識と呼び、「賢者」というのを、私は受け入れることができない。一人の人が川の流れから、一すくいの水を得たとして、それが何であろうか。私はその川の流れではない。私は流れのほとりに立ち、何かをなそうとするのではない。私は立ち、自然がなしうることを賛美しつつただ見守るのみである。
・ 流れから水を得んとするものは、少しは身をかがめねばならない。


『ユング自伝2-思い出・夢・思想-』C.G.ユング著(みすず書房)