巡りあえた本 金澤ひろあき
金子兜太著 『あの夏、兵士だった私』96歳、戦争体験者からの警鐘
清流出版
生きているうちに私達はいろいろな体験をする。他者の体験を伝えられることもある。辛い体験もある。辛い体験から学んだことは、私達の内面を強く揺さぶる。誤りを正す力にもなる。生きる力になる。
瀬戸内寂聴さんと金子兜太さん。お二人とも、「戦争は悪」「戦争に向かう動きも悪」という立場を貫かれた。お二人とも戦争を体験されている。体験から出た言葉は重い。
金子兜太さんのこの体験記には、戦場の体験もだが、日本全体が戦争に向かう中で体験したこともしっかり伝えようとされている。
よく「戦前」と言われるが、対中国戦争ははじまっており、「戦中」が正確なのかもしれない昭和初期。表現の自由を奪い、1940年から特高による新興俳句弾圧事件が起こっていた。金子兜太さんの師・嶋田青峰も「治安維持法」の拡大解釈で投獄され、それがもとで病死されている。これらの弾圧について、貴重な言葉を残されている。
「弾圧は権力の手になるものだけではない。自分から自由を手放してしまう奴らが、火付け役になる。自由を守る姿勢が自分に危険を及ぼすと知ると、強いものに迎合し、自分から自由を手放してしまう。自分が自由を手放してしまうと、今度は自由のために闘っている人たちにジェラシーを感じる。そこで権力に加担して、一緒にそういう人たちを攻撃する。」
こういう動きが現代の日本とそっくりなのではないか。そう問いかけられています。
戦場体験は、海軍経理中尉として、トラック島(現チューク諸島)で体験されている。行った時には、爆撃を受けた後で丸焼け。毎日グラマンに銃撃され、軍人・民間人の区別なく死ぬ。食料がないので、餓死して行く。フグなどをがまんできずに拾い食いするので、病死する。戦死者より餓死者のほうが多かったという。
敗戦後、トラック島を去る時のことを金子兜太さんは、
「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」という句にされた。この墓碑は、非業の死に倒れた人達の墓碑。生きて帰せずに置き去りにしてしまった無念がある。
このような墓碑を二度と建ててはならないという思いを、私達に伝えようとしている。
金子兜太著 『あの夏、兵士だった私』96歳、戦争体験者からの警鐘
清流出版
生きているうちに私達はいろいろな体験をする。他者の体験を伝えられることもある。辛い体験もある。辛い体験から学んだことは、私達の内面を強く揺さぶる。誤りを正す力にもなる。生きる力になる。
瀬戸内寂聴さんと金子兜太さん。お二人とも、「戦争は悪」「戦争に向かう動きも悪」という立場を貫かれた。お二人とも戦争を体験されている。体験から出た言葉は重い。
金子兜太さんのこの体験記には、戦場の体験もだが、日本全体が戦争に向かう中で体験したこともしっかり伝えようとされている。
よく「戦前」と言われるが、対中国戦争ははじまっており、「戦中」が正確なのかもしれない昭和初期。表現の自由を奪い、1940年から特高による新興俳句弾圧事件が起こっていた。金子兜太さんの師・嶋田青峰も「治安維持法」の拡大解釈で投獄され、それがもとで病死されている。これらの弾圧について、貴重な言葉を残されている。
「弾圧は権力の手になるものだけではない。自分から自由を手放してしまう奴らが、火付け役になる。自由を守る姿勢が自分に危険を及ぼすと知ると、強いものに迎合し、自分から自由を手放してしまう。自分が自由を手放してしまうと、今度は自由のために闘っている人たちにジェラシーを感じる。そこで権力に加担して、一緒にそういう人たちを攻撃する。」
こういう動きが現代の日本とそっくりなのではないか。そう問いかけられています。
戦場体験は、海軍経理中尉として、トラック島(現チューク諸島)で体験されている。行った時には、爆撃を受けた後で丸焼け。毎日グラマンに銃撃され、軍人・民間人の区別なく死ぬ。食料がないので、餓死して行く。フグなどをがまんできずに拾い食いするので、病死する。戦死者より餓死者のほうが多かったという。
敗戦後、トラック島を去る時のことを金子兜太さんは、
「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」という句にされた。この墓碑は、非業の死に倒れた人達の墓碑。生きて帰せずに置き去りにしてしまった無念がある。
このような墓碑を二度と建ててはならないという思いを、私達に伝えようとしている。